甘く、甘く、どこまでも甘く
前編
 弱く。
「強すぎる」
 弱く、弱く。
「まだ強い」
 弱く、弱く、もっと弱く……。
「もうやだ、この曲だるい!」
 勢いよく鍵盤から指を離して、布田稜介は悲痛な叫びをあげた。
「たまにはシューマンを弾きたいって言ったのは、お前だろう?」
 すぐ横に立っている背の高い男が、稜介を見下ろして冷たく言った。
 宮代哉は実の叔父で、音大の准教授をしている。叔父が日本に戻った三年前から週に二度か三度、稜介は彼の家でピアノのレッスンを受けていた。稜介が嫌だと言う前に、大人同士で勝手に決められていたのだ。
「だって弾いてみたら、想像と違ったんだもん」
 口を尖らせて言うと、哉は呆れた顔をした。
「だったら曲に文句を言うより先に、お前の想像力の貧困さを恨むんだな。とにかく、自分の言葉に責任を持て。次に移るのはこれをある程度仕上げてからだ」
 稜介がわめきたてる非難の声を、哉は軽く無視した。
 少年はむっつりとした表情で、目の前に立てかけてある楽譜を睨みつけた。
 子供の情景という作品名からして、馬鹿にされている感じがする。
 シューマンの曲は他にもたくさんあるというのに、わざわざこの作品集を選んだのは、自分へのあてつけだろうかと思う。
 きっと、中学生なんてまだまだ子供だという意味の皮肉だ。
 稜介はふてくされて、鍵盤からも楽譜からも目をそらした。
 秋の日暮れは早い。カーテンから差し込む夕日はすっかり消え去っていて、濃厚な夜の気配が漂っていた。
 ふと時計を見れば、時刻は夜七時。レッスンは八時までだから、あと一時間ある。
 一時間もこの無口で仏頂面の叔父と一緒にいなければならないと思うと、うんざりする。この三年間、よく耐えてきたものだ。
 子供の頃習っていたピアノの先生は、それは優しい女の先生だった。きれいだったし、いい匂いがした。たまに手作りのケーキもごちそうしてくれた。むさくるしい体育会系のレッスンとは大違いだ。
 稜介はペダルから足をあげて前に投げ出し、だらしなくぶらぶらさせた。
「もっと勢いのある曲が弾きたい」
「勢い? お前の場合、力任せに弾いてるだけだ。ここ、親指に力が入りすぎてるのに気付いているか?」
 哉は楽譜のある一点を指で示した。稜介はその音符をちらっと見ただけで、肩をすくめた。
「弱い音にするなら、ペダルを使えばいいじゃん」
「指で強弱をつけられないのに、安易にペダルに頼るな」
 ピアノという楽器の仕組みと、その中でペダルがどういった役割を担っているのか。淡々と説明する哉の言葉を、稜介は適当に聞き流した。
「聞いてるのか?」
「聞いてるよ。哉叔父さん、俺馬鹿だからさ、難しい話聞いてもよくわかんないんだよね。叔父さんが弾いてみてよ。そしたら理解できるかも。ね?」
 どこか甘ったれた声で言いながら、稜介は立ち上がって席を空けた。この手が通用する相手ではないことは承知していたが、もしかしたら気が向いて弾いてくれるかもしれない。そうすれば、いい時間稼ぎになる。哉のレッスンは、とにかく理屈っぽくて退屈なのだ。
 少し考えるような間を置いてから、哉は上着を脱いで、椅子の背もたれに放った。それからおもむろにピアノの前に座った。稜介は内心でやった、と握り拳を掲げた。
 叔父はいつも趣味のいいスーツを着ていて、その気障っぽい感じがまた癪に触った。古巣であるロンドンの仕立屋でオーダーしているらしい。もっとも、身なりに特別気を使っているというわけではなく、単にそこの店のスーツが一番身体に合って、ピアノが弾きやすいからだそうだ。母と祖母が言っていた。
 演奏会の予定がない時でも、一日数時間、休日に至っては十時間以上ピアノを弾いて、服までピアノに合わせて。すっかりピアノの言いなりだ。言動が普通に見えても芸術家の端くれであって、やはりどこかおかしいんだろうと思う。ピアノが生活の軸なのだから、感覚が狂うのは当たり前だ。
 よく糊のきいたワイシャツの袖をまくり上げると、左手の薬指にしている指輪がいやに目立った。と、指輪を注視しているうちに、子供の情景の中の一曲、トロイメライの演奏が始まっていた。
