裸足のサンドリヨン
10
 二人を乗せたタクシーはアパート前の路肩で停車した。
 吉崎の部屋は一階にある。張り出した階段をくぐり、ドアの前に立つ。鍵を差し込む。ノブをひねる。玄関先で靴を脱いで上がる。
 不思議なことに、隣に特別な人間がいるだけで日常と惰性の産物でしかない一連の動作がいちいち新鮮に思えてくる。
 だがダイニングとリビングと寝室と物置を兼ねた六畳間の照明のスイッチを入れた瞬間、甘酸っぱい感傷はきれいに消え失せた。
 用意万端とでもいうように、敷きっぱなしの布団が空々しく出迎えてくれる。やっちまった。
 決してやましい気持ちがあったわけではない。朝、家を出るときにせっかく買った口紅を忘れないように何度も鞄を確認していたら、危うく遅刻しそうになったので片付けもせず慌てて家を飛び出した。それだけのことだが、ここでわざわざ説明するのも白々しくて、吉崎は素知らぬ顔で尋ねた。
「冷えただろ。温かいもんでも飲むか?」
 インスタントコーヒーくらいしかないけど、と付け足す前に後ろから腰に腕を回された。化粧と体臭と、それから恐らく色香というやつを凝縮したような艶めかしいにおいが、至近距離で弾けた。無防備なところに強烈な一撃を食らったせいで、心臓が三センチくらい跳ね上がった。
「いらない」
 さすがの吉崎も、じゃあ何がいるんだと聞くほど野暮ではなかった。
 冬の夜陰を孕んだコート越しの抱擁は、固く、冷たく、吐息で湿った耳朶のあたりだけが異様に熱く感じられた。
 付け焼き刃で仕入れた知識は、焦燥感に疼く身体の上を素通りしていった。ああしよう、こう言おうと思っていたことなどすべて吹っ飛んだ。
 着いた早々、昨日の今日で即物的すぎるだろうか?
 だが、清くも正しくもない大人に淫行抜きの恋愛は難しい。十代の若者と違って新陳代謝が悪いのだ。体温は低いし、寒がりだし、体力が落ちているからすぐ疲れる。……だからこんな夜は、たまらなく人肌が恋しくなる。
 コートすら脱ぎきる前に二人して布団に縺れ落ちた。
 冬ともなれば、布団とコタツが常に勢力争いをしているような狭い部屋だ。もう十分近いのに、本能はもっと近づけと欲張りに要求してくる。
 要求を素直に飲み込んで、吉崎は槇野を後ろから抱きすくめた。
 スカートの裾から見える膝は奥ゆかしく閉じられていた。その間に、指をそろりそろりと差し入れてみる。槇野はささやかな抵抗を試みたものの、結局は手が通る程度の幅を許してくれた。
「……ん?」
 最も奥深いところで、男性用の下着には縁のない素材に突き当たった。当然予想してしかるべきだったが、吉崎にはそのあたりの想像力が絶望的に欠けていた。
 レース?
