竜の眼
 竜の振りまいた禍つ兆しは人々の胸に翳りを落としはしたが、昼と夜を繰り返して季節が一巡するうちに、猥雑とした日々の営みに飲み込まれ、未だ来たざるものへの恐怖も次第に影を薄くしていった。
 かつての小国は今や途方もない量の金を孕んだ鉱山を擁し、若き王の力強い腕に手綱を引かれて、天に登るばかりの勢いを得た。
 その一方で、力を得れば得るほど集う欲も多くなるもの、新緑の芽吹くが如き溌剌さで日々成長していくこの領土を狙う簒奪者の眼は星の数ほど夜闇に散り、不気味な輝きを放っていた。
 神々に一年の貞潔を誓ったグンテル王は、女も酒も遠ざけて執務に没頭し、外と内と無数に犇めく敵を見定め、臣下を導きよく国を守った。皮肉なことにこの国の主は、父祖時代から長く弱国であったがゆえに情勢を見極める能力に優れていて、また独自の情報網を各地に巡らせていた。自ら派手に動くことは避け、相手の出方を待つことに徹した慎重な策が効を奏し、周辺国は常に危うい緊張関係にありつつも、どうにか力の均衡を保っていた。
 しかし、短い夏に入り、春の主であった馥郁たる花々の香気が嵐めいた風と鋭い日差しによって席巻されはじめた頃、国と国との間を流れる風向きもまた、にわかに変わった。
 グンテルの治める地と隣接した国の王は、奥方を喪ってから長く独り身を貫いていたが、この年のはじめ、黄金色に輝く肌を持つ妻を東方の一部族から貰い受けた。日出る方角からやってきた匂い立つような花嫁の嫁資は、金銀の財宝ばかりではなかった。
 草原の長たる若妻の父は、優れた腕を持つ射手と風の速さで駆ける駿馬とでなる騎兵隊を義理の息子への贈り物とした。北の馬は太い四肢と頑丈な身体を持つけれど、元々は農耕馬であって足が遅く、敵の寝首をかいて奇襲をかけるような速攻の作戦には向かない。
 対して、草原で鍛えられた痩躯の馬は機動力に秀でており、北方の人間がこれまで考えもしなかった奇抜な戦法を可能にした。これを好機と、隣国の王は雪解けを待ち、騎兵隊を引き連れて国境を侵したのであった。無論その視線の先にあるのは、ほとんど処女のように手つかずの鉱山である。
 森と森との間を縫うように駆ける馬蹄の音によって、ついに儚い均衡は打ち崩された。国境近くの村々は、ささやかな抵抗の暇もなく落とされた。大地に漂う血のにおいを狼煙として、伝令の早馬が大地を滑るように駆け、各地に間諜が放たれた。直接の利害が生じる国もそうでない国も、どちらの陣営につくこともなく息を殺して成り行きを見守った。かの鉱山が落ちれば、次に草原の民の強弓が向けられるのは己の国であるかもしれなかったのだ。
 四方を囲むのは敵だけで、黙する傍観者はあれど味方はない。グンテルにとって、長く孤独な戦いのはじまりであった。
 忠実な家臣を城に残し、グンテルは自ら兵を率いて騎兵隊を迎え撃つために東の国境へと向かった。条件の悪いことに、領地の東側は高低差が少なく、見晴らしのいいなだらかな丘陵が広がっていた。堀に囲まれた集落はあるものの、城塞と呼べるような堅牢な砦はなかった。さらに渇水期であり、隘路となるべき領内の運河の水かさは少ない。馬を主力とおいて攻める側にとっては、格好の条件が揃っていた。
 これまでは隣国との間を分かつ深い森が防壁の役割を果たしていたのだが、騎馬隊の火矢によってほとんどが焼き払われてしまった。神聖なる森に火を放つなど、祭壇に唾を吐きかけるのに等しい、涜神極まりない行為である。神々を畏れぬ振る舞いに、男たちは慄き、驚き、激怒した。
 騎馬隊を迎撃するには最悪の地形であるが、かといってそれ以上深く国に入り込ませるのも危険だった。毎夜グンテルは数名の将と天幕で額をつきあわせて論じあい、策を絞り上げたが、突如として天から名案が降ってくるようなことは当然にしてなかった。
 懸念の通り、グンテルたちはかつてない苦戦を強いられた。臨機応変に陣形を変える駿馬の動きと、尽きることなく雨のように降り注ぐ矢。隙間なく盾を並べて堅牢な防御の壁を作り上げても、次の瞬間、敵の姿が背後にあったことすらあった。
