竜の眼
 件の井戸を塞ぎ終えた明くる日には、王の夢見が真実神々から賜った託宣であるのだと誰もが信じざるを得なかった。あれほどまでにしつこく空を支配していた重い雲は一晩にして払われ、人々の頭上には澄み渡った青が高く広がっていた。領民は地に突っ伏し涙にむせびながら神々と王との栄光を称えた。
 しかし雨がやんだとはいえ、深く傷ついた国を癒すのは容易ではなく、グンテルは昼となく夜となく寝る時間を惜しんで仕事に勤しみ、国の再建に力を尽くした。
 王が再び地下へ続く階段を降りたのは、月がようやく三度巡り、夜の風に雪の息吹が濃く混じるようになった頃だった。
 グンテルは呻きとも嘆息ともつかぬ白い息を吐いた。晩秋の地下牢は、氷で設えられたようにひときわ寒い。肩に羽織った毛皮を、知らぬうちに胸元できつく巻き付けている有様だった。
 だらしなく横たわって赤い果実を咀嚼していた半竜は、格子の向こうにグンテルの姿をみとめると、汁を指で舐めとって微笑した。
「あなたも召し上がりますか」
「いらん」
 彼が口にしていたのはごくありふれた果実で、城の裏庭や菜園にも植えられている。ひと冬程度であれば保存もきくが、舌がしびれるほど酸味が強く、蜜漬けにでもしなければとても食べられたものではない。やはり竜は味覚も人とは違うものなのだと妙に得心がいった。
 遠目から珍しいものでも眺めるような王の視線を受けて、竜は笑みを深くした。
「私が人の血肉を好んで喰らうとでも? 残念ながら、あれはそううまいものではございません」
 グンテルは眉を顰め、嫌悪も露わに尋ねた。
「つまりは、喰ったことがあるのか」
「いいえ。母から継いだ知識です。この果実が竜の舌に合うということも」
 母からと聞いて、グンテルの胸に疑問が兆した。この半竜が産まれてすぐに、母竜は死んだのではなかったか。息子に喰われて。
「どうにもあなたは思うことが素直に顔に出てしまわれるようだ。そのような調子では、敵手に足元を掬われますよ」
 口の端を固く結んだグンテルに容のよい顔を寄せ、柔らかく歌うような調子で竜は続けた。
「我らは同族の死体を喰らうことで、堆積した記憶と知識とを継承するのです。まず母を、そして死んだ仲間を。死に瀕した竜は独特のにおいを放ちますから、同じ風の吹くあたりであればすぐにわかります」
 人の耳にはぞっとするような血生臭い習性を、男は平然と告げた。
「そのように神妙な顔をなさらないでください。屍肉を喰らうだけで、わざわざ殺しはしませんよ。人と違って、正気であれば同族殺しをするような輩はおりません。さて、今宵はどのようなご用で?」
 グンテルは苦い息を飲み込んだ。
 本心に従えば、二度と顔を合わせたくなどなかった。いかなる理由があれ、グンテルはこの男に辱めを受けたのだ。それでも、力を借りたことについて形ばかりは礼を示さねば王の名に傷がつくと奮起して来たのだが、吐き気を催すような屍肉喰らいの話を聞いてその気が瞬く間に失せてしまった。
 萎えた意気を悟れまいと、王は視線を外した。
「貴様を繋ぐまじないが綻んでいないか、確かめに来ただけだ」
「それはまた、ご親切なことで。長雨の後始末で、寝る暇もないほどお忙しいのでしょうに」
 まるでここしばらくのグンテルの多忙を、すぐ近くで目の当たりにしてきたような言いぐさだった。
「気遣いなど無用」
 憮然として言い捨てた王の言葉の前にも、竜は顔色ひとつ変えなかった。これが人相手であれば、誰もが斬首の恐怖に震え上がって平伏すだろうに。
 グンテルはその思いつきに、内心で首を振った。
 いや、この男を屈服させたいと望んではいるわけではない。
 それどころか、嫌悪以外のいかなる感情も抱いてなどいない。