 槇野は目線を逸らした。ぴんと張りつめた、腿の強ばりが伝わってくる。
「仕事中だったから……」
 聞いてもいないのに言い訳をもらす。なるほどと空返事をしてさわさわと撫でさすっていると、頬にうっすらと紅を刷いて睨んできた。
「言いたいことがあれば言えよ」
「いや、何色かなと思って」
 真顔で言ったら手の甲をきつくつねられた。そして悪戯を窘めるように、後ろ手で下着を侵されて弱いところをぎゅっと握られた。それがまた気持ちよさと痛さの境を心得た絶妙な加減で、思わず妙な声が出てしまった。
 するとそれまで弄んでいた光沢のある布が、ぐっと角度をつけた。生地が濡れている。息づかいも甘い。
 明らかな徴を示されてしまうとこちらものぼせてきた。レースに縁取られた部分からさらに奥へと指を潜り込ませ、柔らかい膨らみを軽く刺激する。
 と思うや、逆に丹念にいじりまわされて、与えたものを何倍にもして返された。じらされてじらされて、でも一番欲しいところは巧みに躱されて、もどかしさばかりが募っていく。
 たまらなくなって、窮屈そうに迫り出していた小さな布を引きずり下ろす。こちらも引きずり下ろされる。常に身体のどこかが触れていないと寂しい気がして、その慌ただしい脱ぎあいの合間にも時々キスをした。
 どちらともなく膝立ちになり、スカートをたくし上げた。槇野の腿にまとわりついているものについ視線がいってしまう。
「黒か」
「……馬鹿」
 あられもなく晒された脚の間は動物的な反応を見せているものの、目を伏せて恥じらう槇野の姿は清楚そのものだった。深窓の令嬢とか貞淑な若妻とか、遠い昔に絶滅した表現がよく似合う。それでいて黒だ。もの凄くはしたなくて、いけないことをしている気分になってくる。
 濡れそぼった先端が手に負えなくなってきたのが互いにわかってきて、二つの掌に収まっている二つのものを強めにしごいた。
 気恥ずかしかったのも罪悪感があったのもはじめだけで、すぐにその子供の遊びみたいな行為に没頭した。
 気温は屋外とさほど変わらないはずなのに、もうすきま風の冷気は感じない。寒さをしのぐどころか、衣類が、身体以外の全てが煩わしく思えてきた。
 槇野も同じことを思ったのか、示し合わせたようにコートを脱ぎ、シャツをゆるめていく。二つ目に指がかかったとき、槇野が躊躇したのを吉崎は見逃さなかった。後を引き取るように襟を崩していくと、開ききったところで緩やかな膨らみが露わになった。危なっかしい手つきでホックを外し、指に肩紐をひっかけて持ち上げてしげしげと眺めた。
「こっちも黒だな」
 振り向きざま、もう一生口を開くなと言わんばかりに唇を押しつけられた。生温かい舌が巻き付いてきて、口腔ごときつく戒められる。
 余計な言葉は唾液と一緒くたにされて吸い上げられてしまった。仕置きみたいな口づけは、甘いのに甘やかしてくれない。優しいけれど、優しいだけじゃない。
 唇と唇を繋ぐ透明な糸が切れるか切れないかのところで、今度は胸を飴玉みたいに転がされた。軽く歯を立てられると、その度に脳髄に電流が走った。首筋に耳に脇腹。露骨に声を出したわけでもないのに反応をあまさず掬い上げられて、静かに静かに逃げ場を奪われていく。
 無闇に快楽を煽り、貪る触れ方ではなかった。あの店で働いた長い期間ではなかったろうが、槇野の指先は、色街の艶やかさ、寂しさが肌に残るような愛撫をする。
 それに比べれば拙いものの、はだけた胸元の稜線をなぞると、突起に来て吐息が深くなり、愛撫にほんの少し隙が出来た。その間も互いの腰は離れず、一つの生き物のように緩やかな律動を刻み続けていた。
 不意に、腿をしきりに撫でさすっていた指が後部に回された。確実にその先を意識した行為は、これまでと同じようでいて同じではない。期待か不安かそれとも別の何かか、得体の知れない感覚で下半身にぞくりと震えがきた。