 目まぐるしく戦況を変える騎兵の動きに翻弄され、敵と刃を交える戦い方しか知らなかった兵士たちは怯んだ。しかも一本二本の矢であれば、盾と鎧甲にほどんどが阻まれて肉に至ることは少ないものだが、東方の矢には未知の毒が塗られているのか、肌をかすめただけで死に至る者も多かった。得体の知れない恐怖に勝る恐怖はない。出陣の夜明けには輝くばかりに勇ましかった意気は挫け、古い血が凝るように日増しに黒ずんでいった。
 斥候や伝令から暗い報告を受ける度に、グンテルの胸に焦燥が募った。これまで戦さで負け知らずであったわけではない。貧しい国だ、近隣の国に土地や権利を武力で奪われることも珍しくなかった。
 だが国そのものを引き裂かれ、王の権威すらも根こそぎ奪われる不安を感じたのは、これがはじめてだった。言葉も通じぬ異民族の弓には、王たちの血をもって結ばれた協定も、父祖の世から伝えられてきた道理も節度も通用しない。執拗かつ的確な攻撃は、本能に任せて喉笛に食らいつく獣の牙に似ている。兵にもその疫病めいた予感が蔓延していて、一層士気を削いでいるのかも知れなかった。
「勝利は我らの手にあり!」
 乱れた布陣を整える間、グンテルは声を張り上げて兵士を鼓舞した。その端正な頬にも癒えきらぬ傷が走り、乾きかけた血で赤黒く染まっていた。北方の戦場で、王が後陣に控えることはなかった。王自らが第一の戦士として剣を振るわなければ、敵にも味方にも腰抜けと揶揄されるのだ。
 グンテルの愛馬の蹄は、器用に死体をよけながら戦場をひた走った。鳶色の眼が馬上から戦場を俯瞰する。視界に入るのは、夥しいほどの肉塊。死んだ者と、ほどんど死にかけた者だけ。すでに多くの兵を喪った。
 常の戦であれば負けを認めて賠償となる財なり土地なりを払う段階にきているが、此度は状況が違った。ここで敗北すれば、恐らくグンテルは殺され、父祖の時代からあらゆる犠牲を払って守り続けてきた大地が騎馬隊の蹄で踏み荒らされるだろう。あるいは隣国の王ですら、草原の長が深い森を越えて勢力を拡大するための、駒のひとつに過ぎなかったのかもしれぬ。
 こちらにはもう余力などないのに、際限なく寄せては返す波のように、射っては引き、引いては射ってを果てしなく繰り返す弓騎兵の勢いは衰えることがなかった。加えて神々すらも味方につけたのか、追い風によって矢の勢いは増すばかりだ。
 グンテルは海というものを口伝でしか知らなかったものの、旅の商人らが語る漣とはこのようなものなのだろうかと疲れ果てた頭の隅で思った。実際には、矢のなくなる前に前衛の騎兵が後衛と交代し、体力を蓄え、再び前衛に赴く戦法をとっているだけなのだとわかっていはいるのだが、頭で理解していても東方の馬の足はあまりにも速すぎて、その動きに翻弄されるままになっていた。
「王よ」
 日も沈みかけ、そろそろ撤退の頃合いかと長くなりはじめた足元の影に眼を落としたとき、背後から近づいてきた伝令が馬を寄せてきて、声低くグンテルに耳打ちした。
「遊撃隊が壊滅しました。兵のほとんどは殺され、残りは虜に」
 グンテルは口元を強ばらせた。
 最後の策として、精鋭からなる遊撃隊を組み、敵の補給路を絶つ作戦を決行したのが二日前。だが、それも失敗に終わった。
 戦場を見渡せど見渡せど、あるのは苦悶と疲労に生命を削がれた青い顔ばかり。魂の深い場所にまでも、夕闇が影を落としているようだった。死者の数は生者のそれをとうに凌駕している。よすがとなる希望はどこにもなかった。愛し、慈しんできた故国が、激痛にのたうちながら滅びゆく様を見つめて、王は拳を固く握った。己の不甲斐なさに涙も出てこない。
 この国も、終わりか。
 グンテルは唇をきつく噛みしめ、呪詛じみた祈りを天に吐き捨てた。
