裸足のサンドリヨン
 吉崎宅の電子レンジが絶命したのは、その翌朝のことだった。
 コーヒーと買い置きの肉まんでもって遅い朝食にするつもりが、レンジのスイッチを入れてまだ十秒も経っていないのに、チン、と蚊の鳴くような音がして皿の回転が止まった。
 吉崎は愕然としながら中に手を突っ込み、中央に鎮座する肉まんに触れた。冷たい。それから祈るような気持ちで「あたためる」を押した。ぴくりとも動かない。やはり肉まんは冷たいままだ。
「嘘だろ……」
 何度もコンセントを引っこ抜いては差しを繰り返して、あらゆるボタンを押し、お前がいないと困るんだ、お願いだから動いてくれよと未練たらしく宥め賺したが、就職してから約七年、様々な苦楽を分かち合ってきた戦友は、二度と息を吹き返すことはなかった。
 別れの悲しみは新たな出会いの喜びでしか埋められないと、吉崎は泣く泣く肉まんを諦め、隣駅にある大型家電量販店に向かった。
 ボーナス前であるし、昨晩理世に会うために散財もしてしまった。これが夏場であればすぐさま別のレンジを買いに行くなんてことはしないだろうが、どうにも時期が悪かった。
 年末は残業が多い。スーパーやコンビニで弁当を購入する機会が増えることは想像に難くなかった。真冬の深夜、冷え切った部屋で冷たい飯を食うのはいかにもわびしい。
 年末商戦もまだまだ前哨戦といったところで、気の早いクリスマスソングが流れる店内は思ったよりも混雑していなかった。売場を確かめてからエスカレーターに向かおうとしたそのとき、前方に見知った男の横顔を見つけて、吉崎は声を張り上げた。
「槇野!」
 言ってからしまったと思った。声が大きすぎた。周囲十メートル以内にいる人すべてが何事かと足を止めてしまった。
 槇野もまた、他の人々と同じようにあたりを見回していた。吉崎はやや決まり悪そうに足早で近づいた。
「……吉崎」
 吉崎の出現はそんなに驚くことだったのか、槇野は偶然同級生に出くわしたというよりも、耳元でゴム風船が破裂したときみたいな顔をしていた。
 俺は破裂もしないし野生動物みたいに飛びかかっていきもしないと無言で主張したのが伝わったのか、槇野は慌てて言い繕った。
「悪い、すぐに気づかなくて。ちょっと考え事をしていたんだ」
「買い物か?」
 我ながら阿呆な質問だった。家電量販店に買い物以外の目的で来る確率は限りなく低いなんてことは、考えなくてもわかりそうなものだ。
 間の抜けたやりとりに気が緩んだのか、槇野の表情から妙な緊張が消えて、彼らしい穏やかさが広がった。
「掃除機を見に来たんだ。今まで使ってたのか壊れてね」
「掃除機? お前、掃除機で掃除するの?」
 すぐさま、えっ、という反応が戻ってきた。
「……吉崎、部屋の掃除したことないのか?」
 槇野の額が曇った。
 どうやら大いに誤解を招く発言をしでかしてしまったらしい。槇野はいいやつだから口にはしないかもしれないが、心の中でそっとゴミ屋敷の主という汚名を着せられそうだ。
 吉崎は乏しいボキャブラリーをかき集めて、必死に弁明した。
「いくらなんだって掃除くらいするさ、するけどさ」
 気が向いたときだけ、という不要な情報は声を発する前に削除した。
「掃除機を使おうって発想がなかっただけだよ。狭いからコロコロするやつで十分なんだ」
「コロコロって、あのテープの?」
「そうだよ。最近のは優秀なんだぞ。フローリングもくっつかずコロコロできるんだ」
