つがいのまねごと
 墓参りから二週間ほど経った日の朝、朝食を手早く済ませた後、貴之はカウンターに置かれていた弁当を鞄に詰め込んだ。
 朝食も弁当も将生が作ったものだ。残業や飲み会で遅くなる日も珍しくないのに、貴之が朝起きたときにはきちんと用意されている。
 負担になるだろうし、昼は適当に用意するからとそれとなく伝えたこともあったのだが、無理はしていないと軽く流されてしまった。彼の言うとおり、確かに気負って張り切ったり、頑張ったりする様子は全くなかったので、断る理由もなくうやむやなまま習慣となってしまった。
 出勤時間までまだ余裕のある将生は、朝日の降り注ぐリビングでコーヒーを飲んでいた。寒い時期の感染症対策だの、ホームビデオめいた投稿映像だの、テレビは呑気なニュースを流している。大きな話題になるような事件はないらしかった。
 テレビを見ているのかいないのか、考え事をしているのかしていないのか、ソファに腰を落ち着かせた将生の態度からは、さっぱり読みとることができない。わかることといえば、ぶらぶらしているのが邪魔だと思ったのだろう、シャツの胸ポケットに先をつっこまれたネクタイの柄が相変わらず垢抜けないことぐらいだった。髪型にしても私服にしても、将生を取り巻く空気には野暮ったい雰囲気があった。
 スーツの色にネクタイが合っていないと思いつつ、貴之は養父から目線を外した。
 朝食はできるだけ一緒にとり、昼には手作りの弁当を持たせ、帰宅が早ければ夕飯を用意してくれる。炊事以外の家事もほとんど将生がやってくれているので、かろうじて貴之が担当しているのは、食後の食器洗いくらいなものだ。それも強引にむしりとったような役目だった。
 将生から直接言われたわけではないが、母の急逝という突然の不幸に打ちのめされた義理の息子を不憫に思って、何かと世話を焼いてくれていることは察しがつく。
 だが余計なお世話だ。
 残念ながら、自分は不幸に酔いしれる悲劇のヒロインではない。一体いつになったら、将生は貴之の喪明けを許してくれるのだろう。
 そのとき、ニュースの映像が切り替わって、仲むつまじい二羽の鳥が寄り添っている様子が画面いっぱいに映し出された。
 将生がふと顔をあげて呟いた。
「あひるか」
「違います、おしどりですよ」
 あまりにも突き抜けた間違いをするので、無視を決め込むつもりが思わず即座に訂正してしまった。ソファからはみ出していた将生の頭が、のっそりと振り返った。
「詳しいな」
「普通ですよ。一般常識として、あひるとおしどりの区別くらい誰でもつくでしょう」
 貴之はつっけんどんな口調で言った。
 つまり将生は普通でないという意味にも取れる内容なのだが、言われた本人は全く気づいていないようで、そうか、と軽く頷いただけだった。
「夫婦仲がいい鳥なんだろう?」
「そんなことありませんよ。この間読んだ本にありましたけど、毎年パートナーを変えるらしいですから」
「おしどり夫婦って聞くが、そうでもないんだな」
「別に生物としておかしいところはないんじゃないですか。優秀な遺伝子を求めるための行動ですから。鳥には鳥の、人間には人間の理屈があるのに、勝手なイメージを押しつけられておしどりも迷惑でしょうね」
 愛だの恋だのと、単なる生殖活動に言い訳じみた説明をつけたがる人間に比べて、よほど健全だろうと思う。
 会話の間にすっかり登校準備を終えた貴之は、リビングの壁際に設えられた祭壇の前に膝をつき、にっこりと微笑みかける母の遺影の前で手を合わせた。