「俺たちは決して肥沃でないこの大地を慈しみ、しがみついて、時に愛し、時に憎んで、必死に生きてきた。馬を駆る者たちには、法も秩序もない。作物を奪い、財を掘り尽くし、男を殺して女子供を犯すだろう……神々よ、これがあなた方の望みなのか。我らが捧げてきた祈りへの答えなのか?」
 虚ろな叫びが空気を震わせたそのとき、風が低く唸るような轟音が大地を貫いた。見えない矢のもたらした凄まじい衝撃に、腹の底まで揺すぶられた。
 雷鳴が轟いたのかと驚いて、血と泥で汚れた男たちの顔が一斉に上向いた。グンテルは我が眼を疑った。黄昏時の血塗れた空に、黒々とした大きな影が翼を広げていた。
「竜だ!」
 どこからともなく叫びがあがった。兵士たちの間に混乱とざわめきが広がっていく。敵の命を奪わんと意気揚々と弓をしならせていた騎兵らも、同じように動きを止めた。
 速度を緩めた竜は、雲の高さから一陣の疾風の如き速さで急降下すると、つと長い首をあげて騎兵隊を捉えた。と、鋼のような巨体とは信じられないほど機敏に方向を転換し、馬の群れへと突っ込んでいった。鋭い牙や鉤爪は一滴の血にも染まらず清らかなままではあったが、地面すれすれを飛行する巨大な獣に怯え、馬はその場から逃げようと一心不乱に駆けだした。
 混乱を煽り立てるように、舞い上がった砂塵が視界を曇らせる。名工の手になる織物のようであった見事な統率は、一瞬にして瓦解した。馬から振り落とされた騎兵も多く、もはや部隊の体を成してはいなかった。
 グンテルは突如沸き起こった奇異に驚き呆気にとられていたものの、風を従えて悠々と飛ぶ竜の逞しさ、優美さに、魅入られるように釘付けになっていた。
 しかし恍惚に浸っていたのも束の間、グンテルはすぐに自分を取り戻し、王としての責務を思い出した。敵兵を蹴散らした竜の猛威が、今度は己の陣営に向かうやもしれなかった。結果としてこちらの助けとなっただけで、竜に人の理は通用しないのだ。
 グンテルはなおも魂が抜けたようにぼんやりとした伝令に喝を入れると、自らも巧みに手綱を繰って、声が枯れんばかりに叫んだ。
「直ちに全軍後退せよ! 西の森まで退け!」
 撤退を告げる角笛の音が戦場に響きわたった。竜と自軍との間の距離は相当離れてはいるが、風の速さで飛んでこられてはひとたまりもなかった。幸い、兵士たちはすぐに正気を取り戻した。我先にと西に向かおうとする者たちを、グンテルは烈火の如く怒鳴りつけた。
「隊列を崩し、不用意に散るな。竜が牙をむいたら、離れた者からやられるぞ!」
 叱咤するものの、騎兵との戦い以上に竜から逃げる方法など知るわけがない。それでも、王として迷いを悟らせてはならなかった。グンテルは声音に威厳を織り込んで、苦しげに身をよじらせるように進む隊列に指示を与え続けた。
 だがグンテルの懸念に反して、竜がこちらに襲いかかってくる様子はなかった。黒き翼を持つ空の支配者は、騎兵隊がすっかり力を失ったことを見届けると、グンテルたちには目もくれず、やってきたときと同じ方角に飛び去っていった。
「王よ、ご無事でしたか!」
 西の森への途上、右翼に配置されていた老家令が息を切らせながら近寄ってきた。上半身を捻って竜の後ろ姿を眺め、兜の奥の眼を何度も擦りあげた。
「まさか竜が実在するとは……先だって現れたという竜の影は、神が託宣のために遣わした幻と思っていましたよ。老人の耄碌が見せた夢ではありますまいな」
「ああもはっきりと姿を見せられては、夢だと己に言い聞かせたところで慰めにもならん」
 並んで馬を進めつつも、グンテルは未だ覚めぬ夢を見ているような気分に襲われていた。頭に傷は受けていないはずだが、なぜか蟀谷がひび割れるようにひどく痛む。
「一体、何を思って戦場になど降りてきたのでしょう」
 グンテルは頭の痛みを忍びながら、重く首を振った。
「人ならぬものの考えなど、わかるはずもない。だが、我々が助けられたことだけは確かだ」
