西方の街に、十ばかりの少年とその家族がひっそりと暮らしていた。少年には、靴職人の父と、信心深い母と、まだ赤ん坊の妹がいた。少年は家族を愛していたし、また愛されてもいた。貧しいながら、毎日は小さな幸せに満ちていた。
少年の住む街の真ん中には、見えない壁があった。その壁をはさんで、東には貧乏な人、西にはそうでない人が住んでいた。少年はまだ幼くて、その壁がいかに高いものであるかを知らなかったから、あるとき、街の西に迷い込んでしまった。西の人たちは少年に、あいさつのかわりに冷たい視線を、手を差し伸べるかわりに小さな石を、温かいことばのかわりに罵りのことばを与えた。少年はついにしくしくと泣きはじめた。どんよりと曇った空から、雨がしとしとと落ちてきた。通りからは、ひとり、またひとりと人の姿が消えていった。雨が敷石を叩く音だけが響いていた。
そのとき、奇妙な男が早足で少年の前を通りかかった。ひとりで持つにはあまりにたくさんの本を持っていて、前が見えないようだった。男は少年の目の前でつまずいた。本が濡れた地面いっぱいに広がった。男は困ったような顔をして、あわてて本を拾った。少年もそれを手伝った。少年はものめずらしそうに、開かれた本に書かれている記号を見つめた。
男は礼を言った。
「本を拾ってくれてありがとう」
穏やかな口調に、少年はこのときはじめて口を開いた。
「これは何?」
「文字だよ」
「うそだ。みみずがいっぱい書いてあるだけだよ」
「ここよりずっとずっと東にある、遠い国の文字だ」
これを聞くと、少年は不思議そうな顔をした。男は笑った。
「よかったら私の家に来るかい? こういう本ならたくさんあるから。それに、これ以上君と本が濡れると困るしね」
この日から、少年は仕事を終えたあと、こっそりと男の家に通うようになった。男は教師だった。少年は文字が読めなかったが、男は少年に文字を教えた。しだいに、学ぶことは少年にとって何よりのよろこびとなった。少年は平易なことばで書かれた物語ならばひとりで読めるまでになった。とりわけ、やぎのお母さんが狼に食べられた子どもを救う話が好きだった。母やぎの姿が、やさしい母の姿に重なった。
こうして少年は、月明かりのもと、あかぎれの手で貪るように多くの書物の項を捲った。目に見えるすべてが単色だった視界は、鮮やかな色彩に溢れた。世界が果てしなく広がっていく感覚に、ひどくめまいを覚えた。
やがて、季節は巡った。
それは、ある寒い冬の日のことだった。街に大きな火事があった。壁の東側は風上で、西側は風下だった。貧乏人はなにひとつ失わず、金持ちはすべてを失った。火は多くの家と命を舐めつくした。残された人々は呆然と立ち尽くすばかりであった。やがて、憔悴した人々の間に、こんな噂が広がった。貧乏人のうちのひとりが火を放ったのだと。
証人はいなかった。犯人もいなかった。しかし、西の男たちは武器を手に壁を越えた。
母親は、息子を大きな置時計のなかに押し込んだ。少年が父はどうしたのかと問うと、母は何も言わず涙を流した。
「絶対に声を出してはだめ。動いてはだめ。開けてはだめ。きっと迎えに来るわ」
妹はおとなしく母に背負われていた。
「この子が泣くと、あんたの居場所がばれちまう」
そうやさしく言うと、息子に何べんも何べんも口づけた。母の涙が少年の頬もぬらした。最後の口づけを終えると、壁時計の戸を外からきつくしめた。少年は闇のなか、息を殺して体を固く丸めた。すぐに家の扉が勢いよく開いて、何人かの荒い足音がした。男の声がした。母の声がした。妹が激しく泣いていた。何かが割れた。誰かが叫んでいる。
そのとき、置時計が正午の時を告げた。少年は耳をふさいだ。鐘の音が耳を突き抜けて頭のなかで響いていた。しばらくすると、鐘はぴたりと止んだ。それと同時に、何かがごろりと床に転がる音がした。
妹の泣く声はもう聞こえなかった。
置時計の戸をふたたび開けたのは母ではなく、少年に文字を教えた男だった。男の片方の目はつぶれていて、もう片方の瞳は光を失っていた。
「目をつぶっていなさい。決してあけてはいけない」
男はそう言うと、少年を置時計から出して抱きかかえた。しかし、少年は目を閉じなかった。
穴があくほど見開いていた。見開いていたが、なにも見ていなかった。男は少年をかかえて走り出した。少年は早口で単調にまくし立てた。
「先生、子やぎは助からなかったよ」
男は少年を抱く手に、さらに力をこめた。少年の甲高い笑い声が青い空にとけていった。
「だってお母さんやぎは狼に食べられちゃったんだもの」
男は少年を連れて、遠くの街に移り住んだ。
少年は、三日後に食事をすることを思いだした。
三週間後に歩くことを思いだした。
三ヵ月後にことばを思いだした。
そして、ある冬の朝、庭のすみに小さな墓をつくった。花を手向け、墓標に口づけた。
こうして三年後に、涙を思いだした。