 もしここで少しでも嫌だという素振りを見せたら、槇野は敏感に察してそれ以上のことはしなかっただろう。
「……いい?」
 臆病なくらい何度も何度も吉崎の反応を確かめてから、甘く掠れた声で懇願してきた。
 ふだん絶対に我が儘なんて言わない人間が、我が儘にもならないような我が儘を必死に言おうとしている。
 たったそれだけのことに、胸の奥が熱くなった。
「なんて顔してんだ」
 弾みをつけて槇野の頬を両手で挟むと、ぱちんと軽快な音がした。
「いいよ。……来いよ」
 背骨が軋むくらい強く抱きしめられながら、そうか、俺がそっちでもよかったんだなと吉崎は改めて自分で出した答えを反芻した。
 槇野が女の格好をしているから逆だと思っていたが、互いがやりたいようにすればいいのだ。
 この部屋には、二人だけしかいないのだから。
 ただし、と吉崎は照れくさそうに条件を付けた。
「あのさ、途中までは自分でやらせてくれよ。まあ、その、何だ。一応は勉強してきたし……」
 異性とするときよりはるかに込み入った手順が必要なことは理解していた。理解しているからこそ、気心が知れた関係というのが邪魔をする。
 槇野はわかったと了承し、商売道具のポーチから大きめのチューブを取り出して、ジェル状の透明な潤滑剤を自分の掌に押し出し、吉崎の指に丹念に絡めた。
「上手くいかないようだったら、手伝うよ」
「努力する」
 冷たいジェルの感触は、すぐに二人分の体温になじんで柔らかく温かくなった。
 横になり、役立たずの深呼吸でごまかしながら浅い挿入を徒に繰り返した。どうにか第一関節まで捻じ込んだはいいが、指を圧迫してくる粘膜の生々しさに怯んでしまう。自分の身体の扱いにここまでてこずるとは思わなかった。
 この意気地なし根性なし甲斐性なし、と固く目を瞑りながら心の中で数十回目の叱咤を飛ばしたとき、そっと手が重なってきた。
「ちゃんと馴らさないと身体が傷つくから……一緒にするね」
「一緒って」
 手の甲をぐっと押されて出来た空間に、もう一本の指が入ってくる。自分のものと自分のでないもの、二本の指が身体の中でくっつく。絡まる。解こうとしても、解けない。
「待て待て待て、ちょっとそこは」
 過敏になっている場所にどろりとしたものが注がれる。たぶんローションか何かを足された。と思うや、内部をぐちゃぐちゃと音がするくらい中をかき回された。
「や、待てってば、いっ……」
 淑やかな顔をしているくせに、指は大胆すぎるくらい大胆だ。自分でするときの甘えや手加減がない。情け容赦なく神経の尖端を剥かれ、泥みたいな快楽に脳髄まで侵される。恥も外聞もない叫びを上げかけて、思わず枕に噛みついた。
 ふとそこで、腰に当たっているのが安い綿のシーツの雑な肌触りでないことに気がついた。
 いつの間にコートなんか下に敷いたのだろう。布団を汚すとでも思ったのだろうか。槇野らしい気遣いだが、ここにきて王子みたいなことをしてくれるなよと恨みがましく思った。
 さっき自分も口紅でシャツを汚してかまわないと言った覚えがあるが、あれとこれとは汚れの程度が違う。全然違う。
 枕を力いっぱい握りしめて、どうにか喘ぎ混じりに物が言えるくらいには息を整えた。
「それどかせ!」
「何?」
「コートだよコート。汚れるだろ!」
 だが必死の訴えは、届いて欲しいただひとりに届かなかった。
 槇野は低く耳打ちした。
「汚して」
 さらりと言われて視界に火花が散った。今まで味わったことのない強烈な感覚に、それが快感の一種なのだとすぐに気づくことができなかった。しかも、槇野は自分の指でそこに触れずに人の指を押して刺激してくるものだから、自慰に耽っているのを間近で観察されているみたいだった。
 まともな呼吸もできないなかで、内奥を責める水音が白々しく鼓膜を湿らす。
 わざとか。わざとだな?