 右に、左に、鍵盤の上を滑らかに流れる指先は、無駄のない動きで音符を拾い上げていく。ピアノを弾く叔父を見たのは久しぶりだった。
 叔父はレッスンの時でも、積極的に演奏を聞かせるタイプの教師ではなかった。稜介が影響を受けて、音や癖が移るのが嫌だと思っているのかも知れない。
 だがそんな心配は無用だ。直接言われたなら、こう言い返してやるのに。
「頼まれたって叔父さんの真似なんかしねえよ!」
 だが、今このときだけは悪態をつくことも忘れて、ただ息をのんで、沈んでは浮き上がる鍵盤を見つめていた。
 空気を振るわせる端正な音。柔らかい金属を思わせる、どこか硬質な美しさ。
 完璧な演奏だった。一部の隙もない。
 しかもよく見れば、全くペダルを使っていなかった。
 自分がどんなに偉いピアニストなのか、見せつけたいわけか。
 稜介は無意識のうちに歯噛みしていた。
「すごい、すごい!」
 ひどく傷つけられた自尊心を悟られないように、演奏を終えた哉にわざとらしく拍手を送った。
「さすがはプロ。金を取れる演奏だね」
 しかし哉が放ったのは、信じがたい言葉だった。
「これが? とてもじゃないが、人前で演奏する自信はないな」
 その口調に謙遜しているような響きは全くなく、それが却って衝撃を大きくした。
 文句の付け所もないような演奏を見せつけておいて、馬鹿にしているのだろうか。稜介は、できる限りの皮肉を込めて言った。
「へえ、他にも難しい曲ばんばん弾きこなしてるのに?」
「音符の数が少ないから、易しい曲というわけじゃない」
 甥の目に宿る暗い敵意に気付くこともなく、哉は呟くように言った。
「この曲だったら、先生の方が上手く……」
「先生って和臣先生のこと?」
 好奇に満ちた稜介の視線が、再び左手の指輪に戻った。
 稜介がレッスンを受けているこの家は、正確に言えば哉の家ではなく、彼と白瀬和臣という男性、二人が共同で所有している家だった。
 和臣は高校の音楽教師で、哉のピアノの師でもあるという。高校生のときに腕を怪我してピアニストの道を断念したのだと、母親から聞いたことがある。
 家族でもないのに一緒に暮らしていて、揃いの指輪をして。
 哉が日本に戻って和臣と暮らし始めた時には稜介は小学生で、二人の関係に何の疑問も抱いていなかったが、今では理解できる。
 普通ではない。
 むしろ異常だ。
「いや、何でもない」
 哉は我に返ったように、軽く頭を振った。
 それから改めて最初から通しで弾くように言われて、稜介はしぶしぶ従った。だが哉の完璧な演奏を聞いたあとでは、元々なかったやる気は完全に喪失してしまっていた。
 そんな気の抜けたピアノを叔父の耳が許してくれるはずがなかった。稜介の指が止まると、哉は眉を顰めて言った。
「鍵盤から指を離すときは力を抜け。不自然な音になる。それ以外にも、お前の動きには無駄が多いんだ。合理的に筋肉を動かすように意識しないと、気付いていないうちにかなりの負担がかかるぞ」
 そこで哉は一度言葉を切って、稜介に向き直った。
「お前、これから先どうするつもりだ」
「どうって?」
「ピアノだよ。趣味で続けていくのか、それとも」
「叔父さんみたいなピアニストを目指すのかって? 冗談きついぜ」
 タキシード姿ですました顔をしてピアノを弾く自分の顔を思い浮かべて、思わず吹き出した。
「本格的にやるかやらないかで、やっぱり違ってくんの? 心構えとか?」
「心構えなんてどうでもいいが、指導の方法は変える。コンクールも視野に入れて」
 今よりももっと厳しくなるということだろうか。考えるだけでぐったりした。コンクールなど端から興味がない。
「じゃあさ、教えてよ。プロの目から見て、俺ピアニストになれそう?」
「どうだろうな」
「努力次第だって? それとも全然才能ない?」
「どんなに努力しても、才能があっても、結果が伴わないこともある。必要なのは、まず意志、それから手段、最後に運。他の仕事だって同じだろうが」