 祭壇を縁取るように、対に飾られた白い百合が強い芳香を放っている。中央には、由美子が好きだった店の焼き菓子が供えられていた。切り花も菓子も将生が買ってきたものだ。そのまめさにはつくづく感心はするが、彼の暮らしぶりや性格からこれまでどんな人生を送ってきたのかまったく見えてこないことが、将生という人間にさらに謎めいた印象を与えていた。
 重ねた掌を離して、貴之は黒枠の中に収まった写真を改めてまじまじと注視した。
 自分でも驚くぐらい、悲しみも懐かしさもわいてこない。それも、少しずつ感情が落ち着いてきたわけではなく、母の死の報せを聞いたその時点から、何も感じなかった。泣きもしなかった。
 親子仲は悪くなかったが、我ながら薄情なものだと思う。いくら突然の事故とはいえ、亡くなったのは実の母親だ。たとえ死んだ実感がなくても、普通、涙くらいは出てくるだろうに。
 やがて家を出る頃合いになったので、将生に短い挨拶を残して、貴之はマンションの階段を機敏な足取りで駆け下りて行った。
「村沢くん、おはよう」
 自動ドアをくぐったところで、マンションの玄関で掃き掃除をしていたエプロン姿の老婦人に明るく声をかけられた。貴之は丁寧な態度に感じのいい笑顔で装飾を施して、おはようございます、と朗らかに返した。彼女はこのマンションの管理人だった。夫と共に住み込みで勤務している。
 貴之の折り目正しい姿勢に、管理人はいたく満足したようだった。
「いつも気持ちのいい挨拶をしてくれるから、こっちまで爽やかな気分になるわ」
 幼い頃から星の数ほど受けてきた賛辞を、貴之は当然のものとして受け取った。年長者に示す敬意は形ばかりのものだった。同情にしろ蔑視にしろ、父親がいないというだけで母と自分が見下されるのは嫌だったから、他人が文句をつけようがない振る舞いを身につけただけだ。慇懃な態度の裏では、大人など年を食っているばかりで、下らない人間ばかりだと思っている。
 皮肉な話だが、大人にとってのいい子とは、素知らぬ顔で人を欺き、無邪気さの下で絶えず策略を巡らし、何の躊躇いもなくずるい真似をできるような悪い子でなければ手に入れることのできない地位なのである。
「あなたみたいなしっかりした息子さんなら、お母様も安心ね」
 周りに人などいないというのに気遣わしげに声を低くして、老管理人は何度蒸し返されたか数える気にもならない話を続けた。
「悲しい事故だったけれど……お母様の分まで幸せにならなくちゃね」
 弱者を見つめる女の、慈愛に満ちた眼差しには恐れ入る。引っ越してきた当初は、年の差がありすぎる夫婦についてあれやこれや下世話な想像を巡らせていただろうに。
 そうですね、と高校生らしい健康的な笑みを送って、老人の欲求をさらに満たしてやった後、徒歩で駅に向かう途中、貴之は線路沿いにある公園に立ち寄った。
 毎朝、この公園を訪れるのが日課だった。そこそこ広い公園であるが、ジョギングや体操、犬の散歩をするには狭いのか、早朝の時間帯にはほとんど人の姿を見かけない。
 貴之は慣れた様子で、広場の隅に置かれたゴミ箱へとまっすぐ向かった。
 鞄の中から弁当の包みを取り出し、持参したビニール袋に中身をあける。そのまま袋の口をしばり、顔色一つ変えずにゴミ箱に投げ入れた。
 良心の呵責など感じなかった。あるのは、鞄が軽くなったという事実だけ。
 貴之は一仕事終えたように息をつくと、ここではじめて空というものの存在を思い出したかのように、ゆっくりと天を仰いだ。
 冷たく澄み渡った朝の空を見ていると、先ほど管理人から言われた言葉が、ふっと脳裏に甦った。
 お母様の分まで幸せにならなくちゃね。
 幸せ。
 ありふれたその単語を口の中で億劫そうに転がした。
 自分は不幸ではないと思う。
 保護者がいる。金もある。食うにも困っていない。住むところがあって、学校に通えていて、心身も健康だ。
