喧嘩別れ、という言葉でしか表現できない別れ方を甥としたあと、哉は一階にある書斎の椅子に座りこみ、漫然と本の項を繰っていた。
練習室の扉が開いたような物音はしなかった。稜介はまだ帰っていないのだろう。粗雑な言動で虚勢を張ってはいるが、物にあたる性格ではないから、自棄になって何か激しい調子の曲でも弾いているかもしれなかった。
散漫な目線で活字を追いながら 先ほど投げかけられた問いを反芻した。
哉叔父さんってさ、和臣先生とセックスしてるの?
してるに決まっている。
週に約一回の頻度だから月に四回、リサイタルなどの前一ヶ月は控えるし、仕事で海外に行くことも多いから、大体年で三十五回ほど。このままのペースでいくと十年でかなり多く見積もって三百回程度か。
……とでも答えれば満足しただろうか。
だが稜介が望んでいたのは当然ながら、中年男、しかも身内の性嗜好に関する具体的な回答ではない。
年齢的にそういった関心はもちろんあるのだろうが、何より自分がうろたえたり、口ごもったりする様が見られることを期待していた違いない。残念ながら、中学生の卑猥な挑発に動揺するほどこちらも若くもなかった。
昔から口はよく回ったが、あそこまで人を小馬鹿にしたような失礼な発言をするような子供ではなかったはずだ。姉夫婦も手を焼いているらしいと聞いている。
礼を失した言動が他人の心にどういう影響を及ぼすかを知らしめるために、先ほどはあえて突き放す態度をとってはみたものの、それが最上の対応であったとは思えなかった。
自分だけならまだしも、和臣まで馬鹿にされたことに対して、かちんときたのは事実だった。それを説明せずに黙って出てきてしまったのは、かなり大人げなかったかもしれない。
もっとやりようがあったのではないか、という後悔が重くのしかかる。
しかし腹を割って話そうとは思っても、うまく意志の疎通が図れなかった。日本語という同じ言語を話しているにも関わらず。世代の違い、性格の問題、そして親戚という微妙な距離感からくる遠慮と無遠慮とが深い溝となって、二人の間に長々と横たわっているようだった。
哉は本を閉じ、大きな溜息をついた。
思春期は難しい。
自分が同じ年頃のときにどういう風に物事を感じ取っていたのか、記憶を手繰り寄せてみても、その感覚を取り戻すことはもはや不可能だった。
「ここにいたのか」
しばらくして、帰宅した和臣が書斎にやってきた。
廊下からいくつもの足音が行き来する音が聞こえていたから、たぶん帰ってきているのだろうとは察していた。ただ稜介が顔を合わせるのを嫌がると思い、そのまま書斎に籠もっていたのだった。
「今日は早かったんですね」
本を置いて立ち上がった哉に、和臣は視線で玄関の方向を示した。
「稜介君は帰ったよ」
「あいつ、先生に何か失礼なことを言いませんでしたか」
「いや、全く」
「それならいいんですが」
喧嘩をしたことを自ら白状するように、どこか冴えない顔をした哉を一瞥しただけで、和臣はしかし何も問わなかった。
「稜介君ね」
ただ、柔らかく優しい声音で続けた。
「君に甘えてるんだよ」
「俺に? あいつがですか?」
「大人に対して、誰にでも同じ態度をとっているわけじゃない。甘えていい人とそうでない人を、ちゃんと見極めていると思うよ」
「そうなのか……そうか? 稜介が、俺に甘える」
口にしてみても、実感がわかない。哉は目を閉じ、数秒うなった。
「稜介君の弾き方、最近変わった気がしないか?」
「そうですね、変な癖がついたというか」
「君によく似ているよ」
思いがけない言葉に、哉は微かに目を見開いた。
「まさか」
「自分の手元と見比べてごらん。気づかないのも無理ないけれど」
哉はまじまじと自分の五指を眺めた。
意外だと思われるらしいが、ピアノを弾く人間は、よほど注意しなければ演奏中の自身の指の動きなどよく見ていないものだ。
和臣の一言で、稜介の上半身に妙な力みが入っている理由が飲みこめた。言われてみれば、哉のスタイルに似たところがあるかもしれない。
「でも、稜介は俺のこと嫌っているんですよ」
「本当にそう思う?」
穏やかに尋ねられて、答えに窮した。
決して好かれてはいないと思う。
……思うが。
哉は腕を組み、先ほどより長く、深くうなった。
さあ、と和臣は短いかけ声であっさりと重い空気を払って、緩やかに踵を返した。
「食事にしようか。まだ食べてないんだろう?」
「あ、はい」
何の前触れもなく話題を転換されて、拍子抜けしてしまった。そんな哉の方を半ば振り返りながら、和臣は自分の眉間をとんとんと指で叩いた。
「皺が寄ってる」
哉ははっとして、眉根に深く刻まれた皺を解いた。
「じゃあ、何か適当に作ろうか」
「すみません」
「謝ることなんてないよ。食事なんて、手が空いている方が作ればいいんだし」
「いえ食事のことだけじゃなくて、色々と」
書斎を出るとき、ふっと吐き出すように呟いた。
「……思春期は難しいですね」
隣で軽く吹き出す気配がして、哉は怪訝な表情をした。
「先生?」
「ごめん。どこかで聞いたことのある台詞だと思ってね」
和臣が作った、まさしく適当と言うに相応しい料理を箸で口に運びながら、哉は考えた。
大人になっても、何かに頼りたい、甘えたいという気持ちがすっかりなくなるわけではない。
ただ歳を取って、社会的な地位を得たり、経験を積んで世間や人を見る目が養われたり、背負うものが増えていくにつれて、その範囲が次第に狭くなっていくだけだ。
子供は大人をサンドバッグのように練習台にして、甘え方に限らず、他者と関わる術を学んでいくのかもしれない。そして恐らく、こちらも傷ついたり与えたりすると同時に、意識せずに得るものがあるのだろう。
サンドバッグのようにピアノを叩かれたらかなわないが。
流しに並んで食器の片づけをしながら、哉は和臣に言った。
「明日にでも電話してみます、稜介に」
「ああ。早いうちがいいかもしれないね。……そうだ」
和臣がふと横を向いた。
「たまには、一緒に入ろうか」
「え?」
「お風呂」
「そうですね、たまには」
哉は照れたように顔を逸らしてから、少し躊躇いがちに、その狭い狭い範囲に足を踏みいれた。