つがいのまねごと
 勇一が予想した通り、ホテルの部屋でそわそわと落ち着かなく身体を揺らして待っていたのは、初老と思しき禿頭の男だった。五十代後半から六十代くらいだろうか。貴之の祖父といっていい年齢だ。
 やや古い型だが、高級そうなスーツを着ている。もっとも、この男だけでなくほとんどの客はスーツなどのきちんとした格好をしていた。たとえ一時の気の迷いで未成年を買うことがあっても、俺は普通の人間だ、まっとうな良心と常識を備えているのだと必死に弁明しているようで、何だか哀れを誘った。
「ああ、君が。そうかね」
 男は貴之を見て、眼鏡の奥で軽く目を見張った。戸惑ったような視線は、すぐに品定めのそれに変わった。
「金は後でいいかね」
「はい、結構です」
「どうする。まずは風呂でも入ろうか?」
 ええ、とはにかむようにして笑って、貴之は相手の横からそっと身を寄せた。
「今日は、宜しくお願いします。この仕事、はじめたばかりで慣れていないんですが……頑張りますね」
 男の喉元でごくりと唾が鳴った。もう何十人と相手をしているから、この客がこういった状況に慣れていないこと、緊張していることはすぐに見て取れた。だが男はあくまで余裕の態度を示そうと、皮下で懸命な努力をしているようだった。笑顔を作ろうとして失敗したのか、顔の筋がひきつっていた。
「大丈夫、悪いようにはしないから。安心しなさい」
 診察室で言われるような気休めの台詞だと思ったが、そういえば医療関係者だったのだと納得した。
 バスタブに湯を張って準備を整えたあと、客をバスルームに促しながら、貴之はさり気なくベッドサイドの時計に目を向けた。
 ちょうど夜の七時を回ったところだった。二時間の客だから、すべて終わるのは九時過ぎくらいか。将生は飲み会で遅くなると言っていたから、彼の帰宅前には家に着いているだろう。
 万が一将生よりも遅くなったとしても、予備校の自習室で勉強していたと言えばいい。就職を希望しているならばもう大学受験のための予備校に通う必要もないが、仕事で遅くなるときの口実を作るために今でも籍を置いているのだった。
 股ぐらに塗り込められたボディソープのぬめりと共に舌も滑らかになった男は、自分が医者であること、学会に出席するためにこの街にやってきたことを自慢げに告げた。確かに男が話す言葉には、少しだけ訛があった。
 この男に限らず、客たちはどうしてわざわざ素性を明らかにするような話をするのか不思議でならなかった。貴之が完全に倫理観の欠けた人間であったら、その話の裏をとって強請に利用していただろうに。客にとって、貴之のような男娼は別世界に生きる存在であって、日常からは完全に切り離されているのかもしれない。あるいは人間の範疇にすら入っていないのか。
 性欲をそそぎ込むだけの、人の形をしたもの。
 その扱いを今さら嘆くつもりはない。貴之にとっての客もまた同じだ。
 金を払ってくれるだけの、人の形をしたもの。
 人間だと思わなければ、何をされても平気だった。お互い様だ。むしろ、愛情や親切心めいたものを寄せられる方が厄介だった。あまり度が過ぎると、穏便に済ませられなくなる。
 男はバスタブに浸かって、熱気に火照り始めた貴之の身体をねっとりといじり回した。脂ぎった愛撫に応えるように、白っぽくぶよぶよとした男の肌を舌でゆっくりと舐め取った。
「……すごい」
 ぴったりと身体を寄せると、男のしなびた男性器が大きく盛り上がった。男は満足そうに、粘つく吐息を耳に吹きかけてきた。整髪料のにおいがねっとりと鼻腔に広がる。
「うん、うん。あとで楽しませてやるからな」
「本当?」
「本当だとも」
「ベッドまで、我慢できるかな」
 いかにも甘えるように男の太い首に腕を回しながらも、思考はどこまでも冷たかった。
 金曜の夜とあって、ホテルの客室はほぼ満室だった。今このときも、大体客室の二倍くらいの数の人間が同じ建物で同じような行為に耽っているのだと考えると、妙な気分になる。
 くすんだ色をした胸の突起を優しくもみほぐしつつ、貴之は男の首から上をそっと眺めた。
 染みに侵されて弛んだ皮膚。好色な光を放つ目。若い頃から今まで、恐らく美男と誉めそやされたことはないだろう類の顔立ちだった。たぶん、外でこの客と顔を合わせても気づかないだろう。顔よりもむしろ、性器を見た方が思い出すかもしれない。