 自分の部屋がそれほど悲惨な状況にないことを熱心に語っているうちに、人波に流されるまま一緒にエスカレーターに乗り、白物家電売場に突入し、まるで最初からそのつもりで待ち合わせでもしていたかのように、槇野と掃除機売場で商品を見て回っていた。
「おい、見てみろよ! これ面白いぜ。喋るんだってさ」
「うん、でもその機能はいらないかな……」
 買いもしないのに新製品を試しまくる吉崎をやんわりと受け流しつつ、槇野はすでに目星をつけていたらしい商品の前でしばらく熟考し、悩み、また再度熟考し、帰ってもう一度検討すると告げた。
「すげえ吸い込むし、これでいいんじゃないか」
「思ったより音が大きいんだよ。マンションだから響くかもしれない」
「そうだなあ」
「他の機種のモーターの仕様についても、もう少し詳しく調べてみるよ」
「……モーターの仕様?」
 備え付けのパンフレットを吟味する槇野の横顔は真剣そのものだ。
 これまでの人生で、掃除機本体以上にモーターについて考えたことなどなかった。
 数字にからしき弱い人間の立場から勝手なイメージを押しつけて悪いと思いつつも、王子然とした華のある見た目と違って、槇野には理系の研究者らしい、こだわりの強さみたいなものがある気がした。
 一方、こだわりなど微塵もない吉崎は、慎重な槇野とは対照的に、陳列された電子レンジを適当に見て、適当に決めた。悩んだ時間は正味一分だった。
 槇野は驚き半分、呆れ半分という風に言った。
「ずいぶん決めるの早いんだね」
「複雑な機能があっても使わないし、とりあえず食い物が温まればいい。……くそ、郵便番号間違えちまったよ。引っ越してから一年くらいって、勢いで前の郵便番号書いたりしないか?」
 軽く舌打ちしながら配送伝票を書く吉崎の横で、槇野は身長は同じくらいのはずなのに明らかに長さの違う足を組んで、どこか物憂げに嘆息した。
「吉崎はすごいな。決断力があって」
「決断力? でも後先考えないから後悔してばっかりだぞ。今だって、ほら見ろよ」
 吉崎はボールペンの先で伝票を示した。
「字をでかく書きすぎて、アパート名が入るペースがない。俺の人生の縮図みたいなもんだ」
「それでも羨ましいよ」
「羨ましいって、俺が?」
「ああ」
「お前が、俺を?」
「そうだよ。自分を持っているというか、価値観がゆるがないというか……そんなに驚くようなことじゃないだろ?」
 本気で言っているなら、驚くに決まっている。槇野を羨むやつは星の数ほどいるはずだが、吉崎に同じことを思うような人間は、少数派とか変わり者とか呼ばれる部類に入るに違いなかった。
 槇野は、殴り書きされた伝票に視線を落とした。
「僕は、昔から君が羨ましかった」
「どこが」
 お愛想だろうとは思いつつも、吉崎は念のため中学時代の記憶をほじくり返した。
 勉強、運動、性格、容姿……全く思い当たるところがない。
 もしかして、あのイガグリ頭が涼しそうで羨ましかったんだろうか。毛髪がないと夏は意外と暑いのだが……。あの髪型のお陰で体毛の有り難みを実感したものだ。
「毛か?」
「ごめん、言ってる意味が分からないよ」
 男二人が顔を付き合わせて高尚な話に勤しんでいたとき、吉崎の足に温かくて湿った何かがまとわりついてきた。
「うお!」
 絹を裂くような叫びを上げて勢いよく椅子を後退させたと同時に、その温かくて湿った何かが無邪気に爆弾発言を放った。
「おとうさん!」
 小さな女の子が、下からこちらをのぞき込んでいる。
「えへへ、びっくりした?」
「君、まさか……」
 ゴミ屋敷疑惑に引き続き、槇野はまたも誤解をたっぷり含んだ眼差しを向けてきた。
