裸足のサンドリヨン
 十一月に入り、日増しに冷たくなっていく秋風が冬の到来を予感させる頃、吉崎にもようやく遅い夏がやってきた。夏休みである。
 吉崎の勤務する営業所では、同じ係内の人間と休暇が被らないように、各自調整しなければならないことになっている。
 たとえ数日やそこら、この営業所で業務に従事する労働者の数が平時の半分になっても仕事が回らないということはないだろうが、慣習に対して声高に異論を唱える反骨心もなければ、特に予定という予定もなかったので、上司に同僚に後輩にと、頼まれるまま人に休みを譲っていた結果、いつしか暦は秋に突入し、紅葉も色づきはじめ、そろそろコタツでも出そうかと悩む時期になっていた。
 課長に呼び出しを食らったのは、吉崎の頭から夏休みという単語が完全に消え去っていた、そんな晩秋の午後だった。
「吉崎、新人じゃないんだから休みくらい計画的に取れよ。うちの営業所で夏休み取ってないのお前だけだぞ」
 午前中は管理職会議があったはずだ。おそらくそのとき所長に叱られた課長に叱られて、吉崎は半ば強制的に一週間の休暇を命じられたのだった。
「先輩、明日から夏休みでしたよね!」 
 休みに入る前日、係員の所在を書き入れるホワイトボードに、新卒の後輩が気を利かせて「夏期休暇」と力強く、大きく、鮮明に、しかも目立つように赤字で書いてくれた。会社の勤務システム的には全くもって正しい記述ではあるのだが、もう少し控えめに書いてもらえるとなお有り難かった。
 しかし、突然休めと言われて突然やることが降ってわいてくるはずもなく、一日目はひたすら寝て過ごした。二日目もほぼ寝て過ごした。
 さすがに家で寝ているのにも飽きてきた三日目、賞味期限の迫った自社の栄養補助食品を持参して実家に帰省した。職場で定期的に倉庫整理をする際に、大量に配給されるのだ。吉崎などは常に鞄に忍ばせていて、出先で腹が減ったときに駅のベンチ等でこっそり食べているのだが、それでもかなりの数余る。
 実家は今現在の住居から近いといえば近い距離にあった。典型的な郊外の一軒家で、祖母と父母、妹、犬が住んでいる。
 物置と貸した自室で身を縮めて過ごすのもわびしいので、菓子を置いたらすぐに帰るつもりだったものの、「晩ご飯食べて行きなさいよ。今夜はコロッケよ」と母親に言われ、夕方までいることにした。
 暇があれば自炊しないわけではないが、煮る焼く炒める等の工程が二つ以上必要な料理は絶対に家で作らない。コロッケなどその最たるものだ。じゃがいもを茹でて、肉や玉葱を炒め、混ぜ合わせて、油で揚げて……食べるのに一分もかからない料理を作るために、どれほどの手間暇がかかるのだろう? 考えるだけで気が遠くなる。
 その点を考慮すれば、料理が趣味ではない一人暮らしの人間が、コロッケという単語にたやすく心動かされてしまうのも無理からぬことだと思う。
 吉崎はリビングのソファにごろりと横になって、壁にかけてあるカレンダーを漫然と見つめた。
 あまりに長い時間ぼんやりしているので、台所にいる母親が声をかけてきた。
「敦史、そんなところで寝ると風邪引くわよ」
 あんたいつも半分寝てるみたいな顔してるけど、と余計な一言が付け加えられる。
「起きてるよ」
 威勢よく応じるつもりが、だらけきった吐息につい欠伸が混じってしまう。今日は金曜日。夕飯を食べたら、傘を返しに理世のところに行くつもりだった。
 あれからもう三週間になるのかと感慨深く思いつつ、目の動きはさらにカレンダーの数字を辿っていく。
 先々週は同窓会だった。
 結局槇野の連絡先を聞きそびれてしまったが、また会えるだろうか?