 吉崎は歯噛みした。
 対等であるように見せかけてはくれるが、はじめから対等なんかではなかった。それくらいわかっていたのに。
「一度出そうか」
 投げっぱなしにされていた膨張物は、何度目かの摩擦で呆気なく音を上げた。ぐずぐずしていたものが飛び散ってスカートに染みをつくり、たぶんコートも汚した。腹に出した分は滑り落ちる前に指で掬われ、舐められ、残りはティッシュできれいに拭き取られた。
「……悪い」
 快感の成れの果ては惨めなものだった。不始末の世話をさせて情けなかったが、弛みきった手足がだるくて思うように動くことができない。
 コートにスーツにベルトにネクタイに靴下に黒いレースの下着、元々整頓されているとは言い難い部屋なのに、素材も色も統一感のない布きれが、好き勝手に床の上に乱れてもつれて汚れて絡んでいる。
 あらゆるものが乱れきった中で、忙しない呼吸と胸の上がり下がりだけが規則正しかった。
「吉崎」
 そっと抱き寄せてくる仕草が優しくて、それも少し乱れた。
「入れてもいい?」
 喉はまだ声を出すのを億劫がった。返事をする代わりに足をすりよせる。肌全体にうっすら汗がにじんでいた。
 身体は柔らかい方じゃない。それなりに筋肉もついているし筋っぽい。自分も固い。相手も固い。手に触れてくる全てが固いが、槇野の纏う香りだけが柔らかい。
「……ありがとう」
 ふとキスが落ちてきた。
 違う、唇もだ。
 もうあの口紅は落ちきってしまっただろうかと思ったとき、倦怠の残る腰を持ち上げられて、明らかに指とは別のものがあてがわれた。
「だめそうならやめる」
 だめというのは肉体的精神的のどっちだ。両方か。
 訊けずに黙って頷くと、限界まで開いた脚の間に槇野が腰を沈めてきた。布団の上で組み敷かれた手が、男ひとり分の体重をかけられ鈍く軋んだ。
 太いのがめりこんだ瞬間、息が止まった。
 挿入の衝撃は想像を遙かに越えていた。結ばれるとか繋がるとか、よくもそんな可愛らしいことが言えたものだ。柔らかな土に打ち込まれた杭が、円を描きながら狭い空間を無理矢理押し広げてくる。痛みはないのだが、重い。みちみちとかめりめりとか、そんな効果音が真っ赤になった意識に飛び狂った。
 よほどきつかったのか、槇野は苦しげに眉根を寄せていた。
「力抜いて」
 無理、という言葉を懸命に飲み込んで、握ってくる手を縋るように握り返した。無理じゃない。やせ我慢するつもりはないが、確実に相手を傷つけるその一言だけは絶対に言いたくなかった。
 やがて深みまで沈みきると、緩やかに内蔵を突かれた。貪欲とは程遠い動きで前後に揺すぶられ、中から少しずつ異物に慣らされてきた。手放したはずの疼きがじわりと戻ってくる。じわり、じわりと腹に孕んだ怪物がでかくなる。
 何だこれ。
 媚びるように嗄れた声も、達したばかりとは思えない熱を抱えた下腹部も、どこもかしこも自分のものではないみたいだ。欠伸を煮詰めて濃厚にしたような息が口の端からとろとろ漏れる。
 だが、痺れがくるほどいいのに槇野はいつまでも絶頂を許してくれなかった。
 そんなことでわだかまりを紛らわせるわけがないとわかっていながら、混乱に耐えあぐねて無心で床に爪先をなすりつける。
 気持ちがいい。でもよすぎるのが辛い。
 何かを求めてやまないのに、何を求めているかわからない。どうしたらいいかわからない。わからないのに、求める。出口のない渇望はひたすらに苦しかった。
 これまで経験してきた快楽には明白な着地点があった。けれど今はどこに終わりがあるのかわらかない。先が見えなくて、底がない。
 ゴールが見えないのはしんどい。
 でも、と背中を抱く腕に力をこめた。
 しんどい分、相手を強く感じるような気がする。
