裸足のサンドリヨン
 明けない夜はないというものの、年末や年度末や業種によっては決算前や、とにかくやってもやっても仕事が終わらないとき、本当に来年とか来年度とかいうものがやってくるのかと疑いたくなるものだ。
 吉崎もまたそんな気分だった。十二月も三分の一が終わってしまったなんて信じられない。自分の業務だけならまだしも、新人にやらせるには心許ないが特に担当などが決まっていない仕事は「とりあえず吉崎」という風潮が職場内にある。よくない傾向だ。顔つきだけで暇だと断定されている。すでにもう宴会部長、鍋奉行等の名誉職に就いているので、これ以上名刺に書けない肩書きは必要ない。
 今取りかかっているのは、一年前に辞めた社員が置き土産にしていったミスの後始末だった。奴が残したファイルを吉崎はパンドラの箱と呼んでいた。年内に片を付けろと命じられているが、探れば探るほど災いを呼び起こす。そんな代物だった。
 背伸びをして席を立ち、吉崎は長時間にわたる数字との睨めっこにより疲弊しきった眼をしょぼしょぼさせながら、熱いコーヒーでも飲もうと給湯室によろめき入った。
 デスクワークは苦手だ。じっとしていると尻が痛くなる。たとえ寒くてもいけすかない客が相手でも、気晴らしができるぶん外回りの方が好きだった。
 ちょうどお誂え向きに、コーヒーメーカーから香ばしいにおいがしている。
「あ、吉崎さんそれお客さん用のコーヒー」
 監視カメラでも設置されていたのか、今まさにマグカップに注ごうとしているところで天の声が降ってきた。悪戯を見つかった子供がするように、吉崎はびくっと背中を強ばらせた。
「でも飲んでいいですよ。煮詰まってたんで入れ直そうと思ってたんです」
 入り口から、営業アシスタントをしている若い女性社員の顔が覗いていた。
「じゃあ遠慮なく」
 口に含んだ瞬間、彼女がコーヒーと呼ぶ液体が噴出するのを耐えるためにかなりの労力を要した。
「これいつ入れたの?」
「朝です。今日お客さん来なかったから余っちゃって」
 このコーヒー風味のヘドロを飲んだ客がいなかったのは幸いだった。
「そうそう、今日ボーナス支給日ですよね。あとで吉崎さんのところにも明細配りに行きますから」
「ボーナス? もうそんな時期か」
 道理で職場の雰囲気が明るいわけだ。口では何と言おうとも、給料が上がったときとボーナスが出たとき、会社員の大半が仕事に対するやりがいを最も強く感じているはずだ。
「吉崎さんは何か買う予定あるんですか?」
「貯金するよ」
「堅実なんですね」
 大嘘である。
 しかし、女性相手に理世の話は口が割けても言えなかった。出会いのくだりからしてすでにアウト、何から何までセーフの要素がない。
 とりあえず今日金だけ下ろしておいて、店に行くのは来週以降にしようと水面下で考えを巡らせた。
「私は何買おうかな……バーゲンまで待とうと思うんですけど、ボーナス出るとつい勢いで買っちゃうんですよね」
 爪の先まできれいに手入れされた指先が新しいコーヒーフィルターをとろうと目の前を横切ったとき、ぼんやり漂っていた意識にいきなり槇野の顔が浮かんだ。
 家で飲んだ翌朝、槇野は挨拶もせずに帰宅することを詫びる書き置きを残して姿を消していた。それから二週間ほど経つが、一度も顔を合わせていなかった。
 元気にしているのか気にかかっているものの、時節柄仕事で忙殺されているのかもしれないと思うと、用もないのに連絡するのが躊躇われた。
「化粧品会社って年末は忙しいんだよな」
「彼女さん化粧品会社に勤めてるんですか?」
「違う」
