高木が病室を仕切るカーテンを開けた時には、和臣はベッドに横たわって、規則的な寝息を立てていた。
そっと額に手を当てる。
熱はないようだし、顔色は悪くない。
高木は安堵の息をつき、ベッドの横に折り畳み椅子を持ってきて腰掛けた。
腕から伸びる点滴の管に古い記憶を呼び起こされて、胸が微かにざわめくのを感じた。
父母の時、妻と、産まれてこなかった子供の時。それから和臣の事故の時。
どれもろくな思い出ではない。早く失せろと汗ばんだ掌を強く握る。
和臣が倒れて救急車で運ばれたと、彼の職場から電話で連絡があったのは、昼過ぎのことだった。和臣の父母は海外に住んでおり、日本には親戚と呼べる人間はほどんどいなかった。そのため、和臣は緊急の連絡先として、高木の電話番号を職場に提出していたのだった。職場に電話番号を教えていいかとか何とか、以前そんなことを聞かれた覚えがあるが、すっかり忘れていた。
今日は一時帰国した哉のソロリサイタルがあって、高木もその会場にいた。ちょうど話をしていた哉の母親に理由を告げて、タクシーで慌てて搬送先の病院に急いだというわけだった。
到着したときにはまだ和臣の職場の同僚がいて、簡単に状況を説明してもらった。過労が原因で、点滴を受けて少し休息をとればすぐに回復するだろうという話だった。
病室は四人部屋だったが、和臣を含めて二床しか埋まっていなかった。薄いカーテンのかかった窓からは燦々と午後の陽光が差し込んでいるというのに、しんと静まりかえった室内にはどこか重苦しい空気が満ちていた。
「病院ってのは、何度来ても慣れねえな」
自分の声が人よりよく響くことを自覚していたから、高木はできる限り声量を絞って呟いた。
そのとき、和臣の瞼がふっと持ち上がった。
「悪い、起こしちまったな」
「……すみません、いらしてくださったんですね」
半身を起こそうとする和臣を、高木は強く制した。
「いいから寝てろよ。過労だってな。付き添ってくれてた先生はもう学校に帰ったぜ」
和臣は気落ちした様子を隠すことなく言った。
「お恥ずかしい限りです。色々な方にご迷惑をおかけしてしまって」
「あんまり調子のって、ほいほい人の仕事引き受けんなよ」
和臣から何の弁明も聞いていないというのに、説教めいた高木の口調は、すべてを察しているかのようだった。
「僕が一番身軽なので……家族もいませんし」
「だけどよ、自分が身体壊しちゃ意味ねえだろ」
「これからは気をつけます」
「飯もちゃんと食えよ」
「食べてますよ」
「本当かよ? じゃあ、昨日の夜なに食った?」
「……豆腐とか」
「豆腐だけじゃ飯にならねえよ!」
和臣の視線が、ふいに高木の時計に注がれた。
「そういえば、今何時ですか?」
「ああ、ちょうどあいつのリサイタルが終わるくらいの時間だな」
「あの、まさか哉君には」
「もちろん俺は言ってねえよ」
ただ、と高木は言葉を濁した。
「おふくろさんがぽろっと言っちまったらしくてな。しかも開演直前に。悪い人じゃねんだがなあ……悪い、完全に俺の落ち度だ。俺が口を滑らせたから」
ばつが悪そうにする高木を否定するように、和臣は首を振り、きっぱりと言い切った。
「いえ、悪いのは体調管理を怠った僕です。哉君、舞台には上がったんですよね?」
「ああ。休憩時間におふくろさんから連絡があったよ。よくわからないけど、たぶんいつも通りの演奏だって気がする、ってさ」
苦笑いする高木から視線を外して、和臣は天井を見つめた。その口元には、曖昧な微笑が刻まれている。
「そうですか。……よかった」
「どういう意味だよ?」
「もし彼が、観客を放り出してここに来ていたら」
終わりにするしかなかっただろう。
続く語句などなかったはずなのに、高木の耳にはそう聞こえた気がした。
平板ともいえる声の底には、厳しく、確固たる意志がある。
二年前、哉が日本で初めてソロリサイタルを行った日。あれ以来、何かが変わった。目に見えるわけでもない、はっきりと口にされたわけでもない。
だが、和臣と哉の間に流れる空気が変質したことだけは確かだった。
「和臣」
優しく名を呼ばれて、和臣はゆっくりと頭を横向かせ、高木を見すえた。
近くにいるはずなのに、かつては近くにあったはずなのに、今はひどく遠く隔てた場所にいるようだった。
二人の間には、過ぎ去った時間と記憶が暗い淵となって横たわっていた。
お互い年取ったな、いや俺だけか、年取ったのは。
お前はそんなに変わらねえな。
和臣の眼差しの奥には、少年の日の面影が今でも淡い光を放っているようだった。
穏やかな容貌とは対照的に、情を執着と呼び換えることができるとすれば、和臣は情に溺れる性質の男ではなかった。
