裸足のサンドリヨン
 以来、仕事帰りによく槇野と遭遇するようになった。
 生活圏も同じ、おおよその就業時間も同じとくれば、今まで顔を合わせる機会がなかったことのほうがおかしいくらいだ。
 あるいは、もしかしたら単に気づかなかったのかもしれない。お互いの印象は中学生のままで止まっていたし、子供と大人の間に横たわる十五年の歳月は物理的な時間よりもはるかに大きかった。オタマジャクシがカエルの子であると言われても、知識がなければとても信じられないのと同じだ。
 ただ残念なことにちょうど残業が続いてしまい、せっかく会えてもその場で立ち話をするだけで、一緒に飲むという約束は延び延びになっていた。
 会社・電車・取引先・家、時々槇野及びコンビニ、主としてこのような要素で構成された十一月が駆け足で終わろうとしていた。
 薄手のコートではとても太刀打ちできない猛烈な木枯らしが吹き荒れた日の夜九時過ぎ、吉崎は駅を出てすぐのところにあるコンビニの弁当売場で懊悩していた。
 ちょうどタイミングが悪かったようで、陳列棚に残された弁当はひとつ。
 吉崎は一度手にとった弁当を物憂げに見つめて、再び陳列棚に戻した。フランスの家庭料理と和食をマリアージュしましたとかいうその弁当を、吉崎はかつて一度だけ購入したことがあった。
 どうしてこの弁当が企画会議を通って製品化されてしまったのだろう。そして、どうして俺はこの弁当を買ってしまったのだろう?
 そんな悲しみがこみ上げてくる味だった。
 麺類やパンやおにぎりではなく弁当が食べたい気分である。しかし……。
 と、横からすっと腕が伸びてくるやいなや、弁当が視界から消えた。鮮やかな手さばきで弁当をさらっていったのは、吉崎と同年代のスーツ姿の男だった。
 レジに向かう男の背中を見送り、決断の遅さを後悔しつつも同時に安堵した。ひょっとすると、吉崎の舌がびっくり仰天した味もあの男の口には合うかもしれない。うまいと思って食って貰える方が弁当も幸せだろう。
「残念だったね」
 背後から声をかけられた。
「いいんだ、諦めついたから。それよりな」
 振り返るなり吉崎は槇野を軽くにらみつけた。あまりによく会うので挨拶は抜きだ。
「ずっと黙って見てたのかよ。趣味悪いぞ」
「あんまり真剣な顔してたから」
「一日の終わりに何食うかは大問題だろ」
 槇野はまあねと笑ったが、果たして本当にそう思っているかは疑問だった。
 米を食いたい衝動は弁当と共に失せてしまったので、ビールでも買って行こうかと思ったとき、ふとあることを思いだした。
「槇野、俺んち来ないか」
 槇野はサンドイッチを取ろうとした手をぴたりと止めた。
「吉崎の家? これから?」
「急に思いだしたんだけど、お前に見せたいものがあるんだよ」
「何を?」
「見せれば一発でわかるけど、説明すると長くなる」
 槇野は眉を寄せた。
「見当がつかないな」
「まあ、明日も平日だし、無理には」
「行くよ。そこまで言われたら気になる」
 こうして、二人分、にしてはいささか多いつまみとビールの入ったコンビニの袋を自転車の籠に入れて、二人は吉崎のアパートに向かった。駅からアパートまで成人男性の足で十五分ほどだが、朝一秒でも多く睡眠をとりたいがために自転車を利用しているのだ。
「万年床じゃないからな、今日はたまたま急いでたんだ」
 吉崎は部屋に入るなり、説得力のない訴えをしながら敷きっぱなしだった布団を畳んだ。築四十年のアパートはどこもかしこも隙間風が吹いて寒い。玄関と風呂場とトイレと台所以外はほぼコタツと布団に占領されていて、吉崎の生息領域となっていた。
 布団が片づくと、次に吉崎は電子レンジにコンビニで購入した唐揚げを突っ込んだ。槇野がコートを脱ぎつつ尋ねてきた。
「それ、この間買った電子レンジだよね。使い心地はどう?」
「まだ慣れないな。ボタンの位置が違うんだよ。うっかり肉まんをトーストしそうになる」
 ゴミと荷物の中間みたいなガラクタを押しのけ座るスペースを作って、二人はようやくコタツに落ち着いた。
「お疲れ」
 互いの缶をこつんと当てて、ささやかに乾杯する。