 ぱっと輝いた目に釘を刺す。ここを曖昧にしておくと、後から妙な噂を流されかねない。
「男。友達だよ」
「何だあ、残念」
 何が残念なのかさっぱりわからないが、つまらなそうに言われた。
「私も詳しくはないですけど、少なくても暇じゃないと思いますよ。クリスマスってコフレとか限定品とかいっぱい発売されますし。あとは新色の出る春秋も忙しそうなイメージ」
「こ……?」
 コフレとは何ぞやと尋ねようとして止めた。聞いても恐らく理解できない。彼女と吉崎とでは、化粧に関する知識の土壌からして違うのだ。
「化粧品と言えば、昨日テレビで見たんですけど、クリスマスに男性から女性に化粧品をプレゼントする国もあるんですって。吉崎さんもどうですか。あ、でもお仕事柄もういっぱい持ってるかな?」
「だから彼女じゃないって」
「先輩、こんなところにいたんですか」
 そのとき、若い女性がもう一人現れた。
「さっき大野主任から内線ありましたよ。デスクにメモ置いておきましたから」
「ああそれ、たぶん忘年会の件。ありがとね」
「何の話で盛り上がってたんですか?」
「男の人から化粧品贈られるの、どう思うって話してたの」
 さらりと言われたものの、同意は致しかねた。自分が尋ねたのは化粧品業界における年末の勤務状況であって、男女間の贈答品問題ではなかったはずだ。
「ああ、クリスマスですもんね」
 しかし、明後日の方向に投げ飛ばされた話題はこの時点ですでに軌道修正不可能だった。
「私はあんまり嬉しくないかなあ。バッグとかアクセサリーならいいけど、服とか化粧品とか……下着もちょっと」
 吉崎は黙って床と見つめ合っていた。
 自分より若い世代の無邪気で明け透けな物言いにぎょっとさせられるのは、菜摘の言うとおりおっさんになったからかもしれない。
「あ、わかる。肌に密着するものって嫌かも。精神的な距離感が近すぎっていうか……」
「特に香水はだめですね」
「何で?」
「学生のとき、男の先輩でいたんですよ。彼女できるたびに同じ香水プレゼントする人。マーキングかっての」
 断片的な情報だけで人物像が簡単に想像できたらしく、軽く身震いした。
「やだそれ生理的に無理」
「ですよねえ。それ思い出しちゃって」
 やだ。無理。しかも生理的に。
 論理的では全くないがゆえに圧倒的な力強さを持つ意見だった。確かに、どんな理由があっても無理なものは無理だし嫌なものは嫌だ。ごもっともである。
 それはそうと、段々耳が痛くなってきた。空気も薄くなってきている気がする。平地にいるはずだが高山病にかかったかもしれない。体調不良につきこの辺で退散を許して貰いたいのだが、言い出す隙が全くなかった。
「そういうプレゼントって、陳腐な独占欲を感じるっていうか。あと顕示欲? ナルシストっぽい」
「くれる人によりますけどね。あとは、つきあい始めはありかな? 独占欲も可愛いって思うかも。今の彼氏だったら……ちょっとないですね。二年目だし」
「私も」
 二人は実に楽し気にケラケラと笑った。吉崎はそっと目を伏せ、顔も知らない彼氏たちに同情をよせた。
「でも口紅ならいいかな」
「あ、わかります。趣味じゃないにしても、そこまでひどい外れはないだろうし……」
「でもさ、男の人って、これどこで見つけてきたのって驚くような変なもの買ってこない? だからすっごい変な色の口紅かもよ」
「それありえますね」
 香水は不可、変な色以外の口紅は可ならずとも許容範囲らしい。使う機会があるかはともかく、一応情報を脳裏に刻み込んだ。
 ちなみに変な色とは……緑などだろうか?
