「叔父さん、ワルツ踊ってみせてよ」
思春期の男子というものは、えてして突拍子もないことを言うものだ。哉は驚きもせず、甥の挑発をすっぱりと切り捨てた。
「誰が踊るか」
叔父の反応の薄さが面白くないのか、稜介はさらに突っかかってきた。
「あれだけ弾きまくってるくせに、踊れないの? 全然? それって、叔父さんの音楽性に反するんじゃないの?」
「ワルツを踊らないのと音楽性は全く関係ない」
「完璧主義のくせに、そういうところだけ逃げるんだ?」
「俺は完璧主義者じゃない」
「嘘つき!」
唇を尖らせて異議を唱える稜介を適当にあしらいつつ、回転の止まったレコードから針を外し、丁寧に拭いてケースにしまう。二人が言い争っている書斎の一角には、一通りのオーディオ機器が揃っていた。
書斎は仕事場も兼ねた完全に私的な空間であって、人を中に入れることは滅多にない。稜介がここにいるのは、レコードを聴いたことがない、聴いてみたいと駄々をこねられたからだ。
はじめは大人しくしていたと思う。白瀬治人が私的に録音したヘンデルのサラバンドが終わったあたりで、舞曲の話になった。それがいきなり、ワルツを踊れ、だ。
とりつく島もないと理解したのか、稜介は策を変えてきた。語調にわざとらしい殊勝さが混じる。
「別に叔父さんをからかってるわけじゃないよ」
どの口が言う、と喉から出かけた言葉をすんでのところで飲み込んだ。
「ワルツってよく弾くけどさ、実際踊ってるとこ見たことないんだよね。それを知りたいっていう、教え子の向上心を否定するの? 外国暮らし長いし、本当は踊れるんでしょ?」
「探せばいくらでも動画が出てくるだろ」
「動画じゃ、空気が伝わってこないよ」
「読みとるように努力しなさい」
「読みとれない」
「想像力がないのか?」
「ないよ。だから無理」
「じゃあ、諦めろ」
「俺さ、一応教え子だよね? 上達しなくても構わないわけ? ああそうだよね、叔父さんはそういう人だもんね」
そのあとも売り言葉に買い言葉が延々と続くだけで、話の着地点が一向に見えない。恐らく稜介自身、頭に血が上ってしまい、もはや何を言っているのか自分でもわけがわからないのだろう。
このままでは埒があかないと、哉は強引に幕を下ろすことにした。
「お前」
「何だよ」
「ばあちゃんにそっくりだな。そうやってべらべら喋ってると」
自覚があるのか、それとも別の誰かに同じようなことを言われたことがあったのか。指摘すると、稜介は顔を真っ赤にした。
「似てねえよ」
「似てるよ。まくし立てるような話し方なんか、特に」
「似てない! 全然、これっぽっちも似てない!」
さらに数分後、さんざん悪態をついてから、稜介は嵐のように去っていった。静けさを取り戻した書斎で、哉はやれやれと息をついた。休日の午後の気だるさが一気に押し寄せてきて、肩に重い疲れを感じる。
甥との関係は以前よりよくなってはいたものの、レッスンが穏やかに終わる日などほどんどなかった。年齢的なものなのか元来の性格ゆえなのか、しょっちゅう人を試すようなことを言ってくる。
今日も憤慨してはいたが、次のレッスンには何事もなかったような顔で来るだろう。そのあたりの塩梅がわかるようになってきたのは……。
「仲良くやってるみたいだね」
以前、和臣にそう言われたことがある。
友達ごっこをするわけでもあるまいし、別に仲良くはなりたくないと考えながら、哉はレコードのケースを書棚に立てかけた。
いつも通りの喧嘩別れで終わってしまったが、レコードの音そのものは稜介も気にいったようだった。CDと比べて手入れが面倒ではあるものの、耳によく馴染む、どこか温かみのある音色と、針を落とすときの儀式めいたひとときには胸が快く騒ぐ。
オーディオ機器類の中央に置かれた、ひときわ年期の入ったレコードプレイヤーは和臣の父のものだ。同じように白瀬治人が遺したハープシコードに勝るとも劣らぬ気難し屋であり、機嫌が悪いときにはぴくりとも動こうとしない。経年からくる不具合と言われ、修理に出しても直らなかった。
それでも、大切に使われた跡がはっきりと残る、この古いプレイヤーを手放す気にはなれなかった。アンプなどを新調したときにも処分せず、今でも使い続けている。急に動きが止まってはレコードを傷つけるかもしれないので、使うたびに妙な緊張感があるのも、亡き治人の人柄を思い起こさせた。良くも悪くも。
もし、と失われた人の輪郭をなぞる。
もし治人が生きていたら、今の自分の演奏をどう評価しただろう。