 呟いたとき、喉の奥に何か異物のようなものが詰まるのを感じて、グンテルは厳しく顔をしかめた。甘くも苦い、不快な異物が。

 その日、城の庭には夜が更けても煌々と篝火が燃えさかり、脂と酒のすえたにおいがあたりに満ち満ちていた。男たちは勝利を祝い、友を弔い、飲み、食い、歌った。そこかしこから怒号が聞こえ、乱闘があり、やがてほとんどの者が前後不覚になって酔いつぶれてなお、宴は果てることなく続いた。
 普段よりも早い調子で次々と杯を干していく戦士たちの胸には、勝利の喜び以上に、竜を目にしたという事実を酔いに任せて忘れてしまいたいという畏れの気持ちがあるのかもしれなかった。少々騒ぎすぎで清らかさには欠けるが、つまりは荒くれ者なりの禊ぎの儀式のようなものだ。
 そう思いながら喧噪から離れ、ひとり静かに杯を傾けていたグンテルの側に、家令がふらふらと足元も覚束なく近寄ってきた。
「王よ、杯が進んでおられませんな」
 家令は半ば強引に、壷から汲み上げてきたばかりの蜜酒がたっぷりと入った杯を、空になった王のそれと取り替えた。
「お心を悩ませているのは、騎兵隊か、それとも竜でありましょうか。案ずることはございません。どちらもこの地を去りましたゆえ」
「騎兵はともかく、竜はどうだろうな。森の奥深くに潜んでいたとしたら」
「小山の如き巨体ですぞ。くしゃみひとつしただけで誰か気づくものがあるはず」
 家令は半ば寝ぼけた眼差しでほとんど空になった自分の杯を見つめて、底に残った澱を忌々しげに地面に流した。
「あの竜は、一体何者だったのでしょうな。神々の御遣いか、それとも」
「考えても詮無きこと」
 グンテルはつれなく言うと、喉をならして蜜酒を腹に流し込んだ。城に戻ったとたん頭の痛みは収まったが、どうしてか、今宵はどれほど飲んでも酔うことができない。
 家令は納得できないという風になおも続けた。
「余所者に大地を踏み荒らされて、竜も腹を立てたのでしょうか」
「さあな」
「このまま、国の守りとなってくれればよいが。竜の加護がある土地に、好んで攻め入る馬鹿者はおりますまい」
「無益な期待などするな。あれに人の理など通じぬ。あの爪と牙が、今度は俺たちの方に向かぬとも限らない」
「何、竜の一匹がごとき、我らの力にかかれば」
 酒の勢いに煽られて剛毅にまくしたてた家令の目線が、ふと上方に転じた。その先には、銀の月が細く弧を描いていた。今宵の月は、ひときわ大きく見える。
「あれは、竜か?」
「竜だと?」
 その一語にぎょっとして、グンテルは家令が指さす方角に目を凝らした。月に浮かび上がる黒い翼。雲の影よりも明瞭な輪郭を持ち、鳥よりもはるかに大きいそれは、確かに戦場で見えた竜のように思える。
「や、どうにも飛び方がおかしいぞ」
 呂律の回らぬ家令の言葉の通り、竜は迷い子のように覚束ない様子で、夜空をふらふらと飛んでいる。纏うべき風を忘れたかのようなその姿には戦場で見せた雄々しさはどこにもなく、生まれたての幼子の弱さすら感じられた。ふいにどうにか保っていた均衡が崩れ、巨大な体躯が左右に大きく揺らぐ。
 直後、グンテルは思わず叫んでいた。
「落ちる!」
 熟れすぎて枝から見放された果実さながらの無力さで、大地に吸い込まれるように竜は落下していく。
 意識せぬうちに、グンテルは頭上に腕を伸ばしていた。はるか遠くにある月にも竜にも手が届くことなどないとわかっていながら。
 そのとき、耳元で誰かを呼ぶ女の声がした。風と紛うようほどの、ささやかな音。ふっくらと丸みを帯びた柔らかなその響きは、どこか懐かしい。
 だが、どれほどあたりを見回しても女の姿などどこにもなかった。けれど、空耳と流してしまうにはあまりにも明瞭でありすぎた。身を強ばらせて周囲を窺うグンテルを優しく誘うように、声は再び繰り返した。
 ……ツヴェンティボルト。
 声が消えたとたん、またしても側頭部が割れるように痛んだ。見えざる白い手によって頭蓋が砕かれて、無理矢理押し開かれているようだった。すると、綻んだ記憶の裂け目から、泉が溢れるが如くその面影が、その肌の冷たい熱がよみがえった。