「違う! 俺の子じゃない!」
 俺の子じゃないという台詞に驚いた女の子が吉崎を改めてじっと見て、目をまん丸く見開いた。
「おとうさんじゃない」
 大きな目にみるみる涙が盛り上がり、そうだろうお父さんじゃないだろう、と安堵する間もなくわっと泣き出してしまった。
 困り果ててた吉崎は差し出しかけた手を持て余し、とりあえず自分の頭をかいた。
「ごめんな、お父さんじゃなくて」
「お父さんとお店に来たの?」
 槇野が椅子からすっと立ち上がり、床に膝を突いて目線を子供の高さに合わせた。
 いわゆる王子が姫にするあの姿勢だ。
 女の子はしゃっくりあげながらも、懸命に状況を説明しようとした。
「うん。お父さん、迷子になっちゃったみたい。人が多いからはぐれないように気をつけてねって言ってたのに」
 自分の保護監督下から不用意にいなくなった父親を、小さな淑女はあどけない声で責め立てた。
「そっか。お父さん、迷子になっちゃったのか」
 笑いかけると、涙がぴたりとやんだ。王子恐るべしと驚嘆している吉崎に、槇野が言った。
「僕がこの子をみてるから、店員さんを呼んできてもらえる?」
「ああ、そうだな」
 数分後、吉崎が店員を伴って戻ると、槇野は女の子と、その母親らしき女性と和やかに談笑していた。
 早々に親が見つかってほっとしたと同時に、女の子の相手をするのが槇野で正解だったとも思った。これが自分だったら確実に変質者扱いされ、ちょっとお話をとでも言われて警察に連行されて、最悪手錠をかけられる事態になっていたかもしれない。
 別れ際、女の子は何か耳打ちすると、恥ずかしそうに母親の後ろに隠れてしまった。
「あらあら、この子ったら槇野さんのお嫁さんになりたいんですって」
「あれ、大きくなったらパパと結婚したいってのはもうなしなのかな?」
 楽しい秘密を共有したようにはしゃぐ母娘とは対照的に、遅れて合流してきた父親はかわいそうなくらい萎れていた。「ちゃんと見ておいてって言ったでしょ!」と妻に激怒された上に、娘から食らった強烈な一撃で止めを刺されたのだから仕方がない。
 彼の顔立ちは吉崎と似ても似つかなかったが、確かにぱっと見た感じよく似た装い、つまり量販店で大量に売られている衣類をさらにくたびれさせた服を着ていた。洗濯物の山からほじくり出されたみたいな格好に、他人の目に映る自身の姿というものを客観的に見せつけられているような気分になった。たとえ自分があの子でも、間違いなく槇野を選ぶだろう。
 女の子の背中が見えなくなるまで律儀に手を振っている槇野に、吉崎は感心して言った。
「子供の扱い慣れてんな」
「同じくらいの姪がいるんだよ」
「その子もお前のお嫁さんになるって言ってるんだろ」
「よく知ってるね」
 槇野の親類に面識はないが、王子に娘の心をさらわれた父親の気持ちが忍ばれた。
「俺は妹があれくらいのときのこと思い出したよ」
 吉崎はしみじみと言いながら、ふと槇野が化粧品会社に勤めていることを思い出した。
「化粧って誰かに習ってするもんなのか?」
「メイク教室に通う人もいるだろうけど、ほとんど自己流だと思うよ」
「うちの妹、高校生なんだけど、化粧が何かヤケクソって感じがするんだよな……」
「ヤケクソ?」
「親の敵みたいに塗りたくってる」
「好きな男の子でもいて、妹さんなりに頑張ってるんじゃないの?」
「……男?」
 ぴくりと肩が強ばったのに気がついて、槇野はすかさずフォローを入れてくれた。
「あ、いや、友達の影響なんかもあるかもしれないし……」