 けれどその諦観を否定する声が、胸の筋を引きつらせるような叫びを上げる。
 本当にそうか。この竜の若者に対して思うところは何もないのかと。
 グンテルは馬鹿げた内なる声に鼻白んで、絡み合った思考の糸玉をぞんざいに放り投げた。
 そもそもこの場所に再び足を踏み入れたのが間違いだった。人成らざる者に礼を尽くそうと試みた己が愚かだったのだ。
 苦いものを噛み潰したような表情でその場を立ち去ろうと衣の裾を翻した王の背中に、獣とも人とも思えぬ、憂いに満ちた芳しい声が投げかけられる。
「確かに、雨は去りました。けれど、あなたの国に降りかかる脅威がそれだけで終わるとは、とても」
「何だと? それは一体……」
 獣の眼と人の眼、ひとつの顔に輝く双眸が同時に細められる。
「あなたが忌み嫌うこの眼には、これから先、この国を脅かすものも栄えさせるものも映っております。ただ、申し上げたでしょう? 竜の眼で見るものを、人の言葉でお伝えすることはできないと」
 グンテルは拳を固く握りしめ、鉄の格子を力任せに打ち付けた。戦慄いた鉄の鈍い響きが、寒々とした冬の冷気に共鳴して悲痛な叫びを上げた。
「……この悪党が!」
 腕力などでは竜の精神にも肉体にも漣をすら立てられぬことはわかっていたが、怒りをぶつけずにはいられなかった。掌から時季外れの若木の如くすんなりと伸びた指先が、グンテルの額を窘める動きで軽く突いた。
「あなたときたら、石の如き固い頭に収まっているのは国のことばかり。たまには遊戯に興じるのも悪くはないのでは?」
「国の大事が遊戯に等しいと? 貴様は」
「ならば眼を背けますか。私をこの場で斬り捨てれば、さぞ胸が空きましょう。……しかし、あなたは決してそうはなさるまい」
 王の憤怒を若者らしい無邪気さで笑い飛ばし、半竜は通路の隅で丸まっていた唖の老婆に艶めかしい視線を流し送った。
「さあ、高貴なる客人のために、牢の鍵を開けて差し上げなさい。今宵は冷える。燃えるように熱くした蜜酒もね」

 それから決まって満月と新月の夜、王は政務に勤しむ勤勉さで竜の元を訪れ、交わった。風雨を読み、眠れる財を引き当て、あるいは敵の動きを素早く察知しと、竜の眼のもたらす恩恵はいかなる武器にも勝る力を持っていた。
 はじめは王の責務と言い聞かせ、嫌々ながら床についたものだった。それが時の流れと共に徐々に関係が変じていった。
 竜との交合が、飲み食いや睡眠と同じく日々の営みの一部として埋もれていくにつれ、恥ずべき陶酔に身を委ねるのも、いつしか強い蜜酒を煽って酩酊するのとそう変わらないのではないかと思うようになった。
 宴の席で男たちが杯を重ねるように、翼持つ夜の獣は体液を啜りあげるだけだ。人とは違い、竜にとってはさして深い意味などもたぬ行為のひとつなのだろう。
 そうはいっても、もっと深く繋がらなければ見えるものも見えぬ、己の上で腰を振れと言われたときには、いっそ首を絞めてやろうかと思いはしたが。
 そのようにして続いていった交わりは、相も変わらず奇妙なものだった。親しさと呼べるような血の通った温かみは一切ないが、かといって互いを憎悪しているわけでもない。むしろ自分が心から信頼を置いているのは、この半竜ただひとりなのではないかと思うような瞬間すらあった。
 権力と財とが集まるところには数多の欲が蠢めくが常である。周囲を漂う生臭い裏切りの物語を揺籃歌として育ってきたグンテルにとって、他人は盤遊びの駒に等しく、自分もまた人からみて駒のひとつであることを信じて疑ったことはなかった。
 戦況が変われば、一瞬にして味方は敵となり、敵は味方となる。父が子に、子が父に切っ先を突き立て合うことも珍しくはない。王とは父祖の呪いを凝って形にしたもの、治めるべき大地に血で編んだ鎖に縛られた囚人なのだと、生前、彼の父は笑って言ったものだった。
