裸足のサンドリヨン
「下ろせよ! 人が見てるだろ!」
「ガラスでも落ちてたらどうすんだ」
 店に戻ったとき、吉崎は裸足で飛び出してきた男を米俵のごとく抱えていた。
「何度もご贔屓に」
「どうも」
「理世ちゃん、捕まっちゃたわねえ」
 呑気に言う女将に軽く会釈して槇野を下ろし、吉崎は店の奥の階段をどすどすと上がった。槇野も慌てて後を追ってくる。
「ここでいいんだよな」
 主に先んじて突き当たりの部屋に入る。それからコートと上着を鞄を黒い塊にしてどさっと床に放り捨てた。
「お前は座ってろ。お茶は俺が入れる」
 そう宣言して茶器を手元に引き寄せ、山盛りにすくい上げた茶葉を急須にぶちこんでポットの湯を勢いよく落下させた。職場では来客応接に粉茶を利用しているので、正しい日本茶の入れ方などわからない。
 吉崎は胡座を崩して、槇野は膝を合わせて正座して、湯気の立つ茶碗を挟んで対峙した。
 窓を塞ぐ雨戸は日中でも開けられることはないのだろう。昼間こんこんと眠り続け、夜にだけぼんやりと目覚める湿った薄暗さが気怠げに二人を取り巻いていた。この部屋を通り過ぎていった情欲の跡が手形となって染み着き、畳に床に電灯の光にすら、べっとりと残っているようだった。隅に置かれた電気ストーブが必死に熱を放っていたが、古い建物特有の重みを含んだ空気は沈殿したまま動こうとしない。
 ときたま視線を向けると、槇野は見られるのが恥ずかしいというよりも嫌でたまらないといった様子で、思い切り目を背けられた。
 壁時計が秒を刻んでいる音にせつかれて、一晩中続きそうなだんまりを退けたのは吉崎の方だった。
「この一週間、家帰ってたか」
 それまで俯いていた槇野が、不意を突かれて顔を上げた。
「終電に間に合わないから、会社近くのホテルに泊まってたんだ。仕事が立て込んでて……」
「ちゃんと寝て飯食ってんのか?」
「ああ」
「毎晩、駅で待ってたんだよ。でも会えなかった。だから病気でもしてるんじゃないかって思ってさ。元気にしてるならよかった」
 吉崎は熱い茶をすすった。濃すぎたようで、強いえぐみが喉にいがらっぽい刺激を残す。しかし今の気分には似合いの渋味だった。
 精根尽き果てましたという様子で、緑茶の海にぷかりと横たわる茶柱を見つめながら言った。
「あのさ、どんなに親しい人間にだって、自分の全部を知ってもらう必要はないだろ。秘密にしたいことなんていくらでもある。俺がお前と同じ立場でも、言わなかったと思うよ」
 槇野は一瞬困ったような表情を浮かべ、黙って茶碗に口をつけた。
「濃すぎたな」
「いや、ちょうどいい」
 茶碗の縁についた口紅の赤色を厭わしげに親指の腹で拭って、苦笑した。
「王子が聞いて呆れるな」
 それからぽつりぽつりと話しだした。
「最初は、実験みたいな感覚だった」
 化粧をもっと深く知りたいと思い、自分でするようになったこと。化粧に合わせるために女装も始めたこと。自室で密かにしていたのが、転勤をきっかけに外に出てみようと思ったこと。
 家電の説明書でも朗読するみたいに、乾いた言葉が並んでいく。
「服やメイクを勉強して、自分の顔立ちや身体に合うよう研究を重ねた。完全な女性の姿を作り上げていくのは楽しかったよ。特に、開発に携わった製品をうまく活かせた時の嬉しさはひとしおだった。でも、そのうち欲が出てきた。この姿を人に見せたい、褒められたいと思うようになったんだ」
 槇野はずっと喋り続けているのに、まず沈黙があって、その間を言葉が埋めている感じだった。真っ暗な場所から細くて長くていやなものをずるずる引きずり出すような話し方をする。
