裸足のサンドリヨン
 槇野が住むタワーマンションのすぐ真下には、ベンチと砂場しかない小さな公園があった。
 吉崎は公園の入り口で自転車を止め、近くにあった自動販売機で温かい缶コーヒーを買ってからベンチに腰かけた。
 そのとき、灌木の植え込みが不自然にさざめいて、一匹の猫が悠然とした足取りで現れた。
「にゃあ」
 薄い茶色の毛をした猫で、動きを止め、じっとこちらの様子を窺ってくる。ほ乳類といえば犬しか飼ったことがなく、ネコ科の動物とコミュニケーションを交わした経験は乏しい。
 たっぷり五秒ほど見つめ合ってから、吉崎は真剣な表情で言った。
「……にゃあ」
 できる限りの誠意をこめて挨拶したつもりだったが、「馬鹿じゃないの」とでもいうようにつれない一瞥をくれて、猫は再び茂みの奥に姿を消していった。
 一抹の侘びしさを胸に、吉崎は空を仰いだ。
 ちっぽけな視界を覆うように、巨大なマンションが光を放ってそびえ立っている。黒い夜空を貫く輝きは冷たく機械的で、眺めていると冬の夜の寂しさが余計に骨身に染みる。
 吉崎は、缶の表面に指の腹を押しつけて握った。凍えるような夜気で強ばった指先が、曲面から伝う温もりでゆるやかに解けていくのを感じた。
 この一週間、毎日のように槇野に連絡をしたが、一度も返事はなかった。
 断じてストーカーではないと誰にともなく言い訳しつつ、待ち伏せみたいなこともやった。電車を降りてから、構内にあるコーヒーショップの改札口がよく見える席で、次の電車を待った。その次も、その次も。槇野が行きそうなコンビニで時間を潰した日もあった。電車の到着時間が来る度に期待と失望を繰り返し、ようやく気がついた。
 槇野もこうして、会社帰りに自分を待っていてくれたんじゃないか。会う頻度を考えたら、偶然であるはずがなかった。
 それにあの夜。理世が男に襲われた公園は槇野の家とはかなり離れているし、周囲には住宅街が広がるばかりで目的もなく来るような場所ではない。
 自意識過剰にもほどがあるが、もしかしたら、吉崎を一目見ようとアパートに向かっていたのかもしれない。
 今このとき、吉崎がそうしているように。
 白い息を吐きながら目を凝らす。マンションの最上階は高すぎて、地上からでは槇野がいるのかいないのか確かめることはできなかった。
 元気にしているだろうか。
 同窓会で会ったときから、少しずつ痩せている気がしていた。
 飯はちゃんと食ってるのか。
 病気をして、寝込んだりしていないだろうか。
 あのひとりでいるには広すぎるリビングで、苦しんではいないだろうか?
 槇野はいい大人だ。自分で自分の世話くらいできる。
 だが……。
 吉崎は縋るように缶に額を当てた。
「お前も損な性分だよな」
 スーツも靴も素知らぬ顔で捨てればよかったのにと思う。そうすれば、女装もことも仕事のことも知られずに済んだのだ。自分は鈍いから、たぶん言われなければいつまでも気づかなかった。
 老婆を背負って必死に階段を上がっていた少年の顔が蘇る。泣きそうな顔をして、後悔して、それでも彼は決して投げ出さなかった。
 今日は金曜日だった。
 生真面目なやつだから、きっとあの店に出勤しているだろう。なまじ知識があるせいで、客と何をしているのか具体的に想像できてしまう。胸のあたりがむかむかした。理世と出会ってから今日に至るまで何度も金曜日を繰り返してきたのに、こんなむかつきを覚えるのは初めてだった。
 吉崎は固く目を瞑った。
 冬は気温が低いせいか、温かい季節よりもにおいの存在感が薄いような気がする。鼻の奥に染み着いている花の残り香が、いつまでも未練たらしく消えようとしない。
 その香りの主は理世なのか、それとも。
 瞼の奥で、男に組み敷かれているのは……。
 自分でした想像に、吉崎は頭を抱えた。
 荒々しくプルタブを開け、口に含んだ。
 とっくにぬるくなっていたコーヒーは、苦みしか与えてはくれなかった。吉崎は黒くて苦いだけの液体を、やるせない気持ちで飲み込んだ。

