ある国に、まわりを山々でかこまれた、小さな村がありました。その村はずいぶんと北のほうにありましたから、冬になると、街道はふさがれ、空はどんよりと雲がたれこめ、大地は白い雪におおわれました。秋に収穫した作物と、塩で漬けた少しの肉で持って、村人は細々といのちを繋ぎました。
そこに生きる人々の鈍くくぐもった目には、吹雪にかすんだ故郷の木々が風にしなるさまがおぼろげに映りました。人々は故郷を憎みもし、また愛してもいました。その深いことといったら、大地に降り積もる雪のかさと同じほどでした。村人たちは息をひそめるようにして厳しい冬を耐え、春の訪れを待ちました。
しかし、果てしなく続くかと思われる、長く苦しい冬の日々に、少しのたのしみもないということはありませんでした。新しい年のはじまるすぐ前に、聖なる夜の祭りが行われるのです。
祭りの日がやってくると、白と灰とで覆われていた村に、鮮やかな色がよみがえりました。女たちはここぞとばかりに、家のなかを美しく飾りたてました。男たちはこっそりと隠しておいたとっておきの酒で祝杯をあげました。若者たちは夜の闇に赤々と燃えたつ火のまわりを、こまのようにくるくると踊ってからだをあたためました。そうして、宴が終わって、夢うつつのうちに寝台にもぐりこむ時分になると、子どもたちの枕もとに、聖者が贈りものをもってあらわれるといわれています。
もっとも、この貧しい村では、ちいさな靴下のなかにそっと入れられるのは、木彫りのおもちゃや木の実の干したものなど、ごくささやかなものでした。
けれども、朝になって靴下がふくらんでいるのを見つけたときの子どもたちの顔のうれしそうなことといったら、そこだけぽっかりと春がやってきたようで、ほんとうに、あなたにも見せてさしあげたいくらいです。
さて、この村にひとりの少年がいました。親切で勤勉な、それは性質のやさしい少年でした。少年は人々を愛しましたし、それ以上に人々は少年を愛しました。少年の幼なじみである少女も、そのうちのひとりでした。しかし、それを決して口にはしませんでした。
少女は春のように若く、野の花のように瑞々しく、人々はその美しさをこぞってほめたたえました。けれど、その耳に心地よいことばの数々は、少女の心の高慢を育む肥やしとなったのです。年を追うごとに、少女はますます美しくなり、同時に心に深く根をはる驕りの芽も、すくすくと育っていきました。そして、ついに大きく花開きました。
ある年の冬の日、年頃になった少女は、少年にほほえんでいいました。
「何人もの男たちが、わたしに求婚していることは知っているでしょう?」
少女はやわらかい手を少年のそれに重ねました。
「今まで迷っていてだれにもお返事をしなかったけれど、決めたわ。聖なる夜の祭りの日までに、一番すてきな贈りものを持ってきた人を、わたしは選びます」
それを聞いた少年のほおがさっと赤みをおび、それから今度は真っ青になりました。
少女はそのようすを見てこっそりと笑いました。少年の熱のこもったまなざしが、いつも自分に向けられていることを、少女はちゃんと知っていました。そして、たとえ誰が何をもってきても、少女は少年を選ぶつもりでいました。
ただ、だれにでもひとしくやさしさをそそぐ少年に、少女は不満をおぼえていました。それは身勝手で、浅はかな思いでしたが、そのことを知るには少女は若すぎました。だから、試さずにはいられなかったのです。
村から十里ほど離れた場所に、冬の王の住む山がありました。その険しい山のいただきには、冬であっても、この世のものとは思えぬような美しさのばらが咲いているのだと、古くから伝えられていました。
年寄りの口から紡がれるその物語を、ぱちぱちと燃える炉端のきわにうずくまって、少年は少女とともに熱心に聞き入りました。そのときの少女の目に浮かんだかがやきの強さは、それまで見たどんなものよりも尊いものとして、少年の心にいつまでも焼きついていました。ですから、冬の王のばらこそが、少女をよろこばすことのできる唯一のものだと信じていました。
少年はその日のうちにそりにのって、だれに告げることもなくひとり旅立ちました。なにせ聖なる夜の祭りの日は、もう数日後に迫っていたのです。そりは風に乗って山を越え、谷を越え、雪原を滑りぬけ、やがて、冬の王の山にたどり着きました。そこで少年はそりをおりて、そのまま山のすそ野に足を踏み入れました。