「ところで、どうして化粧品の話になったんです?」
「それがね、吉崎さんの彼女が化粧品会社で働いてるらしいんだよ」
「そうなんですか!」
「だから男で友達だって」
「怪しいですね」
「怪しいよね」
 ね、と顔を見合わせて言われても槇野は男だ。
 だが営業所の人間関係は狭い。あることないこと事実に反する話を仕立てられるよりはと、吉崎は携帯を取り出して槇野の写真を見せた。
「ほら、こいつだよ」
 なぜそんな写真があるのかというと、菜摘にしつこく頼まれて撮ったのだ。槇野は渋々承諾してくれたが、面映ゆそうな苦笑いを浮かべていた。
 吉崎もたまに見返して、やはり色男だなと感心している。
 類を以て集まるという表現の通り、吉崎二号を予想していただろう二人は明らかに興味なさそうに携帯をのぞき込んだ。が、画面を見た瞬間、さっと顔色が変わった。
「嘘」
「この人ですか? めちゃくちゃ格好良いじゃないですか!」
 声のトーンがいきなり十段階くらい上昇した。
「独身ですか?」
「どこに勤めてらっしゃるんですか?」
「何の仕事してるんですか、営業? わ、すごい、研究職?」
 彼氏が聞いたら泣くような質問が矢の如く降り注ぐ。自分の学習能力になさにはほとほと呆れた。今までの経験から、色恋に積極的な妙齢の女性に槇野の写真を見せたらどういうことになるか、想像してしかるべきだった。
 俺の友達はこんなにいい男なんだ、すごいだろう、と自慢したい欲があったことも否定できない。女心の機敏は全くもって理解できないが、孫自慢をしたがる祖父母の気持ちはよくわかる。
「吉崎さん」
 ぴたりと猛攻がやんだ。呼びかける声音が一気に甘くなる。吉崎は職場で女性のこんな声を、重い什器類やコピー用紙が届いて男手が欲しい時以外に聞いたことがない。
「今度皆でご飯行きません?」
 当然吉崎と飲み食いしたいという意味ではない。いつの間に取り出したものか、二人の手にはさりげなく携帯が握られている。準備は整っておりますのでいつでも出撃命令をという熱い意気込みを感じる。
 突如として、隠れ家風一軒家レストランでフレンチを味わいながら楽しくお喋りに興じつつも余計な話をして槇野に蹴られている自分の姿が見えた。既視感を伴うそれは、白昼夢かはたまた遠からぬ未来か……。
「悪い、課長に話があるんだった。その件はまた今度」
「あ、待って下さいよ」
「パンドラの箱が待ってるんだ」
「じゃあ、あとで明細持って行くときにでも!」
 もはや語るべき言葉はなかった。吉崎はヘドロを飲み下し、一目散に逃げ出したのだった。

 久しぶり、と声をかけようとしたところで別人だと気づいて、吉崎は危うく肩を叩きかけた手を引っ込めた。槇野と似ても似つかない男の後姿は、乗換口に続く階段に殺到する人の群れに紛れてあっという間に消えてしまった。膨らみかけた期待はしおしおと萎んでしまい、行き場を失った面影の名残だけが未練たらしく尾を引いていた。
 ほぼ同時にホームに滑り込んできた列車に慌てて飛び乗る。下り方面の特急電車はいつもより混雑していた。師走の金曜日、夜十時過ぎという時間からして忘年会帰りも多いのだろう。
 吉崎と同時に乗車した男の眼鏡が、アルコール臭のする人いきれで一気に白くなった。今晩は一段と冷え込むらしいと聞いて着込んできたので、満員の車内では暑くて汗がにじんでくるくらいだった。
 吊革を握るとすぐに車内をくまなく見回した。槇野もこの駅で乗換えてくるはずだが、やはりいない。がっくりした。
 この世界で、仕事でもないのに吉崎敦史という人間に毎日会いたいと思うような変わり者はそうそういない。家族でも仲のいい友人でも、月一ならそれなりに楽しく過ごせるが週一で顔を合わせたらもう腹一杯、それ以上は胸焼けするので結構ですというところだろう。
 それなのに、槇野だけは会うたびにちょっと嬉しそうな表情をしてくれる。そんな顔をされたら、ちょっとどころかものすごく嬉しいに決まっている。
 しかしながら、よりによって最後に会ったとき、自分ばかり暗い愚痴めいた話をしてしまったのが悔やまれる。槇野も何か話したいことがありそうだったのに。クリスマスを過ぎたら連絡しようと心に決めていた。一緒にうまい鍋でもつつきたいものだ。もちろん二人だけで。結局女性陣の粘り強いアプローチは終業間際まで続き、ほとほと参ってしまった。