 だが、どれほど人を食った態度で愚弄してはいても、竜は確かに偽りを口にしない。力があるがゆえに嘘など必要としないのだという言葉は、神官や家令が恭しく並べ立てる世辞や理屈よりもすんなりと肌に馴染んだ。
 さらにいえば、敵でもなければ味方でもない。持てる力が違い過ぎて、そんなものには永久に成り得ない。もしグンテルが半竜の聖域を土足で侵すようなことがあれば、喉元を食いちぎられて終わりだろう。
 殺すか殺されるか、食うか食われるか。そのような殺伐とした竜とのまぐわいにどこか気安い快さを感じる自分にふと気がついたとき、接合した部分から温かく柔らかい何かに蝕まれていくような奇妙な心持ちになった。
 蝕まれていく。温かく、柔らかい毒に。
 繰り返される情事は変わり映えしないようでいて、確かに以前とは違ってきていた。男に組み敷かれる恥辱と絶望から灰色に濁った視界に、色が差したのはいつからだったか。もう思い出すこともできなかった。
「陛下」
 微風のような声音で呼びかけられて、グンテルは己がずいぶん長いこと呆けていたことにようやく気がついた。
「鉱山の整備は進んでおられますか」
「ああ」
 尋ねつつも、竜は顔も上げず気怠げに横たわっていた。夜服を肩に羽織っただけの王は竜のすぐ側であぐらをかき、心ここにあらずという様子で床を注視し続けていた。
 その年の春、長雨の害に喘いでいた貧しく小さな国に、神々の香しい指先によって吉報がもたらされた。野盗の墓所と呼ばれていた禿山が、多くの金を抱える鉱山であることがわかったのだ。
「さすがは竜の眼だ。あれほどまでに深く埋もれていた金をよく見つけたな」
「古来から、竜は金や輝石を蓄えるものと決まっております。もっとも、人も同じように金を求める気持ちは理解できません。竜は己の財を守るだけの力を持っている。けれど人は財宝を手にしたとたん、それを欲する別の者の脅威に怯える始末。違いますか、陛下? 他国の侵入を恐れて、兵を集めておられるようだが」
 金鉱の存在は、当初ごく近しい臣下にのみ明かされた。王は事を公にする前に、兵と武器とを整え、近隣の国々への脅威に備えた。
 富を予言すると同時に、竜の眼はまた騎馬をたくみに操る兵士たちの姿をも捉えていた。どこからやってきたのか、正体は何者なのか、はっきりと見定めることは叶わなかった。ただ確かなのは、熟練した強弓がグンテルの領土、とりわけ鉱山のある地方に向けられているということだけだった。
 怯える、という不敵な一語を、グンテルは事実として怒りもせずに受け入れた。
「それでも、国を豊かにするために金は必要だ。我が国は小さく弱い。だが、それを嘆くのは王の勤めではない。小心と馬鹿にされようが、俺は策を弄し、土地と民とを守り、育て、次に継いでゆかねばならんのだ。たとえ神々に背いたとしても。……お前には。感謝している」
 しばしの沈黙の後、グンテルは大きく息を吐いて、ようやく床から視線を外した。
「森の賢者が帰り次第、お前の戒めを解こうと思う」
 情事の残熱が未だに滲む半身を起こしながら、竜は微かに眼を見張った。
「正気ですか」
 固い表情のグンテルを見つめる眼差しの片割れ、人の瞳は、泉の水を思わせる静寂と冷たさとを湛えていた。グンテルは目を伏せた。容貌をのみ見れば、この半竜とて己と同じく人の形を成すものだ。完全に獣のように扱っては、自分が卑しめられるような気分になる。そう気づいて以来、この男を獣と呼ぶことはなかった。
「狂ってなどいない。……お前の助力により国は救われ、より栄えようとしている。だが私は、それに応える価を未だ与えていない。お前は財も領地も女も、いかなる褒美も欲しないことはわかっている。人を喰わぬことも、徒に害を与えぬことも」