 グンテルは杯を落とし、愕然と空になった己の手を凝視した。零れ落ちた蜜酒に篝火の赤が映じた様は、まるで燃え立つ血のようだ。
 血を舐めあうような情事、秘められた夜の日々。
「そうか、お前が……」
 放心したまま、掌をきつく握りしめた。あれほど激しく欲したものを、貪るように求めたものを、どうして容易く忘れられたのだろう。
「ふん、落ちたか。竜が何だというのだ。吉兆だ、吉兆だ。竜が落ちたぞ」
 城の人間はみな夜空を仰いで愛でるよりも酒と惰眠に夢中で、竜に気づいた者はいないようだった。ほとんど地面に突っ伏しかけながら上機嫌で舟を漕ぐ家令を後目に、グンテルはやおら立ち上がると、城の裏手にある厩に急いだ。
 朝早くから仕事にとりかかる馬丁は、厩の端で藁に埋もれて鼾をかいていた。グンテルは壁に掛かっていた手綱をひったくるように取って支度を済ませ、鞍もつけずに愛馬にまたがった。
 城の門番は実直な若者で、ひとりの供も付けずに外に出ると言われ、王命とはいえ開門を躊躇った。
「そう遠くには行かぬ。酔いを醒ますだけだ。もし月が山際にかかるような時分になっても戻らぬようなら、家令なり司祭なりに知らせてくれ。お前が罰せられるようなことは決してない」
 笑顔でそう諭されて、門番はようやく開門のための仕掛けを回し始めた。
 馬上で月光と夜風の涼気を浴びながら、グンテルは考えを巡らせた。竜が落ちたのは恐らく森の方角だろう。そう推し量り、グンテルと愛馬とは夏の草原を疾駆した。
 やがて森の端に至ったところで歩調を緩め、闇の帳が落ちた夜の森を慎重に進んでいく。なだらかな斜面を見下ろす獣道を辿っていると、いずこからか遠吠えが聞こえた。狼が近くにいるかもしれない。だが、かつてツヴェンティボルトは語っていた。竜は獣のうちで最も強きもの。もし竜が森に落ちたとあれば、獣たちは怯えて逃げ去るのではないだろうか。
 見当を違えたかと焦りを覚えたとき、グンテルの鼻先に懐かしいにおいが流れてきた。夏の森に漂う、濃厚でありながら清冽な水の気配。泉が近いのだと気が付き、近くの木に手綱をくくりつけて馬を置くと、途切れた獣道からさらに灌木をかき分けて森のさらに奥へと入った。
「……ここは」
 グンテルは息をのんだ。
 かつて来たときには夜深き新月で人の眼で捉えることはできなかったけれど、そこは確かにツヴェンティボルトと訪れたあの泉であった。今宵は淡い月明かりに照らされて、ほとんど湖に近いほど大きく、深い泉であることがよく見て取れる。風がそよいでいるのか、枝の隙間から滑り落ちた月や星の煌めきが水面にゆらめていて、無数の小さな光を放っている。
 と、涼やかな風の音は鈍い血のにおいと狼の唸りに無惨に消え散った。グンテルは暗がりに眼を凝らした。泉の対岸で、数頭の狼が何かを取り囲んでいる。狼によって作られた肉の壁で獲物は見えなかったが、その中心に求めるものがあるという確信があった。グンテルは迷わず腰から剣を引き抜いた。
「去れ!」
 力を誇示せんと、できる限り身体を大きく見せるために剣を振り、外套に風を入れて膨らませた。狼は突然の闖入者が放った嵐の烈風の如き威嚇に驚いて、飛び上がるようにその場を去っていった。
 グンテルは水際に駆け寄った。身体を半ば泉の淵に沈め、ぐったりと横たわっていたのは半竜の青年であった。グンテルは泉からツヴェンティボルトの下半身を引きずりあげ、その手を握った。指は氷のように冷たく、握り返す力もないようだった。
「ツヴェンティボルト」
 名を呼ばれて、男は緩慢な仕草で頭をあげ、瞼を開いた。グンテルの姿を見とめたとたん、微睡んでいた眼に火花が散った。金と青、異なる双眸に宿る眼光は苛烈で、燃えるような怒りをすら帯びている。乾いた唇がもどかしげに動いた。
「なぜ、あなたがここに。記憶は……」