 吉崎は持ち前の楽観主義で確信した。
 近所に住み、同じ駅を利用しているのだ。いつかきっと会えるに違いない。
 具体的に何を、と言われても困ってしまうが、槇野とはもっと話したいこと、話さなければならないことがある気がした。
 そのとき、二階に上がった母親と入れ違いで、玄関からぱたぱたと軽い足音がした。
「外すごい寒かったよ。お湯沸いてる? お母さんの分も紅茶入れようか?」
 妹の菜摘の声が足音を追いかけて響く。犬の散歩から帰ってきたのだろう。
 しかしリビングに入るなり、甘ったれたような声音が一気に冷え切った。
「やだ、お兄ちゃんいたの?」
 やだ。
 いったい何をもってして嫌だというのだ。
 少なくとも、開口一番挨拶代わりに人に向かって言う台詞ではない。
「おう。菓子持ってきたぞ」
「ふうん」
「ゼリーもウェハースもあるぞ」
「へえ」
 テーブルに積まれた栄養補助食品の山を、菜摘は興味なさそうに素早く横目で一瞥した。毎度の話だが、女が好きそうなヘルシーな菓子だというのに母親も菜摘も喜ばない。見た目が可愛くないし美味しそうではないからだという。
 栄養があって味もいいのに、女たちの貪欲さは果てを知らない。吉崎は世の無常さを噛みしめながら、でかでかと「鉄」と書かれたゼリーを口に含んだ。パッケージがシンプルなのは、コスト削減と、食べる人や配膳する人がわかりやすように配慮しているためだ。可愛くも美味しそうでもないかもしれないが、吉崎にしてみればその無骨さが愛おしくもある。
 ほら、と吉崎は鉄分ゼリーを放ってよこした。
「ちゃんと鉄分とっとけ。貧血気味なんだろ?」
「何で知ってるの」
「母さんに聞いた」
「お兄ちゃんが言うと生々しくて気持ち悪いんだけど」
「気持ち悪い……」
 ショックを受ける吉崎を後目に、菜摘は眉を顰めながらも素直にゼリーを食べた。口は達者だが、こういうところは子供っぽくて可愛げがある。
「……あれ」
 ふと菜摘がソファで寛ぐ吉崎の足下を見た。兄妹の間を流れていた和やかな時間は、突如として終わりを告げた。
「お兄ちゃん、裸足?」
 目尻が厳しくつり上がる。己を取り巻く不穏な空気を鋭く感じ取り、吉崎はクッションを盾にすることで防御態勢をとった。
「何だよ、悪いかよ」
「最悪。ありえない」
 ありえない。
 主語にあたる存在そのものを無に帰せんとする強烈な否定文だ。
「あのさあ、何度注意したらわかるの?」
 間髪入れず続いた横っ面を叩くような一喝は、まさしく部下の失態に鞭をふるう鬼軍曹のそれだった。
「リビングで靴下脱がないでって言ってるよね? 日本語通じてる?」
「それくらいで怒らなくてもいいだろ。自分の足だぞ? 好きにさせてくれよ」
「それくらい? 意識低すぎない?」
 反論したいことは多々あれ、足に関する意識が低いという点だけは否定できない。
 軍曹殿は致命傷を与えんと、獲物の急所めがけて殺傷力の高い弾丸を息つく間もなく連射した。
「ほら足どけて、宙に浮かせて! ラグにもソファにもにおいが移っちゃうでしょ! 自分の足の臭さ自覚してる?」
「毎日洗ってるんだから、そんなに臭わないはず……」
「毎日洗えば臭くないの? 根拠は?」
「と、友達も言ってたんだよ、臭わないって」
「やだ、友達とお互いのにおい嗅ぎ合ってるの?」
 二度目のやだ、は更なる軽蔑をもって放たれた。