「運? じゃあ、叔父さんがピアニストになれたのは、結局のところ運が決め手だったってわけ?」
「そうだ。たまたま指導者に恵まれて、たまたま経済的な地盤があって、たまたま演奏できる環境が揃っていて」
 哉は一息おいてから、低く静かに言った。
「……たまたま大きな怪我も病気もしなかった」
 稜介は頭の後ろで腕を組んで、大きく背伸びをした。
「俺、先のことなんてよくわかんないよ。今が楽しければ、それでいいじゃん。音楽って、音を楽しむものだろ? そうじゃねえの?」
「逆だ。楽しいという言葉から音楽が生まれたんじゃなく、音楽から楽しいという言葉が生まれたんだ」
「何それ。偉い先生の受け売り?」
「漢和辞典を読め」
「わかった、わかった。叔父さんは物知りだねえ。さすが准教授様」
 哉は深く息を吐いた。
「お前はいつもそうだな。事実を自分の都合のいいように曲解して。そうやっていい加減な態度ばかり取っていると、いつかそのつけを払わされることになるぞ」
「いつかって、いつだよ?」
「さあな」
「何だよ、適当だな。そこ一番大事じゃん」
 冗談も軽口も通じない相手、しかも年長者と話すのは疲れる。
 稜介はげんなりした気持ちで、乱雑に鍵盤を叩いた。
 頭の上から溜息混じりの声がする。
「ほら、何度も言わせるな。肩が強ばって……」
 哉の手が軽く肩に触れた。
 繊細で逞しいピアニストの手、子供の頃からずっと見てきた手。
 だがこの手で和臣の肌に触れているのかと思うと、急に得体の知れないものに思えた。
 嫌だ。触られたくない。
 気持ちが悪い。
 汚い。
 ……恐い。
 稜介は哉の手を勢いよく振り払って、動揺を悟られないように作り笑いを浮かべた。
「哉叔父さんってさ、和臣先生とセックスしてるの?」
 セックス、という単語は日常的に友人との猥談でよく使っていて、クラスの女子から眉を顰められている。だが、大人相手に使ったのは初めてだった。
 数日前、一番仲のいい女友達の家で、胸をさわらせてもらって、舌を入れたキスをしたから、気が大きくなっていたのかもしれない。
 男同士でどうするのか、不確かな知識だけはあったものの、現実味がなくて具体的に思い描くことはできなかった。
 けれどこの家で、二階にある寝室で、哉と和臣がそういった行為に及んでいるだろうことは、考えなくても想像がつく。
 怒られたらこう切り返すつもりだった。
 セックスは悪いことなのか、と。
 無邪気に問いかければ、どんな大人も口をつぐむはずだった。
 だが哉の反応は、稜介の期待するようなものではなかった。
 叔父は困りも怒りもしなかった。
 それがどうしたと言わんばかりの、無表情を保っていた。
 二人は無言で睨み合っていたが、しばらくして哉はピアノの上にある細々とした道具や楽譜を片付けはじめ、すべて仕舞い終えると扉の方へ向かっていった。
「どこ行くんだよ?」
「今日のレッスンは終わりだ。お前も早く帰れ」
 哉は半ば振り返り、視線だけを甥に向けて冷淡に告げた。稜介は慌てて立ち上がった。
「まだ時間じゃないだろ。月謝払ってんだぜ?」
「ああ、確かに貰っているさ。だが、お前にじゃない。お前の両親にだ。……俺が勘違いしていたよ。お前に足りないのは、基礎練習でも表現力でもない」
 閉まりかけた扉の向こうから、ひんやりと乾いた声がした。
「礼儀と常識だ」
「何だよ、それ……おい、ちょっと待てよ!」
 音もなく閉じた扉に罵声を叩きつけたが、反応はなかった。
「あんたにだけは言われたくねえよ! この変人ピアニスト!」
 稜介は鍵盤につっぷして、考え得る限りの罵詈雑言を並べ立てた。といっても元々の語彙が少ないため、馬鹿だの、アホだの、気の利かない単語しか出てこなかったが。
 世の中には血のつながりをもってしても親しくなれない、相性の悪い人間がいる。
 稜介にとっては哉がそれだった。
 顔を合わせれば喧嘩ばかりしている。
 それでなくても、本腰を入れて身内から何かを習うなんてことは最初から無理な話だったのだ。家族に簡単な電化製品の使い方を教えるのだって、大変な労力を必要とするというのに。
