つがいのまねごと
 母親の由美子が若い恋人を家に連れてきたのは、一年半ほど前のことだった。
 その恋人、村沢将生と結婚したのが一年前、母が事故で帰らぬ人となったのが半年前。
 実父は貴之が二歳の時に亡くなっている。父親と面識のある人間に会うたびに、まるで生き写しだと驚かれるほどよく似ているらしいが、父の記憶は全くなかった。
 教師をしていて、真面目で正義感の強い人物だったそうだ。それが災いして、たまたま行きずりに出会った酔っぱらい同士の喧嘩の仲裁に入り、ナイフで刺されて死んだ。
 たとえ顔や雰囲気が瓜二つだったとしても、話を聞く限り性格は似ても似つかないのだろう。利己的な自分は、まずそんな死に方はしないはずだ。
 母親は仕事と貴之の世話で忙しかったし、外野の人間が語る美談で十分だと思っていたのか、特に息子から聞かれた時以外は、自分からしつこく亡父の話を聞かせて子供を困らせるような真似はしなかった。
 このように、実父の存在は陽炎のようにうっすらとしたものだったから、母親の再婚話が出たところで、別に驚きもしなければ不快にも思わなかった。
 ある朝、朝食のパンをコーヒーで飲み下していると、向かいに座っていた母がさりげなく言った。
「今日、帰り遅くなると思う。午後から会議があるんですって。どうせ長引くんだから、午前にすればいいのにねえ。夕御飯は先に食べてて」
「わかった」
「それと」
「何? 洗濯ならしとくけど」
「違うわよ。会ってほしい人がいるの」
「男?」
「ええ」
「結婚するの?」
「そのつもり」
「ああ、そう。おめでとう」
 コーヒーを啜る手も休めずに、そのような会話を交わした記憶がある。
 それまでも男の気配を感じたことは何度かあったけれど、いずれの相手とも結婚に至る前に別れてしまったようだった。
 ついに母親の恋人が母親の夫になるのだという認識はあったが、その男が自分の父親になるという実感はわかなかった。
 はじめて会った時、将生はまだ二十代だった。思ったよりも若かったことに少し驚いた。
「貴之君、はじめまして。村沢です」
 低い声で言って、将生は丁寧に頭を下げた。その態度は自然で、緊張している風でもなかった。年の割には落ち着いており、朴訥な雰囲気があった。
 食事をしながら母親と三人で雑談を交わしたが、これから息子になるであろう貴之に対して、媚びるように機嫌を伺う様子も、わざと能力を誇示して頼りがいを示す様子もなかった。会話にしても、ただ事務的に必要な言葉をついでいくような感じだ。
 話をして具体的にわかったことは、両親はすでに亡く兄弟もいないこと、電機メーカーに勤めていることなどくらい。
 変な男、というのが初対面の印象だった。
 それから二、三度食事をして結婚の話が纏まった後、三人での暮らしも同じように何の盛り上がりもなく始まった。母も将生も実際的な人間だったから、特に記念日でも何でもない適当な日、しかも仏滅に入籍し、新居と転居の日取りを決めたと思うや、あっという間に荷造りを終えて引っ越しをし、必要な書類を提出して、いつの間にか新生活の準備は終わっていた。
 新しい住まいはリビングとダイニングキッチンの他に部屋が三つある賃貸のマンションで、由美子と将生、それから貴之のそれぞれが寝室として使用していた。新婚なのに寝室を分けるんだなとは思ったが、親の夜の生活など知りたくもないので、意識の外に置くことにした。
 家族が増えて、生活はずいぶん楽になったと思う。経済的な面だけではない。これまでは母親と半分ずつ家事を行っていたのだが、掃除に洗濯、炊事まで、将生が仕事の合間に手際よくこなすので、貴之にあてられていた家事の分担が大幅に減少して、代わりに自分の時間がかなり増えた。
 遊ぶなり、勉強するなり、部活や趣味に打ち込むなり、子供は子供の役割を果たせ。
 直接言われたわけではなかったが、態度でそう示されているようで、何となく居心地が悪かった。母親と二人暮らしをしていた時にも、特別苦労していたわけではなかったのに。貴之は反発心を飲みこんだものの、新しい父親に素直に従う気にもなれなかった。
