明日オフだったら、君の誕生日プレゼントを買いに行こうか。
三十歳の誕生日を数日後に控えた秋、哉はリサイタルのために日本に一時帰国していた。午後の公演を終えて、ホテルのベッドで泥のように眠っていたとき、そう連絡があった。
「はい、行きます」
和臣の声を聞いたとたん、自分でも驚くほど一息に眠気が吹き飛んだ。誰が見ているわけでもないのに、飛び起きて居住まいを正してベッドに正座して、二つ返事で承諾した。
大きな仕事があった次の日はたいてい精力を使い果たして、たっぷり一日から半日は寝て過ごすのが常だが、日本にいるときだけは例外だ。少しでも長く和臣と過ごすために、目覚ましをかけ、さらにはモーニングコールまで頼んで意地でも起きる。他の国で演奏をした後と同じように消耗しているはずなのに、あまり苦にならないのが不思議だった。
翌日の昼過ぎ、午前中に休日出勤を終えた和臣と待ち合わせて、デパートに向かった。
「指輪がいいかなと思うんだけど」
エスカレーターに乗りながら言われて、一瞬返答を躊躇った。そんな哉の様子を見て思うところがあったのか、和臣は尋ねた。
「それとも、もっと実用的なものがいいかな? 財布とか鞄とか」
「指輪が!」
哉は勢いよく言いかけて、気恥ずかしそうに俯いた。
「あ、いえ、指輪でいいです……」
じゃあ、そうしようか、と和臣は柔らかく微笑んで言った。
「ああいう場所は気疲れしますね」
デパートから出てすぐに、目に付いた適当な喫茶店に入った。店員にメニューを返しつつ、哉は苦く笑った。
「時計も男性向けのアクセサリーも扱ってますが……どうにも、女性のテリトリーという感じで。母と姉に左右から喚き立てられているような緊張感がありますよ」
「僕よりよっぽど、君の方が場慣れしているように見えたけど」
場慣れ? とんでもない。
思い出すだけで、苦いものがこみ上げてくる。
覚悟はしていた。してはいたが、およそ現実を前にして覚悟など役に立たないものだ。
毎日密室でひたすらピアノにしがみついているような、極めて非社交的な日々を送っている人間にとって、デパート、しかも宝飾品売場で買い物をするなどという行為は苦行に等しいものだった。
特に演奏会の前は、ひとり部屋にこもって練習していることが多い。完全に外の世界から遮断された生活をしていると、人との会話の仕方すら忘れてしまい、最低限のコミュニケーション能力を取り戻すためにかなりの時間を要する。
今日も惨憺たるものだった。ガラスケースに近づき、商品を目に映すのがやっとで、選ぶどころか店員と簡単なやりとりをすることすら苦痛だった。一晩中ホールでピアノ協奏曲でも弾いている方がよほど気が楽だ。
幸い感情があまり面に出ない質であったので、どれほど動揺していても表情はさほど変わっていなかっただろうが。
そういえば、高校生の時にバレンタインのチョコレートを買いにデパートの菓子売場に行ったことが一度だけある。その時味わった疎外感と、途方にくれたような気持ちが突然思い出された。
ピアニストと聞くと、華やかで享楽的な生活をしているものと勘違いされることが多いが、一般常識が欠如している、としか表現できない実際の暮らしぶりを知ったら、憧れや幻想は無惨に砕け散るだろう。
これまで関係のあった数名も、一番長く続いて半年。はじめから互いに一時のものと割り切った付き合いが半分、贈り物をするような仲になる前に愛想をつかされたのがもう半分、という具合だった。
一方の和臣は、他人の視線など全く意に介することもなく、ごく自然な様子で指輪を選んでいた。その堂々とした態度に、感嘆の念を抱かずにはいられなかった。
