甘く、甘く、どこまでも甘く
中編
 それから一ヶ月間、完全にピアノから離れていた。
 しかし思ったよりも痛手を受けていないことに、自分でも驚いた。
 あれほどまでに執着していたのが嘘みたいに、ピアノへの熱が一気に冷めてしまった。
 楽しいことなど、他にいくらでもあった。
 ちょっと勉強しただけで、小テストは満点続きだった。
「今回の百点は布田だけだ。皆、次は頑張れよ!」
 教師に皆の前で誉められると、悪い気分はしなかった。
 部活にも本腰を入れて取り組むようになって、顧問に驚かれた。国井とはお互い何事もなかったかのように接したが、心持ち態度が柔らかくなったような気がした。練習に費やす時間が増えた分だけ、日によって浮き沈みが激しかったタイムも少しずつ安定していった。
 ある日の夕方、部活を終えてひとりで帰宅する途中、女の先輩に声をかけられた。
「ねえ、一緒に帰らない? 方向同じだよね」
 確かバレー部だったと思う。親しいわけではなかったが、何度か言葉を交わしたことはあった。ちょっと目を引く可愛い顔立ちをしていて、高めの声音に男心をくすぐる甘さがあった。
 思いのほか話が弾んで、別れがたくなって、そのまま先輩の家に誘われた。家族は出払っていた。しんと静まりかえった家に二人でいるうちに、何となくそういう雰囲気になって、キスをして、手でしてもらった。
 人に触られるって、こんなに気持ちいいものなのか。
 それまで味わったことのない感覚に夢中になって、興奮に我を忘れそうになったとき、ふと頭をかすめた。
 あの二人もこうやって、同じような快感を味わっているのだろうか。
 あの整った手は、どんな風に人の肌に触れるのだろうか。
 今まさに達しようとする瞬間、ピアノを弾く叔父の横顔が浮かんで、ぎょっとして身を引こうとした。でも、止まらなかった。哉に意識をつなぎ止められたまま、欲望は弾けた。
「気持ちよかった?」
 先輩は照れ臭そうに笑ったが、溜まっていたものがすっかり吐き出された後に残ったのは、気まずさと罪悪感だけだった。汚れてしまった先輩の手を正視することができなくて、逃げるように別れを告げて、その家を飛び出した。
 哉からは何度か電話があったが、すべて居留守を使ってやり過ごした。
 だが、母親は見逃してはくれなかった。
 哉と喧嘩別れしてから何度目か、部活を理由に今回もレッスンを休むと告げた時、厳しい顔で尋ねられた。
「叔父さんとうまくいってないの?」
「別にそういうわけじゃねえよ。忙しいんだって、部活」
 ぶっきらぼうに答えると、叱責混じりの低い声にどこか心配そうな響きが混じった。
「この頃、ピアノ自体にもぜんぜん触ってないじゃない。陸上の大会があるときもテスト期間中も、ピアノの練習だけは欠かさなかったのに。……ねえ、他に理由があるなら、私か叔父さんに話しなさいよ。やめるにしろ、やめないにしろ、まずはそこからでしょう?」
 急に苛立ちがこみ上げてきた。
 てんで見当違いの説教なんて、煩わしいだけだった。
 話すことなんて何もない。
 母親も叔父も大げさすぎるのだ。
 ピアノなんて、たかだが習い事のひとつなのに。
「飽きたんだよ、ピアノ」
 そう言い捨てて、自分の部屋に戻ろうと立ち上がった。
「稜介」
 てっきり刺々しい言葉で叱られるかと思ったのに、背中にかけられた母親の声音は、思いがけず柔らかく優しかった。
「……自分の気持ちが整理できてからでいいから」
 気持ちが整理できる、そんな日は来ないだろう。来るはずがない。
 整理できるような感情など、そもそも持ち合わせていないのだから。
 だから、飽きたって言ってるだろ。
 稜介は舌打ちして、母親の言葉を遠くに押しやった。

 土曜の午後、腹を空かせて部活から帰ってきて、何か摘めるものがないか台所を漁っていると、カウンターの上に見慣れない紙切れが置いてあるのに気がついた。
 ある地方都市で開催される音楽祭のチケットだった。
「おかえり、稜介」
 物音を聞きつけた祖母が二階から降りてきて、稜介が手にしているチケットに目を留めた。