冬の王の山は、今まで少年が登った、どんな山よりも険しい山でした。山には生きものの気配ひとつなく、目に映るのは一面の白、耳に聞こえるのは詰るような重い沈黙だけでした。吹きつける冷たい風に、表情も凍りつきました。意識を手放さないように、時おり、腰に巻きつけた袋から干からびた肉を取り出して口に含みました。まばたきをするたびに、まつ毛から粉雪が滑り落ちました。それをはらう、獣の皮でこしらえたぶ厚い手袋のしたの指の感覚はすっかりなくなり、かじかんだ足を雪にとられて、いく度も谷底へ落ちそうになりました。体は無事でしたが、心のほうは谷底の深い闇にのまれてしまっていて、ことばすら忘れ、口からもれるのは白い息ばかりでした。それでも、少年は歩きつづけました。ゆらゆらと吹雪のなかをさまようようすは、人であった頃の記憶を捨ててきた、亡霊のようでもありました。
冬の王のしもべである北風の精が、それをあわれに思って、ほんの一瞬だけ、頂上へいたる道を指でなぞりました。
すると、無慈悲な白の世界を、やわらかな光がつつみこみました。少年は突然目の前に開けた情景に、息をのみました。雪の色に浮きあがるように、赤いばらが一輪、風に折れることもなく、冷気に凍ることもなく、すっくと立っていました。気高く咲くばらの花は、冬の雪山にあって、年寄りのしわがれたくちびるから語られたことばのとおり、まったく、幻のように美しくかがやいていました。少年は、少女におくるのと同じまなざしでばらを見つめ、それから、恋うように腕をのばしました。
そのときでした。
冬の王が聖域への侵入者を追い払おうと、深く息を吸い、それから少年に向けて大きく吐きだしたのです。息は雪をまとった突風となって、雪崩をひきおこしました。
少年は、勢いよく宙に押しあげられ、それからとどろく雪のうずに飲みこまれていきました。少年は命の限りもがきました。
しかし、人のささやかな抵抗など、冬の王の強大な力の前では、あまりに無力でした。小さな体は、どこまでもつづくうつろな闇に、ゆっくりと溶けこんでいきました。
その手には、かすかな灯火のように、ばらの花がなおあでやかに咲き誇っていました。
月のない夜、大きな袋に子どもたちの贈りものをたっぷりとつめて、聖者が冬の王の山の近くをとおりがかかりました。そのとき、夜の闇よりも暗い谷の奥から、かすかな声が聞こえてきました。
それは、主のないやまびこでした。
雪のほかにはだれひとり聞くことのないことばを、永遠とも思える時間、一途に繰り返していました。聖者はその声のあまりに真摯であるのに胸を痛め、やまびこをそっと拾いあげました。
すると、やまびこは小さな、血のように赤いばらになりました。
聖者は、それがだれの手におさまるべきものなのか、ちゃんと知っていました。だからそれをもって、冬の王の山から十里ばかり離れた村にある、古ぼけた家の戸をたたきました。そこには、ひとりの老婆が住んでいました。
老婆は、戸の前に立つ聖者のすがたにおどろいて、声をあげました。
「まあ、聖者さま、どうなさいました。うちに小さい子どもはおりませんよ。婆がひとりさみしく暮らしているだけですもの」
「おまえに、贈りものを持ってきたのだよ」
聖者はやさしくそういうと、ふところから小さなばらを取りだしました。ばらの花は、冬の寒さに、すっかり凍っていました。
老婆はばらを受けとると、しばらく何のことかと考えこんでいましたが、ふいに顔をあげ、沈黙して、穴のあきそうなくらい、じっとばらを見つめていました。それから、ややあって、静かに言いました。
「人の心を試した報いです」
老婆の声はかすかに震えていました。大きく見開かれた目に、みるみる涙があふれていきました。
「あの人は、きっと、わたしを恨んでいたことでしょう」
ほおをはらはらとつたったしずくは、凍ったばらの花に音もなく落ちました。そして、熱い涙が花弁にふれた瞬間、ぱりんと音をたてて砕け散りました。砕け散ったかけらは、老婆の胸に突き刺さりました。その瞬間、老いにすっかり遠くなった耳に、懐かしい声が飛びこんできました。やまびことなって、谷間に響きつづけていたことばでした。
「神さま、お願いです。彼女の行く道に光を、両の腕から溢れるほどの幸福を、どうか、どうか」
涙にぬれた瞳に、若い日の、生の強いかがやきがよみがえりました。それは、少年がいっとう愛した、あの光でありました。