 だが、これが幸せというものなのだろうか。
 頭上に塗り込められた青空さえも息苦しい、この感情が。

 放課後、本番なしで六十分という軽い仕事を一本終えると、すぐに勇一に連絡をとった。
 勇一は、貴之が主な仕事場としているホテル街から三駅ほど離れたところで一人暮らしをしていた。もし在宅しているようなら家まで会いに行って、今回と前回の分の稼ぎを直接渡そうと思ったのだ。半分遊びに行くような感覚で、これまで何回も訪れている。
 それに、今日はこれから夜の七時からもうひとつ仕事が入っていたから、それまで時間つぶしをしたいという打算もあった。逃げ場、とは思いたくないが、自宅よりも勇一の狭いアパートにいる方がずっと落ち着けた。
「貴ちゃん?」
 電話に出た勇一は、いつになく早口だった。貴之は尋ねた。
「先輩、もしかして外ですか。だったら、後でかけ直しますね」
「違う違う、家だよ。このまま話して大丈夫。……ああもう、静かにしろよ。また隣から苦情来るだろ!」
 勇一の背後からは、はやしたてるような声が聞こえてきた。
「何なに、彼女からの電話?」
「馬鹿、こいつに女なんかいるわけねえだろ。ママでしゅか? 当たり?」
 哄笑がどっと沸き起こった。
 勇一が何か喋ろうとするたびに、人を馬鹿にしたような笑いに遮られる。胸焼けがした。短いやりとりを聞いただけで、勇一と「お友達」の力関係が残酷なくらいはっきりと理解できた。
 友達は選んだ方がいいよ、先輩。
 貴之はそう告げる代わりに、軽く眉を顰めながら言った。
「都合が悪いようなら、また今度……」
 言いかけた貴之の声を、勇一は鋭く遮った。
「大丈夫、こいつらすぐ帰らせるから!」
 およそ三十分後、貴之を部屋に招き入れたときには、勇一の宣言通り友人たちの姿はなかった。ただ片づける時間がなかったのか、食い散らかした菓子の袋や飲みかけのペットボトルなどのごみが床に放置されたままになっていた。
「ごめんな、汚くて。あ、飲む物がもうないんだった。ちょっとそこのコンビニで買ってくるよ」
「俺、すぐ帰りますから」
「いいのいいの! 俺も飲むし!」
 半ば叫ぶような声を残して飛び出していった勇一の背中を見送ってから、貴之は室内をぐるりと見渡した。普段、勇一の部屋は若い男性の典型的な生活空間そのもので、特別きれいでもなければ汚くもないのだが、今は「お友達」によってすっかり荒らされている。
 人の家を平然と踏みにじっていった男たちの無神経さに、激しい怒りを覚えた。その腹立ちに背を押されるように、貴之は汚れた部屋を手際よく片づけていった。
「これ、貴ちゃんがやってくれたの?」
 しばらくして帰宅した勇一は、小ざっぱりと整理整頓された部屋を見て、呆気にとられていた。フローリングの床にはごみひとつ落ちておらず、使用済みのまま投げ置かれていた食器類もすべて洗い終わっている。
 立ち尽くしたまま何も言わない勇一に、さすがに出過ぎた真似をしたかなという思いが頭をかすめた。
「すみません、勝手に」
「あ、違う違う! 俺の方こそ、助かったよ。ありがとね。……別に、変なもの置いてなかったよな?」
 勇一は気まずそうに耳を赤くして、頭をかいた。
「変なもの……」
 反芻しかけて、すぐに察した。いくら同性同士といっても、そういった嗜好を人に知られるのは嫌だろう。
「もちろん、抽斗やクローゼットには触っていません。床にあったものをまとめただけで」
 そういえば、と貴之は考えた。必ずしも仕事が性向に直結するものではないが、勇一は男に興味があったり、寝たりした経験はあるのだろうか。部屋に彼女がいるような気配は感じられないし、高校時代に同級生の女子と付き合っていたと聞いたことがあるが、それ以上つっこんだ話にはならなかった。