「ああ、それ。哉がゲストで参加するらしいんだけど、ちょっと遠いのよねえ。私もおじいちゃんもお母さんも行けそうにないのよ。お父さんは出張だし。久々の公演だから、できれば行きたかったんだけどね。あんたの周りに、誰か興味がありそうな人いない? 来週末よ」
「……そういえば」
 だんだんと速くなっていく鼓動を押さえつけながら、稜介はできる限り平坦な声を作って言った。
「友達の母親がクラシック好きだって言ってたかも」
 そんな友達はいない。母親もいない。
 だが自分でも理解できない衝動が、勝手に唇を動かしていた。
「じゃあ、よかったら差し上げて頂戴よ。このまま無駄になっちゃうのも、もったいないからね。二枚とも持って行っていいわよ」
「わかった」
 軽く頷いて、ジャージのポケットにチケットを押し込んだ。
 翌週、チケットに記された祝日の昼過ぎ、稜介は部活に行くと言い残して家を出た。そのまま学校とは逆方向にある駅へと向かい、下り電車に乗り込んだ。
 普通電車を乗り継いで、それからバスに乗り換えて約三時間。音楽祭の会場に着いた頃には、ほとんど夕方になっていた。
 係員にチケットを渡して入場すると、プログラムを渡された。今日は音楽祭の初日らしかった。
 叔父の出番は、まずピアノ協奏曲を市民オーケストラと共演、それから地域の少年少女たちが出場するピアノコンクールの審査員をつとめ、最後に独奏曲を一曲弾くようだ。今はちょうど、協奏曲の後の休憩時間だった。
 稜介は落ちつかない様子で会場を見回した。音楽関係者と地元の住人が多いのだろうか。学生服姿の男女もちらほら見かけた。見慣れぬ制服姿の稜介を、興味深そうにじろじろと眺めている者もいる。
 客席に続く扉のすぐ横で立ち止まり、稜介はチケットに記してある座席番号をじっと注視した。
 ここまできて、席につこうかつくまいか、迷いがでてきた。もしかしたら、舞台から客席がよく見える会場で、哉に気づかれてしまうかもしれない。
 しばらく俯いて考え込んでから、勢いよく顔を上げた。
 やっぱり帰ろう。
 第一、俺、なんでこんな所にいるんだ?
 少ない小遣いから電車代をひねり出して、はるばるこんな田舎までやって来るなんて、自分のとった行動が、自分にもよく説明できない。
 とにかく理由をつけて、どこでもいいからひとりで遠くに行きたかった。
 心の中の一部分、今までピアノがどんと置いてあった場所が空っぽになって、すかすかになって、ひどく気分が悪かったのだ。
 手当たり次第に色々とぶちこんでみたものの、音楽以外のあらゆるものが、そこにはうまく収まらなかった。
 だからといって、叔父の演奏になんて興味はない。会いたくもない。
「……馬鹿じゃねえの」
 そう呟いて踵を返しかけたとき、後ろから声をかけられた。
「よう、甥っ子じゃねえか」
 怒鳴り声に近い声量に驚いて、稜介は小さな叫びをあげた。
 恐る恐る振り返ると、白い髭を生やした男が屈託のない笑みを浮かべて立っていた。
「高木先生?」
「叔父さんの演奏聞きにきたのか、え? 残念だったな、協奏曲はもう終わっちまったよ」
「ああ、ええと、午前中は部活があって」
「そうか。中学生は忙しいな」
 高木は尋ねながら、あたりをぐるりと眺めた。
「何だ、ひとりか? 誰か大人は一緒じゃねえのか?」
「その、実は……」
 稜介は内心で冷や汗をかきながら、祖母と来たものの、音楽にあまり関心がなくて市街地を観光をしているのだと早口で説明した。祖母の人となりをよく知っている高木は、咄嗟についた稜介の嘘を信じたようだった。
 高木とは以前から面識があって、家にも遊びに行ったことがある。適当に雑談を交わしながらも、稜介は焦りを感じていた。
 このまま話を続けたら、いずれ襤褸が出るかもしれないし、演奏後に哉の控え室にでも遊びに行くかなどと誘われたら、たまったものではなかった。
 稜介はわざとらしいほどの大仰さで、会場の壁にかかっている時計を見上げた。
「あ、そろそろ時間だ。席につかないとなあ! じゃあ、高木先生。俺はこれで……」
 高木は立ち去りかけた稜介のチケットをひょいとのぞき込んだ。
「俺の隣の席じゃねえか。行こうぜ」