「へっくしょん!」
 横で盛大に放たれたくしゃみを避けるような動きをして、堺が顔をしかめた。
「風邪か?」
「ちょっとな」
「どうせコタツで寝るか風呂上がりに裸でウロウロするか飲み過ぎて道ばたで転がってたんだろ」
「選択肢はその三つだけか」
「それ以外の理由なのか?」
 驚いて聞き返された。自分という人間はこの友人の目にはいったいどういう風に見えているのだろう。吉崎は憂いを帯びた仕草でおちょこを傾けた。
 クリスマスを前にした祝日の午後、空は青く、太陽は高く、空気は冴え渡り、街の至る所でジングルベルが鳴り響いている。陽気な祝賀ムードに背を向けるように、二人は堺の家の近くにある飲み屋でくだを巻いていた。
 自宅近くにある居酒屋と定食屋を兼ねた店がいいと希望してきたのは堺の方だった。年末に仕事以外で都会に繰り出すなど狂気の沙汰だという。
 吉崎もここには何度か来たことがあったが、競馬のあった日には赤鉛筆が床のあちこちに転がっている、そんな店だ。クリスマスとは完全に隔絶されている店内には、安いチューハイのにおいと名物の煮込みの湯気がむわっと充満していた。
 店を出て行く若い男女の客がさりげなく腕を組んでいるのを見て、堺は鼻をならした。
「ったくよお、どいつもこいつも」
 婚約中の彼女がいるにも関わらず、過去から現在に至るまで堺はカップルという存在をこよなく憎んでいた。
「今日彼女は?」
「友達と買い物。おい、ちょっと聞いてくれよ」
 彼女と聞いて気付けが必要だったか、堺はぐいとハイボールを煽った。すでに奴の腹にはビールと日本酒が収まっていて、相変わらずのちゃんぽん具合だ。
 しかし、この場所が堺のマンションからタクシーでワンメーターの距離であることを鑑みて、吉崎は早々に制止する努力を放棄していた。
 酒でついた勢いもあって、堺の嘆きは止まらない。
「俺がディナーだぜ、ディナー」
 クリスマスは義理の両親になる人たちとホテルで食事をするのだと絶望的な表情で告げた。
「親父さんが支配人と仲いいらしくて、恒例行事なんだとさ。毎年これが続くんだ。終わりなき最後の晩餐だよ」
 そうかそうかと適当に相槌を打つ裏で、しみじみとした感慨を覚えていた。女は面倒くさいが口癖だったのに、その面倒くささを抱えて生きる気になったのだから、堺も変わった。
「あいつさあ、堺舞って名前になるのが嫌なんだと。語呂が悪いってさ。だから言ったんだよ、俺に婿養子になれってことかって。そしたら、そういう意味じゃない、全然わかってないって怒るんだよ。俺にどうしろってんだ?」
 堺が拳を戦慄かせたとき、テーブルに置いてあった携帯が小刻みに振動した。それまで見せていためりはりのない動きが嘘のような敏捷さで、吉崎は二つに割らんばかりの勢いをつけ携帯に掴みかかった。
 画面に表示された名前を見て、早くなりかけた鼓動が一気に落ち着いた。
「誰?」
「母親。正月は家族で旅行に行くから実家には誰もいないって」
「ペケは?」
「犬同伴可の宿だそうだ」
「お前は?」
「同伴しない」
「家出た息子なんてそんなもんだよな。俺面倒くさくて正月実家帰ったことねえよ。食う寝るテレビ観るですること同じだし」
 つまらなそうに吐き出すと、堺はおもむろに卓に肘をついた。
「お前、最近どうなの?」
「どうって」
「仕事以外」
「……筋トレしてる」
 全くの虚言というわけではない。吉崎はここ数日というもの、腹筋をし、スクワットをし、鉄アレイを上下しと、空いた時間があればせっせと筋力増強に励んでいた。
 にも関わらず、これまでの人生で経験したことのないもやもやは一向に晴れなかった。
 気持ちの切り替えが早いのだけが取り柄で、たとえ仕事や私生活で多少のストレスが溜まっても、飲んだり寝たりトレーニングしたりすれば大抵すっきりする。だが今回はだめだ。……何やってもだめだ。