 やがて電車が降車駅に着いた。ホームに降りて人の塊が解けたとたん、狙い澄ましたかのように北からの冷たい風が吹いた。小さな悲鳴が上がり、前を早足で歩く背中が揃って丸まった。マッチ売りの少女が最後に見た幻のように、吉崎の心を優しく温めてくれていた鍋の湯気は瞬く間に消え去った。
 人混みをざっと見渡すものの、やはり槇野はいなかった。胸の中心に大きな穴がぽっかりと空いたような気分だった。その隙間を抉るように北風が吹き込んできて、満員電車で火照った身体にはことのほか堪える。
 今夜、理世に会いに行こうか。
 自然とそう思った。

 吉崎は愛車、いわゆる世間でいうところのママチャリにまたがり、鼻歌を口ずさみながら颯爽と夜の公園を疾走した。ただし節度ある速度でだ。昨日みぞれ混じりの雨が降ったから、ところどころぬかるんで滑りやすくなっていた。
 吉崎が自転車を走らせているのは大きな公園を縦断する道で、駅から自宅までの最短経路だった。昼間は多くの善男善女でにぎわっているのだが、この時間は犬の散歩をする人もおらず、まばらに街灯が路面を照らしている以外は真っ暗だった。そして身を切るように寒い。
 鼻をすすりがてら腕時計をちらと見る。終電まで多少の余裕はあった。一度家に帰り、荷物を置いてから店に行くつもりだった。
 さっき電車で結構な汗をかいてしまった。着替えついでに少々寒いがシャワーも浴びて行こう。髭を剃って、下着は新しいものを下ろすか。そうだ靴下も、とあれこれ気を回す自分の姿は、まるで菜摘所有の少女漫画の主人公だ。彼女たちのほとんどはデートの前日、ああでもないこうでもないと鏡の前で服をとっかえひっかえするのが定石である。
 理世が出勤しているのかいないのかわからないが、いなければ楽しみが先に延びたと思えばいい。
 実施要領については一通り学んだものの、実技が伴わなければ所詮保健体育レベルの知識だ。もし失敗したら……まあそのときはそのとき、あとはどうとでもなれだ。
「やめてください!」
 そのとき、夜闇を裂くような叫びがあたりに響きわたった。吉崎は強くブレーキをかけ、後ろを振り返った。
 公衆便所のあたりで男女が言い争っている。男が女の腕を掴んだ。女は必死に身を解こうとするが、男は酔っているのか、何かをわめき立てて離そうとしない。
「嫌です、離して!」
 ただならぬ気配を察知して、吉崎はハンドルを急転回させた。単なる痴話喧嘩という可能性もあるが、暴力沙汰になりそうなら放ってはおけない。
「おい、何やってんだ!」
 勢い込んで二人の間に割って入ろうとしたものの、昨夜の雨が作ったぬかるみで滑って自転車ごと勢いよく横転した。
 男も女も呆気にとられて吉崎の方を見た。吉崎は強か打った腰の痛みを耐えつつ立ち上がり、もう一度弱々しく繰り返した。
「な、何やってんだ……」
 先ほどのものより気勢を削がれた声であったが、我に返った男は逃げるようにその場を走り去った。
 男の追跡は後回しにして、吉崎は地面にへたりこんでいる女に声をかけた。
「大丈夫ですか。怪我は?」
「ありが……」
 女は驚いたように声を詰まらせ、吉崎の視線から逃げるように俯いた。その横顔に見覚えがあった。
「……理世さん?」
 理世にしか見えないその若い女は、慌てて首に巻いていたストールで顔を隠した。
「理世さんでしょう? 俺です、吉崎です」
 吉崎が言うと、理世は顎の下でストールをきつく握りしめた。
「助けていただいてありがとうございました。まさかこんなところでお会いするなんて」
 理世はなおも目線を外したまま、ぎこちない言葉を並べた。
「あの男、知り合いですか。客とか……」
「いいえ。知らない人です。歩いていたら急に絡まれて」
「とりあえず警察を……」
「やめてください!」
 携帯を取り出しかけた手は、鋭い声に遮られた。理世はすぐに詫びて、でもと続けた。
「できれば大事にはしたくないんです。……仕事が、仕事なので」
 それを聞いては、吉崎も無理強いはできなかった。
 想像でしかないが、金曜の夜だけと出勤日を限定しているということは、つまり理世には男性として送っている、「普通の」生活があるに違いなかった。夜の仕事のこと、女性の格好をしていることが公にされれば、その表の生活は確実に脅かされる。
「色々とご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」