 稜介はがっくりと肩を落とした。
 最悪な気分のまま、高木に半ば引きずられるように席に向かった。
「どうした、気分悪いのか?」
「……別に」
 ここまできてしまうと、もうどうにでもなれという気持ちになって、稜介は開き直って座席に深々と座り、尊大に足を組んだ。
 楽屋に連れていかれたら、その時はその時だ。
 ひとりで来たことは適当に言い訳をして、叱られたら逆に、叔父の演奏に辛口の採点をつけて突き返してやろう。
 割り切ってしまえば、心が少し軽くなる気がした。
 そういえば、と稜介は顔を上げた。
「和臣先生は来てないんですか?」
「白瀬が? いや、来るって話は聞いてねえけど。そういや、宮代の公演で白瀬を見かけたことねえな。あいつも何だかんだでいつも忙しいみたいだしな」
 意外だとは思いつつもそれ以上追求はせず、稜介はプログラムに視線を落とした。
「ベートーヴェンの月光……叔父さんらしいね。地味で。俺だったら熱情かテンペストだな」
「ソロリサイタルじゃあるまいし、別に自分の好みだけで曲選んでねえよ」
「叔父さん、ブラームスのピアノ協奏曲もやってるんだよね。二番。それで審査員やってベートーヴェンのソナタ? こきつかわれてんな。そもそもこのイベント自体、予算も企画力もなさそうな感じ。音楽祭っていうより、学芸会みたい」
 高木は苦い顔をして、肘で小突いてきた。
「おいおい、ここ関係者席の近くなんだから、でかい声で文句たれるな!」
「はいはい、すみません。ねえ、高木先生は協奏曲も聴いたんですか? こういうイベントでブラームスって、結構冒険だよね。長いし。皆寝ちゃったんじゃない?」
 稜介の素直すぎる意見に呆れながら、高木は耳に残る音を味わうようにゆっくりと言った。
「難しい曲だったが、独奏もオーケストラもいい演奏してたよ。宮代らしさもあってな」
「くそ真面目で退屈ってこと?」
「お前なあ……稜介、叔父さんとはうまくやってんのか?」
 さりげないものであったが、高木の声には気遣わしげな響きがあった。
「まあ、そこそこ」
「身内に教える、教えられるってのは難しいところがあるからな。特に同性同士は」
「何でだめなの?」
「ライバルになっちまうからさ」
「哉叔父さんと俺が? プロのピアニスト様と素人の中学生だぜ」
「技量は関係ねえよ」
「ライバルねえ」
 疑わしげな視線を向ける稜介に、高木は諭すように言った。
「たまには喧嘩もいいけどよ、ちっとは手加減してやれよ。あれでも生身の人間なんだから、殴られれば痛えし、刺されれば血が出るんだ」 
「どうして喧嘩のこと知ってんの? 誰に聞いたんですか?」
「誰にも聞いてねえけど、わかるよ。宮代の性格とお前の態度を考えればな」
 稜介は唇を尖らせた。
「じゃあ、高木先生がレッスンしてくださいよ」
「俺の授業は高いぜ。ぼったくっちゃいねえが」
「まけてよ」
「そりゃ無理な相談だ。他にも生徒は何人もいる。お前さんだけ特別扱いはできねえよ」
「全員無料にすれば?」
「馬鹿言え。俺と猫の餌代、誰が稼いでると思ってんだよ」
 稜介は大きく溜息をつき、ずるずると座席に身体を深く埋めた。
「……ケチ」
「はは、ケチで結構」
 決まり悪そうにプログラムを丸めながら、稜介は急に思い出したように尋ねた。
「高木先生、叔父さんと和臣先生のことどう思う?」
「どう思うって、どうも思わねえよ」
「何で?」
「いや、何でって……人の関係に首突っ込むなんざ、意味もねえし、野暮な話だろう?」
「大人っていつもそうだよな。ずるい逃げ道ばっかり用意してさ」
 稜介が言い切ると、高木は苦笑いを浮かべた。
「まあ、そうかも知れねえけどな」
「哉叔父さんってさ、和臣先生のこと大切にしてるのはわかるんだけど、時々、神様崇めてるみたいに思えるんだよね」
 高木は驚いたような表情をしてから、しみじみと言った。
「子供ってのは、恐えなあ」
「子供って、俺のことかよ?」
 子供という表現に敏感に反応した稜介に、悪い悪い、ただの独り言だよと高木は笑って言った。
 高木は稜介の目の前に、毛むくじゃらの自分の両手をずいと突き出した。