「すべて思い出した。お前の、母の声に呼ばれたのだ」
 苦しみか、それとも憎しみゆえか、泥にまみれた美しい面貌が大きく歪んだ。
「戯言を。母は死にました、私に喰われて」
「だが、あれは間違いなく」
 次の言葉を発する前に、ツヴェンティボルトは苦しげな喘ぎと吐くと、再び地面に頭を横たえた。グンテルは自らの衣が濡れるのも構わず、優しい手つきでその半身を抱き起こして、丸めた掌に満たした水をそっと口に含ませた。
「我が国を救ってくれたのは、お前だったのだな」
「救う……陳腐な言い回しなどで、心を計られたくはありません。私は己の住処の平穏を守りたかっただけのこと。人には人の、竜には竜の秩序がある」
 ツヴェンティボルトは薄く眼を開いた。
「此度は追い払うことしかできませんでしたが、ひとまずは安泰です。東方の馬は寒さに弱く、多くはこの地の雪深き冬を越えられません。北方の大地に血が馴染むまで、あなたの孫の、その孫の代までかかりましょう」
 腕のなかにある男の身体は驚くほどに痩せて衰えていたが、口調だけは明朗で、弱さを見せまいと努めているようだった。グンテルはその有様に胸がかきむしられるような痛ましさを感じて、やっとのことで喉を引き絞った。
「……お前は、この国を守るために」
「この身を捧げた、と? 勘違いなさらぬよう。元々、長くは生きられない定めとわかっておりました。本来混じり合うはずのない竜と人の血……劇薬を宿して産まれ落ちたようなものなのですから。それよりも、王よ。私が死んだ後」
 ツヴェンティボルトは首をわずかに傾け、王をひたと見つめた。見えぬ矢に貫かれたような痛みを感じて、グンテルは半竜を抱く腕に力をこめた。
「お前は死になどしない! このままお前を城に連れ帰る。城の薬師は腕がいいし、学識もある。たとえ竜であっても、よく効く薬草を知って……」
「また子供のように我儘を言って」
 ゆっくりと伸びてきた腕が、乱れた王の髪を宥めるようになでた。
 お前は死なない。傷はやがて癒える。そして、これからも俺と共に生きていくのだ。
 グンテルは必死で喉を突き動かそうと努力したが、伝えるべき言葉はどうしても形になろうとはしなかった。
 王の動揺を察した様子ではあるものの、半竜は淡々と続けた。
「黙って最後までお聞きください。以前申し上げたでしょう。竜は同族の死体を喰らうと。私の死臭を嗅ぎつけて、恐らくこの地に別の竜がやってきます。竜とて、賢く聞き分けのよいものばかりではない。気が狂い、飢えた獣のように獰猛な輩もいる。私の屍だけでは飽きたらず、人の肉を求めて里に下りるかもしれない。そうなれば、あなたは王として剣を振るい、災厄を討たねばなりません。……本当は、この国から遠く離れた山深くでひとり死を待つつもりでした。この片眼にもそう映っていた。それなのに、あなたが危機に瀕しているのを知って、私は」
 そこまで淀みなく流れていた言葉がぷつりと途切れた。ツヴェンティボルトは疲れ切った様子で、腹の奥から深い溜息をついた。
「自分がここまで愚かだとは思わなかった。愚かで、無力だ。竜の眼の力は絶対ではない。私が半竜で、完全なる竜の力を継いでいないゆえだと思ってたが、違った。竜の眼に映る予言など、人ごときの意志ひとつで、容易く覆ってしまう」
 ツヴェンティボルトは自嘲するように言い捨てると、おもむろに兄の腰に腕を回した。そしてグンテルが身じろぎする間もなく、死に瀕しているとは思えない素早さで鞘から剣を引き抜き、己の腹に突き立てた。肉を貫いた切っ先から滴った血が糸のように流れ落ちて、泉の澄んだ薄い水色に鮮烈な赤が滲んだ。
 グンテルは声を失って、愕然とツヴェンティボルトの顔を凝視した。美しく整った表情に生気はなかったけれど、苦痛もまた浮かんではいなかった。泉の水面と同じように、澄んだ静謐さを湛えていた。
「何ということを……」