「そうだ、槇野。今度時間があったら、妹に化粧のアドバイスしてやってくれないか? 飯でも酒でも好きなものおごるからさ」
「構わないよ。もちろん妹さんが興味あればだけど」
「興味……あると思うが、正直よくわからん」
 興味があるかないかを判断する以前に、菜摘はおろか、世の女性たちが化粧と称する行為のすべてがよくわからない。たぶん、恐らく、おおかた、という限定付きで、こんなことをしているんだろうというイメージがぼんやりと浮遊しているだけだ。そのぼんやりとしたものを商品として開発する側なのだから、槇野はすごい男だと思う。
 結局、配送の手続きを終えた頃には昼の十二時を回ってしまっていた。
 飯でも食おうという吉崎の提案を、槇野は二つ返事で快諾した。
「ふあああ……」
 店から外に出た瞬間、だらしない欠伸がこぼれた。まったく同時に、すぐ隣りでも欠伸をかみ殺す気配がした。
「お前も寝不足か?」
 槇野は、なぜかばつが悪そうな様子で目を伏せた。
「残業で帰りが遅くなって」
 よほど仕事が忙しいのだろうか。よくよく見れば、目の下にうっすらと隈のようなものがある。
「休めばよかったのに」
「目が変に冴えちゃってね」
 吉崎も同意した。
「眠気のピーク過ぎると、寝ようとしてもだめなんだよな。俺は調べ物しててさ。気づいたら朝だった」
「調べ物? どんな?」
「……人体の神秘についてだよ」
 昨晩帰宅した後、吉崎は早速問題の件に関する調査に取りかかった。
 調査をはじめるにあたり、開始直後は不謹慎にも、辞書で卑猥な見出しを探す中学生のような浮ついた気持ちがあったことは否定できない。だが、人体の驚異に触れるにつけ考えが改まり、日付が変わる頃には下世話な好奇心はすっかり消え失せていた。
 もし神という存在がいるのなら、なぜよりによってその場所に、よりによってその機能をつけてしまったのか。問いただしたい気持ちに駆られた。
 一晩調べた程度で理解できるほどその深淵は浅くはなかったが、ひとつだけ確実にわかったことがあった。
 ホームドラマなどで、典型的な頑固おやじが発する典型的な台詞にこんなものがある。
「俺の身体は俺が一番よくわかってる」
 あれは嘘だ。
 自分の身体を本当の意味で知り尽くしている人間などいやしない。もっとも近くありがなら、もっとも未知の領域、いわば小宇宙。それが人体である。見たことも触れたこともないが、その器官は吉崎の体内にもあるはずなのだ……。
 そんな哲学的な思索に耽っているうちに夜が明け、カーテンからは白々とした朝日が射し込んでいたわけだった。
 突如遠い目になった吉崎を気遣って、槇野が声をかけてきた。
「何か悩みがあるなら相談に乗るよ」
 悩みはあった。しかしこの真っ昼間に素面の状態で、口にするのは憚られる内容だ。
 頭によぎった前立腺という単語を振り払うように、吉崎は努めて明るく振る舞った。
「いや、たいしたことじゃないんだ。それより、この辺でいい店知ってるか? 昼、何系にするかな」
「和食は? 消化にもよさそうだし……」
「消化?」
「だって吉崎、コロッケの食べ過ぎで胃の調子が」
 そこまで言い掛けて、槇野は突然はっと口を噤んだ。
「コロッケ?」
 生来胃は強い方だ。コロッケがもたらした苦しみは一晩で完全に消え去っていて、言われるまで自分でも忘れていたくらいだ。超能力でもなければ、コロッケ事件を槇野が知っているはずがない。
 槇野は急にうろたえはじめた。
「な、なんとなくそんな気がしただけで……」
「あら、槇野君じゃない」