「助力?」
 その一語をゆっくりと舌で転がし、竜は眉根を寄せた。
「あなたはやはり王でいらっしゃる。王の権力を示しさえすれば、人は自ずと従うものと信じて疑わぬ。私は産まれ落ちてからこの方虜であった。恨みこそすれ、どうしてあなたに助力するなど素直に思うのか。人ならざる身には、王の力は及びません」
「ならば、なぜ私に竜の力を与えた?」
「退屈しのぎですよ」
 竜は億劫そうに立ち上がり、間近にある王を見据えた。嗅ぎなれた青い情交の残り香が、薄い暗がりに幻のように漂う。
「しかし」
 グンテルは渋面をつくった。
 退屈しのぎとはいえど、そうなればグンテルの側が一方的に利益を貪る恰好になる。竜はといえば、別に好きこんで男を抱いている風にも見えなかった。
 たとえ戯れのひとつに過ぎないとしても、与えられたものと与えられるもの、両者の天秤が釣り合わぬのは何とも居心地が悪い。
「それでも、俺はお前に」
「聞き分けの悪い御方だ。礼など結構だ、と申し上げているでしょう。それに、誰の力を借りずとも、このように稚拙なつくりの牢など、すぐに抜けられます。ここは静かで居心地がいい。それゆえに住処としているだけ」
「まさか。地下に張り巡らされたまじないは森の賢者が力をそそぎ入れて編み上げたもので……」
「ならば、試してご覧にいれましょうか?」
 信じがたい事実を明かされ言葉を失った王の全身に、激しい熱と雷鳴を思わせる轟音が襲いかかった。グンテルがそろそろと瞼を押し上げたときには、男はすでに人の皮と血肉とを破り捨て、固い鱗で覆われた竜の姿を晒していた。
「お前、何を考えて」
 問いかけたところで、濁った金の眼は黙して見据えるばかりだ。黒き翼が部屋を満たして広がりグンテルを抱きすくめた。と、四肢がもげるかと思うほどの衝撃に貫かれた。心身の備えもないところにまともに竜の力を食らって、グンテルは呆然とする間もなく意識を手放した。
 どのような妖しいわざを使ったものか、次に瞼を開けたときには地下牢からも、さらに城からも遠く離れた草原に放り出されていた。春の大地は素足にまだ冷たく、吹きつける夜風が頬に心地いい。
「これは一体……」
 問いかけを無視し、竜は獣の長い面をつと上向かせた。
 今宵は風がいい。
 大きく引き裂かれた口が開いて、鋭い牙の間にそんな声が聞こえた気がしたが、その音は嵐の日のうねりに近く、もはや人の言葉を成してはいなかった。それなのにどうして理解できるのか、グンテル自身にもわからなかった。
 竜は大樹の枝に似た太く逞しい尾を地面に叩きつけ、背に乗るように示した。わずかな逡巡をみせたのみで、グンテルはまるで神々の見えざる手に導かれるように、小さな岩山の如き竜の身体をよじ登って、その背中にしがみついた。
 薄く膜の張った黒き翼が広がった。地下で見たよりも、はるかに巨大に思える。風を愛おしむように、翼が二度三度と大きくはためいた。竜が首を振り上げて急に上体が上向いた。巨体が大地から離れた瞬間、見えざる手に臓腑が持ち上げられたような浮遊感に襲われ、思わず情けない叫びを上げる。グンテルは小刻みに震える膝を必死に抑えつけながら、鱗をつかむ手に力を込めた。
 星のない空を求めて、竜は息もつかせぬ早さで上昇していく。まるで夜そのものに吸い込まれていくようだと思った。
 やがて雲に手に届きそうなところで竜は風にのり、瞳と同じ黄金色の風を纏って悠々と飛行した。
 厚い雲に覆われた新月の夜、眼下を望めど地上にはあまねく深い闇が広がり、一点の光もなかった。青々と茂る森の影も、彼方に続く稜線も、すべてが夜の黒い舌に飲み込まれていた。たとえ下から仰ぎ見る者があったとて、何も眼には映るまい。それほど静かな、暗い夜だった。