治人にはヨーロッパで行われるすべての演奏会のチケットを送っていた。けれど送ったチケットは断固として使用せず、興味のある公演があれば自分で手に入れて来て、後日、痛烈な酷評で完膚なきまで叩きのめされたものだ。
しかし振り返ってみれば、治人も和臣も、音楽について言わんとすることは同じだった。言葉の選び方が辛辣であるか、柔和であるかの違いだけだ。厳しい表現に惑わされずに、治人が書いた批評を念入りに読み込めばわかる。彼は哉の演奏に欠けているものを的確に見抜いていた。
ホールを埋めた数百、数千の人間のなかで、一番真剣に耳を傾けてくれていたのは、間違いなく治人だった。そして彼の批評によって、哉のピアノが注目されたのも事実だった。
結局、最期までまともに会話することも拒否され続けた。だが、もし生きていたら、あるいは……。
そこまで考えたところで、視線がレコードの針のところでひたと止まった。
古びた品物に染みついた独特のにおいは、不意をついて色あせた感傷を連れてくる。
思い出というものは、レコード盤によく似ているのかもしれない。ときに傷つき、ときに汚れ、それでも巡り続ける。ワルツのステップが円を描く様に似て。
哉は黒い輝きの向こうに過去を見やり、椅子に深く腰を沈めた。
ワルツ。その響きに引き寄せられるように、遠い日々の情景が鮮やかによみがえってきた。
六月、冷たい初夏の雨だれに濡れた街並みはどこか艶めかしかった。ロンドンの市街地からやや離れたところに建つ瀟洒な家の一室で、哉は厳しく孤独な戦いに臨んでいた。
曲が終わり、コンサートグランドの鍵盤から完全に指が離れたとき、壁際の椅子に腰掛けていた白髪の女性がゆっくりと立ち上がった。
「あなた、舞曲は本当にだめねえ。螺巻き人形が同じところをぐるぐる回っているみたい」
譜面台に置かれた楽譜をまじまじと眺め、彼女は軽く首を傾げた。
「座り心地の悪い椅子に縛り付けられて、教会で説教を聞いている気分になるわ。シマノフスキは説教の原稿ではなくて、マズルカを書いたのだと思っていたけれど。私の思い違いだったかしら?」
哉はぐっと唇を引き結んだ。
音楽院の別の教授から、舞曲について同じような指摘を受けたことがあった。元々は舞踊のための曲であるのに、身体性と音楽が完全に乖離してしまっている。つまりは生身の肉体がないし、血が通ってもいないと。
「反論があれば聞くわよ」
紅を引いた唇が鮮やかな弧を描いた。しばらく考え込んでから、哉はようやく口にした。
「……ありません」
「じゃあ、どうしてこんなにつまらないピアノを弾こうと思ったのか教えてくれる? それとも、何も考えていなかった?」
何も考えていなかったわけではない。だが、今の演奏では相手を説き伏せるだけの説得力がないのもわかっている。ならば、何を言っても言い訳にしかならない。それを意図した上での質問、というよりは詰問だった。
ピアノの音が消えてしまうと、沈黙のもたらす静けさが余計に重く感じられた。室内は狭苦しい学校のレッスン室とは違って、ちょっとした集まりができる程度の広さがあり、コンサートグランドが置かれていても圧迫感がない。家具からカーテンまで、洗練された趣味のよい調度でまとめられていた。
この部屋の主であるエリザベス・ファレンは現役のピアニストであり、音楽院の教授であり、そして哉の師でもあった。この日は私的な昼食の席に招かれたのだが、食後に何か弾くように言われ、結局は課外レッスンのようになってしまった。
この大輪の花を思わせる女性は、見た目の華やかさに反して、すこぶる指導が厳しいことで有名だった。過酷な課題とエネルギーを根こそぎ吸い取られてしまうような緊張感のあるレッスンに神経が参ってしまい、離れていく生徒も多かった。今このときも横にいるだけで、眼球のすぐ前に薔薇の棘を突きつけられている気分になる。
不意に、エリザベスが尋ねてきた。
「あなた、ダンスの経験はあって?」
ダンス、と言われて真っ先に頭に浮かんだのは、小学生の時に体育の授業で踊らされたフォークダンスだった。あとは、運動会で披露した民謡、それから盆踊り。
つまりは否、と答えるしかなかった。
「そう。……サラ!」
予想できたものとして哉の返答を受け取ると、譜めくりのためにピアノの側に控えていたスーツ姿の女性に声をかけた。
「適当に弾いて」
「適当、ですか」
「踊れるようなものよ」
「リズったら、本気で踊るつもりなの?」
「あら、冗談に聞こえて?」
サラは肩をすくめた。
「それなら、私が弾くよりCDの方がいいでしょう。すぐに用意するから、ちょっと待って……」