 そうして、一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月と、平穏な時間が上滑りするように過ぎていくなかでも、将生は家族というよりは、生活の空間を共にする単なる同居人と呼ぶ方が相応しい関係のままだった。朝、顔を合わせれば挨拶する。簡単な日常会話もする。洗濯や掃除をしてもらい、同じ食卓を囲み、同じ風呂やトイレを使う。そんな母の親しい友人。
 その間、貴之君から君がとれて、将生からは貴之と呼び捨てにされるようになったが、貴之が将生を呼ぶときは相変わらず「村沢さん」だった。将生と貴之は養子縁組をしているから、貴之の姓も村沢だ。当然、由美子はその呼称にいい顔をしなかった。しかし当の将生は、好きに呼べばいいと、全く気にしていない様子だった。
 由美子が事故で亡くなった時も、将生は実に落ち着き払った態度で、次から次へと湧いて出てくる事後処理を黙々とこなした。
 母は横断歩道を渡っているときに、赤信号を無視して突っ込んできた大型トラックにはねられて死亡した。トラックの運転手は、眠気覚ましのために違法な薬を使用していたという。
 遺体の身元確認を行ったのは将生だったし、葬儀の際も貴之は棺の窓を開けることすらできなかった。
「来るな」
 遺体安置所に一緒に入ろうとしたとき、将生に強く腕を掴まれて制止された。怒っているわけでも混乱して我を失っているわけでもなかったが、いつもより一段と低くて固い声には有無をいわさぬ力があって、不本意ながら従うしかなかった。
 思えば、将生に頭から押さえ込まれるような否定の言葉を使われたのは、このときが最初で最後だった。普段、将生は貴之の意志をないがしろにするようなことは絶対にしなかった。
 しかし、どれほどショックを受けることになろうとも、あのとき母の死と向き合っておくべきだったのかもしれない。火葬の後、ようやく対面することができた白い遺骨は、母親の顔をしてなかった。きちんと顔を見て別れを告げられなかったせいか、貴之には母親が亡くなったという実感がなかった。恐らく今でも、そしてこれからも。

 将生の運転する車は、郊外にある霊園に向かった。
 整然と墓石が立ち並ぶ霊園の一角、まだ真新しい墓を水で浄めて、軽く掃除をし、花を入れ替える。
 結婚してすぐに、遠方の本家より墓参りがしやすいからと、母は結婚指輪より先に墓を買った。縁起がよくないわよと苦言を呈する親類の声を由美子は一笑に付したが、結局は懸念が現実のものとなってしまった。
 現在この墓には、由美子と貴之の実父の遺骨が納められている。将生は自分の妻の先夫と同じ墓に入るつもりなのか、そもそも彼の生家の墓はどうしたのか。細々とした疑問はいくらでも湧いて出たが、二人とも合理主義者だから、あまり気にしていなかったのかもしれない。つくづく妙な夫婦だ。
 義理の息子から送られる乾いた視線にも気づかず、男性的な容姿からは想像もつかないまめやかさで、将生は由美子の眠る場所を整えていった。貴之はその背後に無言で控えていた。
 由美子の月命日の前後には、二人で墓参りをするのが習いになっていた。
 線香の煙が細く昇る様を眺めながら、貴之は考えた。
 母に何と祈ればいいのだろう。
 母さん、俺、だいぶフェラがうまくなったよ。
 まめにAVを観て研究もしているし、客に気づかれずにゴムをつける技も身につけた。
 ……なんて、墓前で報告できるはずもない。
 息子が自分の身体を売って金を稼いでいると知ったら、由美子はどういった反応を示しただろうか。
 思い切り叱られ、怒鳴られるのは確実だ。もしかしたら、泣かれたかもしれない。簡単にはへこたれない気丈な女性だったけれど、動物や子供を扱ったドキュメンタリー番組を見ては、たまに涙ぐんでいたから。もっとも亡くなった今とはなっては、かもしれない、もしかしたら、の仮定を出ない。
 では、この男は。
 戸籍上は父親と記されている、この男はどうだろうか。
 怒ったところも、声を荒げているところも見たことがない。いつも泰然としていて、そもそも人間らしい感情があるのか謎だ。
