荒れ野の聖女
 ひとりの旅人が、それとは知らず城下町の処刑場に迷い込んだことがあった。そこには草一本生えてはおらず、人ひとりいなかった。ただ、磔にされた幾人もの死体が、己を戒める縄の呪縛から解かれたように、冷たい風に吹かれぶらりぶらりと揺れていた。旅人はそれを見て何を思ったか、背負った荷物からフィドルを取り出した。そして、ゆっくりと弦を弾いた。鎮魂の曲だった。
 すると、死体のひとつがやおら口を開いた。
「まあ珍しい」
 旅人は手をとめ、声のするほうを見た。女だった。まだ死体ではなかった。長い衣が死臭を含んだ風になびいた。
「この頃のお話相手といえば、かたかたお喋りする囚人さんのしゃれこうべばかりでしたのに」
 赤茶けた土に転がったしゃれこうべが、乾いた音をたてた。女は白い唇を引きつらせた。痩せこけた顔は土気色で、頬には大きな傷が走っている。
「もう、どのくらいこうしているのでしょう。自分が生きているのかも死んでいるのかも忘れてしまいました」
 女は笑った。しかし、それは笑みには見えなかった。
「わたくしの話を聞いてくださいませんか、楽師さん。そうとは見えないかもしれませんが、わたくし、今とても幸せなのです」
「私でよろしければ」
 旅人はその場に腰を下ろした。女のかすれた声が荒れ野に響いた。
「わたくしはこの国の王女として生をうけました。父上と母上も、幼いわたくしをそれはそれは慈み育ててくださいました。父と母の望みは、また、わたくしの望みでもありました。おふたりの愛情を疑ったことはありませんし、感謝もしています。もちろん今もです。しかし、成長するにつれて、わたくしの望みと両親の望みは大きく食い違ってしまいました。わたくしの心はすでに俗世にはなく、ただ神に祈りを捧げることのみにあったのです。わたくしにはひとり弟がありましたし、国の継承については何の問題もありませんでした。けれど、王の娘としての義務と責任を放棄してはならないと、父は脅し、母は泣いて懇願しました。わたくしは迷いました。迷いましたが、最後には説き伏せました。しぶしぶながら、わたくしのしんからの願いに、おふたりも納得してくださいました。こうして、わたくしは成人を迎えると同時に、神へ身も心も仕えることとなったのです。しかし、ついに数週間後に俗世を離れるというときになって、わたくしに求婚した方がいらっしゃいました。その方は、隣国の王でした。せんに奥方を亡くしたばかりで、わたくしに白羽の矢が立ったのです。もちろんわたくしは断りましたが、父王はそれを許しませんでした。結局のところ、主に従わぬ道具などありませんもの。知らぬところで、約束は交わされ、わたくしは嫁ぐことになりました。わたくしは白い婚礼衣装に身を包みました。服は白でしたが、心は灰でした。夫となるはずの王が、装いを褒め称えくださいましたが、そのことばが何になりましょう。わたくしは何も応えず、ただ顔を覆う薄絹の下で、涙をこらえるばかりでした。わたくしは式の前に、どうしてもひとりきりになりたいと父に頼みました。栄えある式に向けて心を十分に落ち着かせたいのだと。王はそれ聞くとお許しくださいました。わたくしは自室の机から、小刀を取りだすと、頬に刃を当てました。流れた血が数滴、婚礼衣装にすべり落ちました。それから、ふたたび布で顔を覆うと、素知らぬ顔で花婿の手を取りました。ふたり並んだ様子は、どうみても花婿と花嫁ではなく、祖父と孫娘でした。血の染みに侍女たちは怪訝な顔をしていましたけれど、花婿はそれを花飾りだと思し召したようですわ! 空虚な婚礼の儀はすすみ、いよいよ誓いの口付けの段になりました。薄絹を捲ったときの、王のあの表情を、わたくしは決してわすれないでしょう。わたくしは自分の顔の造作を知っておりましたし、それを上手く利用する手立ても知っておりました。そのあとのふたりの王のお怒りときたら、それはもう雷よりも凄まじく、わたくしにはその場で死刑が言い渡されました。しかし、わたくしの心は、これ以上ないほどに、清々しく、満ちたりておりました。そう、わたくしは幸いでした。磔台の上の苦しみさえも、ひどく甘く感じられたのです。もっとも、死を間際にしてなおも笑い続けるわたくしを見て、とうとう気でも違えたかと皆思ったようですけれど」
 ここまで息もつかず話し続けると、女は突然、歓喜とも驚きともつかぬ声を上げた。
「なんてこと」
 磔台には、たれこめる雲の隙間から、わずかな光がさしていた。
「わたくしずっと囚人さんのしゃれこうべがお喋りしている声だと思っていたのですけれど、鳴っていたのはわたくしのしゃれこうべでしたのね!」
 そういい終わるか終わらぬかのうちに、磔台の上の骨が音もなく崩れ落ちた。しゃれこうべがひとつ、ころりと地面に転がった。旅人はふたたび鎮魂の調べを奏ではじめた。やがて、すべてが塵のように土へと還っていった。