 いつまでたっても基礎、基礎、また基礎。
 果てしなく続く練習曲。
 たまに名のある作曲家の曲を弾かせてもらえると思ったら、起伏の少ない、面白味のない曲ばかり。
 稜介はむしゃくしゃした気持ちを鍵盤にぶつけた。
 鍵盤を縦横無尽に駆け回る、激しく情熱的な指の動き。気持ちがいい。革命のエチュードは、ショパンの練習曲の中でも特に華麗で劇的な曲だった。
 稜介は目を閉じた。自分でもなかなかよく弾けていると思う。
 冷たいほどに整然とした哉の演奏に欠けている、溢れんばかりの活力と迫力があった。
 叔父さんのピアノは説教くさいんだ。
 華やかな曲だったら、俺の方が魅力的に、上手く弾けるに違いない。
 稜介がどれほどの時間をピアノの練習に費やしているか、どれほど素晴らしい技術があって、どれほど難しい曲を弾くことができるか、哉は知らないだろう。知っていたとしても、身内だから才能を低く見られているのだ。
 強い音だけでなく、弱い音も弾こうと思えば弾ける。簡単だ。
 ただ、哉の威圧的な態度に反発心を覚えて、弾きたくないだけなのだ。
 叔父は何もわかっていない。
 さっきの言葉にしても、ちょっとした冗談なのに、本気にして。
 あの程度で怒るなんて、大人げない。
 だから、俺は悪くない。
 ささくれだった心のままに革命のエチュードを弾き終えたちょうどそのとき、何度か扉を叩く音がした。
 哉が戻ってきたのだろうか。
 顔を強ばらせた稜介の目に映ったのは、帰宅したばかりと思しきスーツ姿の優しげな男性だった。全身の緊張がふっと抜けていくのを感じた。
「和臣先生、こんばんは」
 和臣は稜介に微笑みかけた。哉の家に通うようになって以来、同居人である彼とも自然と親しくなった。よくお菓子をくれて、食事をご馳走になることも少なくなかった。
 叔父とは違って、温和で優しい人だった。哉との関係はともかく、和臣の人柄は好きだった。
「今日はずいぶん早く終わったんだね。哉は?」
「部屋じゃないですか」
「喧嘩したの?」
 また、という響きを言外に感じる。
「まあ、そんなところ」
 二人のやりとりを和臣が聞いていたはずはないが、哉にぶつけた台詞を思い出して、突然気まずくなった。稜介は苦し紛れに、思いついた適当な質問を投げつけた。
「このピアノ、立派ですよね。和臣先生のピアノなんですか?」
 和臣は頷いた。
「ああ、母方の祖父が遺したものでね。古いからあちこち手が入っているけど」
「お祖父さん、ピアニストだったの?」
「そうだよ」
「じゃあ、哉叔父さんみたいに世界中を回って……」
「いいや。留学先のドイツから帰ったあとは、ずっと日本で活動していたそうだ。祖父の時代、海外でわざわざ日本人の演奏を聴くためにコンサートホールに足を運ぶ人はいなかったと思うよ。どんなに上手くても、物珍しさ以外の目的ではね」
 和臣はそれ以上何も言わなかったが、先に続く言葉があるような気がした。
 祖父の時代も、そして今も。
 かなり厳しい内容の話を、和臣は穏やかな声でさらりと話した。華やかな世界の影の部分を垣間見せられたような気がして、胸がひやりと冷たくなった。
 居たたまれない気持ちを持て余しながら、稜介はピアノを見つめた。
「……女王様みたい」
「え?」
「グランドピアノって、大きくて偉そうで、女王様みたいだ」
 和臣は静かに微笑んだ。
「勇猛な女王様だろうね。ピアノは男性的な楽器と言う人もいるから」
 稜介は驚いて聞き返した。
「男性的? ピアノ習ってるの、女の人の方が多いんじゃないの?」
「君の言う通り、習っている人の数は女性の方が多いと思う。でも、仕事にするとなるとまた別だ」
 和臣の人差し指が、ぽん、と白鍵を叩いた。
「鍵盤って結構重いだろう? ピアノは打楽器の一種だ。早い動きで鍵盤を押して、さらに大きなコンサートホールの一番後ろの席まで響くような音を出そうとすると、相当の力が必要になってくるから、身体の特性上、女性に不利な面はある。稜介君は陸上部だったね。男子と女子が同じトラックを走らない理由を考えてみると、想像がつきやすいかもしれない。そもそも曲自体が、男性の作曲家が自分の手に合わせて書いたものが多いからね」
