竜の眼
 未だ暁に裾もかからぬ夜の深い時分、死んだように横たわる人々の間から、影がひとつむくりと起きあがった。夜闇にうっすらと女らしい丸みのある輪郭が浮かび上がる。キアヴェンナは若鹿の如きしなやかな動きで寝床を這い出て、上掛けにしていた長衣をほっそりした白い肩に羽織った。
 そろり、そろりと出入り口へと進む忍び足のすぐ下では、何人もの女たちが控えめな寝息を立てている。昼間の姦しさはどこへやら、未婚の若い女が身を寄せ合って眠る城の一室は、穏やかな眠りの静寂に包まれていた。
 隅々まで磨き上げられた爪先が密やかに向かうのは、王の寝所。あまたの男心をくすぐってきた魅力的な眦に、深い苦悩の跡が刻まれる。夜更け、足音を殺して王を訪ねるのは、久方ぶりに求められたからではなかった。懐に潜めていた火打ち石と小さな燭台とを取りだすと、人気がないことを確かめて、震える指先で火を灯した。
 かつてはグンテルの第一の愛妾と目されたキアヴェンナであったが、最後に王の褥に入ってからかれこれ半年は経つ。当初は夢で神託を得たグンテルが禊ぎのために女を避けているのだと己を慰めていたものの、さすがに欲を禁じる期間が長すぎると思いはじめたのは秋の終わり頃。
 別の女に心奪われたかと暗雲のように不安が湧きあがり、耳飾りから外した小さな貴石を握らせて王付きの下女に様子を窺わせた。しかし、キアヴェンナの代わりに寵愛を得た女の気配などどこにもないという。
 そう聞いたときには、主への忠義も貴石も手に入れたいと思った欲深い下女が事実をねじ曲げて耳打ちしたのかと疑ったが、確かにもし他に女がいるならば、春を迎えても新たな愛人について誰の口にも上らないのは奇妙なことだった。火を囲んで刺繍をしながら紡がれる女たちの噂話ときたら、司祭の作成した暦よりも正確で、王侯の書簡を携えた伝令よりもずっと早いものなのに。
 キアヴェンナはよく働くとはいえぬ頭を必死で動かし、思考の糸を辿々しく張り巡らせた。まさか王ともあろう者が半年もの間、寄り添う者もなく冷え切った床で独り寝をしているというのだろうか。それとも人知れず病を得て、男としての役割を果たせなくなったか。
 考えたところで答えなど出るはずもなく、キアヴェンナは数え切れないほどの憂鬱な夜と朝とを重ねた。そうしてようやく、無駄に寝返りを打って苦しむよりも、この目で事実を確かめてみるべきとの結論に至ったのだ。
 もし勝手に寝所を覗き見ていたことが知られれば王の不興は買うかもしれないが、何とか言いくるめればきついお咎めを受けるまではなかろうと楽観していた。厳しく激しやすいところはあれど、グンテルは民に等しく公平な王であり、徒に人を害することに喜びを見いだす性分ではないと承知していたのだ。
 堅苦しいほど実直な性分ゆえ、かえって目算を誤ったのかも知れない。質実剛健、女を抱くのも半ば義務といった風情であった王が、まさか多情に心変わりする可能性があろうとは思いもしなかった。
 月明かりに照らされた回廊に生ける者の息づかいはなかった。今宵の満月は殊に大きく冴え冴えと清廉な輝きを放っているが、まるで間男のような自分の行いを惨めに思う女にとっては月光の美しさなど言葉も通じぬ異邦人に等しいもので、無意味に横を素通りしていくばかりだ。
 キアヴェンナは歩を進めるたびに脚にまとわりつく衣をそっと捌いて息を整え、緊張に弾む心音を抑えようと甲斐のない努力を続けた。
 この若い愛妾は谷間にある古い集落の族長の娘で、己を美しく見せるほかには関心のない単純な性質を備え、名のある父を持つ多くの娘がそうであるように、身の丈にあった控えめな野心を抱いていた。すなわち、妃の座につくことは叶わぬとしても、側女として床を温め、王の子を産み落とす名誉を得たいと。