「ピアノを弾く指にはな、呪いがかかってんだよ」
「呪い? 何それ」
「ピアノを習った師匠からかけられる呪いだ。だからお前の叔父さんも、白瀬には逆らえない……のかも知れねえ」
「先生の真似するようになるってこと?」
「惜しいが、少し違う。影響、ってのが一番近えかな」
 稜介は呆れた。音大の教授をつとめる人物の口から出たとは思えない、くだらない戯れ言だ。
「高木先生も教え子に呪いかけてんの? 恐い恐い」
「俺の呪いなんざ可愛いもんだ。俺んところにくる生徒は、年齢も技術も精神面も、ある程度まで育ってるんでな。やっはり一番強烈に食らうのは、ちょうどお前ぐらいの歳までだろうなあ。そのあたりで基本は固まっちまうことが多いから。内も外もな」
「じゃあ、俺ははじめて習った女の先生に呪いかけられてんのかな。美人だったから別にいいけど」
「美人だったら色目でも呪いでも嬉しいよな、確かに」
 うんうんと頷く高木を後目に、稜介は手の甲に顎を預けて舞台の方を眺めた。
 間もなく、少年少女のピアノコンクールとやらがはじまるらしい。
 市長を先頭にぞろぞろと審査員席につくお偉方の列の最後尾に、哉の姿をみとめた。
「叔父さんって、愛想ないよね。俺ぐらいの時もあんな感じだったの?」
「基本的には変わってないな。慇懃無礼なガキだったよ」
 その時ちょうど、プログラム後半の開始を告げるベルが鳴り響いた。
「慇懃無礼? らしいぜ」
 声を殺して笑う稜介に向かって、高木は口の端を引き上げた。
「ま、お前はただの無礼なガキだけどな。ほら、はじまるぞ」

 ピアノコンクールが終わるまでに、稜介は数十回目の欠伸をかみ殺すこととなった。
 すごく上手くもないがすごく下手でもない素人、しかも全く面識のない人間の演奏ほど退屈なものはなかった。コンクールとはいっても、ちょっと大がかりなピアノの発表会という感じだった。
 金賞を手にしたのは、空色のドレスを着た少女だった。稜介と同い歳ぐらいだろうか。真剣な表情でショパンの革命のエチュードを弾いていた。
 俺だったら、もっともっと上手く弾けるのに。
 自惚れでなくそう思った。
 あの分からず屋の哉ですら、稜介がこのコンクールに出場していたら、他より飛び抜けて高い点数をつけるざるを得ないだろう。
 胸のすくような気持ちのよい空想は、しかしすぐに消えてしまった。
 稜介は高木に気取られないように、そっと手を組み合わせた。
 ピアノを弾かなくなって一ヶ月、今ではもうすっかり痛みも違和感も治まっていた。だが、もしまたあの痛みに襲われたらと思うと、背筋がひやりと冷たくなって、鍵盤の蓋を開けることすらできなかった。
 慌ただしい表彰式の後、小休止を挟んで、クラシックのコンサートとは思えない、学校行事のようなアナウンスが哉の出番を告げた。と、ふっと照明が落ちた。
 審査員として一度退席した哉は、今度は演奏者の肩書をつけて、拍手と共に再び舞台に現れた。
 哉が隣に立ったとたん、不思議なことに、ついさっきまで少年少女たちを威圧していたコンサートグランドが、単なる一台の大きなピアノにしか見えなくなった。
 お前たちが弾くのではない、私が弾かせてやっているのだとばかりに、つんとお高く止まった傲慢さは、今ではすっかりなりを潜めていた。
 確かに哉は背が高いが、身長や体格の差だけが原因とは考えにくい。
 ピアニストとピアノの間には、何か見えない力でも働いているのだろうか。そう思わずにはいられなかった。
 拍手を受けて客席に一礼するものの、叔父の表情には相変わらず一片の愛想もない。慇懃無礼とはよく言ったものだ。ここで和臣のような微笑でも浮かべれば、CDの売り上げも少しは上がるだろうに。
 黒い礼服の前ボタンを片手で素早く外すと、哉は椅子に座り、ペダルに足を伸ばした。祈るように右手で左手を軽くさすって、それから指を鍵盤に置いた。
 公演の時は指輪外してるんだな。
 演奏前の短い儀式めいた所作を見つめながら、稜介はぼんやりと考えた。
 するとそれまでざわついていた客席が、急にしんと静まり返った。耳に痛いほどの静寂と、張りつめた緊張が広がった。