 不利になる一方の形勢をどうにか逆転しようと、吉崎は足下に駆け寄ってきた茶色い毛玉を抱き上げ、短い前足を示して主張した。
「菜摘、冷静になって考えてみろ。ペケだって裸足じゃないか。なあペケ?」
 ペケは潤みがちの黒目で二人を交互に見比べるや、吉崎の腕を振り切り、迷うことなく菜摘のもとへと向かった。厳格な縦社会に生きる種族には、兄妹というよりも女主人とその下僕として認識されているのかもしれなかった。
 吉崎ペケはミニチュアダックスフントで、額にバツ印のような白い模様がある。
 六年前、父親の知人宅から子犬をもらい受けてきたとき、たまたま実家にいた吉崎がふざけてペケペケ呼んでいるうちに、彼はペケという言葉にしか反応しなくなってしまった。こうしてペケはペケになった。
 当時小学生だった菜摘は子犬の名前をノート一冊分考えていたようで、ひどく落胆し、号泣し、怒り狂い、生まれて初めて土下座をして謝ったが半年は口を利いてくれなかった。
 「お兄ちゃん」という呼びかけから尊敬の念が消えたのは、このときからだったと記憶している。
「ペケはいいの。散歩から帰ってきたらちゃんときれいにしてるし。それに可愛いもん」
 菜摘はそっぽを向いた。きれいにしていない上に可愛くもない兄貴に対する妹の態度は冷淡だった。
 しぶしぶ靴下を履く吉崎の脳裏に、赤ん坊のころの菜摘の笑顔がよぎった。小さくてふにゃふにゃと頼りない生き物が可愛くて仕方がなくて、中学生だった吉崎は菜摘のためにせっせとミルクを作り、オムツを換え、寝かしつけるために夜な夜な絵本を読んだものだ。
 ああ、舌っ足らずに「にいたん」と呼びながら、自分の後を追いかけてきた菜摘はどこにいってしまったのだろう? 今はもう失われたあの美しき日々。
 走馬燈のように流れる思い出に胸を切なくさせつつ、吉崎は妹の横顔を見つめた。
 前に会ったときよりも一段と睫の密生度が高い気がする。瞬きするたびにバサバサという音が聞こえそうだった。
 菜摘は高校に入ってから化粧をしはじめるようになった。吉崎に化粧に関する知識など皆無であるし、それ自体について口を挟むつもりはないのだが、菜摘の化粧は高校生にしては少々濃すぎるといわざるを得なかった。顔にあわせているのか、服の趣味も派手になったようだ。
 妹とはいえ、女性の容姿について直接的に意見を述べるのはよろしくないと考え、遠回しにもっとも懸念していることだけを尋ねた。
「お前、交際している男がいるのか?」
「はあ?」
 もし万が一、菜摘が付き合った男の影響でこういった化粧や格好をするようになったとしたら、そしてその男がたちの悪い野郎で、そいつに公序良俗に反する遊びを教えられでもしたら……。心中穏やかではいられなかった。
 そんな微妙な兄心も知らず、菜摘は嫌悪も露わに言い捨てた。
「交際って何? 進路指導の先生? いたとしてもお兄ちゃんに関係ないし」
「いや、関係ないかもしれないけどさ。俺はお前が心配で」
「心配してもらわなくても結構です。私、もう子供じゃないんだから」
 子供だろう、と言い掛けてぐっと飲み込んだ。火に油を注いだところで逆効果だ。
 己の勝ちを確信した菜摘は、不敵に笑った。
「お兄ちゃんこそ彼女いなんでしょ? 私の友達紹介してあげようか」
「やめてくれ」
「可愛い子ばっかりだよ?」
 女子高生に興味などないというのに、どいつもこいつも、もっといえば堺も菜摘も、人を何だと思っているのだ。そんなに女子高生が好きそうに見えるのか?