 最初の一口を気持ちよく飲み下したとたん、腹の底よりももっと深いところからぷはあという間の抜けた息が溢れた。
「やっぱり落ち着くなあ。家で飲むの何年ぶりだろ」
 槇野が不思議そうな顔をした。
「何年って、そんなに? 禁酒でもしてたのか」
「仕事帰りに軽く一杯やりたいときは、いつもコンビニで飲んで来るんだよ」
 吉崎は早々に空いた缶を指で弾いて卓の隅に寄せた。
「家族が酒のにおい苦手だったからさ。アルコールって洗っても結構残るだろ? わかってるのに飲むのも悪いし」
「今はひとり暮らしなのに?」
「癖みたいになってるんだろうな」
 そうかと言いながら槇野はチーズを口に運んだ。缶ビールを飲んで乾き物をつまんでいるだけなのに、ひとつひとつの動きにどことなく品がある。
 コロコロでたまに掃除するだけの小汚い部屋にいる槇野は、まさに掃き溜めに鶴だった。
 上着を脱ぎ、ネクタイを外してくつろいだ格好をしていたが、それでも浮いていた。派手な服装をしているわけではないのに、室内の空気がぐっと華やかになる。色の選び方がいいのだろうか。自分とは大違いだ。吉崎が作成した資料は、見出しやグラフの配色センスが壊滅的だと評判だった。
 しかも予想に違わず、加齢臭も裸足で逃げ出すようないいにおいがする。
「何かつけてんのか?」
「今日は何も。商品の香りが移ったんじゃないかな」
 男しかいない空間に男物の香水や体臭とは明らかに違う柔らかな香り、つまりは女のにおいが漂っていると、頭と鼻が混乱しそうだ。
「香水?」
 肩のあたりに鼻を密着させると、後ずさりるような仕草をされた。
「いや、うちは香水は作ってなくて……。ちょっと吉崎、あんまりこっちに来られると足の置き場がないんだけど」
 困惑気味に酔っぱらいからの逃げ道を探していた視線が、床に置いた小さな段ボールのところで停止した。
「あれ、君の会社のお菓子?」
「そうだよ。食うか」
 意地でもコタツから足を出すまいと頑張りつつ、吉崎は限界まで腕を伸ばして段ボールを引き寄せた。手渡したウェハースを、槇野はいただきますと手を合わせてから口に含んだ。さくっと小気味いい音がする。
「うん、おいしい」
「な、意外とうまいだろ?」
「すごく口当たりがいいね。舌に乗せたとたんに雪みたいに溶けて……」
「わかるか?」
 吉崎の顔にぱっと笑みが広がった。
「普通のウェハースってパサパサしてるだろ。口ん中の水分が全部もってかれるみたいな。それだと嚥下機能が低い高齢者とか子供が食いにくいから、食感を工夫してるんだ」
「ああ、なるほど」
「俺、人生で一回だけ怪我して入院したことがあるんだけど、病院食しか楽しみがなくてさ。そのとき暇つぶしに、もし自分が健康で平均寿命まで生きたとすると、一日三食としてあと何回飯食えるのか数えてみたんだよ。そのとき、人生で飯食う回数も、食えるもんも限られてるんだなあって思った。だったら楽しく、おいしく食いたいじゃないか」
 言いながら、吉崎はさきイカを噛みしめた。
「ついでに誰と食うかも重要だよな。なんで嫌な上司と飲む酒はあんなにまずいんだか……。お前相手なら萎びたイカでもうまいのにな」
 イカをもぐもぐさせた口で褒めているんだかいないんだかわからないことを言われて、槇野も返事に詰まったのだろう。ウェハースをもう一枚食べていいかと聞くまでに、少しの空白があった。
 そんなやりとりをする間にも、ビールの缶は次々に空いていった。酔いの回りがいつもより早いようだ。家にいる気安さもあって、姿勢も口調もどんどんだらけていく。
「最近、エレベーターの鏡なんかに自分の顔が映ってると、つい見ちゃうんだよな。お前から見た俺ってどんな感じなのかなって思って。骨格が丸見えだったりするのか?」
「レントゲンじゃないんだから……」
「あと、化粧品のCMなんかも。この間菜摘に見せてくれた化粧品もそうだけど、全部がきらっきらしてるよな。世界が違いすぎて、お前が普段どんな仕事してるのか想像つかないよ」
「見た目はね。でも実際にやってることは地味だと思うよ」
 それから槇野は、簡単に化粧品業界の仕組みを説明してくれた。
 自分が関わっていない業界の話なんてどれもそんなものかもしれないが、化粧品というのは特に、商品自体も流通の方法も魔女の集会を思わせる秘密めいた雰囲気が漂っている。