「絶対に男だと見破られない自信はあった。外に出る前にも、おかしいところがないか何度も何度も鏡を確認した。……それなのに、だめだった。誰かとすれ違う度に足が震えた。本当は皆男だってわかっているのに、気づかない振りをしているんじゃないか、心の中で変態だと笑っているんじゃないか。見るに耐えないひどい顔だと思われているんじゃないかって。人目が気になって、ただ街を歩くだけで恐くて恐くて仕方がなかった。男が女性の格好をすること……普通の範疇から外れることの意味を、理解したつもりで全然わかっていなかったんだ。だから、きれいだねって声をかけられて、浮かれて、好きでもない相手と寝た。何人も。そのときだけ、自分が認められているような気がした。満たされた。そのまま流されてこの仕事をはじめた。いい年して、馬鹿みたいだろう?」
 自らを嘲るように唇が歪んだ。
 上辺だけの慰めが許される雰囲気ではなかった。吉崎は率直に言った。
「仕事でもそれ以外でも、自分が頑張ってきたことを認められたら嬉しいだろ。年なんか関係なく」
 そうかな、と槇野は投げやりに言い捨てた。
「汚いし見苦しいよ」
「何が」
「何もかも」
 喉の乾きを覚えて、吉崎はもう一口含んだ。ぬるくなりかけた茶の苦みが舌に堪える。
 ひとくたにされた中に、化粧への思いも自分への好意も含まれているのが悲しかった。菜摘の悩みは人生の一部だとか言っておいて、あんまりじゃないか。
「あんなことを言って、不愉快な思いをさせてすまなかった」
 あんなこと、で濁された内容はすぐに見当がついた。
「不愉快?」
 他人事めいた物言いに思わず眉尻が上がる。
「人を好きになるってのは、謝るようなことで不愉快なことか?」
「そういう意味じゃない。あのときはどうかしてた。動転してたんだと思う。深い意味はないんだ。忘れてくれ」
「忘れてくれってな」
 吉崎は正面に視線をとどめたまま床についた手に力を入れて、ずっ、と膝を近づけた。
「そんなに簡単に済ませるなよ。……じゃあ、俺はどうしたらいいんだよ」
 長いこと色あせた古い畳の上を所在なさげに這っていた手が、膝の上に置かれた槇野のそれに重なった。
 吉崎が知る限り、槇野は決して鈍い男ではない。その行為の意味するところを察して、背筋がぎくりと緊張した。
「君は勘違いしている」
「勘違い?」
「この店は特殊だから、雰囲気に飲まれて混乱しているだけだ」
「俺は素面だし正気だ」
「僕が余計なことを言ったせいで、友情と、それ以外の感情を取り違えたんだろう」
「人の気持ちを勝手に決めるな」
「決めつけているわけじゃない。事実だ」
 急拵えの心理学者に、次から次へと屁理屈を並べられるのだからたまらなかった。
「お前な、いい加減に」
「もし」
 吉崎の叱責を興奮気味に遮ってから、抑えた語調で言い改めた。
「……もし、それでも君が好意を抱いてくれているとしたら、相手は理世であって僕じゃない」
「何でそう思うんだよ」
「理世の見た目が女性で、君の恋愛対象も女性だからだ」
「お前の腕に筋肉ついてるのも胸がないのも知ってるよ。触ったことあるだろ。……それに想像もした」
「想像は現実とは違う」
 参った、と吉崎は頭をかいた。
 冷静に諭してくるくせに、素直というか、詰めが甘いというか。
 ならばさっさと重ねたままにしてある手を払いのければいいのだ。なぜ力をこめているわけでもなのにそうしない。なぜ、そんなに苦しげな顔をする?