「来るときにはこの剣で戦いなさい、グンテル王よ。竜の固い鱗を貫くことができるのは、同族の血を浴びた刃だけ。首を落とせば、どれほど力のある竜とて生きてはいられない。過たず首を狙うのです、ここを」
 赤く濡れた指で項のあたりを示すと、ツヴェンティボルトは柄を握る手に力をこめ、我が身から剣を引き離した。すっかり色を失った唇から赤黒い血が迸った。
「もういい、喋るな!」
 グンテルは咄嗟に口元を伝う赤い筋を舌で拭った。まるでそうすれば、傷が癒えるとでも信じているかのように、無様なほど懸命に。
 ツヴェンティボルトはなすがままの体でグンテルに身を預けていたが、やがてもう十分とでもいうように胸を軽く押し退けて、己の額を相手の肩にそっともたせかけた。短く苦しげな呼気が、グンテルの首筋を熱く湿らせた。
「何を悲しむことがありましょう。あらゆるものにははじまりがあり、やがて終わりが来る」
 ツヴェンティボルトはグンテルの頬に血に染まった掌を添わせた。口の端に温かく柔らかなものが触れる。胸に迫る苦しみに耐え難くなって唇を微かに割ると、錆びた鉄の味が口腔に広がった。互いの唇を無心に吸い上げていくうちに、口づけは次第に深くなっていった。狂おしく絡み合う舌の形をとって、生と死がせめぎあう。
 吐息を熱く混じらせながら、形にならない言葉を掬い上げる。痛みを分け合い、歓びを共に味わい、二つの呼吸と鼓動がひとつになっていくような快い一体感に包まれて、腕のなかの痩せた身体をいっそうきつく抱き寄せた。濡れた身体がこれ以上寒さに震えぬように、強く、しかし優しく。かつてどれほど肉体の深部まで繋ぎ合わせても、今このときほど互いを近くに、いや己の一部のようにすら感じたことはなかった。
 果てしなく続くように思えた長い口づけの後、名残惜しげに唇を離して、ツヴェンティボルトは言った。
「私は生まれてからこの方、陽光を知らずに過ごしてきた。半身は目映い昼の世界に感心などなかった。だがもう半身は」
 五指を甘く絡めとって、ツヴェンティボルトは再び唇を重ねた。
 するとにわかに、白い靄のかかったような情景が視界に溢れた。それはかつて長雨を止ませ、金鉱をもたらした、竜の眼を借りて見た先見の像と同じよう思える。
 だがグンテルは違和感を覚えた。違和感はすぐに確信に変わった。これは恐らく半竜のもう一方の眼、人の眼が見てきたものだ。竜の眼に映したものよりずっと血の通った温かさがある幻影からは、人の息づかいが聞こえてきそうなほどだった。
 見覚えのある城、懐かしい顔。ただ、少しばかり古い記憶だ。今はもう失われた人々の姿もある。
 年の頃は十四、五だろうか。人の輪の中心に成人したばかりと思しきひとりの少年がいた。こちらの視線に気づいてはいないだろう。だが少年は振り向きざま、こちらを見て頬を綻ばせた。その笑顔は若い活力に満ちていて、新緑を照らす春の日差しを思わせる。自らがとうに失って久しい何かに眩しさと憧憬を覚え、グンテルは知らず眼を細めていた。
 瞬きひとつする間に風は流れ、月日は目まぐるしく去っていった。
 やがて少年の横顔から無邪気さが消え、王冠の重みと人生の苦みが刻まれていった。少年は男となり、王となった。それでも、眼の奥には力強い陽の残光がなお鮮やかに輝いていた。
 そこで視界に闇の帳が落ちた。ふと気づいたときには光などどこにもなく、周囲には暗い静寂が支配する森が広がるのみ。夢の余韻も醒めやらぬまま、人と竜は視線を無言で交えた。
 月光を溶かして縁を金で彩ったような竜の眼と、澄んだ泉を閉じこめたように青い人の眼。冷たくも熱い双眸が、ひたとグンテルを見つめる。こうして地上を見上げていたのだろうか。人が星を眺めるように、明るい世界に焦がれて、幾年も幾年も。
「俺は、お前が思うほど優れた人間では……」
 グンテルは言葉尻を濁し、声を詰まらせた。かつて竜は言った。グンテルの役に立ちたいのだと。そのときは戯れと聞き流していたが、竜が偽りを口にしないのならば、あれは……。