 その点、キアヴェンナは立場をわきまえている娘だった。見目よく逞しい王を憎からず思ってはいても、情を移したことなどなかった。王から求められているのは狂おしく焦がれるような激しい愛などではなく、柔らかく芳醇な肉体のみ。健やかな男児を産めばなおいい。力ある男に多くを求めすぎ、愛に溺れすぎては、己が滅ぼされかねない。幼い頃から母に与え込まれた教えのひとつだった。
 真心から王をひとりの男として愛する女などこの世にいるものか。たとえ閨で愛を甘く囁くようなことがあっても、それは耳を快く温めるための偽りで固めた睦言に過ぎない。荒い息づかいに蹂躙されて快楽に陶酔する素振りをしながら、女たちは滑らかな糸で織られた豪奢な衣を、舌の蕩けるような甘い菓子や珍しい果実を、目を眩ませるほど煌びやかな貴石を、あるいは次代の王の母として力をふるう己の姿を、情交に耽る逞しい肩越しにうっとりと眺めているのだ。半年前までのキアヴェンナも同様。今このときの惨めさなど思いもしないで。
 王の寝所の隣にある控えの部屋から女部屋に床を移したとき、女たちの眼差しに同情と好奇の光が分かち難く絡み合っているのをキアヴェンナは鋭く感じ取った。面と向かって嘲ってくれればよいものを、無言で注がれる屈辱に息もできぬほどの苦しみを覚え、その晩は寝床に口を押し当てて嗚咽を忍んだ。
 このままグンテルの関心を取り戻すことが出来なければ、名誉を得るどころか、不名誉の烙印を押されて生地に返されるかもしれぬ。キアヴェンナの上には五人の姉がいて、嫁ぐ順が巡ってくるころには皺まみれの老婆になっていよう。
 城内は生けるものがないかの如く、ひっそりと静まりかえっている。春とはいえ夜は凍てつくように寒い。素足から底冷えのする冷気が伝わってきて、肉感的な肢体が小刻みに震えた。足元に落ちるあらゆる影もまた、寒さに身を竦ませたように硬直している。
 そのとき、前方から人の足音が聞こえて、キアヴェンナは慌てて柱の影に身を隠し、衣を我が身に引き寄せた。今まさに人影が横を通る瞬間、眼の端に月光に照らされた横顔が映った。思わず息をのむ。そこにいたのは、キアヴェンナが求めた王その人であった。
 グンテルは夜着を纏っただけの姿であった。このような夜も遅い刻に供もつけず、どこに向かおうというのか。キアヴェンナは不安に苛まれる心を奮い立たせて、密やかに王の後をつけた。
 やがてグンテルは執務室の扉に飲まれていった。わずかに開いたままの扉の隙間から、キアヴェンナは恐る恐る中の様子を窺った。ここで愛人と逢瀬を交わしているというのか。考えられない。王の執務室で事に及ぶなど古き王たちに対して不敬極まりない行いであるし、そもそも王からの呼び寄せに応じて褥にやってこない女がこの城にいるはずがなかった。たとえ既婚の女であっても、不義の相手が王であれば良人は喜んで妻を差し出すだろう。ならばわざわざこのような寒々しい場所で密会する必要などない。
 嫌な予感に、胸がざわめく。すべてを夢と忘れて逃げてしまえば楽になることはわかっているが、足が竦んで前に動こうとしない。
 月光が差し込んでいるとはいえ、室内はほの暗かった。キアヴェンナが成り行きを見守っていることも知らず、グンテルは古き物語を描いた綴れ織りを乱暴にたくしあげた。
「あ……」
 キアヴェンナはこぼれ落ちそうになった驚きの声を、ようやく口元に手を当ててこらえた。織物の下から、隠し扉が現れた。と思うや、グンテルの背中は躊躇いなくその奥に消えていった。