「あなたのピアノがいいの」
現実的な提案を遮って、エリザベスは魅力的な笑顔を送った。
「……仕方のない人ね」
照れ隠しのように短い髪をかきあげ、しばし考え込む仕草をみせてから、サラは鍵盤の前に腰掛けた。彼女はエリザベスの秘書であり、かつての教え子でもある。
生粋のウィーンっ子であった彼女は、迷わずシュトラウスのワルツを弾き始めた。華麗で優雅な曲調であるのに、微かな哀愁の腕にそっと抱きしめられているような気分になる。そんな音色だった。雨の日の鬱々とした室内に蝋燭の淡い円光が灯ったようだった。
「ほら、いらっしゃい」
促されて、哉はぎこちなくエリザベスの手をとった。背中のあたりを所在なくさまよう右手に、容赦のない叱咤が飛ぶ。
「迷うようなそぶりをみせては相手に失礼よ。自信を持って、しっかり引き寄せて」
最初の数分は次々と襲い来るステップに翻弄されるばかりだったものの、しばらく踊っているうちに、拙いながらもどうにか形になってきた。もっとも、それは哉にダンスのセンスがあるわけではなく、エリザベスの手腕によるところが大きいのは明らかだ。
「どう、悪くないでしょう?」
尋ねられて、ええ、と率直にうなずいた。
正直なところ、エリザベスの気まぐれに振り回されてダンスなど踊りたくなかったが、慣れてくると少しずつ面白くなってきた。二人の息がうまく合ったときには、まるで風に乗ったように、ふっと身体が軽くなる。
「親しい人に肌を預けるのは、落ち着くし気持ちがいいものなのよ。そもそも、人間は集団で暮らす動物ですもの。ひとりでいたら寂しくもなるし不安にもなるわ。でもねえ、ハジメ」
主人の動きにあわせて、ドレスの裾がふわりと広がる。辿々しい動きの教え子をリードしながら、師はさりげなく言い放った。
「だからといって、心も情熱もないセックスを何回しても、満たされないわよ。自分にも相手にも失望するだけ」
聞こえない振りをして無視を決め込んだのに、澄んだ青い瞳が心の奥底まで見透かすように見つめてくる。
「動揺しているの? あらまあ、珍しいこと。屁理屈ばかりの坊やだと思っていたけれど、可愛らしいところもあるじゃないの」
「何のことだか」
「嘘が下手ね」
細い身体のどこにそんな力があるのか、エリザベスは後退しかけた哉の肩を、逃げるなとばかりにしっかりと抱いた。
高木にも、かつて似たようなことを言われた。その時は単なる当てずっぽうだと笑われたが、この女性には、冗談ではなくすべてを見抜かれている気がする。
事実こちらに来てから、秋波を送る、という日本的で控えめな表現が懐かしくなるほど露骨に迫られた。そして彼の面影を消し去るために、誘いに応じたことも何度かあった。だが逃避のために結んだ投げやりな関係など、当然ながらどれも長続きしなかった。
「たとえそうだとしても、あたには関わりのないことだ。もちろん、音楽にも」
すげなく流すつもりが、余裕のなさが険のある声に表れてしまう。
「音楽もダンスもセックスも、官能を刺激するもの。根元は同じよ。それを否定するから、あなたの演奏には深みがないのよ。私がもう少し若かったら、肉体と精神の繋がりというものを、基礎から教えてあげられたのだけれど」
「どういう意味ですか」
怪訝そうに見つめ返す哉に、エリザベスは悪戯っぽく微笑んだ。
「チェルニーの練習曲より、よっぽど退屈しないわよ」
「お断りします」
「何、その嫌そうな顔。失礼な坊やねえ」
と、突然ピアノの音色が変わった。
それまでの演奏を中断して、サラはメフィストワルツ、誘惑者の円舞曲を弾き始めた。しかも、もの凄い速さで。
エリザベスはいかにも嬉しそうに歓声をあげた。
「サラ、素敵よ! そうこなくちゃ」
ワルツの拍子で書かれているとはいえ、実際の舞踏には向かない曲である。それをさらに猛烈なテンポで弾くものだから、めちゃくちゃに乱れた足の動きはもうワルツのステップと呼べるものではなくなっていた。
すっかり興に乗ったエリザベスに引きずられていると、譜面台の向こうからこちらを睨みつける視線を感じた。サラはエリザベスの秘書であり、教え子であり、公私にわたるパートナーでもあった。
音楽院に入学する前、この家で暮らした半年の間に、食事の作法から礼状の書き方、服装、エスコートの心得に社交の席での立ち振る舞い、様々な場面で贈る花の選び方やワインの知識まで、彼女から徹底的に仕込まれた。エリザベスの弟子という肩書きを持つ人間が、影で嘲笑の的にされるなどとても許せないと言って。動機はともかく、彼女の指導には後々かなり助けられた。