普段はもっと自分を強く出していいのではないかと思うほど慎重で柔和な物腰の和臣だが、他方、滅多なことでは動じなかった。砂漠だろうが無人島だろうが、どこにいても和臣は和臣だった。
ふとした瞬間に感じる頼もしさは、年齢の差か、教師という仕事ゆえか。それとも本人の元々の性質からくるのだろうか。
そして彼は、決断するのも早かった。
「これはどうかな?」
そう言って示された指輪は飾り気がないものだったが、填めてみると実にしっくり指に馴染んだ。
哉の強い希望に押されて、結局、和臣にも同じものを購入することになった。
指輪の裏にどういった言葉を刻印したのか、わざと互いに教えなかった。知るには出来上がりを待つしかない。楽しみでもあり、なぜか恐くもあり。何かを待つ喜びは、甘く苦かった。
甘く苦い。
その言葉を噛みしめながら、運ばれてきたコーヒーを啜っているとき、ふいに哉は和臣の手元に違和感を覚えた。
「……先生、砂糖は?」
コーヒーといえば大量の砂糖を投入するのが甘党の和臣の習慣であったが、カップにミルクしか注ぎ入れていないように見える。
哉は顔色を失った。
「まさか、健康診断で引っかかりましたか。前から思ってたんですよ、甘いもの摂り過ぎだって」
「いや、そういうわけじゃないんだけど。長生きできるように、今から少しずつ摂生しようかなと」
甘くないコーヒーを口に含みながら、和臣は笑った。
「指輪も貰ったことだしね」
その控えめな笑顔に胸が苦しくなって、哉は思わず和臣の右手を取り、真剣な眼差しで告げた。
「先生、結婚してください」
しばし沈黙を置いたあと、哉の手にもう一方の手を重ねて、和臣は諭すように静かに言った。
「今の日本の法律だと不可能だし、僕の仕事の都合で海外に移住するのは難しいから、とりあえず指輪で我慢してもらってもいいかな?」
ちなみに、と和臣は続けた。
「昨日の夜は何時間くらい寝た?」
「三時間です」
「いつもは?」
「演奏会の後は、半日以上は寝てますね。下手したら丸一日」
「悪かったね。疲れているところ呼び出してしまって。……今日は早く休んだ方がいいと思うよ」
「元気ですよ」
「いや、かなり疲れてるよ」
そのとき、コートのポケットで哉の携帯が震えた。
「すみません、失礼します」
発信元に表示されている男性の名前を確認して、哉は眉を顰めた。そのまま居留守を使って無視する。同じ人物からの着信が、今日だけで十件あった。
和臣が尋ねた。
「今日は電話が多いね。仕事の関係?」
哉はうんざりした表情で、やっと静かになった携帯をテーブルの上に置いた。
「この間ベルギーに行ったときに知り合った現地のプロデューサーで、どちらかといえばプライベートの誘いですね。来週、仕事でロンドンに来るらしくて」
「君が日本にいることを知らないの?」
「あまり、こちらから予定を積極的に話したくないので……。何度も断っているんですが、俺のフランス語が下手だから、うまく伝わっていないのかもしれません」
この困った男の人となりを冗談めかして説明しつつも、どういう種類の誘いをかけてきたかについては、言葉を濁さざるを得なかった。
近年は著しく女性の進出がすすんでいるとはいえ、クラシック音楽の世界は長く男性社会だった。時々ふと、思い出したようにその名残が顔を出す。つまり、地位や力を持つ人間から、関係を求められることも少なくなかった。
哉のマネージャーは気の弱そうな外見に反して、自分の担当する演奏家にそういった営業行為はさせないという強い信条を持っていたから、彼に守ってもらった部分もかなり多かった。
それでも、厚顔ともいえる強引さで誘いをかけてくる輩は存在する。
電話の男はそのひとりだった。さりとて仕事の都合上、無下に扱うこともできない。