 だが、と熱心に掌を合わせる男の後頭部を冷たく見下ろして思う。
 怒って殴られるかもしれないし、呆れて見捨てられるかもしれないが、少なくとも泣きはしないだろうと。
 泣かれても困るだけだけど。
 気づかれぬよう冷たい嘆息を吐きながら、貴之は自分もそっと手を合わせた。

 帰宅してから、二人で夕食をとった。父子とも日頃から口数は少なく、ラジオのニュースが流れる合間に、かちりかちりと食器が触れ合う乾いた音だけが響いていた。
 由美子が生きていた頃は軽快な笑い声が家中を明るく照らし出していたが、男二人の生活はいつまでも明けない夜が続いているようで、あらゆるものがひっそりと静まりかえっていた。
 食事の時間は、なかなか進まない箸を握る指と、鉛でできたような重い喉を動かすことに専念しているうちに終わる。
 将生の作る食事はごくまっとうな家庭料理なのだが、どうしても口に合わなかった。しょっぱすぎるとか、味が薄すぎるとか、濃すぎるとかではない。ましてや、決してまずいわけではない。ただ、口に合わないのだ。
「来週だったな、三者面談」
 だしぬけに将生が口を開いた。貴之は、まだ半分以上残っている茶碗の白米を注視したまま応えた。
「忙しかったら、無理しないで下さい」
「有休は申請してある」
 そういえば、と将生は続けた。
「進路希望に変更はないのか?」
 形ばかりの質問という風情だった。息子の進路に興味がないなら、そう言ってくれればいいのに。嫌な気なんてしない。むしろ気が楽になる。
「はい。就職するつもりです。民間企業でも公務員でも」
「大学は?」
「行きません」
 将生は少し黙り込んだあと、いつもと変わらない平板な口調で言った。
「進学したらどうだ。金のことは大丈夫だから」
「特に勉強したいこともないので」
「就職も構わないと思うが、もったいない気がするよ。あの成績なら、どこの大学でも入れるだろうし」
「なりたくもないのに、弁護士や医者目指したって仕方ないでしょう」
 それはそうだが、と将生は続けた。
「一度勤めはじめると、改めて何か勉強したいと思っても、なかなか時間がとれないからな」
 そんな理屈で貴之を説得できるとも思っていないのだろう。将生の言葉は、諭すというよりもどこか独り言じみていた。
 この話題はこれで終わりだ。将生が何と言おうが思おうが、貴之が就職する意志は覆らない。継父もわかっているはずだ。その証拠に、もう会話は続いていなかった。
 ふと思い出したように、貴之は尋ねた。
「村沢さん、引っ越さないんですか」
「このマンションを?」
「はい。家賃も結構しますよね?」
「家賃のことは心配ない。勤め先から住宅手当が出ているから」
「でも、二人で住むには広すぎませんか」
「まあ、そうだが」
 彼らしくもない、煮え切らない態度だった。
「俺に気兼ねはいりませんよ」
 将生の曖昧な言動の裏に、自分に対する気遣いを感じる。しかし心が温まるどころか、逆に頭の奥がすっと冷えていくようだった。
 貴之は事務的に言った。
「よかったら、来週末にでも母さんの遺品、一緒に整理しましょうか」
 時々風を入れて掃除をしてはいるけれど、由美子の部屋は亡くなった当時のままにしてあった。
「そんなに急ぐ必要もないだろう」
 将生はしかし、息子の申し出を穏やかに拒絶した。
「急ぐ? でも、もう半年ですよ」
「……半年か」
 まだ半年なのか、もう半年なのか。居心地の悪い曖昧さだけを残して、会話が途絶えた。
 無言で箸を動かしているうちに、やっと全ての皿を空にするという責務を果たした。
「ごちそうさまです」
 貴之はおもむろに立ち上がって、重ねた食器を手に流しに向かった。
「食器、そのままでいいぞ」
 そう言われたものの聞こえない振りをして、自分の食器だけをきれいに洗って食器乾燥機に立てかけておいた。子供じみた反抗しかできないことに自分自身で嫌気を覚えるが、こんなことをされても将生の心は少しも動じないだろうことに、また腹が立った。

 貴之は自室に戻り、本棚から一冊の英和辞典を取り出した。