優しい温かみがありながら、しかし感傷的ではない。彼のピアノと同じように。
それは澄みきった水の清冽さ、そして掴み所のなさ。
だが、これまでずっと平穏を保っていた水面が波立っている。
何者にも決して揺るがすことのできなかったもの、どれほど望んでも手に入れることが叶わなかったものだった、はずだった。
若かった頃、大人ぶって、余裕がある振りをして、格好付けて、結局は逃げてきた報いを、今更受けているわけだ。
あのとき、心のままに突き進んでいれば、何かが変わっていたのだろうか。
だが恐かった。相手を傷つけるのも、自分が傷つくのも。得るものより先に失うものを考えてしまった。
笑って済まそうと唇を歪めかけたとたん、鋭い棘に刺されたような痛みが、胸を抉るように苛んだ。
突然降ってわいた生々しい感情に、自分でも驚いた。
何かに激しく心動かされるような感性など、とうの昔に干からびてしまったと思っていたのに。
この棘は、この痛みは、失われようとする青春の最後のあがきなのだろうか。
長い沈黙のあと、和臣は目を伏せて、囁くように言った。
「すみません」
「謝るなよ。謝るとすれば俺の方だろ。色々あったしな……でも、俺は謝りたくねえんだよ」
高木はうなだれて、脚の間で指を組み、きれいに清掃された床をじっと睨みつけた。
「だから謝るな」
目線を差し向けて確かめてみなくてもわかった。和臣が躊躇いながら、口を開きかけている。
だが、もう二人の間に交わすべき言葉はない。
「さてと」
ぱっと顔を上げて、高木は朗らかな語調で尋ねた。
「何か必要なもんあるか? あれば買ってくるぜ」
「いえ、この点滴が終わったら帰宅していいと言われていますので」
「そうか。なら、そろそろ失礼するよ。病院の空気は清潔すぎてよ、煙草が恋しくなっちまった」
高木は重い腰をあげて立ち上がった。
唇を引き上げ、にやりと意地の悪い笑みを浮かべる。
「賭けてもいい。あいつはアンコールを弾き終わったとたんにすっ飛んでくるぜ。じゃあな、和臣。飯食えよ。豆腐以外も、バランスよくな」
「宏明さん」
立ち去りかけた背中に、柔らかな声が投げかけられた。
「……ありがとうございました」
高木は振り返ることなく、ひらひらと手を振って別れを告げた。
彼の声がわずかに震えていたように思えたのは、きっと自分に都合のいい妄想に違いない。
病院の廊下で、ばったり哉と出くわした。
「よう。早かったな」
「高木先生。白瀬先生の具合は……」
「心配するな。ただの過労らしい。点滴が終わったら家に帰れるってよ」
お前の方が顔青いぜ。
言いかけたが、あまりにも必死な表情をしているので、からかいの言葉も思わず引っ込んでしまった。
普段の取り澄ました態度からはどても想像できない慌て様だ。
哉は高木の言葉を聞いて、やっと呼吸することを思い出したかのようだった。
「そうですか、よかった」
「着替えないでそのまま来たのか?」
頭の天辺からつま先まで、演奏会用のダークグレイのスーツを着た教え子の姿をまじまじと眺めた。
髪はぐしゃぐしゃ、ネクタイは曲がっているし、シャツは皺だらけ。脇に抱えた上着はよれよれだ。
「はは、ひどい格好だぜ、お前!」
思わず声を上げて笑ってしまって、哉の顔に朱が散った。
「すみません」
「ほら、早く行ってやれよ。早くつっても、病院の廊下は走るんじゃねえぞ。それから」
笑い声がふっと消えた。高木は静かに告げた。
「よく弾ききったな」
「先生……」
つべこべ言わずに、さっさと行け。
背をとん、と押すと、掌から気持ちが伝わったのか、哉は軽く会釈して、早足で病室の方へと向かっていった。
胸ポケットから煙草を取り出してから、しまったと思った。病院には喫煙所がないのだった。
やれやれとため息をついて、正面口の自動ドアを潜る。
「宮代、あいつ今年二十七だったか? 眩しすぎて、こっちが疲れちまうよ。あれにつき合えるんだから、まだまだ白瀬も若えな。俺は無理だな。ああ、疲れた疲れた」
こんな日は、うまい飯でも食って、いい酒でも飲んで、それからピアノでも弾いて、さっさと寝るにつきる。寝床を温めてくれるのは、美女ではなく二匹の猫だが。
生きている限り、酸っぱいもの甘いもの苦いもの、もう結構だと言っているのに、まだ足りない、これでもかと口の中に突っ込まれる。
だがそんなもの、途中どんなに飲み込むのが辛くても、食って腹に収めてしまえばそれまでだ。
住む場所があって、飲食満ち足りて、懐に温かい毛玉がいて、音楽がある。
それだけ揃えば、まあ人生はそこそこ幸せなのではないだろうか。