 吉崎はうんざりして言った。
「可愛いとか可愛くないとか関係ない。世の中には青少年の健全な育成を保障する条例があるんだ。お前、自分の兄貴が淫行で捕まってもいいのか?」
「いんこう……」
 数秒後、その言葉の意味するところを理解した菜摘の顔が赤くなり、次に青くなった。
「最低」
「菜摘、ちょっと待ちなさい」
「近寄らないで」
「最後まで人の話を」
「話しかけないで、視界に入ってこないで。くさいうざいきもい」
 同じ空気を吸うのも耐えられないというように、菜摘はペケを抱いて足早にリビングから走り去ってしまった。
「やっぱり臭いのか……」
 先の戦闘で負傷した心を癒すため、吉崎は再びソファと一体化した。
 生傷の痛みに苦しむ一方で、華美な見た目に反して純情そうな妹の様子に、密かな安堵を覚えてもいた。たとえきもいと罵られようとも。
 しかし、高校生の健全な男女交際というと、どの程度のどの範囲のどういう行為を菜摘は思い描いていたのだろう。今では逆に想像するのが難しい。
 大人の付き合いはもっと単純だ。駆け引きだなんだともっともらしくこねくりまわしたところで、誰も彼も実際やっていることは食う飲む寝るで約九割を占めているに違いなかった。
 元々経験に乏しいのもあって、十代のそういった感覚を全く思い出せず、吉崎は妹の初々しい表情を何だか酸っぱい気持ちで思い返した。

「いらっしゃいませ」
 和室に入って理世の穏やかな顔を見るなり、吉崎の身体から一気に緊張感が抜けた。
 この店は値段も店構えも、庶民、平社員、安月給等の名詞を背負った人間が気軽に暖簾をくぐるには少しばかり敷居が高かった。特にあの女将だ。彼女の艶やかな笑顔には、力ある男に力を与え、無力な男をさらに無力にさせる雰囲気がある。具体的にいえば、三枝は前者で吉崎は後者だった。
「またお会いできて嬉しいです」
 理世は畳に指をついてきれいにお辞儀をした。あたふたとなし崩しに始まった前回とは違い、完璧なもてなしぶりだった。
「俺も嬉しい」
 上着を脱ぐと、吉崎は挨拶もそこそこに、すでに延べられていた床にどさりと横たわった。
「んですが、苦しい……」
 今日は一滴も飲んでいないというのに、間抜けよさらに間抜けな行いをするがよい、とでも呪いをかけられたかのように、見事に前と同じ流れになってしまった。
「お水持ってきましょうか?」
 理世が心配そうに声をかけてきた。吉崎はひらひらと手を振って、大事ない旨を知らせた。
「ちょっとコロッケを食べ過ぎて」
「コロッケ?」
「話すと長くなるんですが……」
 吉崎は差し出された茶碗に口をつけながら、これまであった出来事をかいつまんで説明した。
 夕食の間、菜摘は兄の存在を徹底して無視した。何とかなだめすかそうとしたが無駄だった。無言の重圧が他の家族まで伝染し、団欒の中心となるべき食卓は暗鬱な沈黙の支配下に置かれた。いたたまれない空気をやりすごすためにひたすら箸を動かした結果、コロッケが限界まで胃を圧迫せしめたわけだった。
「妹さんと仲がよろしいんですね」
「いや、粗大ゴミ扱いですよ」
 すぐ近くでくすくすと笑う気配がした。背中をさすってくれる手の感触が心地いい。裸足でいるだけで粛清される実家のリビングよりも、よほど落ち着くことができた。
 だがあいにく、今日は九十分の時間制限があるのでそうゆっくりしてもいられなかった。泊まりなどと見栄を張って大盤振る舞いをしたら、一ヶ月分の家賃と食費が軽く吹っ飛んでしまう。
「ありがとう、だいぶ楽になりました。そうだ、忘れないうちに」
 吉崎はのそりと起きあがって、鞄から傘を取り出した。
「すいません、ずっと借りっぱなしで」
 理世は躊躇うような仕草をみせてから、ようやく傘を受け取った。
「濡れませんでしたか?」
「お陰様で」
 短い間の後、理世はぎこちなく笑って言った。
「明かり落としますね」
 落としましょうか、ではなく、落とします。どこか焦りが見え隠れする、断定的な物言いだった。
 吉崎は立ち上がりかけた理世の手首を掴んだ。
「結構です」
「え?」
「電気、消さないで下さい」
 吉崎の言葉を聞いて、理世は驚いたように目を瞬かせた。