 ツヴェンティボルトは微笑を浮かべ、口元を綻ばせた。
「そう、あなたは冠がなければただの男だ。それでも、私にとって光そのものだった」
 祈るように、歌うように継がれていく言葉が、重ねた指先を通じて熱く染み入っていく。
「あなたと共にいると、半身が引き千切られるような思いがした。あなたのもたらすものは、どれも私には重く、苦しかった。牢にかけられたまじないよりも強く、この身を縛りつけた。あなたにならば、この苦痛の所以がおわかりになりますか? 母から受け継いだ竜の知恵をどれほど探っても、私にはわからなかった。答えを求めていたけれど、ずっと」
 耳元で、微かに声が震えた。
「……兄上」
 次の瞬間、グンテルの身体は弟の掌に押されて突き放された。決して強い力ではなかったのに、抗うことができなかった。ツヴェンティボルトは萎えた足を引きずるようにして、もはや背後に一瞥もくれず泉の深いところへと向かっていく。
 グンテルは追いかけようとしたが、声は枯れ果て、両の足の腱が砕けてしまったように立ち上がることができない。先ほどの口づけで、力を奪われたのだとわかった。誇り高き竜は、最後に自らの足で進むために必要な力だけを借りていったのだ。
「動け」
 肉を縛る戒めを解かんと、渾身の力を振り絞りグンテルは己を奮い立たせた。
「動け!」
 もつれて言うことをきかぬ筋を厳しく叱咤し続けてやっと、惨めに這いずりながらもようやく前に踏み出すことができた。幸か不幸か、衰えたる竜の歩みは遅かった。一歩一歩と二人の距離は近づいていく。もう少し、あと少し。
 グンテルはこちらに注意を向けようと、無我夢中で声を張り上げた。
「早まるな、ツヴェンティボルト。力などいくらでも分けてやる。そうだ、俺の肉を喰えばいい。不味くて舌に合わずとも我慢しろ。腕の一本、足の一本くらいなら喜んでくれてやる。だから」
 慟哭を聞きつけて、ざ、ざ、と水を分けて進む規則的な音がふと絶えた。半竜が歩みを止めたのだ。グンテルは躊躇うことなく男を抱こうと身を乗り出した。唯一にして最後の好機。逃すわけにはいかない。
 今まさに求めるものを掴もうとした王の腕は、しかし空しく宙を切った。グンテルは苦しげに顔を歪めた。
「俺はまだ、お前に何も……」
 振り向きざま、ツヴェンティボルトは静かに微笑んだ。唇が音のない言を刻む。その意味を問いかける暇も許さず、ふつりと糸の切れたように崩れ落ちた身体は、人の手の届かぬ深淵へと吸い込まれて消えた。
 グンテルはぐらりとよろめき、腰のあたりまで水に浸かったまま、残された波紋の描く円を見つめていた。
 行ってしまった。
 仄かな温もりを残した思い出を、火種のように燻り続ける熱情を、伝えられることなく消えた言葉を、恐らく愛と呼ばれる苦しみすら、グンテルひとりに預けて行ってしまった。
 最期のそのときまで、竜は孤高であった。半身に流れる人の血が惑い、孤独に耐えきれず悲鳴をあげても、千々に引き裂かれるような苦しみに絶望しても、矜持を捨てて縋りつこうとはしなかった。その様は美しく、強く、そしてひどく悲しかった。
 水面に映る男の疲れ切った顔を見て、グンテルは愕然とした。色は違えど、半竜の人の眼と己の眼とはよく似ていた。こんなにも近くにあったのに、その眼差しに気づきもしなかった。気づこうともしなかった。
 どれほどの間放心していただろう。やがて、すべての音が絶えた。森は深閑としていた。大地は眠り、枝葉は頭を垂れ、鳥の囀りも聞こえない。グンテルに寄り添う静寂よりも重い沈黙は、無情であり慈悲深くもあった。絶望や悲嘆と軽々しく名をつけるには、あまりにも深い闇だった。
 天を仰げば、傾きかけた三日月が銀色の斜光を泉に投げかけている。神々の指先が気まぐれにまき散らした星屑が無数に瞬き、無力なひとりの男を冷たく見下ろしていた。
 朝焼けの到来を忘れたかのように黙する世界で、主を失った風だけが哭いていた。いつまでも哭いていた。