 もっとも、と和臣は続けた。
「ピアノは筋力だけで弾くものではないし、表現力や技巧に性差はない。男性でも力がない人、女性でも力がある人、手が大きい人も小さい人もいる。だからすごく乱暴な一般論になってしまうけど……今も昔も、活躍している女性ピアニストはたくさんいるしね」
 そう告げる和臣の手は、確かに柔らかそうではあるが、女性的でもなよなよしているわけでもなかった。でも不思議と、叔父の手に感じたような不快感は覚えなかった。
 この手がどんな音を奏でるのか、知りたい。聴いてみたい。
 稜介は欲求を抑えきれなくなって、人懐こい仕草で和臣に身を寄せた。
「俺、和臣先生のピアノが聴いてみたい」
「構わないけど、上手く弾けないよ」
 断られると思ったが、和臣は快く了解した。哉の口振りと、音楽教師という仕事から考えると、きっと全く弾けないわけではないのだろうと思ってはいたのだが、稜介の予想は的中したようだった。
「何がいいかな?」
 上着を脱ぎながら尋ねられて、稜介は頭をひねらせた。
「じゃあ……」
 しばらく考えて、朗らかに笑った。
「なんか面白い曲!」
 具体性が全くないリクエストをされても、和臣が不快に思った様子はなかった。これが哉であれば、どの作曲家の、どの曲を弾いてほしいのか、正確に示せと冷たく突っぱねられただろう。
「面白い曲か……」
 和臣は考え込みながら、ピアノの前に座った。
 右手で左手の具合をそっと尋ねるように握り、それから鍵盤に指を沈めた。
 弦が鉄槌を叩いた瞬間、稜介は混乱した。
 空気に溶けいるような、澄んだ響き。
 一点の濁りもない。
 美しいとか、素晴らしいとか思うより先に、耳が驚いている。
 これは本当にピアノの音なのだろうか。
 心奪われて惚けているうちに、その短い曲はいつの間にか終わっていた。
 稜介は慌てて尋ねた。
「初めて聞いたんですけど、いい曲ですね。何て曲ですか?」
「サティの、犬のための本当にぶよぶよした前奏曲だよ。面白い名前だろう?」
「……は?」
 よく聞こえなかったのかと思ったか、和臣はその珍妙な曲名をゆっくりと丁寧に繰り返した。
「犬のための本当に……」
「あ、もういいです、わかりました! ねえ、和臣先生。もう一曲いいですか?」
 和臣が承諾して頷くと、稜介は喉に溜まった唾を飲み込んで言った。
「トロイメライを」
 和臣の両手が、再び鍵盤に戻った。
 静寂に流れる、ごく緩やかな旋律。それなのに、稜介は頭を強か殴られたような気分になった。
 稜介も、哉も、和臣も、同じピアノで同じ曲を弾いているはずだ。だが、こうまでも違う音色になるものなのか。
 撫でるような運指が鍵盤から引き出す響きは、滑らかで優しいが、決して弱々しい音ではない。
 楽譜通りに弾いているにも関わらず、自由さを感じさせるのが不思議だった。自由で、柔軟で、透明で、でもどこか生き生きとして。
 柔らかな陽光の下に微睡む夢の世界が、すぐ近くに広がっているような気がした。
 哉が言った意味がやっと理解できた。
 この演奏を一度でも聞いてしまっては、確かに人前で弾く勇気は持てないだろう。
 しかし、夢は長くは続かない。いつかは覚めるものだ。
 次第に、右手が左手の動きについていけなくなっていった。
 重く、重く、だんだんと重く……。
 霧にけぶる森の木立が色を失い、一本、また一本と枯れていく様が見えるようだった。
 色とりどりの花々は無惨に踏みにじられ、青空には暗雲が立ちこめていく。
 壮麗な幻の館は廃墟となり、水辺に遊ぶ妖精たちは羽をむしられて捨て置かれる。
 澄んだ水色を湛えていた泉は泥で濁りきり、今や生きるものの気配はない。
 死んだ魚の虚ろな目が、じっとこちらを見ているような気がする。
 美しい夢物語の終焉を見せつけられているようで、胸がひどく苦しくなった。
 鼻の奥がつんと痛くなり、脂汗が滲んだ。