 槇野の意固地は相当なものだ。自分も口が達者な方ではない。話せば話すだけもつれる。こぼしてはいけない言葉がこぼれ落ちる。
 苦りきって見つめた先にある、斜に俯いた横顔は美しい線を描いていた。
 かつて理世の表情に生き生きとした魅力を与えていた化粧が、今は槇野の心を殺している。
「……証拠が欲しいならくれてやる」
 吉崎は勢いよく立ち上がって、壁際でくたびれていた鞄から小さな包みを取り出した。
 中央に鎮座した雪だるまが微笑みかけてくるその包装紙には、さらにこれでもかとベルやらツリーやらが描かれていて、ちょっとやそっとではお目にかかれないくらいクリスマス色に溢れていた。
 これを手にするまでの苦難の記憶が吉崎の瞼に次々と蘇ってきた。昨日堺と別れた後、意を決して突入したデパートの化粧品売場は、どこもかしこも明るく衛生的で美しく、いい香りがして、つまり自分と共通する点はどこにもなかった。場違いも程度が過ぎると泣きたくなるのだと知った。
「化粧品って店の種類ごとに扱ってる商品が全然違うんだな。デパートの化粧品売場なら何でもあるんだろうと思って行ったら、ここじゃ扱ってない、ドラッグストアで売ってるって言われてさ。わざわざその近辺で扱ってる店を調べて教えてくれたんだ。芋洗うみたいに混んでたのに」
 槇野の会社の社員教育の徹底ぶりを褒めながら、包装を丁寧に剥がしていく。
 結局購入したのは小さな個人経営のドラッグストアだったのだが、レジにいた年輩の女性店員が「プレゼントかしら? まあまあまあ!」と何も説明していないのにひとりで納得し、張り切ってラッピングしてくれたのだ。
「口紅の種類、これしか知らなかったわけじゃないからな」
 槇野が声を詰まらせる気配を感じながら、吉崎は小さな紙箱の中からサンドリヨンの名が付いた口紅を慎重に取り出して、そっと差し出した。美しい曲線で構成された円筒は真新しく清潔で、指紋や手汗で汚してしまうのが罰当たりな気がする。
「デパートのカウンターでも色々見せてもらったんだ。でも、やっぱりこの色が一番いいと思った」
 ぎこちない手つきで捻ると、先端から淡いピンクが顔を覗かせた。だが、そこで動きが止まった。
「吉崎?」
 戸惑う槇野を置いて口紅と対峙すること数秒、吉崎はぼそっと呟いた。
「俺にも似合うかな」
 そして自分の唇に塗った。加減がわからず、力任せにぐりぐりと塗った。保湿用のリップクリームより重厚感があるな、というのが初塗りの感想だった。
「あ」
 槇野は完全に石と化した。あ、より先の言葉が続かない。
 ここまで無防備に感情を晒した槇野の顔を見たことはなかったし、これからもないだろう。それほど驚いていた。驚きすぎて息をするのを忘れてるんじゃないかと心配になるくらいだった。
「……冗談だよ」
 隙だらけになった男の腰を強く引き寄せ、半ば開いた口を自らのそれで覆う。口紅を塗り込めるつもりで、ときに角度を変え、吸い上げを強くし、また弱くし、二つの唇を隙間なく密着させた。
「やっぱりお前の方が似合うよ」
 唇を離して、吉崎は満足したように頷いた。
「俺は欲張りなんだ。……理世も槇野も両方欲しい」
 抱きしめようと腕を伸ばすと、肩のあたりで弱い声がした。
「服が汚れる」
 望むところだと無視し、女性にするには少しばかり強すぎる力で抱いた。抵抗というにはお粗末な、微かな身じろぎはすぐやんだ。
 理世と槇野、二人の人間の輪郭が腕の中でぴたりと重なった。物語の登場人物めいていた理世という存在が、おとぎ話の世界を飛び出して、やっと息をしはじめたみたいだった。
 一度肌を合わせてしまってはどうにも離れがたく、無言の抱擁はしばらく続いた。
「今、急に思い出した」
 身を解いた槇野がふっと目尻を緩め、吉崎の頬を両手の掌に収めた。
「中学の時、色付きのリップクリームを買ったことがあったんだ。女の子の格好をして君と出会ったら、もしかして好きになってくれるんじゃないか。そんな想像をしてね。結局付けないで捨ててしまったけど。……同窓会になんて、行かなきゃよかったと思ってた。思い出のまま終わらせればよかったと後悔してた。でも」
 と、不意打ちのように上から唇を重ねてきた。槇野らしくもない行儀の悪さで、濡れた舌が強引に入り込んでくる。快楽の在処を丹念に探られて、口腔をゆるゆると苛められる。絶え間なく与え続けられる柔らかな衝撃に、吉崎は耐えきれず槇野の腕を掴んだ。
