ふと気づくと、夜闇に白い人影のようなものが浮かんでいる。頭のうえからつめたい水を浴びせられたような、ひやりとした心地になって、祈りをこめて強くまばたきするころには、すでに気配も残らない。丸い月のこうこうと輝く夜更け、用を足しに外に出ると、出くわすことがある。
影の主は母だった。
母は足音を殺して家の裏手に向かい、そっと何かを置くのだ。決まって夜おそく、慎重に闇に身を沈ませて、だれにも知られることのないように。少女は物心ついたときから母のこの奇妙な習いを見ていた。だが、それと伝えたことはなかった。朝になればいつも、夜寝ぼけて見た景色など、夢に溶けてすっかり忘れてしまうし、何より、母が置いたはずの何かは、空が白むころにはきれいに消えているのだ。清廉な朝の陽光を浴びたとたん、夜の闇がつくる泥のような微睡は霧散する。はじめからそんなものはなかったかのように、世の隅から隅まで眺めても、影ひとつ残っていないのと同じことだった。
しかし、その夜は様子が違った。これまではたかが夢の出来事と、追及を手放してきたのに、そのとき、どうしてか声をかけようと思ったのは、幼いころから積もり積もった好奇心ゆえからかもしれないし、少女がもう子供と呼べる年ではなくなって、母の背に見過ごすことのできない罪と秘密のにおいを嗅ぎとったからかもしれなかった。それとも、不実な月の乙女が気まぐれを起こしたのだろうか。
「何をしているの?」
背後からそっと近づくと、母はぎょっとして、あ、と小さな叫びをあげた。手に持っていた籠が、乾いた音をたてて落ちた。落とした拍子に中身が散った。じっと目を凝らしてみれば、入っていたのは、少女が夕に食べたものと同じ、固く焼いた麺麭がすこし、乳酪、脂。それから小指の爪ほどの小さな包み。白い粉がこぼれている。塩かもしれない。
少女は母をなじるつもりも、厳しく問いつめるつもりもなかった。しかし、母は狼狽のあまり、力なく地面に座りこんでいた。歯をがたがたと打ちならし、激しく肩を震わせる様を目の当たりにすると、後悔が苦く湧きあがってきた。だれより驚いたのは母であったはずだが、少女は次にどうしたらいいのかわからなくなって、困り果ててしまった。
「どうしたの。具合が悪いの? ごめんなさい、わたしが急に声をかけたから」
少女は震えの収まらない細い肩を抱いた。
「おまえ」
長い沈黙ののち、うつむく母の口がようよう開いた。ごく静かであったが、耳に沈むような重い声だった。上目がちに人の顔色を窺う、常の気弱さなどどこにもなかった。
「おまえ、今夜見たことを、だれにも言ってはいけないよ」
「母さん、痛い」
大きく見開いた目を眼前に突きつけられて、魂まで縫いつけられたようになった。掴まれた腕は熱く、蛇の絡まっているようで、指の跡が残るほど強い。うす闇に滲む小さな影は、地の底をさまよう亡者のようで、にわかにぞっとするような恐ろしさを覚えた。この女は、まことの母であろうか。いいや、声も姿も、懐かしいにおいも確かに母のものだ。亡霊であるはずがない。
「だれにも」
風に紛れるほどのか細い音であるのに、いやに大きく響く。そこから早く逃げだしたい気持ちもあって、少女はわけもわからぬまま頷いた。
「ええ、もちろんよ。言わないわ」
「これはね」
言うやいなや、母は娘から身を離し、地面に這いつくばった。何事かと覗きこめば、こぼれた塩をかき集めているのだった。
「神に捧げるものなんだ」
「神様に?」
「そうだよ。森に住む、古い、古い神だ」
強い口調で言うと、母は森の方向に首を傾けた。村からすこし離れたところには、深い森が広がっていて、そこには人ならぬものが住まうから、断りもなく立ち入ってはいけないと、村の老人たちから常々聞かされていた。
少女は眉をひそめた。
「何か、悪さをする神ではないの」
「悪さなんか。とても強いんだ、とてもね。わたしたちを守って下さる」
一気にまくしたてる母の勢いに気圧されて、何の神であるのか、何を祈っての奉物であるかは、ついに聞くことはできなかった。もっとも、聞いたところで教えてはくれまい。軽々しく口にしてしまっては、まじないの力が失われてしまうだろうから。たぶん、と少女は考える。母は、良人の生死を神に問うているのではないだろうか。父は彼女が生まれたばかりのころ、戦さにでたきり行方が知れない。死んだとわからなければ、母は次の夫を持てないのだ。