 空を駆ける喜びに胸を躍らせながら、グンテルは風のにおいを味わった。まるで慈しむような仕草で、限りなく黒に近い暗緑色の鱗を撫でる。
 自在に風を操って、力強く飛翔する様は神々の与えた生命そのものだった。
 狂人たちの暗澹たる廟に、この誇り高き獣を縛りつけておけるわけがなかった。
 自由の歓喜をうたうように喉が震えて、裂けた口腔から放たれた低い咆哮が腹に重く響き、薄い雲を散らした。
 何ものにも侵されぬ自由は、冷たく孤独だ。
 ……そして。
 グンテルはそっと目を細めた。
 竜とは地上でもっとも忌まわしきもの、聖なるもの、何より美しきものであると。

 やがて竜は森の奥深くへと降り立たち、鱗を脱ぎ捨てて人の形をとった。どこからか、水のにおいが漂ってくる。グンテルは顎を上げて鼻先をひくつかせた。
「すぐ側に泉があるのです。足をとられぬよう、お気をつけて」
 人の言葉を取り戻した竜は、グンテルのすぐ傍らで囁いた。
「静かだな。狼の吠える声もしない」
「逃げ出したのでしょう。竜に牙を剥こうとする不埒な獣など、人以外にはおりませぬ」
 グンテルは苦い笑みを唇に浮かべた。
「……人の手になる戒めなど、お前には何の意味もなかったのだな。はじめから。毎夜こうして外に出ていたのか?」
「気が向いたときには。もちろん、月のない晩に限ります。下手に姿を見られて、騒がれては面倒だ」
 グンテルは独白めいた声を漏らした。
「俺は愚かだったな。お前は自由だ。王の臣下でも領民でもない。ただ己自身があればいい。お前に与えられるものなど、何もなかった」
「そのようなことは」
 闇の奥にある竜の顔が、微かに歪んだようだった。錯覚だと無視してしまうには、あまりに生々しく。
「……ならば」
 長い沈黙をおいて、半竜はようやく口を開いた。
「これからも、あなたにお会いしたく思います。私の半身が、人の部分が錆びつかぬように」
 暗がりに佇む男の影はどこか儚げで頼りなさを感じる。空を支配していた王者と同じものとも、竜の血を引くものともとても思えぬ。牢にあっては、空気すら圧倒するほどの力で王を制したものを。
 半竜の肩が震えているようで、グンテルは我知らずその腕を掴んでいた。
「何を」
 彼は驚き身を引こうとしたが、グンテルの掌に込められた力と思いとは、拒絶のそれよりもずっと強かった。
「お前、名はあるのか」
 だしぬけの問いかけに、竜は絶句した。グンテルは唐突に過ぎたかと思い直し、声の調子を柔らかく改めて、再び訊ねた。
「どうした、名ぐらいあるのだろう?」
「私の名など……これまで通りお呼び下さい。半竜だとか、けだものだとか、悪党だとか」
「心ない呼び方でお前の誇りを汚したのなら、ここで詫びる。すまなかった」
 竜はふいと顔を背けた。
「何を今さら。肌を合わせて情が移ったわけでもありますまいに」
「そうか、そうだな。情が通ったのかもしれん。妙な気持ちだ」
 グンテルは掴んだままの腕を強引に引き寄せた。
「よく知るたびに、お前がただの男のように思えてくる」
 深い嘆息の谷間に、風の囁きのように小さく笑う声がした。
「私とて同じ思いです。王の外套を脱ぎ去ってしまえば、あなたはひとりの平凡な男だ。話はつまらぬし、交渉事も下手。床の上で人を愉しませる術のひとつもない」
「……悪かったな」
「ツヴェンティボルト」
 半竜は遠く夢見るような語調で繰り返した。
「死の際、母はツヴェンティボルトと呟きました。けれど、それが名であったのか、今では」
「いや、間違いなかろう。母が呼んだのなら、それがお前の名だ」
「自信がおありのようですが、何を根拠に?」
「母親とはそういうものだろう」
 ツヴェンティボルトは呆れに怒りを滲ませた。
「そのような理由で我が名を定めると? やはりあなたは、傲慢な御方だ」