 身体のどこかにコロッケ臭が残っていたのだろうかとにおいを嗅ごうとしたそのとき、背後から柔らかな声がした。
 呼ばれてもいない吉崎も一緒に振り向くと、あか抜けた雰囲気の女性が二人、にこやかな笑みを浮かべて手を振っていた。年代は、自分の母親よりもやや下といったところだろうか。
「奇遇ね。家、この辺だったの?」
「ええ、隣駅なんです」
「今日は買い物?」
「ちょっと家電を見に」
「私たちもなの。……そちらは?」
 友人と言い掛けて、槇野は一瞬躊躇してから言い直した。
「中学の同級生の吉崎です。吉崎、こちらは同じ部で働いている青木さんと庄司さん」
 職場の大先輩、と槇野がそっと囁いた。
 大。たった一文字ではあるが、先輩という単語の前につくと重みが違う。吉崎の全身に電流に似た緊張が走った。
「吉崎と申します。槇野君とは親しくさせていただいています」
 娘さんを下さい、とでも続きそうなとんちんかんな挨拶をして、吉崎は無意識のうちに斜め四十五度のきれいな礼をしていた。
「中学の同級生?」
 二人のマダムは、化粧品会社の社員らしく美しく装った顔を見合わせた。槇野と吉崎の関係に、いたく興味をそそられたようだ。自分を見つめる眼差しにほんの一瞬、捕食者の獰猛さがよぎった、気がした。
 本能から身の危険を感じ、当たり障りなく天気の話でもして切り上げるつもりが、吉崎がうっかり「このあと特に予定はない」と口を滑らせてしまったとたん、にわかに風向きが変わった。
「じゃあ、これから食事でもどう? レストランを予約してあるの」
 鋭い鈎爪が獲物の喉に食い込んだ瞬間だった。
「いいわね! 人数が多い方が楽しいし。こんなところで会うなんて何かの縁よね」
「しかし、ご迷惑では……」
 自分の失言のせいで、槇野が控えめに、丁重に、遠回しに、何十にも真綿にくるんだ表現で懸命に断ろうとしているのが痛いほど伝わってきて、胸が苦しくなった。
「大丈夫、オーナーとは古くからの付き合いなの。ちょっとくらいなら融通がきくから。そうしましょ」
「槇野くん、おいしいものを食べるのも仕事のうちよ。ヒット製品を開発するためには、日頃から感性を磨いておかなくちゃ。ね?」
 うきうきした様子でレストランに連絡する大先輩たちの横で、槇野が見せた苦悶の表情は決して見間違いなどではなかった。

 二人が命からがら暴風圏内を脱出したのは、それから約三時間後のことだった。
 ぐったりと疲れ切った身体をアルコールで癒すべく、大きな公園を見下ろす立ち飲み屋で反省会兼慰労会と相成った。
 吉崎はジョッキから唇を離すなり、口の端についた泡を拭うことも忘れて大きく息をついた。
「……厳しい戦いだったな」
「……ああ」
 同じような疲労感を背負った槇野が、大仕事を終えた男の顔で頷いた。さすがの王子オーラもやや精彩を欠いていた。
「お前の会社ってやっぱり女性比率高いの?」
「そうだね。他と比べたら」
「俺はやってけないだろうな。空気読めないし」
 役職や年齢など関係なしに食物連鎖の最下位にいる自分を想像しつつ、吉崎は過ぎ去った嵐に思いを馳せた。
 人目を忍んでいる割には盛況な、隠れ家風一軒家レストランなる店の一角で、食事をするというよりは激流に頭を突っ込んでしまった気分を味わうことになろうとは当初思いもしなかった。
 女性の集団というものは存在するだけで圧倒されてしまうものだが、青木と庄司はひとりにつき十人分くらいの破壊力を有していた。野郎が何人集まろうが足下にも及ばないあの爆発的なエネルギーは、いったいどこから湧いて出るのだろう?