 集中力が落ちて仕事にも支障を来しているし、何を食ってもうまくない。何を飲んでも酔えない。考えなくてもいいことを考えてしまい、眠りも浅く寝不足気味だ。
 京子と別れたときには、わだかまりよりも申し訳なさとか情けなさとか、別の感情の占める割合の方が遙かに大きかった。こんな自分の周囲にあるもの全てを飲み込んでしまうような、ブラックホールみたいな純粋なもやもやではなかった。
 今日だって仕事でもしていれば気が紛れたのに、営業所があるビル全体に清掃業者が入るとかで出勤禁止命令が出てしまった。ひとりで悶々と過ごす休日なんて考えるだけで憂鬱で、堺からの誘いを断る理由はなかった。
「お前、離婚決まったときも筋トレしてたよな」
「……それがどうした」
「いや、吉崎がそんなに機敏に携帯に反応するの初めて見たと思って。マウンド以外でも早く動けるんだな」
「だから、それがどうしたっていうんだよ」
「女でもできたか」
「まさか。一年も経ってないのに」
 遠い昔のことに思えるが、去年の今頃は左手の薬指に指輪をしていたのだ。
「離婚したとたんに遊びまくる奴だって多いぜ。それに、別れるずいぶん前から別居してただろ」
「それは、あっちが転勤して」
「でも、その頃にはもうだめだろうって思ってたんだよな」
 今日の堺はどうしたというのだろう。突然超能力に目覚めたか、それとも焼酎に一服盛られたのか。痛いところをぐさりぐさりとついてくる。
 堺はふん、と肉付きのいい鼻を偉そうに鳴らし、年季の入った木製の椅子にふんぞり返った。
「言いたくないんなら言わなくていい。俺も別に聞きたくねえし。けど、仕方ないから終電まで付き合ってやる」
「……弱いくせに」
 堺らしい気遣いに、思わず笑みがこぼれた。
 吉崎は観念して口を開いた。
「俺の知り合いにAさんという男がいるんだが……」
 Aさんが実は吉崎本人で、相手が男で、しかも槇野であることをにおわせるような箇所は端折って話したので整合性がとれていない部分は多々あったが、酔っぱらいは気にしていないようだった。堺は次に会うときにはこの話を全く覚えていないだろう。彼の酒癖で比較的害のないもののひとつだった。
 一通り話し終えるまでよく耐えてくれたと思う。堺は爆発寸前という形相をしていた。
「お前らどっちもどっちだよ。揃いも揃ってぐずぐず……」
 息継ぎが必要になるところまで、堺は延々とぐずぐずを繰り返した。最後の「ぐず」に来てようやく気が済んだようで、やりきったという表情で肺に新鮮、とは言い難いアルコール臭をたっぷり含んだ空気を送り込んで続けた。
「特に吉崎、貴様だ。鈍い鈍いと思ってたけど本当に鈍いんだな」
「いや、だから俺じゃなくてAさん……」
「お前、俺と乳繰り合えるか」
「……は?」
 時が止まった。比喩ではない。時の流れが確かに停止した。
「だからさあ」
 肉体を離れ、飲み屋の天井を突き破り風に乗り雲を越え大気圏に突入した吉崎の魂を地上に引きずり落とすために、堺はバン、と卓に拳を叩きつけ、ひときわ大きな声を上げた。
「俺と乳繰り合えるのかって聞いてんだよ!」
 隣の席でひとり気持ちよく一杯やっていた男の顔が恐怖に凍りついた。淡いピンク色に染まっていた禿頭から血の気が引いていくのを、吉崎は夢でも見るかのように眺めていた。
 自分の言動が引き起こした悲劇に気づくこともなく、酔っぱらいはなおも熱弁した。
「一番最初の認識からずれてんだよ。普段頭使わないくせに下手に考えようとするから混線すんだ。シンプルにいけ、シンプルに。思い描いてみろ。もし相手が俺だったら、わざわざ店にまで傘なんて返しに行ったか? 万単位の金払ってだぞ」
 理世の格好をした堺……言われたとおり思い描こうと努力したが、突如視界に現れたノイズが邪魔をしてうまくいかない。
「ああ、うん、どうだろうな……」
「返すにしても、店員に預けるとかそんなとこだ。あわよくば、なんて下心があったんじゃないのか? いやあったんだ。俺の知る限り、そいつは聖人君子じゃない。普通の男だ。つまり」