 では、と気丈な口振りで辞去しようとしたものの、立ち上がりきる前に理世の上体がぐらりとゆらいだ。吉崎はとっさに腕を伸ばして肩を支えた。膝が微かに震えている。足も痛めているかも知れない。
 周囲が暗くてそれまで気づかなかったのだが、至近距離で見た理世の姿は痛ましかった。ストッキングが破れて膝小僧に血が滲んでいた。パンプスも片方脱げているし、コートもところどころ泥で汚れてしまっている。
「無理しないで」
「……ごめんなさい」
 立って並ぶと理世は意外と背が高く、目線は吉崎と同じくらいだった。これまで狭い部屋でしか会ったことがなかったから、自分よりずっと小柄だと思っていた。
 腕の中からほのかに化粧の甘い香りが漂ってきた。暗い場所にいるとことさら強く感じられる。
 あの夜、槇野が身につけていたのと同じ花のにおいだ。
 気づいたとたんに強烈な思慕がこみ上げてきて、一瞬、胸が締め付けられるように苦しくなった。
「じゃあせめて、家まで送りますよ。この辺ですか? なら俺の自転車か、それともタクシーを呼んで」
「家は……」
 さっと顔が強ばった。
 家族かそれ以外の誰かと同居しているのか、それとも職場の寮に住んでいるのか……どんな事情があるのか推測の域を出ないが、ともかくこのままの格好では帰れないらしい。
「本当に、大丈夫ですから」
 そう言われても、ひとりで置いておくなどできない。かといって吉崎のアパートに誘ったところで断られるに決まっている。
 どうしたものかと思案しながら顔を上げると、ひときわ明るいネオンが目に入ってきた。
 何とかキャッスルの文字が、けばけばしくも陽気に夜空を彩っている。何とかの部分は電球が切れているのか判読不可能だ。
 郊外の住宅地にそびえ立つ白亜の城。いわゆるラブホテルだった。

 自転車の荷台に乗せた理世と共に突入した何とかキャッスルは、予想を裏切らない古式ゆかしいホテルだった。懸念していた回転式ベッドこそなかったものの、部屋全体に郷愁を誘う芳香剤のにおいが漂い、カーテンに壁紙にベッドにと、全体に薔薇をあしらった重厚感溢れる内装は、前世紀の雰囲気を色濃く残している。
 若い客に媚びたところがないのが、いっそ清々しいくらいだ。
 そんな硬派なホテルの一角で、吉崎は正座をしていた。しかもトイレの前でだ。
 洞窟に閉じこもってしまった女神の名前はなんだったろうかと思いつつ、ぴくりとも動かないドアに向かって呼びかけてみた。
「理世さん」
 部屋に入ってすぐ、理世はトイレに立てこもってしまった。
 よほどトイレに行きたかったのだろうと最初は呑気に構えていたのだが、十分過ぎたあたりでさすがに心配になってきた。
「具合が悪いんですか? どこか痛みますか」
「違うんです」
 長い沈黙のあと、ようやく返答があった。
「……自分が情けない」
 扉の向こうから、苦しげにかすれた声がする。
「私は女性の格好をしているってだけで、心まで女性というわけじゃありません。体力も腕力も人並み程度にはあると思います。それなのに、抵抗できなかった。……足がすくんで、何もできなかった」
「俺だって、いきなり夜道で絡まれたら何もできないと思う。恐いもんは恐いですよ」
「こんな時も優しいんですね」
 泣いているんじゃないだろうかと不安になって、吉崎は強めにノックした。
「理世さん、開けて下さい」
「だめ」
「誓って変なことはしない」
「……あなたに、見せる顔がありません」
 間を置いて、明らかに作ったとわかる明るい声がした。
「少し頭を冷やしていきます。足も大丈夫、普通に歩けます。ですからもう」
 理世に頑固で理屈っぽいところがあるのは承知している。吉崎は諦めた。
「わかりました。帰ります。でもその前に」
 吉崎はベッドに放り投げたままにしてあった鞄を持ってきて、中を探った。
「顔は見せなくていいんで、手を出して下さい」
「手?」
「無理に引きずり出したりしない。約束する。どうか手だけ貸して下さい」
 わずかに開いた扉から、恐る恐るといった風に手が伸びてきた。
「ちょっと失礼」
 吉崎は理世の掌をぐいっと引き寄せ、油性ペンで自分の携帯の電話番号を書き入れた。
「夜中でも明け方でもいい。いつでも平気だから、もし辛くなったら連絡してください。必要なければ、これ油性なんですけど風呂で洗えば落ちるはず……」
 たぶん、と自信なさそうに言いながら、吉崎は自分が着ているコートを見下ろした。さっき派手に転んだので泥だらけだ。中に着ているスーツは上下とも辛うじて被害を免れている。