 半竜はグンテルの手を払いのけ、厚い胸から身を引き剥がした。何がそこまで気に障ったのか判断のつきかねるまま、グンテルは立ち去ろうとする男の手首に指を伸ばした。
「おい、待て」
 なおも逃げようとするツヴェンティボルトの腕を強引に捉えると、図らずも抱き寄せるような格好になった。手綱を握るのはよくとも握られるのは嫌なようで、半竜は己を抱えるグンテルの腕に容赦なく歯を立てた。
「この」
 グンテルはむきになってツヴェンティボルトを羽交い締めにした。すると相手も細腕とは思えぬほどの物凄い力で抵抗してくる。
「離しなさい!」
 両者の手足が辺り構わず振り回されると、すぐ側に生えた灌木が風もないのに不安げにざわざわと揺れた。
 それは秘密めいた情交の前触れというよりも、さながら幼子同士の拙い戯れだった。子供めいた半竜の攻撃をいなしながら、グンテルは不意に思い出した。自分とこの男とは、腹違いの兄弟であったのだ。もし彼が地下牢に縛られることがなければ、隣に並び政を論じ、切磋琢磨して剣の腕を競い合い、こうしてじゃれあうように遊ぶこともあったのだろうか。
 ……あるいは、共に同じ夢をみることも。
 そう考えると、見えない手で鷲掴みにされたように胸が痛んだ。
 これは竜である前に、弟なのだ。我々は血を分けた兄弟なのだ。
 突如沸き起こった愛おしさにたまらなくなって、思わず唇を重ねようとすると、口づけを拒むように顔を背けられた。ならばと、代わりに掌に、手の甲に、指の股にと、割れた唇から押し出した舌で拭うようにゆっくりと添わせた。指で白金の髪を梳きつつ、目の前の額を自身の鎖骨に押し当てた。
 以前であれば同じ血か流れると考えただけで虫酸が走っただろうに、知らぬ内に起こった自分の変化に驚くしかない。逃げるのを諦めたのか、腕の中に収まっている男は暴れるのをやめて急に大人しくなった。
「前々から思っていたのだが、交わるというのは、俺がお前の中に収めるのではいけないのか」
 王に率直な疑問を差し向けられて、竜は躊躇いを打ち消すように短く言い捨てた。
「嫌です」
 グンテルは首を傾げた。
 可でもなく不可でもない答え。いつでも人を煙に巻く調子のツヴェンティボルトがはじめて示した感情の吐露のような言葉を、どう受け取ったらいいものかわからなかった。
 竜は嘘は言わぬ、それは恐らく偽りではなかった。だが、嫌だと喘ぐ半竜の、肉体と精神とが相反しているように思える。
 グンテルはツヴェンティボルトの頭を下ろし、その瞳を見つめて再び問うた。
「嫌か」
「ええ」
「本当に?」
「しつこい」
 呆れたように息をつく半竜の腰をきつく抱きしめて、グンテルは苔むした大木の根に押し倒した。
「戯れも大概に……」
 鋭い牙を剥きだしてさらに強い抵抗を試みた男の唇を、グンテルは自らの掌で塞いだ。
「嫌か、しかしとてもそうとは思えぬが」
 耳朶に甘く低く染み渡る声に屈したのか、ツヴェンティボルトの全身から緊張が消えた。グンテルはもうそれ以上言葉を継がず、半ば開いた竜の掌に自分のそれを合わせ、指を絡ませた。悪態ばかりの声よりも、触れ合った指先が思いを能弁に物語る。
「……俺を殺すか」
 応えはない。ただ、間近にある吐息が熱を増していくばかり。
 以前のグンテルであれば、男の抱き方などわからず途方に暮れたことだろう。だが今はただ、かつて竜がしたことを真似ればよかった。
 ほの暗い闇を手探りで拓き、冷たい肌を求める。露わになった衣から覗く、房、とはとても言い表せないような平たい胸。続けざまに突起を舌先で幾度となく吸い上げ、押しつぶし、気の済むまで存分に嬲った。時おり不意をついて軽く歯を立てると、抱いた背筋が竦むのが伝わってきた。
「痩せたな」