 堺は吉崎の鼻先にびしりと人差し指を突き立てた。
「惚れてんだよ」
「……Aさんが?」
「馬鹿、お前がだ」
「そうか」
 吉崎は呆けたように復唱した。
「惚れてたのか」
 その瞬間、欠けていたパズルのピースが胸のどこかでかちりとはまる音がした。
「やっと自覚したか? だけどいいか、むしろ問題はここからだ。お前いつも女に流されてばっかりだったろう。でもその相手は今逃がしたら終わりだぞ、確実に」
 いつの間に注文しかつ運ばれてきたものか、堺の手にはサワー用のグレープフルーツが握られ、指の間から生温い汁を迸らせていた。
「お前の性格からして策を弄してもうまくいかないだろうから、俺が簡単な技を伝授してやる。まず夜景の見えるホテルだ。高いシャンパンもつけろ。花があればなおいい。それからこう言うんだ」
 堺の話術に引き込まれて、吉崎は思わず固唾をのんだ。
「やらせてください」
 固唾とやらが口内で跡形もなく消えた。堺は構わず続けた。
「ここでへらへら笑ったら台無しだぜ。土下座も忘れるな。ベッドの上じゃだめだ。床でしろ。頭をこれでもかとこすりつけろ。誠心誠意、そこがポイントだ。いいか、床だぞ」
「……参考にさせてもらう」
 参考の後につく「程度」はそっと胸に秘めておいた。実行するかはともかく、友人の助言を有り難いとは思っているのだ。
「おう」
 吉崎の二倍はあろうかというむっちりと肉の付いた腕で、堺は友の背中を一発叩いた。吉崎は背骨が上げる悲鳴を確かに聞いた。
「お前もさあ、もうちょっとしまりのある顔して、ましな服着て、一切しゃべらずに黙ってたら女受け悪くないと思うぜ」
「それはもはや俺ではないな……」
「で、明日は何の日だ?」
 酩酊者の思考は時空をたやすく越える。あまりに急激に話題を転換されて、吉崎は反応するタイミングを逸した。宙に放り出されたままの意識がふとレジ付近の壁にかけてあるカレンダーで止まったとき、自然と口が開いた。
「……クリスマスイブ」
「の?」
「金曜日」
「正解。よかったなあ、Aさん。この週末は日本中が集団催眠にかかってる。せいぜい頑張っていちゃつきやがれ」
 堺はけっと憎々しげに言い捨てた。

 その年の課の忘年会は堺との会合の翌日、つまりクリスマスイブの金曜に行われた。嫌がらせのような日程であるが、課長がどうしてもこの日以外に都合がつかないとごねたのだ。
「今年は忘年会やめて新年会にしよう、って課長がひとこと言ってくれればいいのに。空気読めないよねあの人」と課長を責める女子社員の声を幾度となく耳にした。恐らく女子更衣室などでは、それを遙かに凌駕する苛烈さで弾劾されていたと思われる。
 当日、貸し切りの座敷には白々しい和やかさが充満していた。泣く泣く予定をキャンセルした者三割、予定はないもののわざわざクリスマスにやるなよと思う者三割、そもそも職場の飲み会になど出たくない者三割、体調不良等その他の理由で早く帰りたい者一割、出席者の心情の内訳はおよそこんなところだった。
 誰にも幸福をもたらさない宴席は早々にお開きとなり、二次会に繰り出そうという声も上がらず、めいめい「誘ってくれるな」と背中で訴えつつそそくさと散った。
 ただひとり飲み足りなさそうな課長の甘えた視線をかいくぐり、吉崎も駅へと急いだ。飲み会の後だというのに、足取りはいつになくしっかりしている。理世、いや槇野と話をつけるために素面でいたかったので、乾杯から最後までウーロン茶で通したのだ。
 上司から同僚から後輩まで、つまり同席したほぼ全員に腹が痛いのか熱があるのか悩みがあるのかと驚かれ、いらぬ心配をかけてしまったのは誤算だった。だが、宴会部長とて酔いたくない夜もあるのだ。
 急いだ甲斐あって同僚たちより一足早く駅には着いたものの、どうにも改札口の様子がおかしい。改札前を埋める群衆は殺気立っていて、混雑しているというよりは阿鼻叫喚の地獄絵図だ。
 そのとき、嫌な予感しかさせない電子音がスピーカーから流れ、その場にいたほとんどの人間がばっと顔を上げて続く構内放送に耳をそばだてた。