 美しさへの衝動はシンプルで、だからこそ強烈な凄みがあった。
「主力商品は顧客を絞っているからテレビではほとんど広告してないし、今でも紙媒体が強い。雑誌とかダイレクトメールとか……」
「そうなのか」
「海外進出も、あまり積極的にやりすぎると国内の顧客をないがしろにしているんじゃないかと思われる。実際は違っても。どこを変えていってどこを変えないでおくのか、そのあたりの匙加減がね」
「難しいな」
「うん、難しい」
 槇野はビールの底を見つめて、淡々と続けた。
「今は時代性なのか、化粧品にもレスポンスの早さが求められているところがある。でも、化粧品は薬と違ってすぐに劇的な効果が現れるものじゃない。菜摘ちゃんの痣にしてもそうだ」
 長い指が缶を濡らす露をぬぐった。指先に水滴が絡みつく。槇野の話に耳を傾けながら、爪もきれいだなとぼんやり思っていた。
「僕が示したのは彼女の悩みに対する回答のひとつでしかなくて、きっと自分なりの答えを見つけるまでにはまだまだ時間がかかる。これからもたくさん迷ったり傷ついたりするだろう。それでも、今までの自分を否定して、焦って変わる必要はないと思う。これまで味わってきた辛い思いも、苦しんだ経験も、彼女の大切な人生の一部なんだから。でもね、今すぐきれいになりたいって気持ちはわかる。わかるんだよ、でも……」
 そこまで言ってから、槇野は気まずそうに耳を赤くした。
「でも、でもってそればっかりだな。何言ってるんだか」
「いや、有り難いよ。そこまで考えてくれて。そういや、菜摘が化粧してもらったときに魔法みたいだと思ったんだよな」
「魔法……」
「そう。サンドリヨン、だっけ? おとぎ話に出てくるような魔法。でもそういう魔法ってさ、たいてい期間とか効果とか限定されてるだろ。子供の頃は考えもしなかったけど、魔法の力できれいになっただけじゃめでたしめでたしの人生にはならないよなあ。王子と結婚できても、嫁姑問題やら子供の教育方針やらで揉めるかもしれないし」
「嫁姑? 教育方針?」
「王家だぞ。絶対あるだろ」
 真剣そのものだったのに、槇野に笑い飛ばされた。
「家庭内の問題はともかく、鋭いと思うよ。口紅のコンセプトにしようって意見が出たときに、サンドリヨンの物語を改めてちゃんと読んだんだ。外見の美しさも大事だけど、何より彼女の優しさが王子の心を掴んだ、ざっくりまとめるとそんな内容だった」
「案外現実的なんだな」
「若い女性への教訓的な意味合いもあったらしいからね」
 でも、と吉崎は眉根を寄せた。
「王子も生身の男だし、やっぱり見てくれも大事か。ドレス着て舞踏会に出なきゃ、そもそも目に留まらなかったわけだろ?」
「要はバランスってことかな」
「考えると人間の見た目って面白いよな。もし俺がこんなだらけた格好して取引先に行ったら、こんにちはも言わせて貰えずに門前払いだ。でも、お前は許してくれてる」
「だって君の家だし……」
「お前ならきっと」
「きっと?」
 槇野は懐が広いから、甘えても大抵のことは受け入れてくれそうだ。吉崎は夢心地で言った。
「俺が裸エプロンでも許してくれるよな?」
「……するの?」
「エプロンねえよ」
 裸エプロンは許容範囲を越えてしまったらしい。微妙な顔をされた。
 居心地がいいと感じる距離感が似ているのだろうか。槇野と取り留めのない話をしていると楽しい。それに十代の頃に戻ったような気分になる。仲間内で共通の言葉とか価値観を分け合って宝物みたいに守っていたあの時代に。大人になれば、誰かと腹を割って語り合う機会なんてほとんどなかった。本音を言っているような身振りは社交のひとつだし、たとえどんなにべろべろででぐだぐだでへべれけになっていようとも、本能的に引いた最後の一線みたいなものがある。
 しかし、槇野が自分の思いを率直に話してくれていることに疑いはないのだが、同時に、何か一番大事なところが抜けているような気もしていた。
「……吉崎?」
 槇野が怪訝そうに見ている。こちらも見つめ返す。酔った視線が首筋を探る。
 そういえば、あの跡はもう消えているんだろうか?