 ツヴェンティボルトは頭を振って弱々しく否定し、眼を固く閉じた。竜は違うと言うが、肉が削げ落ちていることは間違いない。人に竜の力を貸すことは、彼の負担になっているのではないだろうか。
 不安になって訊ねると、やはり否の返事が戻ってきた。
「この身を削ってあなたに力を与えていると? ご冗談を。少しでも不利益がある取引を、私が受け入れるとでも?」
 ツヴェンティボルトは不愉快さを隠そうともせず、刺々しく荒い言葉を吐き捨てた。なぜかその突き放すような仕草に心が騒ぎ、グンテルはきつく絡まり合った四肢を名残惜しげにほどいて、男の両の脚を広げた。
 怯んだ気配を察したものの無視して、膝頭を力任せに抑えつける。露わになった割れ目の奥に触れるとひくついているのがわかる。はっきりと見えはしないが、恐らく仄かに赤いのだろう。淫らに誘われているようで、思わず口づけずにはいられなかった。
 指先で奥底まで十分に解してから、陰茎を当てて、先から零れるものをそこに擦り合わせた。丹念に水音を鳴らして、ツヴェンティボルトの耳にまで届くようにした。過敏な反応は、軽くのけぞった背筋と甘い喘ぎの形をとって返ってきた。
 グンテルは密やかな笑みを零した。どこをどう嬲れば矜持の紐に固く結ばれた唇から嬌声を引き出せるのか、この身はすでに知っている。すぐに深くまで埋めたい衝動に駆られたが、出来る限りゆっくりと差し入れた。かつて己がされたままに。
 グンテルは徐々に腰を沈めながら、眉根を寄せた。熱い。臓腑を焼く灼熱に、こちらが燃え尽きてしまいそうだった。
 きつい締め上げに眉を寄せながら腰を緩慢に動かす。より近くあろうと腕の力を緩め、隙間なく肌を合わせて、骨の流れに添うように首筋の柔らかな部分を吸い上げる。腰から上を持ち上げ、腹のあたりを故意にすりあげた。ツヴェンティボルトの口から漏れる吐息はかすれ、少しずつ短くなっていく。ゆったりとした動きの合間に強く突き上げるといよいよ切なげに身をよじらせた。
 突然、がり、と背後で皮膚が破れる音がして、甘い倦怠に鮮烈な痛みが走る。背中に爪を立てられたのだ。それでも足らぬと思ったのか、さらに肩の付根をきつく噛まれた。手負いの幼獣を抱いているようで、グンテルの唇に知らず笑みが浮かんだ。
「少しは力を抜いてくれ。骨が砕けそうだ」
 牙と爪とで抉られた部分から血が流れ出ているかもしれないが、痛みすら官能を刺激して煽り立てる。手厳しい愛撫に対して、グンテルは首筋の柔らかいところへの愛咬で応えた。すると半竜は、浅い眠りに微睡むように静かになった。
 絶え間なく与えられる恍惚で泥のように溶かされた半身がもどかしく動くたびに、夜露に濡れた土と草いきれが春めいた甘い香気を放った。横たわったときにはひやりとした土の褥は今や情事の熱が移ったのか、湿り気を帯びた温かさが感じられる。闇に沈んでいた青葉の気配が濃くなっていって、血と体液の臭気にねっとりと混じり合った。
 王の寝所に送られる娘の肌には、東方から運ばれてきた芳しい香油が媚薬として塗り込められているものだ。だが、今このとき鼻腔にまとわりつく生々しく青くさいにおいの方が、狂おしいほどの興奮と劣情を掻き立てた。
 そう、かつて女たちと床を暖めたときには、欲望の赴くまま肉体を貪ることばかりに夢中で、相手の顔も細かな仕草も見てはいなかった。けれど今は、吐息すら黒色に染められたような深い闇にあるというのに、相手の快楽も羞恥も、手に取るように伝わってきた。
 だから己のすぐ真下で喘ぐ男の願うとおり、激しく腰を打ち付けた。混沌の坩堝に引きずり込まれていく快感に、意識を手放しそうになる。誇り高き自由な獣を肉の軛で縛めているのだという、後ろ暗い法悦に酔いしれた。後から後から湧き出てはこぼれ落ちそうになる官能の断片を必死にかき集めて、悶え乱れる四肢を淫らに求め合う。その様は、寄るべき樹木も壁もない二本の蔦が土の上で醜く絡んでいるようだった。