 「研修」のとき貴之の痴態を見て反応していたのは男としての本能的な衝動からであって、性嗜好とは関係がない気がする。
「あいつら、俺の家が大学の近くだからって、すぐ溜まろうとするんだ。恥ずかしいところ見られちゃったな」
 恥ずかしい、という言葉に貴之は首を傾げた。恥ずかしいのは人の家に図々しく上がり込む「お友達」であって、勇一ではないだろうに。
「何が好きわからないから、適当に買ってきちゃったよ」
 貴之がそんなことを考えている間にも、勇一はいそいそとコンビニで買ってきた菓子類をテーブルに広げた。
「そうだ、忘れないうちに」
 貴之は茶や菓子に手を伸ばす前に鞄を引き寄せて、茶封筒に入れた売り上げの一部を勇一に手渡した。
「ありがと」
 勇一は封筒を受け取ると、中も開けずに卓上のキャビネットにしまい込んだ。
「中身確かめないんですか」
「どういう意味?」
「もし、俺が取り分はねてたら?」
「まさか」
 勇一は呑気に笑った。貴之のことを少しも疑っていないようだった。
 信頼を寄せてくれるなら喜ぶべきなのだろうが、なぜか人のいい笑顔に苛立ちを覚え、同時に心が鈍く軋んだ。
 つきあいもそう長くないのに、どうしてそう簡単に人を信じることができるのだろう。
 馬鹿正直に人を信用したところで、失望するだけなのに。
 仕事のとき、いざ事に及ぶ段になって、優しげで気の弱そうな若い客に殴りつけられて骨を折られそうになったことも、紳士然とした中年の男にAVまがいのSMプレイを無理強いされそうになったこともあった。
 思いだしたくもない記憶が蘇り、つい説教じみた台詞が口をついた。
「あんまり俺のこと、信用しすぎない方がいいんじゃないですか。いつか先輩を騙してひどい目に遭わせるかも知れませんよ」
「いいよ、貴ちゃんになら」
 掃除もしてもらったしね、と冗談とも本気ともつかない口調で弱い笑みを重ねて、勇一は続けた。
「金子だっけ? あの客、また貴ちゃんを指名してきたけど、断っておいたから」
「ありがとうございます。何か、先輩のご迷惑になるようなことになりませんでしたか?」
「平気平気。やりとりはメールだけだからね。貴ちゃんに似た感じの、別の子すすめておいたよ」
 別の子。
 そういう少年たちの存在は勇一の口から何度かちらと聞いたことはあるが、貴之は名前も顔も知らなかったし、興味もなかった。もっとも、勇一も彼らとは完全に仕事のみの付き合いらしく、電話やメールなどでかろうじて繋がっているだけで、写真と簡単なプロフィールのデータが手元にあるものの、直接の面識はないそうだ。金の受け渡しをどうやっているのか疑問だが、第三者である貴之が軽々しく口を挟める話でもないと思って、尋ねたことはなかった。
 勇一は、お茶を入れたコップに唇をあてた。
「メールにヒライユウイチ君って書いてあるから、誰のことかと思ったよ」
「ヒライ?」
 ヒライ、と二度呟いたとたん、急に記憶が鮮明になった。偽名を使ったことなど、すっかり忘れていた。名前を聞かれて、とっさに思いついた名前を口にしたのだった。あの男も金子と名乗ってはいるが、もちろん本名ではないだろう。
「すみません、真っ先に浮かんだのが先輩の名前だったので」
「え、俺の?」
「はい」
 勇一は驚いたように目を見張った。
「じゃあ、ヒライは?」
「家の近くにある床屋の名前です」
 思わず嘘が口をついた。平井は実父の名字、つまり貴之の旧姓だった。
「何かあったとき、どこから足がつくかわからないのに、配慮が足りませんでした。ごめんなさい」