 ゆっくりすることで苦痛がないようにしてくれているのだろうが、それ以上に槇野はこの一瞬を終わらせたくない、終わりがくるのを嫌がっているようにも思える。
 これが最初で最後、だからできるだけ長く長く抱き合っていたいとでも考えているのか。
 心配するなよ。次も、その次もあるんだから。
 そう思うのに優しい手管に甘やかされて、伝えたいことが流されていきそうだった。
「槇野」
 それだけやっと口にして細く瞼を開けると、目線が交わった。
 一途な眼差しが瞬きするもの惜しいというようにこちらを見つめくる。長い髪は無造作に乱れて肩に波打ち、化粧の落ちかけた口元や目尻には疲れが漂っている。男と女が、槇野と理世がひとつの顔で迷子になっているようだった。
 でも美しいと思った。
 槇野は何を恐がっていたんだろう。
 見苦しいところなんて、どこにもないじゃないか。
「……きれいだ」
 褒めるつもりも喜ばせるつもりもなかった。
 ただ思ったままを呟くと、急に動きが止まった。
「きれいだなあ、お前」
 沈黙が流れた。それから、ぼたぼたっと温かいものが額に落ちてきた。はじめは雨、次に汗かと思い、やっと泣いているんだと気がついた。
 後から後からこぼれてくる涙に狼狽えて、吉崎は濡れた頬にぎこちなく掌を押しつけた。
「おい、どっか痛いのか」
 手の中の頭が左右に振られる。
「もしかして、明るいの嫌だったか?」
「自分でもよく……」
 槇野は懸命に口を開こうとするのだが、いつまで経っても続く言葉が出てこない。
 好きだ。
 そう言われたことがある。
 それは適当な表現だったのだろうが、言いたいことのほんの一部に過ぎなくて、様々に色づいた感情や、十五年の歳月や、共にいた時間や一人で相手のことを思う時間や、そこに収まりきれないあらゆるものが、涙になってわっと溢れた気がした。
 第二ボタンをくれたとき。
 電話番号を書いた掌を開いたとき。
 槇野がどんな顔をしていたか、俺はちゃんと見ていただろうか?
「……ごめんな」
 髪を撫で、頭ごと引き寄せた。
 ひとりで待たせてしまった言葉に、今ようやく追いついたのだと思った。
 槇野は首筋に口を埋めて嗚咽を殺そうとした。肌を伝わる涙も吐息も熱くて、必死で、強引に膨らまされた腹がぎゅっと収縮する。行き場のない胸苦しさを持て余して、唇をつけるだけの稚ない口づけをした。一方的にしたものが押し返されて、距離が少しだけ近くなった。口紅の感触は遠ざかり、もう涙の味しかしなかった。
 何をするにも段取りは悪いし、ここぞという場面で気の利いた台詞は出てこないし、結婚も上手くいかなかった。格好をつけて大口を叩ける自信なんてない。計画性も具体性も何もない。それでもこの腕の中にいる人間を、とにかく大切にしよう、大事にしようと思った。
 塩辛いキスを繰り返すうちに、かろうじてこびりついていたプライドとか見栄とか、余計なものが消えた。年齢も経験もそれなりに重ねた大の男がするセックスではなかった。力任せで余裕がなくて、お互いだけしか見えなくて、けれど世界がひっくり返るくらい気持ちがよかった。
 貪るように夢中で抱き合い、やがて二つの身体が身震いしたのは同時だった。

 前の家から引き取ったカーテンは今住んでいるアパートの窓には丈も幅も短すぎ、一応窓枠にぶら下がっているものの、カーテンとしての役目を大部分放棄していた。
 いつもの朝だろうと特別な朝だろうと職務怠慢気味のカーテンが気を利かせる義理はない。そのため翌朝おそく目覚めたときには、燦々と降り注ぐ日光が衣類や紙類やその他諸々で悲惨な状況にある室内を、明るく無慈悲に照らし出していた。