 営業という仕事柄、中身も興味もない話に相槌を打つのは得意だが、今回は次元が違った。コミュニケーション能力が高すぎて、まるで別の惑星の住人の掌で踊らされているようだった。
 あれよあれよという間に身ぐるみを剥がされていき、前菜が運ばれてくる頃には、経歴から家族構成から恋人の有無まですっかり丸裸にされていた。
「妹さんは、ほら、そういう年頃だから。全然気になりませんよ。うちの主人のほうがよっぽど。ねえ?」
「そうよそうよ。おいくつですっけ? 三十? まだお若いんですもの、そんなに心配することないわよ」
 なぜ自分は初対面の相手に加齢臭の相談をしているのか。そんな疑問をよそに、ご婦人方の見事な話術に乗せられて、口が勝手にあることないことべらべら並べ立てる。
 一方の槇野は賢明にも、話を盛り上げすぎず、かといって盛り下げもせず、ギリギリの線でうまく立ち回っていた。
「それで」
 小手調べとでもいうべき吉崎の素行調査がおおむね終了した後、いよいよ中学時代の槇野に話の矛先が移った。
「中学時代の槇野くんってどんな感じだったの?」
 ここに至るまでかなりの気力を削り取られていたが、槇野の株を上げようと、吉崎は折れかけた心を奮い立たせた。
「テニス部の部長で、しかも生徒会長でした」
「へえ、やっぱり優等生だったのね」
「勉強も運動もトップクラス。非の打ち所がなかったですよ」
「さぞかしもてたんでしょ?」
「そんなことは……」
 さりげなく否定しようとした槇野を、庄司が遮った。
「本人が言うことなんて当てにならないわよ。槇野君、謙虚だから」
「そうなんですよ、何でもできるのに驕ったところが少しもないんです」
 興に乗った吉崎は、それ満願全席とばかりに美点を並べ立てた。
「人望があるから、女子だけじゃなくて男子からもすごい人気でした。本当に昔からいいやつなんですよ」
 吉崎は力説した。営業気分が高まってきて、うっかり御社だとか弊社だとか口走りそうになってくる。
「その上、子供にもお年寄りにも親切で。俺も偶然、そういう場面に出くわしたことがあるんです。歩道橋を渡れなくて困っているお婆さんがいたんですが、槇野はその人を背負って……痛てっ」
「どうかなさった?」
「いえ、ちょっと静電気が」
「そうなの。あれ結構痛いわよね」
 とっさに自然現象に責任を押しつけてごまかしたものの、実際は誰かに脛を蹴られたのだ。しかも結構強く。この場で思い当たる犯人は、ひとりしかいない。
 吉崎はすぐ隣の席にいる槇野を睨みつけた。
 しかし、槇野とはいえばそよ風が気持ちいいねとばかりに平然とした顔をして、普段通りの爽やかな笑みを口元に湛えている。あまりに普通にしているので自分の勘違いかと思ったが、錯覚で済ますには少々強すぎる蹴りっぷりだった。
 吉崎は串に突き刺さったネギを歯で引き抜きながら、改めて問いつめた。
「さっき、何がいけなかったんだよ」
「さっき?」
「これだよ、これ」
 言いながら、カウンターの下で槇野の足に軽く蹴りを入れた。
「確かに多少は盛ったかもしれないけどさ、でも実際、お前の昔話しても誉めるところしかないんだから、適当に聞き流せよ。結婚式のスピーチみたいなもんだろ?」
「悪かったよ。あんまり持ち上げるんで、つい衝動的に」
 槇野は申し訳なさそうに謝罪した。
「二人にはそれぞれ娘さんがいて、僕に引き合わせたいと思っているみたいなんだ」
 有り難いことに、とごく控えめながら有り難くなさそうな表情でビールを飲み下した。
「でも、どちらのお嬢さんとも会うつもりはない。職場の人間関係に波風を立たせたくないからね」
「立つなあ、波風」
「だろ?」
 吉崎は納得した。道理で仕事やら趣味やら得意料理やら、大先輩の娘たちの話を胸焼けしそうなほど聞かされたわけだ。
 青木も庄司も既婚者で、槇野を見る視線に色恋めいたものは感じられなかった。だから単純に、可愛がっている後輩と食事をしたい、くらいの気持ちで誘われたのだと思っていた。
 しかし、彼氏にしたい、夫にしたい男というものは、世代が上になるにつれ、息子にしたい、孫にしたい対象にもなり得るのだ。