 深々と頭を下げる貴之を見て、勇一の方が却って恐縮してしまったようだった。
「勇一なんてありふれた名前だし、別に心配することないって。それよりさ、ゲームやらない? 新しいの買ったんだ」
 なぜかどことなくうきうきした様子で、勇一はプラスチックケースからゲーム機を引っ張り出してきた。
 何度目かの負けを喫したあと、勇一は大仰に溜息をついた。
「貴ちゃん強いなあ。このゲームやったことあるの?」
「いえ、はじめてです」
「俺、弱いんだよ、ゲーム全般。結構やってるんだけどな」
 正直なところ、ゲームよりも勇一を見ている方が面白かった。右に左にと身体は常に慌ただしく揺れ動いているし、戦況がよくなれば満面の笑みが、逆ともなれば悲痛なまでの絶望の表情が、次から次へとめまぐるしく浮かんでは沈む。開けっ放しの口からは感情をそのまま垂れ流したような素直な叫びが絶え間なく漏れていて、それがまた笑いを誘った。
 勇一は頼りないところはあるがそこそこ整った顔立ちをしているし、誰でも知っているような有名大学に通っていて、意外なことにスポーツも得意、家族仲もよく、家は相当裕福である。これまで生活に困ったことも、性格が屈折するような経験をしたこともないようだった。
 だが、非日常のスリルを味わうためにこの仕事をしているのだという。
 その気持ちは貴之にはわからない。
 彼と同じ様な境遇に置かれたとしたら、自分はきっと、こんな危ない橋を渡るような真似はしていなかっただろう。
 自分とは仕事に対する姿勢からして違う。身体を売ることを、自己肯定の手段にしたいなどという気持ちは一切ない。単に金が欲しいだけだ。
 貴之の意識と視線がゲームから離れていることにも気づかずに、勇一は次々と迫り来る敵との戦いに没頭していた。
 勇一がどんなに明るく振る舞ってみせても、この仕事の背後に得体の知れない存在が蜘蛛のように糸を巡らせていることは薄々感じていた。「研修」のときに会った男たちのいるところはほんの入り口に過ぎず、その奥にはさらに深い闇が広がっていて、貴之がいる末端の場所からはとてものぞき込むことはできない。
 だが、それでいいのだ。つまらない好奇心から首をつっこむと、もう後戻りできないだろうという予感、というよりは確信があった。貴之は彼らにとって蜥蜴の尾のようなものだ。都合が悪くなれば簡単に切り捨てられる。もっとも接点が少ない分、言い換えれば貴之の側も逃げようと思えば逃げられるのである。替えはいくらでもきく。
 だが、勇一の場合は違う。契約と金とを仲介する役目は、貴之のそれよりずっと重い。
 客の異常な行動や暴力、病気、それに補導や逮捕といった危険に常に曝されている貴之と違って身体に及ぶリスクは少ないが、勇一のような繋ぎ役のほうが立場的には危ないのではないかと思う。
 本人はうまく立ち回っているつもりでも、泥濘に足を取られて、そのまま暗い沼底に引きずりこまれたら一巻の終わりだ。
 画面の中では、屈強な男が放った弾丸がモンスターの頭を木っ端みじんに打ち砕いていた。
 先輩、自覚あるのかな。
 そう考えて口を開きかけたが、貴之が言葉を発するより先に勇一が話しかけてきた。
「そういえばさ、栄二に聞いたんだけど」
 栄二というのは勇一の弟、貴之の友人の名前だ。兄とは正反対の性格で、口がうまくて要領もいい。仲が悪いというほどではないが、気の弱い兄を馬鹿にしているようなところがある。もしかしたら家族内の地位の低さに嫌気がさして、早々に家を出たのかもしれない。勇一の実家から大学まで決して通えない距離ではなかった。
「貴ちゃん、お母さんの再婚相手と住んでるんだって? いじめられたりとかしてない?」
「いえ、全く」