その晩はなかなか寝つけなかったが、気づけば朝を迎えていた。
水を汲む道すがら、家の裏をちらと見やり、やはり、あれは夢ではなかったのかと少女は首をかしげた。夜とともに、籠は幻のように消えていたのだ。
ほどなくして、母が病で床についた。いくつもの朝と夜を繰り返しても、快方にむかうようすはなかった。
やがて、再び月が満ちるころになった。母は熱っぽい息を声に絡ませて、うわごとのように言った。
「ごらん、月があんなに大きい」
頭上の屋根窓からは、丸い月が覗いている。
「母さん、だいじょうぶよ。月はあれ以上大きくはならない。もう、窓を閉めましょうか」
少女はやさしく言うと、額を濡らす汗を拭った。夜の闇は、病の苦しみをいっそう強くする。月の光を採ってせめてもの慰めをと思ったが、苦痛は増すばかりのようだった。
窓を閉めようとすると、母は月をつかむように腕を伸ばした。
「ああ、月が大きい。森から来る。もうすぐ」
「なにも来ないわ」
「捧げものをしなければ。あれが来る、あれが。後生だから、あれに食物を」
起き上がりかけた母の体を、少女は慌てて床に戻そうとした。
「いけないわ、寝ていなければ。ね?」
「お願い、お願いだから」
首に縋りつく母のすがたがあまりにも悲痛で、みじめですらあったので、少女は重い心を抱きつつも、その頼みを請け負った。月明かりをたよりに、手探りで品を揃える。そうして、母がしたのと同じ供物を籠につめた。
「母さんはもう長くないだろう。もし月の夜に来るのが、本当に神であれば」
呟いてからはっとして、首を振った。
「まさか、ばかなことを。食べ物のにおいがしたから、きっと、獣が持っていってしまったのよ」
家の裏に籠を置いて、戻ろうと踵を返したとき、ふと背後に視線を感じたような気がした。いぶかしく思って森の方角に目を移すと、暗がりに、こちらを伺うような影がある。その姿を遠くに見とめ、少女は声を失った。
狼だった。今まで見えた、どんな獣よりも大きかった。狼は、すぐれた森の狩人である。獲物に気がつかぬはずはない。が、その狼は微動だにもせず、なおも少女を注視していた。
小さな胸が早鐘をうつ。足が石になったように動かないし、動いても意味はあるまい。距離はあったが、ひとたびその脚が地を蹴れば、人の走る速さなど地を這う小虫に等しいのだ。無防備な喉元は、あっという間に食いちぎられるだろう。
逃げる術はなかった。こうなってしまえば、人にできることは神への祈りのみ。だが、両の手の指をきつく絡ませたところで、はたと気がついた。この狼こそが、母の言う神ではないのかと。
もはや逃げ道はなく、悩む暇もなかった。諦観の息をひとつつくと、少女は凛と声を張りあげた。ふしぎと、恐怖は消えていた。
「神よ」
声は届いたはずだ。だが、影は身じろぎもしなかった。
「森に住まう神よ、どうかお聞き入れください。わたしの母は、重い病で床についております。遠からず、死者の群れに加わりましょう。それも人のさだめと心得ております。心得て……けれど、わたしは」
少女は言い終わらぬうちに、全身を地に伏せた。なめらかな頬を、涙が幾筋もすべり落ちた。
「どうか、母を助けてください」
次に顔をあげたとき、狼のすがたはなかった。
翌朝、家を囲む柵を見ると、草が一束括りつけられているのに気がついた。村の周りでは、見たこともない草だった。葉の先をかじってみてその感触を確かめたが、痺れもなく、腹も下さず、毒ではなさそうだった。あくる日も、そのあくる日も、同じ場所に同じ草が置かれている。
これは、森の神からの賜りものかもしれない。
そう思い、煎じて飲ませたところ、母の顔色が次第に赤みを取りもどしてきた。
以来、少女は夜ごとにかの狼を思う。月下にそのすがたを描くたび、どうしてか、胸が焼かれるように熱くなった。
次の満月には、母は半身を起こすことができるまでに回復した。少女はいつもするように籠を置いたが、その日は家には戻らず、物陰に身を隠した。
月のもっとも高くなる時分、狼はあらわれた。
「お待ちください」
籠をくわえ、すぐさま去ろうとする影に、少女は声をかけた。
「母の病は癒えました。あなた様のお力で」
と、少女は身を投げ出すように地に膝をついた。
「骨と皮ばかりで、きっとおいしくはありませんが、どうぞ、この身を供物とお受け取りくださいませ。あなた様に捧げられるものは、わたしには、この身ひとつしかありません」