 重い沈黙を破ったのは、澄み切ったピアノの音色だった。
 強くも大きくもない音なのに、圧倒的な存在感を持つその響きは、瞬く間にホール全体を飲み込んでしまった。
 たった十本の指に、空気が、鼓膜が、身体が丸ごと支配された。
 全身に電流が走った。
 稜介は愕然として、舞台を凝視した。
 ベートーヴェンのピアノソナタ第十四番嬰ハ短調、別名月光。
 もちろん、何度も耳にしたことのある有名な曲だ。古いものも新しいものも、名のある演奏家の録音で、しかも有名な作品は、和臣から借りてずいぶんたくさん聴いた。だが誰のピアノを聴いても、この曲の旋律に月光を思い浮かべたことはなかった。
 別名がついているせいで、勝手な先入観を植え付けられているのだろう、むしろ作曲者の意図を無視して、月光などという呼び名をつけた人間は、このソナタをよく聴き込んでいなかったのではないかと、いつも考えていたものだ。
 けれど、今、稜介は確かに月の光を感じていた。
 心の深いところまで照らしだすような、冷え冷えと冴えた、厳しくも美しい光を。
 美しく、清く、深い悲しみに満ちた調べだと思った。
 だが、月の光そのものの悲しみではなかった。
 月光に感情などない。あるとすれば、それは月を眺める人間の悲しみだ。
 稜介の座る席から、舞台は遠く離れていた。
 それなのに、哉の指の動きが手に取るようにわかった。
 鍵盤を愛おしく抱くように、指先が沈み、同じ数だけ浮き上がる。
 哉の硬質な音と、和臣の柔らかな音。
 似たところなどない音色なのに、哉のピアノを聴いていると、どうしてか、和臣の姿が思い出されるのだった。
 静かな弦の震えが耳の奥深くまで入り込み、あらゆる気管を通り、体中を巡って、やがて心に触れた。
 すると突然、胸に鋭い痛みが走った。
 忘れていたはずの記憶が、忘れたかったその記憶が、止めどなく溢れだした。
 物心つくかつかないかの頃、家のアップライトピアノの前に見覚えのない若い男が座っていた。
 祖父でも父親でもなかった。怪しい男だ。
 稜介は警戒して、そいつの様子を扉の陰からじっと見ていた。
 やがてこちらに気付くと、男は戸惑った表情を浮かべた。
「……弾いてみるか?」
 喋った。穏やかで低い声だった。
 危害を加えるつもりはないらしい。でも、不審人物には違いなかった。
 緊張しながら恐る恐る近づくと、いきなりひょいと抱き上げられた。
 膝の上に乗せられて、はじめてピアノというものを間近で見た。それまで母親から、ピアノに近づくことはきつく禁じられていた。
 蓋を開けて覆いを取ると、黒と白がきれいに並んでいた。促されるままにそっと触れた鍵盤は、思ったよりも固かった。
 力を入れると、沈んで、しかも別々の音が出た。
「ド、レ、ミ、ファ、ソ……」
 鍵盤を押す度に、男が言った。意味はわからなかった。
 男の抱き方はぎこちなくて、骨ばった腿の座り心地は悪かったが、指に感じる鍵盤の冷たさは気持ちがよかった。
 音を出すだけの遊びにも飽きてきた頃、男は稜介を抱いたまま、器用にピアノを弾き始めた。
 ずいぶん昔のことなのに、今でもその曲をはっきりと覚えている。
 そうだ、あれはきらきら星変奏曲だった。
 きれいな指が別の生き物みたいに目も止まらぬ早さで動き回って、白と黒を次々に押した。
 音が溢れる。
 どんどん溢れる。
 溢れて、溢れて、それでも溢れ続けて。
 小さな稜介はびっくりして目を瞬かせた。
 魔法にかけられたみたいだった。
 俺もピアノが弾きたい。
 こんな風にピアノを弾いてみたい。
 そのとき、世界は変わったのだ。

 気づいたときには、いつの間にか演奏は終わっていた。
 ホールに鳴り響く万雷の拍手のなか、稜介は呆然と己の両手を見つめた。
 魔法にかけられた?
 いや、そんな胸躍るような言葉で言い表すことはできない。
 高木の言うとおり、それは呪いだった。
 この手に刻まれた烙印。
 きっと哉の手にも、深く刻まれているもの。
 なんて強く、暗く、激しく、禍々しく。
 そして……。
 じっとりと汗ばんだ掌を、稜介はそっと握りしめた。
 なんて、甘やかな呪いだろう。