 槇野は慣れているのかもしれないが、たとえ好意から来るものであれ、毎日のように手を替え品を替え突撃されていたのではたまったものではないだろう。
「……お前も大変なんだな」
 同情を交えて呟いたとき、ふいに槇野の視線が店の外に向けられているのに気がついた。この立ち飲み屋は客席が公園に続く道から丸見えなのだ。
「面白いか?」
「え?」
「人の顔。いつも見てるよな。職業病か?」
「……参ったな。そんなこと言われたのはじめてだよ」
 完全に無意識だったのか、困惑とも羞恥ともつかない表情が浮かんだ。
「職業病って言えば、そうなのかもしれない。人によって顔のつくりが違うのはもちろんだし、たとえば屋内と屋外、太陽の光と照明の光、暑い時期と寒い時期……環境が変われば同じ人間の顔でも違って見えるから」
「そんなに変わるもんか?」
「じっくり観察すれば、結構ね」
 そう言っている間にも、槇野の目は自然と人の方に向いている。言動の端々に槇野の仕事に対するひたむきさを感じて、吉崎の唇がふっと綻んだ。
「好きなんだな、仕事」
「ああ」
 少しだけ間があった。
「好きなんだろうね」
「槇野はさ、なんで化粧品会社に就職しようと思ったんだ? 化学系なら他にも色々あるだろ」
 槇野は少し考え込んだ。化粧品に関する知識がほとんどない吉崎にもわかるように、言葉を選んでくれているようだった。
「化粧品って、人間の心理的な作用が大きく働くものなんだ。たとえば、凝った容器にしたり、高い値段設定をしたりすると、データ以上の効果が出る。そういう数字だけでは読めないところが、作る側としてもすごく面白いんだよ」
「へえ」
「さっき、青木さんが言ってたの覚えてるか? 化粧品の開発には感性が必要だって。あれは事実だよ。化粧品の処方設計には、知識だけじゃなくて感受性みたいなものも必要になってくる」
「感受性?」
「たとえば、絵の具の材質を知っていても、人の心に残るような絵は描けないよね。絵がうまい人は、高い技術も独自の視点も持っている。それと似たようなものかな。特に、うちの製品は女性の感情に訴えかけるタイプのものが多いから……」
 そこまで口にすると、槇野はふっと言葉を切った。
「院生のときにも同じようなことを言って、先輩に笑われたよ。いくらもっともらしい理由をつけたって、お前は女じゃない。だから何を言っても説得力がない。本当は化粧品業界が不況に強いから就職したんだろう。正直になれよって」
「はあ、なんだそれ?」
 聞いているだけで胸がむかついてきて、思わず声を荒げてしまった。
「馬鹿の言うことなんて気にすんなよ」
「まあ、業界自体が比較的安定してるっていうのは就職先を選ぶときの基準のひとつだったし、別に何と思われても構わないんだけど」
 槇野はジョッキを傾けた。店内は混雑しているはずなのに、喧噪がふっと遠くなる。
「心のどこかで、その言葉がずっと引っかかっていた。わかっているつもりで、確かに本質を理解していないのかも知れない。それで僕は……」
「どうしたんだ?」
 そこで槇野は急に話題を変えた。
「あれ、中学生かな」
 槇野が示した先には、幼さの残る顔立ちをした、制服姿の初々しいカップルがいた。目線すら合わせられない様子が微笑ましくて、怒りが少しだけ収まった。
「淫行抜きの交際か……」
 心中にとどめておくつもりが、つい声に出していたようだ。
「何か言った?」
「いや別に」
 吉崎は失言をビールで喉に流し込んだ。
「そういえば、中学の頃やたら流行ってたよな。彼女できたらこの公園来るの」
「……そうだね」
 二人の地元からこの公園の最寄り駅まで電車で一時間程かかる。適度に遠く、適度に知名度があって、このあたりでデートするのがある種のステータスだったらしい。
 らしい、とあえて断定を避けたのは、中学時代の吉崎には全く縁がなかったためだ。興味がないことはなかったが、同い年の女の子というものはわけがわからないものの代名詞であり、イガグリ頭にはまったく理解不能の生命体だった。デートにかかる費用の方よりも、メジャーのスター選手の年俸のほうがよほど具体的だし現実感があった。
「槇野は来たことあるんだろ、中学の時」
「あるよ」