 吉崎が瞼を薄く開けると、一緒になって布団に埋もれていた大きくて温かいものが微かな身じろぎをして離れた。
 長い髪の垂れた背中を向けたまま、吉崎、とやや緊張した声で呼びかけられた。
「風呂借りていい?」
「おう。そうだ、これ着ろよ」
 日当たりがいいとはいえ室内の空気は冷え切っているし、二人分の体温で温められた布団の気持ちよさは格別だ。吉崎は腕を最低限だけ出して、枕元に積んであった山からジャージの上下を引きずり出して槇野に渡した。
「一応洗濯してあるからな。あとついでにこれも。サイズそんなに変わんないよな?」
 量販店のビニール袋に入れたまま数週間放置してあった未開封の下着も投げた。ものぐさな吉崎には衣類をタンスにしまうという習慣がなかった。
「あるもの適当に使ってくれよ。新しい髭剃りは洗面所のどっかにある。この前歯ブラシも買ったような……」
 風呂場に行ったきり、槇野はなかなか出てこなかった。待ちくたびれてしばらく二度寝の気持ちよさを堪能していると、濡れ鼠みたいなのがふらふら出てきた。髪は短い。眼鏡をかけている。
 まっすぐ自分のいるところに来るかと思っていたのに、槇野はなぜか吉崎の足下に背を向けて座り込んだ。収まり悪そうにくたびれたジャージを着ているのが絶望的に似合わない。そしていつまで経ってもいじけた子供みたいに膝を抱えている。
 そんな姿を見ていると、人を散々喘がせておいて何でお前の方が照れてるんだと文句のひとつも言いたくなってきた。
「おい」
 何度呼んでも返事がないのに痺れをきらして、後ろから布団ごと覆い被さった。熱いシャワーで温めたばかりの身体はすっかり冷めていた。いつも洗練されたいい香りがしていた男から、自分がいつも使っている安っぽいボディソープのにおいがするのは変な気分だ。
 槇野の横顔は、とても風呂上がりとは思えないほど憔悴していた。
 ろくに掃除していない風呂場が綺麗好きな槇野の精神に多大なダメージを与えてしまったか、水で流すくらいしておけばよかったと思いかけて、突然別の可能性が頭を過ぎった。
 もしかして、こいつは一睡もしてないんじゃないだろうか。
 そう思ったとたん、自然と包容が強くなった。
「どうだ、温かいか」
 微かに頷く気配があった。
「温かいだろ。出たくないだろ? だからもう逃げるなよ。……寒い中追いかけるの大変なんだからさ」
 次泊まるときは洗面用具と着替えを持ってこいと続けようとして、いきなり熱烈なキスを食らった。
 その年のクリスマスは、一日布団の中で過ごした。

 三月最後の日曜日、ファッションビルの一階にあるカフェは昼前という時間帯のわりには混雑していて、ほとんどの席が埋まっていた。
 会話の切れ目に正面を見ると、槇野は相変わらず店内の人間観察に勤しんでいた。暖かく穏やかな日和で、白に黄色に淡い青、それにピンクにと、コートを脱いだ人々の装いは一気に花が開いたように春めいていた。心なしか表情も明るい。
 槇野の目には何が映っているのだろう。美しさとか流行とか、見えるようで見えないものを追っているのか。化粧品の開発には時間がかかると言っていたから、三年後ぐらいの春を見ているのかも知れない。
 肘をついてぼんやりしていたら槇野と目がかちあった。どんなに目移りしても、数秒すると律儀に視線が戻ってくる。
「これからどうする。行きたいとこあるか?」
 槇野はちょっと考えてから言った。
「デパート寄ってもいいかな? 姪がもうすぐ誕生日なんだ」
「ああ、姪っ子いるって言ってたもんな。兄ちゃんの娘だっけ。写真ないのか?」
 槇野が差し出した携帯の画面を、吉崎は身を乗り出して見た。
「お前に似てるな」
「そう?」
「名前は?」
 妙な沈黙があった。
「……理世ちゃんっていうんだ」