 辞典を紙箱から出すと、中央がカッターできれいにくり抜かれていて、長方形の穴に紙幣がすっぽりと収められている。貴之は紙幣を指で掻きだして、丹念に枚数を数えた。当然ながら、増えても減ってもいない。それなのに、変わらぬ数に少しだけ安堵した。
 仕事を始めて三ヶ月。それなりの額が貯まった。だが、まだ十分ではなかった。
 手の中にある分厚い札束を冷たく見下ろしながら、貴之は苦い思いをゆっくりと味わうように咀嚼した。
 金はいくらあっても足りないということはない。
 いつあの男に裏切られるのかわからないのだから。
 新盆が終わってからしばらくして、弁護士の立ち会いの元で、貴之にどれくらいの財産が遺されたのか、将生から具体的な数字を報告された。
 その額を聞いて、耳を疑った。
 遺言状で指定された相続人や由美子が入っていた生命保険などの名義は、将生と結婚してからも貴之のままだったらしい。高校生が持つにはあまりにも大きい金額だった。民事裁判が終われば、さらに増えるとも言われた。
 だが、未成年の貴之がその金を自由にできるのは問題があるということで、成年に達するか就職するまでは親権者である将生の管理下に置かれることになった。その判断自体は常識的なもので異論はなかったが、ふと考えた。
 将生は母の結婚相手であり、法律上は自分の父親でもあるものの、貴之の心情からすれば赤の他人と同じようなものだ。将生について、貴之は何も知らない。性格は未だによく掴めないし、勤務先にしてもそこに勤めている、と本人から聞いただけだ。友人などの交友関係も、両親以外の親類縁者も不明。不明、不明、何から何まで不明ばかり。
 貴之は高校二年生、高卒で就職するまでには二年、成人するまでにはまだ三年もある。その間に、欲に目がくらんだ将生が貴之の財産を奪おうと企むかもしれない。あるいは別の相手を見つけて再婚し、前妻の連れ子を厭わしく思うようになって、家を追い出されるかもしれない。
 亡き妻の資産に一切手を付けるつもりはないという誠実な姿勢は、貴之を騙すためのアピールに過ぎないという可能性もある。そんなことはしないと自信を持って言い切れるほど、彼という人間を知らなかった。それに貴之名義の通帳には、人間の道徳心をぐらつかせるのに十分すぎるほどの数字が刻まれていた。
 考えれば考えるほど、笑えない仮定ばかりが思い浮かぶ。そして、もしもその最悪な仮定が現実のものとなってしまった場合、未成年の貴之には自分を守る術がない。
 たとえば、母が残した金を勝手に使い込まれて裁判を起したいと思っても、貴之は別の大人を頼らなければならないし、主な預金口座を将生に握られていては、裁判費用はどこから捻出できるというのか。通帳にいくら桁の多い数が刻印されていても、社会的な身分のない十代の少年にとっては、所詮絵に描いた餅だ。
 それらが決して、現実から乖離した突飛な妄想であるとは思えなかった。だから、少しでも金を貯めようと決心した。万一何かあったときに、ひとりでも戦えるように、逃げられるように。
 当初は株で稼ぐことも考えたのだが、株は儲けが出るまでに時間がかかる。欲しいのは、すぐに手に入る当座の現金だった。
 ちょうどそんなことを考えていたとき、勇一と出会った。それが幸運のはじまりだったのか、不幸のはじまりだったのか、貴之には判断できない。確かなのは、手元の金が着実に増えているという事実だけだった。
 もしものときの備えだけはしっかりしておいて、あとは残り二年を耐えればいい。その先には自由が待っている。卒業の日が待ち遠しかった。自分の人生の主導権を、戸籍上一番近い他人に握られている今の状況は、見えない糸で全身を縛られているようで、ひどく息苦しかった。
 貴之は紙幣を辞書の窪みに入れ、紙箱を重ねて、元あった通り書棚にしまいこんだ。
 ひょっとしたら、貴之が少しでも早く遺産を手に入れたいがために就職を希望しているのだと、将生は考えているかもしれない。
 けれど、それは大きな思い違いだ。
 母の死のにおいが染みついた金など要らない。
 ただこの穏やかで静かな牢獄から、一刻も早く抜け出したかったのだ。