金も地位もある男であれば、相手などいくらでもいそうなものだが、いったい自分のどこに魅力を感じているのか疑問だ。きっと一時的な執着に過ぎないのだろうが、できる限り早く飽きてほしい。
と思っているうちに、また電話が来た。
やれやれと伸ばした指は、しかし目的のものには届かなかった。
携帯はすでに和臣の手の中にあった。
「先生?」
「ちょっと借りてもいいかな」
立ち上がりかけた和臣の腕を掴んで、哉は慌てて引き留めた。
「何を……」
「大丈夫、話をするだけだから。君はそこで待っていて。いいね?」
いつもと同じ優しい声音なのに、どこか命令めいた厳しい響きを帯びている。柔らかな鎖に全身が縛り付けられたようになって、頭を上下に動かすのがやっとだった。
和臣はするりと腕を解いて外に出た。道に面した窓ガラスの向こうに、電話をしている和臣の姿が見える。表情は穏やかなままで、激する様子もない。
唇の動きを追ってはみるが、さすがに会話の内容を把握することはできなかった。恐らくフランス語で話しているのだろう。和臣はフランス語が堪能だ。事故にあわなければ、パリに留学する予定であったから。
電話を切った和臣が、こちらに向かって手をひらひらさせているのが見えた。哉は急いで会計を済まして、店外に飛び出した。
はい、と和臣は朗らかに言って携帯を手渡した。
「説明してくれたらわかってくれたよ。もう電話はしないって」
ありがとうございます、と反射的に礼の言葉が口をついたが、呆気にとられしまい、思考が現実に追いついていなかった。
いったい何を説明したのだろうか。聞きたいような気もするが、聞かない方がいいような気もする。
二人はそのまま、緩やかに帰途についた。どちらとも口には出さないが、足は自然と和臣の家に向かっている。ホテルに部屋は取っていても、日本にいて仕事が休みの日には、彼のところに泊まるのが何となく習慣になっていた。
駅に向かう道すがら、徐々に現状が理解できていくにつれて、胸と肩のあたりが重くなっていくのを感じた。
いらぬ心配をかけた結果、和臣に不始末の尻拭いをさせてしまったわけだ。
「すみません、いい年して先生を頼って」
自分の無力さを痛感して、哉は顔を歪めた。
「俺が自分で蹴りをつけるべき問題だったのに」
和臣は目を見張った。そして静かではあるが、いつになく強さを秘めた語調で言った。
「違うよ、哉君が謝ることじゃない。僕の方こそ、勝手なことをして悪かった。君のためというよりは、自分が嫌だと思ったからそうしただけだ」
たぶんね、と和臣は付け加えた。
さらりと放たれた一言に、哉は目を見張った。
まさか、嫉妬したのだろうか。あの和臣が。
いや、と心の中で激しく首を振る。
彼の人柄から考えて、ありえないことだ。
妄想するにもほどがある。
第一、横を歩く当の和臣は平然とした顔をしているではないか。
「先生、あの」
「何だい?」
「……いえ、何でもないです」
焼き餅をやいてくれたんですか、などと聞けるはずもない。
哉は言葉を発する代わりに大きく溜息をついて、うなだれた。
指輪の件といい、電話の件といい、今日は情けない姿ばかり見せている。もう三十になるというのに、一人前の男からはほど遠い現実をまざまざと突きつけられているようだった。
ピアノを弾く以外には能がなくて、かなり世間ずれしている自覚はあるから、新聞や様々なジャンルの本を読んだり、ニュース番組を観たり、音楽関係者以外の人とも話すようにしたり、とにかく積極的に情報を取り込む努力はしているが、それでも根本の部分は変えられないのだろう。
にわかに、舞台の上にいる感覚が蘇った。
聴衆とは奇妙なもので、舞台上にいるピアニストに素晴らしい演奏を聞かせてほしいと願うと同時に、派手な大失敗を見せてくれはしないかと望んでいる節がある。