 相手に移した色が今度は自分に、そしてまた相手に移る。においも移る。心が移る。互いにしがみつきしがみつかれ、染めて染められ、まるで毎回初めてするみたいに何度も飽きもせず繰り返した。
 同じ色を分け合っているのだと思うとたまらなく興奮して、芯から反響するような震えがきた。息ぐらいさせろよと文句を言うのも忘れてしまった。
 一つになっていたものが二つに戻る。口の端から溢れ落ちた唾液が、熱い舌先でゆっくりと舐めとられていった。
「きれいな思い出になんてしたくない」
 潤んだ眼差しが見つめてくる。熱に浮かされて再び軽く口づけると、吉崎は目覚まし時計に叩き起こされたかのように、突如としていつもの調子を取り戻した。
「お前、金に困ってるってことはないのか」
「え?」
「あとは、借金の保証人になったりだとか、生活の面倒見なきゃいけない親戚がいるとか……」
 質問の意図が読めず、槇野はきょとんとしている。
「いや、ないけど」
「それなら、この仕事やってるのはさっき言ってた理由だけか。プロとしてこの道を究めたいとか、そういうのあるのか?」
「そこまでは」
「なら来い」
 吉崎は槇野の手をとっておもむろに立ち上がり、小気味よい音を立てて襖を開け、廊下に飛び出した。襖は静かに開閉すべしとの祖母の教えはこのときだけ忘れた。
「女将!」
 いざ討ち入りでござるという剣幕で階段を駆け降りてきた吉崎を前にしても、女将は涼しい目元はやはり涼しいままだった。
「どうなさったの、そんなに恐いお顔して」
「折り入って話があります」
「何かしら」
「君、何考えて……」
 戸惑う槇野を手で後ろに押しやる。
 吉崎の脳裏には、いくつもの台詞が飛び回っていた。
 退職させてください。
 やめさせてください。
 どれもしっくりこなかった。
 もっとこの場に相応しい、適当な表現があったはずだ……。
「吉崎さん?」
 女将に声をかけられた瞬間、稲妻のような閃きが吉崎の全身を貫いた。
「身請けします」
「……身請け?」
「あの、即時の身請けっていうのは可能なんでしょうか。もしできないなら、やめるまで彼を予約します。金は何とか工面します。この場で前金が必要なら、多少の用意はありますので」
 吉崎は言って、おもむろに床に膝を突き手を突いた。それから床にこすりつけるように頭を下げた。もちろん誠意が伝わるようにだ。
 人生何が起きるかわからないものだ。まさか、堺のアドバイスが活かされる日が現実に来ようとは。
「お願いします」
 次の瞬間、女将の身に異変が起きた。淑やかな仕草で口元に手をあて、俯き、にわかに肩をふるわせはじめたのだ。
 そして爆発した。
 地の底から響くが如き豪快な笑い声によって、店の静寂は無惨に叩き割られて粉々になった。
 吉崎は我が耳を疑ったが、リング上で敵を挑発する悪役レスラーを思わせる、その野太い低音は間違いなく女将の繊細な唇から発せらている。槇野も唖然としていた。
「ごめんなさい。でも身請けって……ああ、おかしい。こんなに笑ったの久しぶり。吉崎さんて面白い方ねえ」
 女将は目の端に浮かんだ光るものを優雅に拭って、雄の地声を裏にしまいこんだ。
「それにとっても真面目。花を愛でるのに慣れてらっしゃらないのね。でもねえ、手折って自分のものにすればあなたの気持ちは楽にはなるでしょうけど、お天道様の下で見たら思っていたのと違う、なんてことになりはしない? 男のけじめなんてのに付き合わされた挙げ句、ぽいと捨てられたんじゃたまらないわ。嘘と嫉妬の苦みを楽しむのが大人の遊び方ってものよ」
「ご忠告傷み入ります。でも、俺はガキだし懐が広い男でもありませんから」
 ふうん、と醒めた目がこちらを見つめてくる。自分のしたことに迷いも後悔もないが、内臓の裏側までひっくり返されているようで、冷汗が出た。
「……そうみたいね」
 女将は肩をすくめて、カウンター脇にある黒電話のダイヤルを回した。
「悪いけど、お荷物持ってきてくれる? そう、一番奥のお部屋。理世ちゃんのもね」
 かたりともさせず受話器を置くなり、当の本人にも関わらず、現実離れした展開に頭が追い付いていない様子の槇野に深い溜息をよこした。
「理世ちゃん、前から言おうと思ってたの。あなた研究熱心なのはいいんだけど、客あしらいがねえ、融通が利かなくて。そろそろ頃合いじゃないかしらって」
「女将さん……」
 もの柔らかな物腰であるが、さっさと行けと目配せされる。
「細かいことは後で来て頂戴。今稼ぎ時なの。こんなところで揉められたら商売に障るわ。出て行くのはお勝手からにしてね」