「あ」
 吉崎は突如声を張り上げた。
「あれだよあれ!」
 豆鉄砲を食らった鳩のような顔をした槇野を残し、吉崎は押入に顔を突っ込んで中を漁った。
「危ない危ない。うっかり忘れるところだったよ。せっかく来て貰ったのに……あった」
 印鑑やらスペアの鍵やらが雑にぶちこんであるプラスチックケースの中から、掌の窪みにすっぽり収まるくらいの小さなものを取りだした。
 林立するビール缶の間にころりと転がったのは、薄く桜の花が彫られた金色のボタンだった。
「これ……」
 槇野が息をのんだ。
「卒業式の日、お前がくれた制服の第二ボタン。懐かしいだろ? この間見つけてさ」
 吉崎が話しかけても、槇野は上の空という様子だった。
「何で俺にくれたんだ? 欲しいって女子、いっぱいいただろ」
「それは」
 それは、と槇野はなぜかもう一度繰り返して言った。
「吉崎に助けられたことがあったから……そのお礼のつもりだった」
「助けた? いつ? 悪い、記憶がないんだけど」
「歩道橋でだよ」
「歩道橋って……あの婆ちゃんのときか」
 大先輩たちとの食事の席で、槇野が中断した話だった。
 中学二年の春休みだったと記憶している。部活を終えて自転車で帰宅している途中、交通量の多い国道にある歩道橋で、足を悪くした老婦人を背負って階段を上ろうと頑張っている槇野を見かけたのだ。
 それほど暑い日ではなかったのに槇野は汗だくだったし、足を庇うように引きずっていた。声をかけることに躊躇いはなかった。ひとつめの踊り場に来たところで吉崎は槇野と交代し、彼女を無事に国道の向こう側まで送り届けることができた。
「別に助けたってほどのことでも」
「いや、助かったんだ。本当に。吉崎、僕が足首を痛めてたのに気づいてくれただろう? しかも、あのあと自転車で家まで送ってくれて、家族がいないって言ったら病院にまで……。そのお陰で、翌週の練習試合に出場できたんだ」
「ずっと後になって堺に聞いたんだけど、大切な試合だったんだよな。出られてよかったよ」
「そう。部長になって最初の、どうしても出たかった試合だった。……実を言うとね、階段を上ってるとき、本当はすごく後悔してたんだ」
「後悔って?」
「全部だよ。声をかけたこと、助けたこと、後先考えずに背負っていくなんて言ってしまったこと。肩はどんどん重くなってくるし、いつまで経っても階段は終わらないし、試合が近いのに足は痛いし、苦しいのに誰も助けてくれないし……ほとんど泣きそうだった。しまいには、どうしてこのお婆さんは足が悪いのに歩道橋なんか渡ろうとしたんだよって身勝手な怒りまで湧いてきた。安請け合いしたのは自分の方なのに。王子なんて呼ばれてたけど、中身は全然違ったよ」
「いや、それごく普通の男子中学生の反応だろ」
「そう、僕は普通だった。でも君は違った」
「え、俺?」
 吉崎は驚いたあまり、くわえていたイカを落とした。
「僕たちの横を何人も通り過ぎていったけど、立ち止まってくれたのは君ひとりだった。君だけが手を差し伸べてくれた。……世界がひっくり返るくらい、嬉しかったんだ。君はきっと誰が困っていても助けていただろうけど、僕にとっては特別な出来事だった。特別な……」
 声が一旦途切れた。表情からも唇の動きからも余裕が失せた。槇野はまるで溺れかけているように、ビールの缶を両手できつく握りしめた。
「……まさか、取っておいてくれたなんて思わなかった」
 そのとき、槇野の目線が吉崎の正面でぴたりと止まった。酔いが回っているのか、頬が淡く上気し、熱に浮かされたように潤んだ目がこちらをじっと見つめてくる。