 もう十分薄暗いのに、これ以上暗くしたらほとんど顔が見えなくなる。せっかくまた会えたのに、何だかもったいない気がした。
 少し困った表情をして、理世は布団に座り込んだ。それから膝を使って静かに吉崎の隣まで来て、俯きがちに上半身を持たせかけてきた。秋の夜風で冷え切った身体に、人肌の熱がすっと染み入ってくる。
 それから粛々と作業をこなすように、自分の着ているブラウスのボタンに指をかけて、上からゆっくりと外し始めた。
 その仕草をみて、なぜ理世が前あきの服ばかり着ているのか、謎が解けた気がした。ひとつひとつ外れていくボタンが醸し出すもどかしさ、裸電球が照らす潤んだ瞳、微かな衣擦れの音。この店に相応しいのはそういったものだ。いわゆる男のロマンだ。見果てぬ夢だ。
 快い熱に全身を委ねながら、このまま俺たちはどこに行くのだろうかと、吉崎はぼんやりと考えていた。
 今このときまで傘のことばかりを気にしていて、理世とそういった行為をするという意識が全くなかった。
 まず傘を返さなければ。
 次に、もう一度会ってみたい。
 会えばその先にもう一段階あるなんて、考えなくてもわかる話なのに。
 もし目の前に、安くはない金を払って布団の上でお喋りをするためにわざわざこの店に来ましたという男がいたら、そいつを馬鹿だと思うだろう。まさしく自分がその馬鹿だった。
 ふと、敷布団の上に置いた手に理世のそれが重なった。細いけれど、女性の柔らかさはない少し重たい手。全体として見ればたおやかな女性なのに、個々の部位は確かに男のそれだった。
 わずかに絡んだ指先が、次の瞬間、吉崎の手を強く握ってきた。必死に、まるでしがみつくように。
 触れたところから微かな震えを感じたような気がして、吉崎は思わず視線を上げた。すぐ間近に理世の顔がある。整ってはいるが、苦しげな、思い詰めた表情をしていた。
 空いた方の手が今まさに下腹部に延びようとしたとき、吉崎は理世の身体をそっと引き離した。
「申し訳ないんですが、今日はそういうのは」
 そのとたん、理世の両手が勢いよく引っ込み、正座した膝の上にすとんと落ちた。
「……すみません」
「どうして理世さんが謝るんですか?」
 理世は乱れかけた襟を整え、ゆっくりと壁際まで退いた。
「お客さんは、こういったところにご興味ないんでしょう? それなのに、わざわざ傘を返しにいらしてくださって……今日のお代はお返ししますから、もう」
「何言ってるんですか」
 口を開きかけた理世を遮って、吉崎は言った。
 来店のきっかけに傘を貸すなんて客商売ではよくあることだろうに、どうしてすまなそうにしているのだろう。もっとも金のなさそうな吉崎が馴染みになったところで、理世に大したメリットはなさそうだが。
「傘の件はもちろんありましたけど、あなたにもう一度会いたかったんです。でなけりゃ、金払ってまで来たりしませんよ」
 沈んでいた顔が跳ね上がり、目が大きく見開かれた。
「会いたいって、私に?」
「そうです」
「どうして?」
「自分でもよくわかりません」
 吉崎は首を捻った。事実であることは間違いないけれど、理由を聞かれても答えに窮する。物事をあまり深く考えない吉崎にとって、世の中は不可解なことばかりだった。
 ややあって、理世は静かに問いかけてきた。
「でも、何もなさるつもりはないんですよね?」
「そうですね」
 腹も重いですし、と取って付けたように細々と加える。
「困ります」
 吉崎の頼りない返答に、理世は膝の上の拳を握り直し、きっぱりと言った。
「それがここでの私の仕事です。サービスを受けるおつもりがないなら、やっぱりお代はいただけません」
 真正面から見つめてくる眼差しに、怒りとも悲しみともつかない光がよぎった。
 そこではたと気がついた。
 前回も今回も、自分からは理世に指一本触れていない。これでは彼に魅力を感じないと言外にほのめかしているようなものだ。理世の仕事を、ひいては彼その人をないがしろにしたと思われても仕方がなかった。
 レストランで注文した料理を、これは旨そうだと眺めるだけ眺めて食べないのと同じだ。いくら客商売とはいえ、自分が扱っている商品が同様の憂き目にあえば、怒りも悲しみもするだろう。
「理世さん」
 こちらの不用意な言動で、あんなにも辛そうな顔をさせてしまった。