 聴いているのが辛くて、苦しくて、早く終わってほしいと願わずにはいられなかった。
 途方もなく長い時間に感じられた演奏を終えて、和臣はそっと腕を下ろした。
「すまないね、お手本になるようなピアノじゃなくて」
「いいえ、こちらこそ無理言って」
 最後の、すみませんでした、の部分は、ほとんど言葉にならなかった。涙を堪えていたからだ。こんなに胸をかきむしられるような演奏を聞いたのは、生まれて初めてだった。
 帰り際、稜介は僅かに残っていた元気をかき集め、努めて明るい口調で言った。
「和臣先生、気をつけてくださいね。叔父さん、かなり怒ってるみたいだから」
「心配してくれてるんだね」
「別に心配ってわけじゃ……」
 即座に否定すると、和臣はまるですべての状況を掌に収めているかのように、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。でも、大丈夫だよ。またおいで」
 背中に投げかけられた穏やかな言葉に安堵と頼もしさを感じて、稜介は少しだけ軽くなった心と共に帰途についたのだった。

 明くる日の昼休み、同級生の何人かと教室の隅で雑談していたとき、友達がふと思い出したように言った。
「稜介の叔父さん、ピアニストらしいじゃん」
 ちょうど午後すぐに音楽の授業が控えていたから、そこから連想したのだろう。
 おいおい勘弁してくれよ。
 笑顔の下に嫌悪感を隠しながら、何とか話の方向を変えようとしたが、うまくいかなかった。
「うそ、知らなかった」
「すごい、格好いいね!」
 女子たちから羨望の眼差しを送られても、ちっとも気持ちよくならなかった。むしろ不愉快だった。それは稜介にではなく、哉に向けられた賛美だったから。喧嘩している相手への誉め言葉を聞いて、嬉しく思う人間がいるものか。
 友人はピアノを弾かない人間でも耳にしたことがあるような、大きなコンクールの名前をいくつか出した。
 女子のひとりが興奮して言った。
「あ、それあたしも聞いたことある!」
「上位に入賞したんだろ? うちの姉ちゃんが言ってたぜ。ピアノの世界じゃすげえ有名人だって」
「ただのおっさんだよ。会ったらびっくりするぜ」
 次々と浴びせかけられる賞賛の声を、稜介は笑い飛ばした。
「それに二位や三位になったって、全然すごくねえよ」
「そんなことないよお」
 ねえ、と女子たちは顔を見合わせる。
 稜介は微かな苛立ちを覚えながら、淡泊に言った。
「確かに、日本じゃちやほやされるかもしれねえけどさ、他の国で名前売るときに、優勝以外の肩書きなんて意味ないんだよ。アメリカとかヨーロッパとか、色んなコンクールで優勝してる腕のいいピアニストがたくさんいるのに、わざわざ二位以下しか取れない奴のピアノを聞きにくるような物好きいると思うか?」
「何、詳しいじゃん。もしかして、お前もピアノやってんの?」
「馬鹿、弾けねえよ。こう? こんな感じ?」
 ふざけて宙で指を動かす振りをすると、どっと笑い声があがった。
 ピアノをやっていることは、誰にも話したことがなかった。
 らしくないと笑われて、音楽の時間に皆の前で弾いてみろと言われて、合唱コンクールの時には伴奏して誉められて。
 考えるだけでぞっとする。
「叔父さんに習えばいいのに、ピアノ」
「やだよ、あんな仏頂面に。一緒にいるだけで疲れるし、話も合わねえし。な、止そうぜ、こんなつまんない話」
 学校の友達とピアノの話などしたくない。少しも楽しくなかった。
 それなのに、友人たちはなおも哉の話を続けた。
 友人? いや、今は赤の他人だ。
 へらへら笑いながらからかわれて、何も知らないくせにわかったような顔をされる。苦痛でしかない。
 普段は思ったこともないのに、哉の家の練習室が恋しくて仕方がなかった。あそこは静かで、心地いい。聞こえるのはピアノの音と、哉の低い声だけ。
 いつ果てるとも知れない軽口の応酬を笑顔でさばきながら、心の中で唾を吐いた。
 うるさい、黙れ。
 俺の場所に、土足で入ってくるんじゃねえよ。
「悪い、ちょっと便所行ってくるわ。音楽室、先行っててくれよ」
