無題
 澄んだ小鳥のさえずりに耳を傾けながら、静かな森をわけいって進んでいくと、小さな家が建っていて、その情景の素朴で穏やかなことといったら、魔女にまじないをかけられ、古いおとぎ話のなかに迷いこんでしまったかと、旅人の心を惑わせるほどである。
 その家には、若い画家とその妻が住んでいた。二人の仲睦まじいい暮らしぶりもまた、一篇の夢物語そのものだった。画家はときおり近くの街へ行っては、森の風景を描いた、夕暮れどきの木漏れ日にじんだような色合いの、うつくしい風景画を売って暮らしを立てていた。正直で、欲のない男だったので、ずるがしこい人間に、安く買い叩かれることも珍しくなかったが、飢えに苦しまない程度のパンが手に入れば、それで十分なのだとほほえむ。一方の妻も善良な性質で、繕いものの手を休めることなく頷いて、夫のことばに控えめな賛意を示すのだった。
 午後の川辺、雲の絶え間から降り注ぐ日差しに白い足を晒して、ざぶりざぶりと洗いものをする妻の、そのやさしいまなざしの向こうには、ただ愛する人の姿がある。一方の夫は、流れるような筆さばきでもって、自然のしなやかな姿を夢中で描きとめている。厨房からは煮込み料理のよいにおいが漂い、濃い緑の草木は風を受けて波のようにうねる。高く低く響く女の歌声が小鳥のそれと重なって、青い空に昇るように溶けていく。決して豊かではないが、喜びと笑いの絶えない日々。二人の慎ましやかな生活は、あまりにも平穏で、幸福とやさしさとに満ち溢れていた。
 しかし、幸福はいつも、風のように過ぎては止まることを望まない。ある年の早春の頃、女が肺の病にかかり、あっけなくこの世を去った。男の嘆きはそれは深いもので、はらはらと涙を零しながら、妻の寝床を整え、かつて女が愛した花々の色と香りとで、その冷たい身体を埋めつくした。
 激しい嗚咽の後、男は天を仰ぎ、やおら寝台の横に跪いた。女の死んだのが夏ではなく、この肌寒さ残る季節であったことを、神に感謝した。それから、引き出しから取り出した紙を床に置くと、涙で腫らした目をこじあけ、息を止めて、筆を握った。血の気のない肌を舐めてはその味を知ろうとし、乾いた土色の唇を鼻のつくほど近くから凝視して、寝ることも食べることも忘れ、ただ黙々と筆を動かした、彼は画家であったから。
 名もない死人を描いたその絵は、今も浴びるような称賛を受けて、美術館の壁に飾られている。
 
四季の誕生
 遠いむかし、未だ神々が人の近くにあった時代、地を司る女神のひとりが、あるときほんの戯れに暗い地の底からから這い上がり、歪んだ土くれの体を明るい陽光の下にさらした。
 女神はそこで、荒れ野を馬で駆るあまたの軍勢と、それを導く人の王の姿を見た。
 王の若い身にほとばしる生命の息吹、固く結ばれた唇に浮かぶ意志の強さ、そして瞳にゆらめくわずかな影に、女神の心は躍った。
 しかし、乞うように伸ばされた腕は王に届くことはなく、やわらかな日の光は容赦なくその乾いた肌を射し、たれ知らず崩れ落ちた。
 王は剣を掲げ、声高くことわいだ。
「神々よ、我らに慈悲を与え給え」

 ふたたび女神があらわれたとき、地上は穏やかな死に包まれていた。
 大地は赤く染まり、空には屍肉を狙う大鳥が旋回していた。
 女神は、重たげにごろりと転がる王の骸を、落ち窪んだ目で凝視した。
 そして叫んだ。
「汝の願いを叶えん」
 王と兵士たちの屍は、母に抱かれるように土に還った。

 こうして、王を手に入れた狂おしい喜びからは春が生まれた。
 激しい恋の情熱からは夏が生まれた。
 幾度も心をよぎる色あせたまぼろしからは秋が生まれた。
 朽ちゆく亡骸に向けられた空虚な愛の言葉からは冬が生まれた。
 
未来
 冬のある日、痩せっぽちの青年は、ひとり雪におおわれた故郷をあとにした。
 果てなく広がる白い世界に、ただ雪を踏みしめる音だけが響いていた。
 男の歩んだ道には、足跡が残った。
 その足跡のひとつひとつから、芽がでて、茎がのび、やがて重たげにたれるつぼみは、色とりどりの花を咲かせた。

 赤い花からするりと母の手がのびた。
 青い花は声高に理想と知識の偉大さを説いた。
 だいだいの花は甘くやさしい娘の声で恋をうたった。

 それを見た神々の娘のひとりが地上に這いでて、好奇心のままに、一輪、また一輪と花ばなを手折った。娘の指にふれるたび、花弁は氷柱が地に落ちるように儚く砕け散った。
 そして、すべての花をつみおえてしまうと、地上での遊戯にも飽いて、せんのとおり地の底へとすがたを消した。
 しかし、一輪だけ、雪の白さにまぎれて咲きつづける花があった。
 喜びをうたう子どもたちの髪をかざり、乙女が悲しみを唇にのせて口づける。ときに、風にのった種子が異国の地に根をはり、いくつもの時代をこえて咲きほこっては、また朽ちる。あるいは、滅びの炎によって焼きつくされ、けれど、ふたたび暗い地の底から土をわって、鮮やかな光のもとによみがえるだろうその花の名を、男もまた知らなかった。
 
ばらと騎士
 ある国に、姿かたちのうつくしいことで評判の姫君がいた。
 さる名だたる騎士が、そのうわさを聞きつけて、ばらの蔦のからむ姫君の寝所のしたで、毎夜おのれの恋心を切々と歌いあげた。若々しく力強い響きをもちながらも、わずかな憂いをたたえた甘い声に、心動かされぬ娘などその国にはいなかった。
 けれど、姫君は露台のうえで、ただ穏やかにほほえむばかりであった。その態度にたまりかねた騎士は、姫君にたずねた。
「あなたのお心はどこにあるのです?」
 姫君はこたえた。
「あなたの詩は、それはうつくしゅうございます。あなたは、すばらしい詩人でいらっしゃる。ですから、たとえばこの国が滅んだとしても、朽ちた廃墟にあってなお変わらずに匂うばらのうつくしさを、たっぷりと豊かな表現でたたえ、心うつ旋律で奏でられることでしょう。そのしたにぞんざいに投げすてられ、呪いのことばを吐きつづける、あわれなみにくい娘のしかばねのことは無邪気にお忘れになって」
 そういうと、一輪の白いばらのような姫君の影は、かすかな衣ずれの音とともに寝所へと消えていった。
 
神話
 英雄の元へと嫁いだ女神は、新婚の閨でこうささやいた。
「あなた、敵の腹に槍を突きたてたその腕で、わたくしをお抱きになるのですね」
 男は女に応えて言った。
「きみ、恋敵の美しさを呪ったその唇で、わたしに口づけるのだね」
 ふたりはほほえんだ。
「あら、わたくしたち、似たもの同士なのね」
「ああ、わたしたち、似たもの同士なのだよ」
 こうして、世界で一番最初の幸福な結末が生まれた。