 しばらくして、ようやく気まずそうに口を開いた。
「営業用の名前を考えてって女将さんに言われたとき、とっさに……」
 心中を察して、吉崎はそれ以上詮索しなかった。
「プレゼント、奮発してやれよ」
「そうする」
 そういえば、と槇野はさり気なく話題を変えた。
「菜摘ちゃんは元気?」
「ああ。元気も元気」
 菜摘はビューティー何とかというのか美容部員というのか、ともかくそういう仕事に就きたいという将来の目標ができたようだ。進路相談した槇野から大学進学をすすめられて、受験勉強を頑張っていた。
 そして……。
「か」
「か?」
 今度は吉崎が沈黙する番だった。水を一気飲みした後、吉崎はテーブルの上に置いた拳を握りなおした。
「彼氏を家に連れてきたらしい」
「よかったね」
 そう、よかったのだ。相手はクラスメイトで、親の話によれば爽やかで感じのいい少年だったそうだ。しかしこの喪失感は一体何なのだろう。父親は健在なのに、心境は完全に花嫁の父だ。
 もしかして菜摘は槇野に惚れてるんじゃないのか。そんな疑惑を抱いて、それとなく聞いてみたことがあった。
「私が? 槇野さんを?」
 何言ってんのと言外に馬鹿にされ、さらに同情めいた視線を送られた。
「お兄ちゃんってさ、もしかしてアイドルと本気で付き合えるとか思ってる?」
 思ってない。アイドルだってトイレも行くし飯も食うしコーヒーだって飲むだろう。
 縁に口紅のついたコーヒーカップを見てそんなことを考えていると、不思議そうな顔をされた。
「どうした?」
「いや別に」
「混んできたね。そろそろ出ようか」
 食事の会計は交互にするのがゆるいルールになっていて、今回は槇野が持った。吉崎は一足先に店を出て、カフェの向かいにある旅行代理店でパンフレットを見て回っていた。
 そのうち槇野と旅行でも行こうかと近場の行楽地のパンフレットを手に取ったとき、背後から声をかけられた。
「ちょっといいすか」
 振り向くと、二十代前半くらいの若い男が二人、にやけた顔をして立っていた。
 挨拶もそこそこに、茶はどうか、食事はどうかとしつこく誘いをかけてくる。だが、見ず知らずの野郎と飯など食いたくない。
 拳に訴えず、うるせえほっとけとも言わず穏便にやりすごすにはどうしたらいいだろうかと返事を留保していたら、邪険にされたという誤解が安いプライドを傷つけたのか、好意的だった風向きがだんだんと変わっていった。
「おいおい無視かよ。あのさあ、どんだけ……」
「失礼ですが」
 そのとき、もう一人の影がすっと割って入ってきた。
「私の連れが何か?」
 槇野だった。
 口調も物腰も丁寧で、唇に微かな笑みのようなものを漂わせてはいるが、目だけが少しも笑っていない。穏やかな春の空気がぞわりと蠢く。滅多に怒らない人間を怒らせると恐い。俺は怒ってるんだぞと見せつけているわけではなく、本当に怒っているからだ。
 男たちは怯んで、ちっ男連れかよ、という使い古された陳腐な台詞を残して去っていった。
 吉崎は感心して言った。
「ドラマか漫画みたいだな」
「何かされなかった?」
「特には。でも助かったよ」
 俺が殴りかかる前に来てくれて、と言いかけて、通りがかった服屋のショーウィンドーに目がいった。
 女性向けファッション誌から抜け出してきたような背の高い女がこちらを見つめている。吉崎が瞬きすると彼女も瞬きし、グーを出せばグーを、チョキを出せばチョキを出す。
 横にいる槇野が恥ずかしそうにしているのに気がついて、吉崎はひとりジャンケンをやめた。
 そのとたん、吉崎の奇行に集まっていた注目がふっと散った。気のせいでなく、今日はやたら人の目を感じる。
 槇野といて色気のある視線を感じることは多いが、この日に限っては性質が少し違った。