「吉崎」
「何だ?」
「僕は」
 ビールとつまみの臭みを柔らかく押しのけて、花の香りがすぐそこに迫ってくる。
「僕は……」
 槇野が口を開きかけたとき、第二ボタンを入れていた安っぽいプラスチックケースがコタツから落ちた。
 印鑑や自転車の鍵に混じって、小さな銀色の輪っかが床にころりと転がった。槇野は絶句した。
「それ……」
「ああ」
 吉崎はそれをつまみ上げた。
「指輪だよ。結婚指輪」
「……結婚してるの?」
「してた。今年の春までは」
 槇野は呆然としていた。
 女と縁のなさそうなやつが結婚していたのがそんなに意外だったのだろうか。いや、意外だったのだろう。ほとんど血の気の引いた顔をしていた。
「証拠写真もあるぞ。ほら」
 吉崎は棚から分厚い台紙を引っ張り出してきた。
 ウェディングドレスを来た元妻と自分が並んで立っているのが、今見ると不思議な感じだった。
「京子っていうんだ」
「アルコールのにおいが苦手だったのは、奥さん?」
「ああ」
「……きれいな人だね」
「愛想ないだろ?」
 晴れの日の記念だというのに、京子の唇は厳しく引き結ばれたままだ。緊張しているわけではなく、いつもこういう顔をしていた。彼女と出会って、人間というのは抜きんでた能力があれば中途半端な愛想笑いなど必要ないのだと思い知ったものだった。
「同い年でさ、親会社の社員で帰国子女で女性初の二十代管理職で、仕事は出来るわ人望はあるわでで周囲から一目も二目も置かれてた。その上綺麗好きで家はいつもピカピカだったし、料理の腕もプロレベル。……何より、誰よりも努力してた。俺が言うのもなんだけど、完璧な女だったよ。結婚式のスピーチあるだろ。京子の上司は事実をそのまま並べりゃ十分だったのに、俺ときたら身体が丈夫で入社以来一度も体調不良で休んだことがなく、朗らかな人柄で職場のムードメーカーだってよ。褒めるところが健康だぞ。小学生か?」
 槇野は開きかけた口を噤んだ。たぶん、どうして別れたのかと聞こうとしてやめたのだ。吉崎は無言の気遣いを察して、答えを引き取った。
「浮気だとかギャンブル癖だとか、それこそ嫁姑のいざこざとか、別にこれっていう問題があったわけじゃないんだ。子供もいなかったし。今でもあんなにすごい奴、他にいないと思ってる。でも、うまくいかなかった。何度やり直してもうまくいかないだろうって気がする。何でだろうな」
 吉崎は腕を組んで考え込んだ。
「強いて言えば、俺が努力しなかったから……いや、努力っていうか向上心か。とにかく向上心がない。京子にとって当たり前のことが俺には欠けてた」
「吉崎に出世してほしかったの?」
「違う。そもそも出世するような亭主がほしい女が俺と結婚すると思うか?」
「でも、そんな性格的な違いなんか、結婚前からわかってたことだろ」
「きっと想像以上のぐうたらだったんだろう」
 話しているうちにたまらなく飲みたい気分になって、吉崎は五本目に手を伸ばした。
「俺は小さくまとまった人生で満足してる。自慢じゃないが上昇志向はまるきりない。もちろん仕事は頑張ってるし、結果として評価がついてくれば嬉しいけどな。自分の性根をねじ曲げて生きようと思っても、それは俺の人生じゃない。きっとどこかで行き詰まる」
 吉崎は卓に肘をついて、重くなりはじめた頭を掌に預けた。