 残念ながら、と言外に告げた。
 暴力にしろ暴言にしろ、もし将生の人となりに少しでも問題がありそうなら、すぐに学校なり児童相談所なりに報告する心づもりだった。それなのに将生の言動ときたら、模範的な養父のそれそのものだった。
「そう、よかった」
 勇一はコントローラーから指を離して貴之を見ると、人の良さそうな顔をほころばせた。
「どんな奴?」
 貴之は答えに窮した。
「どんなと言われても」
「性格は?」
「よくわかりません。家事は得意みたいですけど、それって性格じゃないですよね。強いて言えば、無口でいつもぼんやりしてます」
 勇一は唸りながら首をひねった。
「具体的に全然想像できないな……じゃあ、顔は?」
 そう言われて、将生の顔をはっきりと思い浮かべることができないことに気がついた。目と鼻と口がついているのは覚えている。だがそれ以上の特徴となると、薄くもやがかかったように曖昧だ。
「……よくわかりません。普通、かな」
「性格も顔も、一緒に住んでるのにわからないの? 一応、父親なんだよね?」
「俺は学校、あっちは仕事であまり話す機会がありませんし」
「そういうもんか」
「先輩、俺の顔に何かついてますか?」
 無言で自分を見つめてくる勇一の視線に居心地の悪さを感じて、貴之は怪訝そうに眉を顰めた。
「貴ちゃんって、苦労してきたから大人びてるのかな」
「苦労?」
「早くに実のお父さん亡くしたって聞いたよ。大変だったんだろうな、色々」
「そんなことありません」
 貴之は思わず反論した。喉元に溜まったもやもやとした感情が、冷たい声となって放たれた。
「母親にそれなりの収入はあったみたいで、経済的に困ったことはありませんでしたよ。私立の高校に行けてるくらいですから。それに、父親なんていてもいなくても同じようなものでしょう?」
 まるで言い訳のような台詞を連ねてから、子供みたいにむきになってしまった自分に気が付いて、自己嫌悪に陥った。
「まあ、そうだけど」
 場に満ちた気まずい空気を察したのだろう、勇一は声の調子を変えた。
「とにかく、嫌なことされたらいつでも言えよ。俺がぶっとばしてやるから」
 握り拳をつきだして力強くそう言われたものの、たぶん勇一がぶっとばすより先に貴之の方が何らかの意趣返しを果たしているはずだ。だが、その気持ちはありがたかった。
「ありがとうございます」
 営業用のものよりも心をこめた笑顔を送ると、目の前の顔が真っ赤に染まった。しどろもどろに呪文のような言葉を呟く勇一を後目に、貴之はぱっと立ち上がった。
「そろそろ行かないと」
「もう一件入ってるんだっけ?」
「ええ。七時から」
「働き者だなあ」
「先輩のお陰でね」
 からかいとも皮肉ともつかない口調で言う貴之に、勇一はふと真顔になって告げた。
「たぶん、結構年いってる客だよ」
「どうしてわかるんですか。確か、初めての人でしたよね」
 内緒だけど、と勇一は苦笑した。
「問い合わせのメールが、職場のアドレスから送られてきたから」
 貴之はしばし絶句した。
「……勇気ありますね」
「だろ? 調べてみたら、かなり遠くにある大きな病院だったよ。医者だろうね。出張で上京するからついでに、とかそんな感じかな。旅先の開放感ってやつで、貴ちゃんに妙な真似しないといいけど……ホテルの前で待ってようか?」
 首を軽く振って、貴之はその申し出を断った。
「寒いですし、風邪引きますよ。安心してください。もし許容量を越えるようなオプションをお願いされたら、全力で逃げますから。行きすぎたお医者さんごっことかね」
「まあ貴ちゃんなら大丈夫か」
 でも終わったら連絡してね、と最後に勇一はいつものように、優しく弱い釘を指したのだった。