 隠された王の秘密。考えるだけで膝が震えた。少しばかり容色がいいだけの娘がひとり抱えるには、あまりにも重すぎる荷であった。
 しばし呆然と佇んでいたキアヴェンナは、ややあって、何か思い立ったように身を翻した。
 やがて女は興奮に頬を上気させたまま、ある男の寝所に忍び込んだ。
「もし」
 耳元に熱い息を吹きかけられても、高いびきをかいていた男は億劫そうに寝返りを打っただけだった。
「もう飲めぬ」
「もし、ヒンクマル様。私です、キアヴェンナでございます」
 常ならば女の柔肌を上掛けがわりにしているヒンクマルであるが、その夜はキアヴェンナにとって都合のいいことに、珍しく独りで藁床を温めていた。
 ヒンクマルは酒臭い欠伸をあたりに振りまいた。
「今宵はお前を愉しませてやることはできんぞ。飲み過ぎて、下が役に立ちそうもない」
 キアヴェンナが王の寵愛を失ってから、二人は幾度となく戯れに身体を重ねていた。女は長い夜を耐える格好の気晴らしのために、男は王の所有物を我がものにする暗い喜びを得るために。
「折り入って、ヒンクマル様にお知恵を貸して頂きたく」
 キアヴェンナは母の躾に従って出来る限り弱々しく振る舞い、不安げにヒンクマルにしなだれかかった。仄かに匂い立つな艶めかしい色香に快さを覚えつつも、ヒンクマルは眉を顰めた。
「何だ、こんな時分に?」
「ええ、実は……」
 血色のよい唇が継いでいく驚くべき言葉を、ヒンクマルはいかにも信じ難いという疑いの表情を浮かべて聞いていた。
「執務室に隠し扉だと? おおかた、夢でも見たのではないか?」
「いえ、この眼ではっきりと」
 キアヴェンナの話をかみ砕くごとに、それまで酔いに微睡んでいたヒンクマルの眼に、狡猾な光が戻っていく。
「よし、ならば共に行って確かめてみようではないか」
「ありがとうございます」
 ほっと胸をなで下ろしつつ、大股で歩くヒンクマルの背中をキアヴェンナは懸命に追った。
 男の舌が誰へともなくぶつぶつと呟きを放つ。並べ立てられた不平は矮小にしてその根は深かったけれど、情婦の可憐な耳にまで届くことはなかった。
「これは夢か? ああきっと、深酒が見せた夢に違いない。だがもし現実であれば、天から賜った望外の好機だ。このような夜更けに人目をはばかって出歩くなど、何か後ろ暗いことをしているに決まっている。……長雨を払った神託にしても、悪しき神に贄を捧げて得たものではあるまいか。穢らわしい!」
 蝋燭を掲げて急きながら、ヒンクマルは口の端を醜く歪めて歯ぎしりした。
「気に入らなかったのだ。事あるごとに私を下において、見くびりおる。鉱山の件も、大臣どもより先に最も近しい縁者である私にまず相談するのが筋ではないのか。くそ、王が何だというのだ。重い冠で頭をぐらつかせた、ただの男ではないか……」
「ヒンクマル様?」
「案ずるな、くだらん独り言だ」
 振り返る素振りもみせず、ヒンクマルは含み笑いを漏らした。もしこれが秘された悪事であれば、王の失脚の足がかりになるかもしれぬ。愛人の不遜な考えを、後から不安げに従うばかりの女は知る由もなかった。

 月光の煌々と照る満月の夜であるというのに、地下牢に満ちる闇はいっそう深くなったようだった。すべては漆黒に飲み込まれ、もはや影が主なのか、主が影なのか、定めることすら難しい。確かなものとして存在しているのは、腕の中にある肌の冷たい熱だけ。
 衝動の求めるままに穿ち、穿たれた。影の解け合うように曖昧なその交接は、旅人が沼底に沈んだ泥に足をとられ、どうにか引きずりあげ、しかしまた深く足が飲まれていく様に似ている。
 熟れすぎた果実がどろりと溶けて指の間から落ちていくような感触が、肌を甘く蝕んでいく。形ばかりとはいえ、牢獄に戒められているのは相手の方であるのに、まるで今は囚われているのが自分の側のようだった。