 別に尿意などなかった。単に早くこの場を切り上げたかったのだ。
「布田。ちょっと話があるんだけど、いいか」
 教室を出かけた時、同じ陸上部に所属している国井から声をかけられた。面倒見がよくて真面目な奴で、陸上部の次期部長だと噂されていた。得意としている競技も稜介と同じ短距離走だが、別のクラスでそれほど親しいわけでもなかったから、何の用だろうかといぶかしんだ。
 人気のない校舎裏に来たとき、国井は緊張した固い声で告げた。
「お前、部活出てこいよ」
「出てるじゃん」
「毎日だよ。それに、出た日も最後までいないだろ」
「塾があるんだよ。ほら、俺って勉強好きだからさ?」
 稜介はおどけた仕草で肩をすくめた。時間を惜しんでピアノの練習をしているなんて、口が裂けても言えない。
「塾って、どこの塾だよ? お前と一緒の塾に通ってる奴の話なんて、聞いたことない」
「ちょっと遠いから」
「……嘘つき」
 国井の表情が、一段と厳しさを増した。
「夏の大会、手抜いただろ?」
「抜いてねえよ。ちゃんと走ったよ」
 春に行われた地区大会で、校内で唯一、稜介だけが地方大会への切符を手にすることができた。だが夏の地方大会で、稜介は最後の最後で力つき、惨敗を喫したのだった。
 何をやってもそうだった。スポーツも、意外だと驚かれるが国語以外の勉強も、努力しなくてもそこそこの結果を出すことができる。ただ、そこそこ以上になることは決してなかった。
「ちゃんと? 練習にも出てないのに? 真剣に取り組めば、もしかしたら全国だって夢じゃないって先生言ってたよ。それなのに……」
 国井の目に浮かぶ激しい怒りを見て、稜介はぎょっとした。
「国井、落ち着けよ」
「お前さ、いい加減にしろよ。自分勝手なんだよ。ちょっとは周りのことも考えろよ! どんなに一生懸命練習しても、どんなに走り込んでも、お前に追いつけない人間の気持ちがわかるか?」
 相手の言い分に身勝手さを感じて、稜介は強く反論した。
「わかんねえよ。だいたい、サッカーや野球ならともかく、俺たちがやってるのは個人競技だぜ? お前につべこべ言われる筋合いねえんだよ。こんなところで俺に文句言う暇があったら、その分練習すればいいだろ。それとも何か、今ここで俺に謝ってほしいのか? ごめんなさい、俺が悪かったって。それで気が済むのかよ? 足が速くなるのかよ?」
 虚を突かれたように、国井は押し黙った。
「……そうだな、お前の言うとおりだよ。お前は正しいよ。でも」
 目の前にある、国井の顔がみるみる歪んでいく。しまった、泣くかな、と一瞬焦ったが、結局涙が流れることはなかった。
「ごめん、悪かった」
 そう呟くようにいって、国井は走り去っていった。
「意味わかんねえんだよ、どいつもこいつも!」
 無神経な友人たちの笑い声、不真面目さを責め立てるような国井と哉の眼差し。
 目を瞑っても雑音が消えない。頭の奥から耳障りな音が響いてくる。
「うるせえ!」
 稜介は腹の底からこみ上げる焦燥のままに、校舎の白い壁を思い切り蹴飛ばした。

 その日、家に帰ってからピアノをがむしゃらに弾きまくったあと、肘から手首にかけて、鈍い痛みを覚えたような気がした。
 気のせいだと思った。思いたかった。
 だが、翌日、その翌々日と、痛みは次第に強くなっていく。
 試しに調べてみたら物騒な単語ばかりが並んでいて、急に不安になった。
 誰かに相談しようか。
 家族に?
 ピアノについて無知すぎる。説明するだけ無駄だ。
 和臣に?
 彼ならきっと相談に乗ってくれるはずだ。だが、あの家に行ったら哉と顔を合わせる可能性が高い。個人的な連絡先も知らない。
 哉に?
 あれ以来気まずくて会っていなかった。前回のレッスンは、部活が忙しいと嘘をついて休んだ。
 自宅のピアノの前で、長い時間頭を抱えてた。
 鍵盤に肘をつくと、ひどい不協和音がした。母親の声が扉の向こうから聞こえた。
「稜介、ピアノは八時までにしなさいって言ってるでしょ!」
 わかってるよ、そう叫びながらも、吐き気と冷や汗が止まらなかった。