「誰と?」
 女子の名前を言われてもぴんとこないだろうが、一応尋ねてみた。
 槇野はかなり長いこと逡巡してから、ようやく口にした。
「誰とって、ひとりでだよ」
「ひとりで? 何しに?」
「……もう時効だから言えるけど」
 照れ隠しなのか、ビールを飲むピッチがぐっと早くなった。
「好きな人はいたんだけど、どうしても誘えなくて、ひとりで来たんだ。その人とこんなことしたい、あんなこともしたいって想像して、ドキドキしながら公園を回ってた」
「槇野が?」
 槇野に告白されて断る女がいるなんてとても思えないが、世の中には変わった好みの人間もいるかもしれない。
 言うんじゃなかったとでもいうように、槇野は俯いて吉崎の視線を避け、すでに空になったジョッキに何度も口をつけた。
「だから、今でもこのあたりに来ると、思い出して無性に恥ずかしくなる」
「頭から布団かぶってうわあってなる感じか」
「そう、まさにそれ」
「でも、学生時代の思い出ってたいがいそんなんだよな。槇野でもあるんだな。そういうの」
「当たり前だろ」
「有名になったときのために練習してたサインを親に見つかったり、寝てる間に顔に油性ペンで落書きされたのに気づかないでそのままバイト行ったり、酔っぱらって裸で池に飛び込んで通報されたりさ」
「……それはないけど」
「あ、そうだ。忘れないうちに」
 吉崎は突然コートのポケットに手を突っ込んで、がさがさ漁り始めた。
「たぶんここに一枚入れっぱなしのが……あった。ペン持ってるか? ああ、悪いな」
 ポケットからよれた名刺を引っ張り出した吉崎は、槇野に借りたボールペンで連絡先を走り書きした。
「よかったら連絡くれよ。また飲み行こうぜ」
 槇野は持て余していた空のジョッキをカウンターにおいて、わざわざハンカチで手を拭き、新入社員を思わせるぎこちない動きで名刺を受け取った。
「……ありがとう」
 それから一歩間違えばゴミになりかねないそれを、神妙な面もちでしばらくじっと見つめ、十万円当たった宝くじでもそんなことしないだろうというくらい、丁寧にしまい込んだ。
 尻ポケットにでも適当に突っ込んでくれて構わなかったのに、こんなときまで「名刺はその人自身だと思って丁寧に扱いなさい」という新入社員研修時の教えを忠実に守っているのだろうか。その生真面目さが実に槇野らしかった。
 その瞬間、何とも形容しがたい感情がこみ上げてきて、胸がにわかに熱くなった。
 槇野、お前本当にいいやつだな……。
 今更わかりきったことを改めて言う代わりに、吉崎はカウンターの下で足を蹴った。槇野が渋い顔をした。
「何だよ?」
「特に意味はない」
「やめろって」
 はじめは呆れまじりに無視されていたが、槇野も執拗な攻撃にじれてきたのか、次第に反撃してくるようになった。カウンター下での静かなる激戦は、二人が飽きるまでしばらく続いた。もしその現場をたまたま目撃した人間がいたら、不審者か馬鹿かその両方だと思われていただろう。
 だがくだらないことをし、くだらない話ができる相手というのは大切だ。あるときは仕事、あるときは私生活、またある時は気疲れする食事会によってすり減った神経を癒してくれる。
「もう、やだあ!」
 菜摘が兄に放った「やだ」とは明らかに性質の違う黄色い声が聞こえて、吉崎は店外の賑わいに目を移した。
 休日の午後、デートのために公園を目指すカップルの猛攻は止まらない。キスをし手をつなぎ見つめ合い、もはや狭い路地は無法地帯だ。あのいちゃいちゃした熱気で発電が可能なんじゃないかと思ったとき、ある話を思い出した。
「この公園ってカップルで行くと別れるらしいぞ。池に奉られてる神様が嫉妬して。知ってたか?」
「いや、初耳」
「俺も最近まで知らなかったんだけど。お前、ひとりで来て正解だったかもな」
 ジョッキに残った一口を飲み干し、親指で公園の入り口を示した。
「酔いさましがてら散歩してくか? 俺たちなら神様も妬かないだろ」
「え……」
 吉崎の何気ない提案を、槇野は控えめに、丁重に、遠回しに、何十にも真綿にくるんだ表現で、しかし大先輩の誘いを拝辞するときより、なぜかはるかに強く拒絶したのだった。