「当駅で発生いたしましたお客様トラブルの影響で、ただいま上下線とも運転を見合わせております」
 そこかしこで悲鳴が上がった。
 隣で酔った男がトラブルを起こしたお客様を呪い、鉄道会社を呪い、クリスマスを呪い、果ては世界と人類を呪い始めた。一部同意できるところもあるが、吉崎には天地創造に関する文句を言っている暇はない。今いる場所から店まで結構な距離がある上に、ただでさえ忘年会で時間を食ってしまったのだ。だが考えることは皆同じようで、素早く踵を返し向かったタクシー乗り場にはすでに長蛇の列が出来ていた。
 もはやこれまでかと心折れかかった吉崎の耳に、天使か悪魔か、とにかく堺によく似た声の何者かが囁いた。
「今逃げられたら終わりだぞ」
 くそ、と奥歯をきつく噛みしめた。
 そんなの、言われなくてもわかっている。
 囁きの残響を押しのけて、吉崎は毅然として顔を上げた。そして走り出した。途中でコートを脱ぎ、スーツの上着を脱ぎ、丸めたネクタイを尻ポケットに突っ込み、思うように動かない手足に無慈悲な時の流れを痛感しながら大通りをひた走った。道行く人々に困った酔っぱらいだと冷たい目線を送られようとも構わず走った。
 酸素が薄くなってきたのか、まとまりのない考えが目まぐるしく脳裏を通り過ぎていった。
 京子といるのは楽だった。気を使わないとか、自分らしくいられるとかいうよりは、相手にすべてを任せた楽さだった。
 プロポーズされたのも、別れを切り出されたのも向こうからだった。
 別れる前に話し合いもしたけれど、上滑りする言葉しか出てこなかった。お互いとっくに気づいていた。もう何をしても無理だって。それなのに、また最後の最後に選ばせてしまった。……選んでくれることを期待していた。
 走りに走って、ようやく店に着いた頃にはすでに十一時を回っていた。
 勢いよく引き戸を開けて中に飛び込むと、カウンターの中で酒の肴を用意していた女将が吉崎に目を留めて、あら、と声を高くした。
「ご無沙汰ですね。お水飲みます?」
 返答したいのに、ぜいぜいという人語未満の呼吸音しか出て来ない。
 汗だくで尻ポケットからネクタイをべろりと垂らしてぜいぜい言いながら入店した程度では女将の平常心はびくともしないらしい。水で満ちたグラスを差し出しながら、まるで熟練した猿の飼育係のように言葉なくして吉崎の意図を正確に汲み取った。
「理世ちゃん、今日はお休み頂いてるんですよ」
 赤い唇のつくる微笑みは、清冽で冷たく、底の見えない泉を思わせた。
「他にもいい子が揃っておりますよ。皆気立てがよくて、ご満足頂けるかと思いますわ」
 よく冷えた水をぐっと飲み干すと、ようやく耳障りな呼吸音が収まった。
「……いえ、やめておきます」
「お言付け、承りましょうか」
 吉崎は一端口を開きかけて、再び閉じた。
「自分で伝えます」
 店を出てとぼとぼ歩く。気が抜けたとたん、急に足が笑いはじめた。おかしくもないのに、吉崎も笑いたい気分だった。冬の夜だ。当たり前だが寒い。冷えた汗が身体の熱を容赦なく奪っていくが、コートを羽織るのも億劫だった。重くて邪魔なので、捨てていってしまいたいくらいだ。この時期にコートも上着も着ずワイシャツ一枚でふらふらしているなんて、さぞ馬鹿みたいに見えるだろう。それが余計にまた笑えた。
 ふと、路地を曲がろうとしたところで背後から軽い足音が追いかけてくるのに気がついた。まさかそんなはずがない。どうせ客引きか何かだ。振り返るつもりはなかったのに、足が勝手に止まった。
 十歩ほど離れた場所で、広がったスカートがぱたりと落ち着く。あの急な階段を駆け下りてきたのだろう。彼は息を弾ませて、頬を上気させていた。
「……それどうした」
「え?」
 吉崎の指に促されて視線を落とし、自分が何も履いていないことにようやく気がついたらしい。貧弱な街灯の光でもわかるくらい、槇野は真っ赤な顔をしていた。