 男と女ならざるもの。
 人と竜。
 兄と弟。
 神々の秩序に背く、唾棄すべき忌まわしい交わり。
 だが、もうすべてがどうでもいい。
 まだこの快楽を愉しんでいたいと、一度動きを緩め、反り上がった爪先に口づけていなそうとするも、ツヴェンティボルトは苦しげな喘ぎを耳朶に這う舌に絡ませ、必死に腰を寄せてくる。不器用な誘いに切なさが募った。ならばと胸を合わせて、途切れがちな呼吸を重ねた。再び下半身に体重を乗せる。それから先は、腰に縋りつく脚の求めるまま夢中で貪った。どくどくと、全身の血流が激しくうねりをあげる。
 血潮が沸き立つ。己の、と思いかけてはたと止めた。
 違う、自分のものではない。
 忘我の中、内に向かって反響しているかに思えた鼓動は、縋るように自分と肌を重ねる男のそれであった。燃え立つような熱が、冷たい身体を侵している。
 組み敷いた相手と、鼓動を、肌の熱を、歓びを分かち合っているのだと実感したとたん、律動から完全に人の情も理性も消え去った。竜の中に欲望を吐き出すまでに時間ほとんどかからなかった。同時に、腹に熱いものが迸る感触があった。
 吐精のせつな、竜の双眸が開いた。潤んでいた眼の膜に弾けるような火影が映じ、淡い光が兆した。どうして竜は、ほとんど泣いているような悲しげな表情を浮かべているのか。二つあるうちの大きく見開いた右側、人の眼からは、今にも涙がこぼれ落ちそうだ。するとグンテルの視界に、竜の眼を借りたときのような幻像が浮かび上がった。
 それは見知った男の、自分の背中ではなかったか。
 けれど残像は一瞬にして消え去り、二度と確かめることはできなかった。
 泣いたような表情がこびりついて離れず、グンテルは極上の糸を思わせる髪を梳きながら、気遣わしげに訊ねた。
「痛んだか」
「いえ」
 竜は短く答えて、首を横に傾いだ。
「……何も見えはしなかったでしょう。あなたの父がそうであったように」
 自らの父、とは言わなかった。
「先代の王は、毎夜抱いていた女が竜の化身とも、自分が巨大な力を得ているとも気づかなかった。正しい契りには雄の竜の精を受けることが必要なのですから。だから嫌だったのです、意味のない交接など」
 グンテルは押し黙った。己の姿のようなものが見えたなどと妄言を吐くのは、どうにも気恥ずかしい。気まずさを誤魔化すように、不意に浮かんだ疑念を口にした。
「お前の母親は、なぜ人の里に下ろうと思ったのだ?」
「血肉を介して知識や知恵を後の世に伝えたとしても、感情までは与えられません。人とて同じことかと思いますが」
 気丈な語調を保ってはいても、浅く早い吐息に責め苛まれた胸がグンテルの腕のなかで激しく上下していた。にわかに疲れを覚えて、兄は弟の痩身を覆うようにのしかかり、低く耳打ちした。
「ツヴェンティボルト。地上にあがり、私と共に国を治めてはくれぬか」
 息が完全に整うまでの間、半竜は言葉を忘れたかのように黙り込んだ。ややあって、重い唇がようやく開く。
「この程度で竜を飼い慣らしたと、思い違いをなさらぬように」
「飼い慣らす? そのようなつもりは……」
「どこの馬の骨とも知れぬ男が、皆に諸手を挙げて受け入れられるとでもお思いか。夢混じりの気迷いごとなど聞きたくはありません。あなたとて承知しているのでしょう。そのような願い、口にしたとて叶うはずもないと」
 ツヴェンティボルトは辛辣に言い放ち、己を優しく抱き留める腕を解いて立ち上がると、身体を清めるために泉に向かった。その美しい足は、もはや用はないとばかりに森の褥を荒く踏みつけていた。