 今更ながら後悔の念にかられ、なけなしの誠意を全力でかき集めた。そして教室でいただきますを斉唱する小学生の如く、吉崎は姿勢を正して理世を見つめ返した。
「俺、次来るときまでに勉強してきます」
「勉強って、何をですか」
「男同士の性行為について」
 男同士の性行為か……。
 吉崎は自分の発した台詞を胸の中でしみじみと噛みしめた。ほんの数分前までまるで関心などなかったのに、人生とは何が起こるかわからないものだ。
「え?」
 理世はまるで閑静な住宅街でカピバラと出くわしたかのように、瞬きを何度も繰り返した。
「ええ?」
「先に進もうにも、知識がないので」
 正しくいえば、何となくはわかるのだが具体性に欠ける。どこに、なにを、どうやって等、中学英語の疑問詞みたいなものが頭のなかでふらふらと所在なく漂っていた。
「問題はそこですか?」
 説明を加えるごとに、逆に理世の混乱は増すばかりのようだった。
「目下のところその点だけです」
「私は、男なんですが」
「知ってます」
「……ごめんなさい、ちょっと頭を整理させてください」
「どうぞ」
「お茶いただいてもいいですか?」
「どうぞ」
 吉崎の茶碗に残った緑茶を一気飲みした後、こういったことは理屈ではないからと、理世は前置きして言った。
「もしかして、気を使ってくださっているんでしょうか。でも、そこまで無理をしていだだくことは」
「それもないです」
 新しい世界に足を踏み入れることに不安がないといったら嘘になるが、理世に触れられるのは気持ちがいい。だからあちらの水も案外甘いんじゃないかと思い始めていた。
「でしたら、知識がなくても楽しめるようこちらも努めますので、特に勉強する必要は……」
「必要あるでしょう。相手がいることですから」
 理世は虚を衝かれたように唇の動きを止めてから、おずおずと言葉をついだ。
「本当によろしいんですか? お客さんにこんなことを申し上げるのはどうかと思うんですけど」
 その、と理世は決まり悪そうにスカートの裾を引っ張った。
「私、身体にはどこも手を入れていないので、服を脱いだら完全に男なんです。だから、やっぱり抵抗が……」
「ちょっと失礼」
 本当によろしいのだと、案外理屈っぽい理世にどうやって実証したらいいのだろう? 考えあぐねた吉崎は、少しばかり荒っぽい手段に出た。
 つまり理世の身体を思いきり抱きしめたのだ。
 花束のような香りが鼻先を甘くくすぐった。この秘密の花園めいた香りの主に自分と同じ付属物がついているのかと考えると、なかなかに興味深い。
「うわあ!」
 腕の中の心拍数が急上昇したなと思ったとたん、理世は素の声で叫びをあげた。なるほど、やはり無理に装っていない方がずっといい、などと呑気に感慨に耽っている暇もなく、男の力で目一杯突き飛ばされた。
「抵抗がないって伝わりましたか?」
 コロッケが逆流するのを必死で食い止めながら、奇を衒わないで普通に言えばよかったと痛感した。
「つ、伝わりましたけど」
 理世は困惑気味に額に指をあてた。
「あの、私たちこの間お会いしたばかりですよね? どうしてそこまで……」
「わかりません」
 吉崎は力強く言い切った。
 ここで一発、説得力のある気の利いた決め台詞でも出てくればいいのだが、よりによって再度の「わかりません」ときた。この小学生以下の表現力でよく営業がやれているものだと我ながら感心する。
「もちろん、迷惑だったら来ません」
「迷惑だなんて」
 理世は深く呼吸をし、他の客に同じことをされたら少しばかり温度差を感じるかもしれない、という内容をやんわりと告げた。
 やっぱり迷惑なんだろうと思いかけたとき、でも、と耳元で低く囁く声がして、鎖骨のあたりに額の重みが加わった。
「……期待しないで、待っています」
 それだけ言って、返事はいらないというように素早く身を離した。
「お茶、入れ直しますね」
 残された二十分は畳んだ布団を背もたれ代わりにして、茶を飲みながら他愛のない話をした。なぜか大学の寮で夜通し飲んだときのような気分になり、ここに雀卓と焼酎があれば完璧なのにと色気のないことを考えていた。
 何気なく理世の横顔を眺めていると、そんなに見ないでくれと目をそらされてしまった。