 ほとんど触れ合うほどの距離にまで近づいた唇を、ツヴェンティボルトはつと離した。どれほど情交を繰り返しても、唇を重ねようとすると顔を背けて嫌がるのだった。恥じらいを思わせる媚態に、新たな欲情が募っていく。だから嫌がるとわかってはいても、試さずにはいられない。
 秘めたる王の戯れを察してか、耳の穴めがけて刺々しい嘆息が放たれる。
「……毎度毎度、飽きもせずに」
「お前に飽きるものか」
 いかにも不服そうに斜に傾いだ頭を引き寄せて、舌の動きを真似て指で口腔を優しく抉った。唾液を纏わせて淫らにかき回し、口蓋や歯をいたぶるように撫でて、執拗に責め立てる。人よりも長い舌が口を犯す指にねっとりと絡みつき、爪の輪郭を味わうようにさすりあげた。
 舌が熱気を孕んだまま、意趣返しとばかりに今度はグンテルの身体の穴の至るところを侵してきた。粘膜に沈みこんだ舌先はさらにその奥の襞を探り、秘された快楽の種が花開くように吸い上げる。口づけというよりは、荒野に水を求めている、そんな切迫さに得も言われぬ愛しさを感じ、より深く交わった。
 やがて、果てしなく続くような情事も互いに精を吐きつくし、一応の終わりをみた。事後の倦怠を愉しむひとときをツヴェンティボルトは疎んじたが、グンテルは胸中に止めて抱き続けた。はじめは身を解く素振りを見せていた半竜であったも、諦めの悪い王のしつこさについには観念して、強ばっていた肩の力を抜いた。
 細い上肢を優しく抱く仕草とは裏腹に、グンテルは厳しく眉根を寄せた。どれほど言い逃れをしても、もう取り繕うことはできぬ。ツヴェンティボルトが会う度に衰弱しているのは疑いようがない。
 そんなグンテルの心情を察してか、竜はつれなく言った。
「私はできそこないの半竜ゆえ、力をうまく抑えることができないのです。春は芽吹きの季節、激しく世が移ろい変化する。それに引きずられて、力を奪われるのです。どうかそのような情けない顔をして、ご心配召されるな」
 グンテルは怪訝な表情を浮かべた。
「情けない顔だと?」
「ええ。竜は夜目が利きますので、あなたの不安そうなお顔もよく見える」
「お前ばかり見えるなど、狡いではないか」
 憮然として言うと、横で軽く吹き出すような気配があった。
「……狡い?」
 すぐにそれは弾けるような笑い声になった。
「なぜ笑う?」
「利かん気な子供のような仰りようなので。その上、竜と人とを等しいもののように扱うのが可笑しくて」
 グンテルは虚を突かれたようなった。竜と人が同じ位にあるとは今でも思っていない。やはり竜はどこまでも神に近しく、人に遠く、忌まわしくはあれ畏怖すべき存在だ。
 だがツヴェンティボルトに限っていえば、泉のほとりで過ごした夜以来、畏れよりも親しさを感じることのほうが多くなってきている。その力が人を遙かに凌駕すると理解してはいても。
 その快い親しみは友であり、弟であり、あるいはまるで……。
 己の心に沸いた得体の知れぬ感情を持て余したまま、グンテルは真剣な眼差しをなおも小さく身を震わせて笑い続ける男に向けた。
「俺を喰えば滋養になるのか」
 唇から笑みが消えた。長く重い沈黙をおいてから、ツヴェンティボルトは固い声音に侮蔑を絡めて言った。
「喰えと言われてもお断りしますよ。まずい人の肉のなかでも、あなたなどとりわけ筋が多くて喰えたものではない。腕一本でも御免被ります」
 それに、と竜は続けた。
「国を見捨てるおつもりですか? 世継ぎのひとりすら残していらっしゃらないというのに」
「それはそうだが」