狼はひたと足を止めた。
「どうか」
少女は伏せたまま、闇に視界と身とを預けた。気配が動き、獣のにおいと、血の通うものの熱が感じられる。しかし、それは触れるほどには近づこうとしない。少女がそろそろと顔をあげると、そこにあったのは狼の鼻面ではなく、若い男の顔、深淵に似た静かな眼差しであった。男は、狼の皮を頭から被っていた。手足は獣の四肢ではなく、まさしく人のもので、逞しく、均整がとれていた。身に纏う衣服には見覚えがあった。父のものだ。いつのまにかなくなっていたから、母が食料と引き換えにしたものと思っていたが、これも供物としたのだろうか。
双眸が交わった。
気づけは、両者のあいだに長く横たわっていたはずの闇は消え、顔は吐息の混じりあうほどに迫っていた。月のような、やさしい瞳だ。少女の指がその頬に触れようとした。その瞬間、男ははっとしたように素早く身を引き、森へと駆け去った。少女はしばし呆然としたように立ち尽くした。ややあって家に戻ると、母の手を握って言う。
「母さん、わたし、森の神を見たわ」
深く眠っているのか、応えはなかった。
重ねられる月の夜、籠を供えるたびに、たしかにその気配はあった。しかし、彼は決して姿を見せなかった。少女は星に囁くように、風に物語るように言葉を連ねた。問いかけをすることもあったが、応えが返ってくることはなかったし、それを望んでもいなかった。
月の満ちるように溢れる静かな声音は、祈りの歌に似ていた。
母の容態は日に日によくはなっていたが、外で仕事をするほどの力はなかったから、少女は母の分までまめやかに働いた。荷を運び、土にまみれ、針を動かし、懸命に朝を追ううちに時は流れた。
ある夜、いつものように籠を置きながら、少女は見えざるものにむかって言った。
「神よ、これが私からできる最後の捧げもの。できるなら、もっと立派な品をお供えしたかったのですけれど」
かすかに、影が揺らいだような気がした。
「隣村に嫁ぐことになりました」
振り向くと、男の姿が月光に照らされていた。少女は目を細め、唇に笑みを浮かべた。
「母は、次か、その次に月が満ちるころには、きっと歩けるようになりましょう。そうしたら」
静かな、しかし炎のような激しさを湛えた瞳は、射るように少女をまっすぐ捉えていた。
「夫となる男の」
このとき、男の声をはじめて聞いた。どこか懐かしい音だった。
「最初の妻は、頭を打って死んだ。次の妻は腰の骨を折って、その次は井戸に落ちて」
「何でもご存じですのね」
少女は柔らかく微笑んだ。男は無言で少女を見つめ続けている。
「この身を案じてくださるの? わたしは、どうでしょう。川に流されるかしら。不幸な事故が続くなんて、よくあることですもの」
でも、と平生と変わらぬ慎ましい語調で、少女は独り言のように続けた。
「父もなく、土地もない母とわたしとに、他にどんな道がありましょう。人の生を果たし、あなた様の、神々の住まうところに参ります日も、そう遠くはない。それを思えば、ちっとも恐ろしくはありません。……さようなら、慈悲深き方」
長くたれこめる沈黙に、銀糸で織った紗に似た淡い光が降り注いでいた。
言葉のあいだを埋めるように、男はためらいがちに、ゆっくりと距離をつめた。はじめに指が、それから掌が重なった。
月に照らされた二つの影が、闇に静かに溶けていく。
女は寝床に横たわっていた。人の気配が近づくと、待ちかねていたように瞼をあけた。
「連れて行くの」
男は応えない。腕には少女を横抱きにしている。少女は、幼子のようにすやすやと寝息をたてていた。
女は頭を傾け、闇と漆喰に塗り固められた、森側の壁を見つめた。しかしその眼に映っていたのは、壁ではなく、その向こうの森でもなかった。もっと遠い、失われた森、あるはずのない森、あってはならないはずの森であった。かつて、女は野盗に攫われ、四つの季節を森で過ごした。やがて野盗は死に、女は人のあいだに戻った。女が見ていたのは、その森であった。
男の唇が、女を呼ぶ動きをした。
「わたしに息子などいない」
言葉を遮るように叫ぶと、女は床に顔を押しつけて、むせび泣いた。
「息子などいない、あれは神だ」
月と星々とが雲に隠れ、闇が深くなった。もはや、光も影もなかった。
狼の咆える声が、次第に遠くなっていった。