 この狭苦しい建物のどこに潜んでいたのか、影のようにすっと現れた仲居姿の女性から荷物を受け取ると、二人は勝手口から出るためにカウンター奥にある厨房へと急いだ。
 そうそう、と取って付けたような気遣いが背中を押してくる。
「ちゃんと屋根のあるところまで我慢するのよ。風邪引いちゃうわよ?」
 遠回しに焚きつけられているのか皮肉られているのか。我慢できるともできないとも断言できず、黙って目を見合わせるしかない。
 入れ違いに、寒い寒いと身を縮ませながら暖簾をわけて三枝が入ってきた。女将はひょいと仮面を付け替えた。
「しばらくね、三枝さん。外はお寒かったでしょう」
「ちょっと温めてもらおうかと思ってね。心も身体も底冷えしてたまらんよ。今夜は家に帰ってもひとりなんだ」
「まあ」
「家内と娘は旅行に行っててね。本場のクリスマスが見るんだとか言って、わざわざヨーロッパくんだりまで。よくやるよ」
 声だけしか聞こえないが、寂しさを紛らわすためにわざと道化て笑う三枝の顔が見えるようだった。
「ところで今、吉崎君によく似たやつがいたような気がしたんだが」
「幻でもご覧になったんじゃありません?」
「てっきり理世ちゃんに骨抜きにされて、通い詰めてんのかと思ったよ」
「あの子なら辞めましたよ」
「そりゃまたずいぶん早いねえ。ついこの間入ったばかりじゃないか」
「時間なんて関係ありませんよ。ひとりを思い描いて夕化粧するようになったら、おしまいよ」
「女将も経験ありそうな口振りだな」
「さあ、どうだったかしら。昔のことなんて忘れちゃったわ」
 女将は甘く囁くように言った。
「それより、ひとときの夢を楽しみましょうよ。お二階どうぞ。絵美ちゃんがお待ちかねですよ」

 二人が放り出されたのは、人ひとりが通るのがやっとの狭い路地だった。よく見れば生ゴミくさい暗がりに同化して、隣の店の従業員と覚しき男が、しゃがみこんで煙草をふかしながら胡乱な視線でこちらの様子をうかがっている。
 いたたまれなくなって、別の路地に飛び込んだ。吹き付けたビル風に、槇野が横で首をすくめた。
 繁華街の片隅とはいえ、このあたりは人もまばらで自己主張の激しいネオンもなく、飲み屋がひしめく表通りとは流れる時間が違う。不思議な静かさだ。どろっとした人間のにおいで息苦しいくらいなのに、どこかからりとしている。喧噪が遠い。ビルの隙間から、星のない、窮屈そうな都会の冬空が見える。
「寒いな」
「ああ」
「悪かったな、勝手なことして」
「いいんだ。どちらにしろ近いうちにやめるつもりだったし……いきなりで驚いたけど」
「そういえば、今さらなんだがあの口紅ふだん使ってたか?」
 すでにもう十本くらい持っているものを贈ってしまったかもしれないと、急に不安になった。
「前にも言ったかもしれないが、あのラインは菜摘ちゃんくらいか、その少し上の若い世代をターゲットにしてるんだよ。あんな可愛らしい色、僕には」
 似合うと言う代わりにキスした。目線が合うくらいまで離れると、槇野が唇に触れてきた。
「……はみだしてる」
「お前こそ」
 路地裏の闇に紛れてどちらともなく笑って、ひどい有様になっている互いの口元をコートの袖で拭きあった。
 ここで屋根のあるところ、すなわち高級ホテルの夜景の見える部屋とシャンパンでも用意していたら言うことなしなのだろうが、残念ながら今日はクリスマスイブでどこも満室だろうし、吉崎は高いところが苦手だった。何より別の大きな問題がある。
「実は」
「どうした?」
「俺、けっこうまとまった額下ろしてきたんだ。金が尽きるまでお前を買い占めようと思って」
 槇野が声を潜めて聞いてきた。
「どのくらい?」
「給料三ヶ月分とボーナス。鞄に入ってるんだけど、あんまり長い間持ち歩きたくない」
 だから、とばつが悪そうに続ける。
「俺んち来ないか」
 我ながらひどい誘い文句だ。
 槇野は行くとも行かないとも言わなかったが、冷たい指を吉崎のそれに絡めてきた。
 何度も握り返して、真新しい気持ちでその感触を味わいながら、吉崎はこれからのことを考えた。
 迂闊にも写真を見せて以来、職場の女性陣から槇野を紹介しろとことあるごとに迫られている。
 しかし悪いがどれだけ粘られても、食事も飲み会も無期延期だ。
 汗ばんできた掌を照れくさく思いつつ、繋いだ手を丸ごとコートのポケットに突っ込んだ。身を寄せ合って影をひとつにして、タクシーを拾うために幹線道路目指して歩き出す。
 俺にだって、口紅を贈るぐらいの独占欲はあるんだから。