「冠を戴く者として、一時の下らぬ情に流されなさいますな。あなたが死ねば、多くの人間が嘆き悲しむ。ほとんどは利害と欲からきた見せかけの悲哀の身振りでしょうが、一握りは真心から涙を流す者もいるはずだ。……しかし、私は違います。元よりこの世にあるはずのないもの、あってはならないもの。たとえいなくなったとしても」
「俺は悲しい」
 ツヴェンティボルトの言葉を切って、グンテルは言った。静かな語調であったのに、竜はそれ以上の言葉を続けることができない。
 グンテルは軽く丸めた両の手で、目の前にある顔を優しく包み込んだ。
「お前も、情けない顔をしているな」
「……あなたはとんだ嘘つきですね。この暗さでは何も見えぬくせに」
「見えずとも、触れればわかる。人には竜ほどの優れた眼がない分、別のものが見えるのかもしれぬ」
「血迷いごとを」
 弟の唇の縁を舌先でなぞり、苦い憎まれ口をきれいに舐め取ると、声は微かな喘ぎに変わった。耳元、首筋と柔らかな肉に甘く歯を立ててから、拒むように閉ざされた恥部を唾液と先端から滴るもので解し、指を強引に割れ目に侵入させた。すでに幾度も王の精を受けたそこは二本の指が易々と入り込めるほど十分に柔らかい。粘膜を愛撫する艶めかしい水音が、媚びるように耳を打つ。
 甘く掠れた声が訊ねた。
「まだ足りませんか」
「少しも」
 率直な王の言葉を聞いて、竜が嗤った。密に絡み合った両者の脚の付け根が律動を刻むと同時に、竜は今まさに羽ばたこうとするが如く背の翼を広げた。大きく膨らんだ黒い翼が風を生み出す。黴臭い地下牢に鮮やかな新緑を思わせるにおいが広がった。全身を包み込む鮮烈な風に声なき獣の歓喜を感じて、鼓動が弾み、胸が落ち着かなくざわめいた。
 ゆるやかに流れる官能の時に、いつまでも浸っていたかった。そう思う一方で否定する。永遠や永劫とは神々の手にのみあるもの。あらゆる営みには、いつの日か必ず終わりがくる。
 喉元にせり上がってくる苦しい歓びと共に、竜の鱗をかき抱いた。それに応えて、竜はより奥深くを抉ってくる。野にある獣じみた凶暴さで、しかし恋情を感じさせるほどに、優しく。
 そのとき、急に竜が首をもたげた。と愛撫から一転して、グンテルの身体は暴風の如き力で引き剥がされた。王は驚きのあまり、辿々しい不満を発するのがやっとだった。
「何をいきなり……」
「竜!」
 間をおかず、切り裂くような女の叫喚が闇に響きわたった。いや、もはや闇は闇ではなかった。二人の闖入者が手にした蝋燭を中心にして、小さな灯りが淡い光の円を描いている。
 キアヴェンナは腰を抜かしてその場に力なく崩れ落ちた。その美しい面貌は涙と混乱ですっかり汚れてきっていた。
「お、王が、竜に襲われて……」
 竜との交わりに耽溺していたグンテルの全身から、さっと熱情が引いていった。恐怖に震える女の声が罪を暴き立てる。これは情交とすら呼べない、あらゆる善きものを冒涜する不浄のまぐわいなのだと。凍てつく弾劾の叫びが土砂の如く血流を滑り落ちた。
「王よ、今お助けに参ります!」
 声だけは雄々しさを保とうと努めているものの、ヒンクマルは女の後ろで喚きたてるばかりで、影を縫いつけられたように一歩も動くことができないでいる。
「そううるさく騒ぎ立てるな。耳が腐る」
 それまで熱情を共にしていた男の身体を冷淡に押しのけて、人の姿を纏った竜はいかにも億劫そうに呟いた。
「この墓穴の静謐さも陰鬱さも気に入っていたのに、茶番も仕舞いだな。予定よりずいぶん早いようだが」
「ツヴェンティボルト?」
「……王よ、その名は返して頂きます。名だけではなく、預けたものすべて」