「こんな話ほとんど人にしたことなかったんだけど、改めて言葉にしてみたらそりゃ上手くいくはずないよなって思えてきたよ。そもそも何で結婚しようと思ったんだろうな。京子は最新型の新幹線で、俺はパンクしかけた自転車ってところだ。卑下するつもりはないが、性能も将来性も、見える景色まで全然違ったのにさ。この間壊れた電子レンジだって、次買うときはオーブンっていうのか、ともかくケーキやチキンも焼けるようなの買おうって話してたけど、結局は次なんてなかった。……結婚式のときはいけそうな気がしたんだけどなあ。錯覚だったな」
 五本目のビールはすぐ底をついた。
「お互い相手を変えられると思ってたのかな。でも、人間なんてそんなに簡単に変わるもんじゃない。自分の都合のいいようになんて、なおさらだ」
 吉崎は力なく笑い、空き缶を握ったままテーブルに突っ伏した。沈黙があった。ややあって、隣から静かな声音がした。
「泣いてる?」
「泣いてない」
「泣いてもいいよ」
「もう未練はないんだ。見栄張ってるわけじゃなくて」
「本当に?」
「ないって……たぶん」
「吉崎なら、またすぐいい縁があるよ。素敵な女性と出会って、結婚して、子供が産まれて、笑いの絶えない明るい家庭を築いて……。そんな日が来るのも遠くない」
 槇野はまるで実際に見てきたように吉崎の未来絵図を描いた。それから手元のビールを一息に飲み下した。
 型通りの慰めではない、温かい血の通った言葉がしみじみと嬉しかった。吉崎はのそりと頭を上げた。
「槇野、ありがとな。でもそれが現実になるの、お前の方が先だと思うよ」
「もう一缶貰っていいか?」
「もちろんだ。飲め飲め。好きなだけ飲め」
「僕も、君に話したいことがあったんだ」
 缶を半分くらい開けてから、槇野は大きく息をついた。
「俺に? 改まって何だよ」
「今は言えない。でも、いつか話せる時が来ると思う。……そのときは、笑い飛ばしてくれないか」
 飲み過ぎたせいだろうか。槇野と自分の間にさあっと見えない幕が下りた気がした。少年時代の面影が遠くなり、そつのない大人の笑顔に替わった。
 それから話題は年末の予定に移ったが、好きなお節について話しているうちにいよいよ意識が怪しくなってきた。離婚届を提出してからこのかた、溜まりに溜まっていた疲れがわっと襲いかかってきた気分だ。
 吉崎はごろりと横になり、怪しい手つきでポケットから鍵を取り出した。
「今夜泊まっていけよ。もし帰るならここに鍵置いとくから、出るとき新聞受けに投げといてくれ」
 応えはなかった。いや、あったかもしれないが、吉崎の耳には届かなかった。十分か、一時間か、もっとか。腕を枕に船漕ぎしはじめたとたん、時間の感覚が飛んだ。
 次に瞼を開けたとき、常夜灯が照らした室内には夜の空気が色濃く残っていた。朝にはなっていないらしいとぼんやり考えていると、身じろぎしていないのにすぐ近くで空気が動いた。甘い香りが流れてくる。まだいてくれたのかと安心した。
 ふと視線を感じた。額の上に指が延びてくる。だが、予期した感触の代わりに肩に落ちてきたのは毛布の重みだった。肌に馴染んだ温みは気持ちがよかったが、なぜだかひどくがっかりした。
 彼はそっと立ち上がった。控えめな衣擦れがした。コートに袖を通しているのだろう。
「槇野」
 意識は起きていても身体は完全に寝ているらしい。引き留めようとした声は声にならなかった。
 玄関のたたきで足音が止まった。重く長い静寂が伸びた。
 やがて、豆電球のせいで暗くなりそびれた薄闇に、泣いているような、笑っているような、小さな呟きが流れた。
「同窓会なんて、行くんじゃなかったな」
 そして彼はいつもの彼らしく、少しも乱暴さのない静かな動きで扉を開け、鍵を閉めた。
 鍵と新聞受けが打ち合って、からんと冷たい金属音が響いた。

 その日を境に、槇野の気配が街から消えた。