エリザベスに人を食ったようなところがあるのは十分承知しているだろうに、サラの目は本気だった。あるいはエリザベスの誘いに対し、哉が照れも喜びもしなかったのが悪かったのか。
これ以上彼女の神経を逆撫でするような真似はしたくなかったが、エリザベスはわざとサラの耳に届くように続けた。
「あなた、音楽関係者としか寝たことないでしょう? 音楽以外の話題がなくて、一緒にいてもつまらないもの」
次から次へと図星を指され、思わず頬の筋がひきつる。
「師匠と寝たことはあるの」
「……ありません」
「へえ?」
哉は喉にざらつく苦いものを、唾と一緒に飲み下した。
「そういえば、舞曲はだめだと言ったけれど、この間のシャコンヌは悪くなかったわ。左手のための」
左手のため。
最後の一語が、胸の深いところにちくりと刺さる。日本にいた頃、左手のためと題された協奏曲を連弾用に編曲しようとしたことがあったが、結局は完成することなく、とっくに破り捨ててしまっていた。
癖のあるリズムを巧みにあしらいながら、エリザベスは歌うように言った。
「ブラームスは愛する人の左手のためにこの曲を書いたけれど、あなたは誰の左手を思い浮かべていたのかしら。……それとも、想っていたのは傷ついた右手の方?」
哉は息をつめた。適当にはぐらかしてしまいたいのに、頭が麻痺したようになってうまい台詞が出てこなかった。
「これが友人相手なら、人生は短い、だからとっくに終わった恋愛を引きずっていないで次の恋を探しなさい、とでも言うかしら。でも、あなたは私の生徒ですからね」
エリザベスの言葉は、優しく、甘美で、しかしどこか突き放すように冷たかった。人を誘惑するとき、悪魔はこんな風に囁きかけるのかもしれない。
「おめでとう。くだらないプライドをずたずたにされるような、素敵な失恋を経験することができて。失った恋の味は格別よ。達観したふりをして、簡単に手放してはだめ。あなたは矮小な人間なの。格好をつけて、聖人の真似をするのはやめたら? 気が済むまでしがみついて、傷つきなさい。妬みなさい、もっともっと苦しみなさい。それはあなたの音を磨き上げるための、最高の糧になるのだから」
「……そうでしょうか」
射抜くような眼差しを真正面から受け止めることができなくて、哉はそっと目を伏せた。
あの日貪った肌の感触を思い出し、後悔と執着心、歪んだ欲望に苛まれて気が狂いそうになる夜もある。和臣との関係はすでに区切りがついている、そう説く理性とは裏腹に、想像の中で何度も執拗に彼を犯し、そのたびに自己嫌悪と罪悪感に襲われた。
制御できない劣情に、治りかけた傷口を気まぐれに抉られ、振り回されて、追いつめられた。そんな暴力じみたものから生まれた音楽が、美しく響くはずがない。
「甘く優しい感情は心を温めてくれるけれど、薄情なものよ。すぐにあなたを捨てるわ。けれど、耐え難い痛みや癒えぬ悲しみ、深い孤独……苦しみをもたらすものは、いつか親しい友になる。上手い付き合い方を覚えることね」
口にはしなかった思いを鋭く感じ取ったのか、エリザベスの目元が柔らかく解れる。
「人生も音楽も、どんなに必死で努力したところで思い通りにはならないの。理不尽で不合理。いつまで経っても未完成。でもね」
円舞を締めくくる最後の一音に重なって、晴れやかな声が響いた。
「だからこそ美しいのよ!」
そのとき、玄関の方から物音がした。外出していた和臣が帰宅したのだろう。
散漫な視線が、壊れかけたレコードプレイヤーから離れた。記憶から取り出した懐かしい時間を、哉は元あった場所に丁寧にしまいこんだ。
椅子に腰掛けたまま、物憂げに顎を手の甲に預ける。とんとん、と指先が軽く乾いた音を奏でた。クライスラーの、愛の喜びを。そして悲しみを。
見えない鍵盤を押しながら、考える。考えながら、見えない鍵盤を押す。
叶わぬ思いに身を焦がしていた当時、エリザベスの言葉はとても信じられなかったし、理解できなかった。
だが、今はどうだろう?
書斎に向かって静かな足音が近づいてくるにつれ、鼓動が早くなる。
若い頃の、青臭い出来事の数々が思い出されて、和臣に会うのがなんだか急に気恥ずかしくなってきた。
ふと、足音が止まった。すぐ近くに彼の気配を感じる。ノブが軋む。もうすぐ扉が開いてしまう。
熱を帯びた胸騒ぎが収まらない。このままだと、普段絶対にしないような言動をしてしまいそうだ。
哉は溜息をついて、僅かに火照った顔を掌に埋めた。
どうせ恥をかくのなら、俺と踊ってください、とでも言ってみようか。