 まさか、と粘つく嫌な汗がじっとりと首筋を掌を湿らせた。王が地下牢を訪れることも、竜の力を求めることも、ツヴェンティボルトは出会いのはるか前から知っていたのではないだろうか。この歪な関係がどうやって最後を迎えるかすら。そうであってもおかしくはないのに、熱に浮かされて、愚かにも考えが及ばなかった。
 金色に輝く眼を睨みつけ、内に渦巻く絶望を殺して問い詰める。
「お前はこのことを予見していたのか?」
 グンテルが今まさにツヴェンティボルトに詰め寄ろうとした瞬間、それまで卑屈なまでの臆病さで壁にへばりつくようにして座り込んでいた唖の老下女が、ゆらりと立ち上がった。羽化でもするかのように曲がった背中がぱっくりと割れて、裂け目から目映い光が溢れ出る。老婆の皮を捨てて現れたのは、顔は女、胴から下は羽毛の密生した猛禽の異形。竜の使役する獣の真の姿であった。
 次から次へと降りかかる異様な出来事に心弱くなっていたヒンクマルとキアヴェンナは、後ずさりする余裕すらなく、その光景を眼にした衝撃だけでか細い悲鳴を残して気を失ってしまった。グンテルだけは正気を保ち、しかし一言も発することができずに阿呆のように瞠目していると、長い爪で皮膚を引っかくような甲高い絶叫が異形の口から迸った。狂人たちの墓所を激しく揺さぶる耳障りな音。言葉はない。音楽として形を成してすらいない。けれど、それは確かに歌だった。
 あらゆるものを無と混沌に帰する、忘却の歌。
「やめろ!」
 耳を塞いでも防ぎきれるものではなく、人の秩序と摂理の外にある歌声は、鋭い爪で脳髄を抉るようにかき回した。突如背にかかった重圧に耐えきれずに膝が折れて、王は無様にも床に屈した。見えざる杭を打ち込まれた頭を抱えて竜を見すえ、グンテルは血を絞り上げるような唸りをあげた。
「やめろ、ツヴェンティボルト。俺は……」
「さようなら、陛下。もう二度とまみえることもありますまい」
 微かな吐息と共に、春風の如き甘い囁きが耳に吹き込んでくる。甘い、それなのになぜか耳が燃えるように熱く、身悶えするほどに苦しい。
「行くな!」
 慟哭を発したせつな、最後まで握りしめていた意識の一片が、深遠に跡形もなく飲み込まれていった。

 突然、高所から突き落とされたような感覚に襲われて、グンテルは己の芳しい寝床の上で目覚めた。未だ冷え込む春先の夜だというのに、全身はぐっしょりと汗に濡れている。悪い夢でも見ていたのか、片腕を勢いよく宙に突き出して、その拍子に起きてしまったようだった。王は当てもなく押し上げた腕をゆっくりと下げた。求めるものを失った空の手が、ひどく重く、寂しく思えた。
 長い夢を見ていた気がするが、少しも内容を思い出すことができなかった。激しい情交の直後のように、全身がひどく気怠い。
 得体の知れない衝動にかられて、グンテルは何かを口にしかけたが、それが声として発せられることはなかった。喉に生温い玉のようなものが詰まっている。しかしそれが何であるのか、自身にもわからない。考えようとすると、頭がひび割れたようにひどく痛んだ。
 グンテルは苦痛の呻きをあげて額に手を当てると、しばしの休息を得るために、再び藁床に深く身を沈めた。
 もう二度とつまらぬ夢に苦しむことなどないようにと、神々に祈りを捧げながら。

 その晩のこと、月明かりにはっきりと浮かび上がる竜の影が目撃された。夜空に広がる大翼を映じた眼は、雲を散らせるほどの低い咆哮を聞いた耳は、夢と笑い飛ばすには数が多すぎた。
 身分高き者も低き者も関わりなく、明らかな凶兆に人々は恐れ慄いた。王の従兄弟と愛妾が、その夜を境に気が触れて幼子のようになってしまったのも、竜が振りまいた凶事のひとつに違いない。城の者たちはそう噂して震え上がった。