 理世の服は汚れていた。着替えが必要だろう。靴も。男に襲われたときに脱げて茂みの奥に入り込んでしまったのか、いくら探しても見つからなかった。つい忘れそうになるが理世は男性で、背格好も吉崎と似ている。営業の血と汗と涙が染み着いたスーツと革靴でも、ないよりはましだろう。
 吉崎はスーツとワイシャツを脱いで、壁に備えてあるハンガーに掛け、靴を下に置いた。それと、部屋に備え付けてあったメモ用紙に宿泊の代金を包み、左右の靴の間に挟んでおいた。
 防寒のために上下共に着込んでいた黒いアンダーウェアの上に、直接コートを羽織る。足元は靴下だけだ。
 これまで露出狂と呼ばれる人種とかかわり合いになった記憶はないが、想像上の彼らは今の自分のような格好をしていた。アンダーウェアを着ていたのがせめてもの救いだ。
「おやすみ」
 去り際、吉崎は声を張り上げた。トイレの中はしんと静まりかえったままだ。
 通報されませんように職質されませんようにと祈りながら、吉崎は必死に自転車のペダルを漕いだ。

 幸い通報されることも職質されることもなく家に帰り着いてから、風呂に入り、飯は食わず、長い上にものすごくつまらないから読んでみろといって堺が貸してくれた推理小説を読んで過ごした。実は犯罪組織の幹部で事件の黒幕だったヒロインが主人公の腕のなかで眠るように息絶えたところで朝を迎えた。
 五分ごとに携帯を確認するが、理世からの連絡はない。便りがないのは元気な証拠、と自分に言い聞かせるもののやはり気がかりだった。
 やはりあの状況でひとりにするべきではなかっただろうかと後悔が押し寄せてくる。
 こうなるとあまり腹も空かず、日中はカップ麺を食べただけだったが、夕方になり冷蔵庫が完全に空であることに気づいて、ようやくスーパーに行こうと重い腰をあげた。
 財布を掴んだところでちょうど呼び鈴が鳴った。どうせ宅配便だと思い、相手の確認もせずに三文判を持ってドアノブを捻った。
 ドアの向こうで吉崎を待っていた人物は、宅配業者の制服を着ていなかったし荷物も持っていなかった。すでに判子を押す体勢に入っていた指がぴたりと止まった。
 しばらく固まってから、吉崎は槇野に尋ねた。
「どうした?」
「連絡もせずに、すまない」
 槇野は硬い表情をして詫びた。
「それは別にいいんだけど……何かあったのか? とりあえず中に入れよ。寒いだろ」
「ここでいい。借りたものを返しに来ただけだから」
 槇野は言って、右手に持っていた黒いテーラーバッグを差し出した。
「借りたものって……服か?」
 吉崎は槇野と再会してからの日々を思い返したが、物を貸し借りをした覚えがなかった。酔っぱらってしでかした可能性もあるので、絶対にとは言えないのだが。
 ともかく受け取り、ファスナーを開けて中身を確認する。
「……あれ」
 クリーニングされた様子のそれは、まさしく吉崎のスーツだ。さらに紙袋を渡されて、促されるように視線を落とした。
 糊のきいたワイシャツ、新品みたいに磨かれて見違えるようになった靴、それから紙幣の入った封筒。
 確かに、吉崎は昨日の夜これらの品をホテルに置いていった。
 しかし、その場にいたのは槇野ではない。
 吉崎は頭を思い切りひねりながら言った。
「お前、俺がこれ貸した人と知り合いなのか」
 差し障りがあるかも知れないと、理世の名前は曖昧にぼかした。
 肯定も否定もせず、槇野は真っ直ぐに吉崎を見据えた。外は寒かったのだろう。唇がひどく乾いている。
「僕はずっと君を騙していた。君はいつも誠実にしてくれたのに」
「どういう意味だ?」
 それまではめていた手袋を外し、無言で掌を差し出してきた。やや滲んではいるけれど、見覚えのある汚い字が飛び込んでくる。それだけで十分だった。
 吉崎は掌から目を上げて、はじめて見るように槇野を眺めた。間抜けにもほどがある。どうして気づかなかったのだろう。服と化粧で装ってはいても、手も眼差しも確かに彼のものだったのに。
「ああ、そうか」
 驚きすぎて頭も口も状況についていかず、それしか言葉が出てこなかった。
 槇野は手袋をはめながら続けた。
「もうひとつ謝ることがある」
「もうひとつ?」
「君が好きだ」
 機械みたいに抑揚なく告げて、きれいに頭を下げた。
「ごめん」
 槇野はそう言い残して部屋を出て行った。
 追いかけろと頭は叫んでいる。
 それなのにその短い拒絶は、吉崎の足を完全に動けなくさせた。