演奏中にぶつりと弦が切れて慌てふためく情けない姿を、完璧に暗譜していたはずの曲を忘れて呆然とする様を、音を思い切り外したショックから立ち直れないまま狂った旋律を辿り続ける青い顔を。
それが演奏会の面白さのひとつであることは否定できない。
しかし聴衆のサディスティックな欲望を満たしてやる親切心はないので、暗い歓びへの期待感をむしろ踏み台にして、これでも食らえとばかりにその時できる最高の音楽をぶつけるのだ。
それなのに、一番いいところを見せたいはずの、たったひとりの前でだけは大失態を演じてばかりだった。
哉は思い詰めた瞳に瞼を落として、ぐっと拳を握った。
「先生、叱ってください」
切羽詰まった声で言われて、え、と和臣は驚いたように哉を見つめ返した。
「別に、叱られるようなことしていないだろう?」
哉は、しかしなおも頑なに言い張った。
「いいから叱ってください。でないと、気が済まないんです」
和臣は逡巡するようにやや間をおいてから、重々しく言った。
「こら」
「全然足りません」
「ええと……いい加減にしなさい」
「優しすぎますよ。もっと厳しい叱責をお願いします」
「悪いね。あんまりそういう語彙が豊富じゃなくて」
「もっと詰って、罵倒してください」
「とりあえず、早く帰って、仮眠を取りなさい。今の君に必要なのは、罵倒じゃなくて休息だと思うよ」
十分に休んで、頭を冷やして、それから、と和臣は哉の髪を撫でながら、笑って言った。
「続きは帰ってからにしようか。君が起きるまでには、お気に召すような言葉を色々考えておくよ」
「……はい」
優しい手に促されるように、思わず素直に頷いてしまった。
「いいんだよ、無理しなくても」
建物の影に入った瞬間、和臣は人目につかないように、そっと指を絡ませて言った。
「今できることを、やれる範囲でやればいい。年を重ねたからといって人格者になるわけでもないし、急に知恵や経験が増えるわけでもないんだから。立派な大人に見える人だって、必死に格好つけているだけかもしれない」
「先生はそんな風には見えませんけど」
「そう? 僕だって格好つけたいときもあるよ。さっきも」
背後に人の気配がするやいなや、手袋越しに指を温めてくれていた熱は、躊躇いなくふっと離れた。あっという間に消えてしまった肌の感触が名残惜しくて、哉はかすれた声で尋ねた。
「……先生、仮眠はとらないといけませんか」
「だめ」
演奏会の後で神経が過敏になっているみたいだからね、と真顔で叱られた。
数ヶ月後、三日だけ休みができたので、できあがった指輪を引き取りに一度日本に帰ってきた。
和臣から贈られた指輪の裏には、こう刻印されていた。
自由であれ、と。
仕事でピアノを弾く際は指輪を外すが、鎖に通して服の下に身につけている。
自分の演奏に自信はある。努力もしているし、野心もある。もちろん、愛してもいる。そうでなければ、ピアニストなどやっていられない。
だが、やりきれない思いを抱えることも、耐え難い孤独を感じることもある。
そんなとき、胸に寄り添う冷たい感触が、迷う背中をそっと押してくれる。
小さな小さなその存在が、深い苦しみのなかにも、音楽には限りない自由と喜びがあることを思い出させてくれるのだ。
和臣の言うとおり、購入したとき神経がよほど昂ぶっていたのか、自分が贈った指輪に何と刻印したのか覚えていなかった。
後日、そのことを正直に謝罪して、和臣に見せてもらった。
指輪の裏に彫られたアルファベットの羅列を見た瞬間、絶句した。
LとR。
つまりは、愛と尊敬をこめて。
恥ずかしいやら驚いたやらで次の言葉が継げないでいると、耳元で微かに笑う気配がした。それから、腕の中のその人は少しだけ背伸びをして、甘くて優しい唇を押し当てたのだった。