「あまり近くで見られると、粗が……」
「そうですか? ぜんぜん気になりませんよ。自然な感じで」
 気のせいかもしれないが、この前よりもきれいなくらいだった。
「ありがとうございます。でもナチュラルメイクって、自然に見せようとすればするほど手を入れるので、実際の自分からは遠いものになってしまうんです。こうありたいという姿、こうあってほしいという姿を演じているだけ」
 一端言葉を切り、理世は続けた。
「……よく見れば作り物だってことがわかってしまう」
 そう話す声音には、どこか自嘲するような響きがあった。
「すみません、お化粧の話なんてつまらなかったですね」
「いや、おもしろいです」
 むしろ菜摘のことを思い出し、もっと詳しく聞きたいと思った。
「化粧は昔からしてたんですか」
「いいえ、始めたのはつい最近です。服も化粧も。私、心が完全に女性ってわけではないんです。今までお付き合いしてきたのも女性でしたし」
 意外だと驚きつつも、吉崎は理世の話に耳を傾けた。
「こうやって女性の格好をしてお化粧をしていると、気持ちが少しだけわかるようになってきた気がしました。女性がお化粧をする理由ってひとつだけじゃないんだって。自分のためだったり、社会になじむするためだったり……」
 それから、と理世は微かに頬を赤くした。
「たったひとりの誰かのため、というのもあるかも知れませんね」
 誰かのため。
 その言葉を聞いたとき、不意に思い出した。
「前に、俺が初恋の人に似てるって言ってましたよね」
「え、ええ」
 雑談のひとつとして気軽に話を振ったのだが、理世は急にどぎまぎしはじめた。
「話してみると、やっぱり全然違うでしょう」
 明言を避けたかったのか、返ってきたのは曖昧な微笑だけだった。
「大人になってから、顔合わせる機会ってあったんですか?」
「……はい」
「どうでした?」
 実は、と理世は落ち着きのない様子で長い髪を耳にかけた。
「最近、まだその人のことを引きずってるんだと気づかされるような出来事があったんです。十年以上前のことなのに。だから、わざと会えるようにし向けたんですよ。大人になったその人に失望すれば、完全に吹っ切れると思って。嫌な人間でしょう?」
「みんなそんなもんじゃないですか」
「でも、がっかりするどころか、その人は昔と少しも変わらなかった。人がよくて、温かくて」
 理世は少し照れたように目を細めた。
「それから、ちょっと鈍感でした」
 最後の一点だけは確実に自分に似ていると思いながら、吉崎は尋ねた。
「当時、告白しなかったんですか」
「まさか」
 小さく首を振り、理世はふっと力なく笑った。
「優しい人だったので、本当に低い確率ですけど、もしかしたら付き合ってくれたかも知れません。たとえ好きでなくても。……でも、きっとうまくはいかなかった。お互い子供でしたし」
「今なら?」
 ずいぶん長いこと沈黙した後、ようやく重い口が開いた。
「賭に出る勇気がありません」
 遠い記憶の糸を手繰り寄せるように、理世はゆっくりと言葉を選んだ。
「これまでお付き合いしてきたどの人に対しても、好意を持っていたし尊敬もしていました。でも、あれほど夢中になったことはなかった。世界がひっくり返ったみたいだった。目に見えるもの全部が輝いて、何でもできる気がした。あんな感情、この年になったら持て余すと思います。だめになったら、二度と立ち直れないかも。……そんな経験、したことありますか?」
 吉崎は思いを巡らせた。
「あったかな」
 呟くと、生まれてからこのかた、人生に深く交わった何百という顔が次々と蘇った。
「……あったかもな」
 そのとき、鏡台の上に置かれた黒電話のベルがけたたましく鳴った。終わりの合図だった。
「そろそろですね」
 吉崎は腕時計に落とした視線をあげて、理世の手をおもむろにとった。
「次来るのは、たぶん冬のボーナスが出た後になってしまうと思うんですが……今日のところはこれで許してください」
 詫びると、手の甲に軽く口づけた。
「理世さん?」
 返答はなかった。唇が離れた後も、理世は呆然と自分の手を見つめていた。長い睫に縁取られた優しげな目が、今にも泣きそうにたわんでいた。