懐中時計
 その男は毎朝五時に起床した。
 老いた女中が扉を叩く頃には、主の表情にけだるい夜の残り香は少しもない。
 身支度を整え、六時に朝食。
 その後、出勤前の一時間かっきり、朝の散歩をする。
 胸の隠しには古びた懐中時計、一秒の狂いもない。
 公園をぐるりと囲む遊歩道を、ひとり黙々と歩く。
 男に出会うと、人々は帽子を取って、愛想よくあいさつをした。
「よい朝ですな」
 男も同じようにあいさつを返す。
「ほんとうに!」
 たとえ、雨が降ろうが、雪が積もろうが、よき朝であることは変わらない。
 このようにして、一日ははじまり、まったく正しく過ぎていく。
 だが、正しく完全な時間を生きるがゆえに、男はひとりだった。
 日が背伸びしてかがやく顔をあげ、月が草木の陰に白金のつま先を隠すまで、時を刻む胸元の音だけが、そっと男によりそっていた。

 ある晩、息を切らせた女中が、衣擦れも荒く主人の部屋に飛び込んできた。
 壁時計の針は、ぴったり十時を指していた。
 床に入ろうと、燭台に息を吹きかけようとした、まさにそのときだった。
 男は文句を言おうと口を開きかけたが、老女のぷっくりとした顔が、興奮と悲しみとに赤く染まっているのを見て、それを止めた。
 りんごのような頬を、ふた筋の光が音もなく伝っていった。
 女は主人の耳にそっと何かをささやいた。
 それを聞くと、男はひとつうなずいただけで女中を下がらせ、平生となんら変わることのない仕草で、ろうそくの明かりを消した。
 しかし、寝台には向かわなかった。
 夜の闇にまぎれるように、書き物机の引き出しから、古い懐中時計を取り出した。
 それから、裏に刻まれた文字に、静かに口付けた。

 次の朝、男は五時に起床した。
 老いた女中が扉を叩く頃には、主の表情にけだるい夜の残り香は少しもない。
 身支度を整え、六時に朝食。
 その後、出勤前の一時間かっきり、朝の散歩をする。
 胸の隠しには古びた懐中時計、今日は一秒ずれている。