「俺も女装がしたい」
 吉崎が告げたとき、槇野は飲んでいたビールを危うく吹き出すところだった。
 純粋に女装がしたいだけだったのに、気を遣って無理していると勘違いされて、当初かなりの難色を示された。しかしあれこれいじくっているうちに、元々面の出来がいい男にするよりもはるかに高度な技術を必要としたことが研究者魂に火をつけたらしく、最後には槇野の方がやる気になってくれた。
 風呂場で隅々まで磨き上げられて、揉まれて盛られてつっこまれた身体は別人のようだった。膨らむはずのないものが膨らみ、膨らんでいるはずのものがなかったことにされている。散らかしっぱなしの部屋みたいな人間の顔と身体が、見事な手際で整えられていく様は感動的ですらあった。
 完璧な出来映えに驚いて、鏡の前ですげえを連発する吉崎に槇野は謙遜して言った。
「理にかなったやり方をすれば、誰だってきれいになれるんだよ」
 どうしてもごまかしの利かない場所から意識を逸らすために別のところにポイントを持って行くとか、色を利用して人間の視覚を騙すとか、槇野は理にかなったやり方とやらを事細かに説明してくれたのに、吉崎の感想は「やっぱりお前すごいよ」の一言だった。だが、槇野はそれで満足してくれたようだった。
 せっかくだから外に行こうと誘ったのは吉崎だった。気を抜くと股が開くのが困りものだが、予想以上にすこぶる楽しい。
 女の服は動きにくくて不自由で、ウィッグをつけられた頭は暑苦しいし、色々と塗りたくられた顔が気持ち悪い。柔らかな甘いにおいのする牢屋に囚われているようで、逆に見えない枷を外されて自由になった気もする。
 春の陽気に誘われて大きく伸びをしたら、あらぬ場所に胸がずれそうになった。体操する振りをして崩れかけた形を建て直しつつ、槇野に言った。
「買い物したら、花見でも行くか。人があんまりいない、穴場の公園があるんだよ」
「いいね」
「どっかで弁当とレジャーシート調達して、桜見ながら昼寝しようぜ」
 空は青く晴れ渡り、爽やかな春風は新緑のにおいでいっぱいだ。裸足になって芝生に寝転がったら、きっと素晴らしく気持ちがいいだろう。
「吉崎」
 耳元で囁く声がして、槇野の手が軽く顎に添えられた。まさか往来でキスでもしてくるのかと身構えたら、素早く親指で唇を拭われた。落ちかけた口紅を整えられたのだと遅れて気がついた。
「やっぱり飲み食いするとだめだな」
「慣れてないんだから仕方ないよ。あとでちゃんと直そう」
 要所要所に配置されたひらひらで体型をごまかすワンピースも、踵が高いのに見た目より歩きやすい靴も、もちろん化粧品も、すべて槇野に選んでもらったものだ。
 だが、口紅だけはこちらからリクエストした。サンドリヨンの瑞々しい淡紅色は、槇野の名人芸にかかって吉崎の顔の一部として浮きもせず馴染んでいた。同じ色素で構成された同じ品番の製品ではあるが、菜摘、理世、それに自分、つけたときの輝きはひとつとして同じではなかった。
 おとぎ話と違って現実は世知辛い。
 カボチャの馬車は風雨に晒された小汚い自転車、ドレスは着古した吊しのスーツ、ガラスの靴は営業の汗と涙が染み込んだ革靴で、白亜の城は外装の剥げたラブホテルだ。めでたしめでたしで終わる人生がないことも知っているし、そもそも三十男に魔法をかけてやろうなんて物好きな妖精はいない。
 でもたまには、末永く幸せに暮らしました、なんて結末を浮かれて信じたくなる日があってもいいよな。
 そんなことを思っていると、槇野がふと立ち止まり、恭しく手を差し出してきた。
「お手をどうぞ」
 さすがは色男、エスコートも様になる。顔を見合わせて笑い、遠慮なく腕を絡めた。
(終)