 将生の件といい、熱心に仕事をしすぎたあまり脳の機能が退化して、人の顔を覚えられなくなってしまったのだろうか。
 そう考えかけて、我ながらくだらない妄想だと自嘲した。
 風呂から出てすぐ、タオルを腰に巻き付けただけの姿の貴之に男は紙袋を偉そうに差し出した。
「こいつを着て欲しいんだが」
 うわずった声音から、中身の察しはついた。ああやっぱりね、とはさすがに言えず、貴之は黙って受け取った袋の口に視線を注いだ。
 きれいに畳んで入れられているのは、一揃いのセーラー服だった。
 コスプレはオプションとして別料金がかかる旨を、貴之はなるべく丁寧な言葉を選んで説明した。勇一から送られた連絡メールに記載されてはいるが、そんなもの聞いていないと客に激昂でもされたら面倒だった。
「もちろん構わん。いくらでも払うさ」
 男の鼻息が興奮に荒くなったのを感じて、貴之は文句を言われなかったことに安堵しつつも、辟易した。
「じゃあ、これはどうだ?」
 調子に乗った男は、旅行鞄の底から手錠を取り出した。貴之は微かに息をのんだあと、客の機嫌を損ねないように丁寧に詫びた。
「……すみません、それはちょっと」
 二枚の一万円札を目の前でひらひらと示されても、今度はさすがに首を縦に振ることはできなかった。この要求を飲み込んでしまったら、次はどんな爆弾が投げられるかわかったものではない。
 遊び慣れていない人間の方が限度を知らないため、却って危なかった。買うのも違法、売るのも違法。それを承知しているから、常連たちの多くは一応の引き際を心得ている。
 男は残念そうな顔をしたものの、それ以上しつこく粘ることもせず、手錠をサイドテーブルに置いた。
 貴之は紙袋からセーラー服を取り出すと、着慣れぬ女性用の服の構造に首を傾げながら、何とか体裁を整えようと努力した。貴之が苦戦する様子を、男は椅子に腰掛けながらにやにやと眺めていた。どうやら、着替えもプレイの一環らしい。
 サイズが合わなくて袖が通らないのではないかと懸念していたものの、まるで誂えたようにぴったりだった。もちろん肩や胸元や腰回りなど、性差がはっきり出る箇所では多少の違和感はあったが。
 日頃から小柄な体格を疎ましく思っていたので、女子の制服を問題なく着ることができてしまうという事実は、決して喜ばしいことではなかった。しばらくの間未練たらしく袖を引っ張ってみたり、肩の布をつまんでみたりしたが、その無駄なあがきは失望に終わった。
 半袖のセーラー服は夏物らしく、パーティグッズとして売られているようなコスプレ用のぺらぺらした安物ではなくて、しっかりした生地の、きちんと縫製されたものだった。どこかの学校で実際に着られている、本物の制服のようだ。
 そのあたりにも何かこだわりがあるのかもしれないが、知りたくもないので詳しくは聞かなかった。ご丁寧に真新しい白い靴下まで用意されていたが、女性用の下着が入っていなかったことには、ほっと胸をなで下ろした。
 スカーフなどの小物類もすべて着用し終わって、貴之は自分の姿を見下ろした。スカートの下は何も身につけていないから、足の付け根のあたりに空気が触れて居心地が悪い。
「ほら、鏡で見てみなさい」
 男は微笑を浮かべて、貴之を鏡の前に立たせた。わざと恥ずかしげに俯いていた頭を、貴之はゆるゆるとあげて鏡に映る自分を注視した。
「よく似合っている」
 うっとりと言う男とは逆に、貴之の感想は冷淡そのものだった。
 いや、どう見ても似合わないだろう。
 やはり、女性の服というのは女性の肉体のために作られているのだとつくづく実感する。
 白い半袖から伸びる腕は細くとも骨ばっていて、襟からちらと覗く鎖骨にも、首筋にも、女性的な繊細さはどこにもない。柔らかな輪郭の持ち主が着ることを前提として縫製された服に、全体的に丸みのない身体がどうにか窮屈そうに収まっているという風情だった。
 少年の顔と身体に、少女の服。その奇妙なちぐはぐさは、性的な興奮を呼び起こすどころか、滑稽にすら思われた。
 だが、客にすればその不完全な姿にこそ官能を刺激されるらしい。
 いい、いいよ、と囁きながら男は後ろから貴之を抱きしめて、尻のあたりに固いものを押しつけた。汗ばんだ掌が急いた様子でスカートをたくし上げ、股の内側をしきりにさすった。
 二人はそのまま、ベッドの上にもつれ込んだ。
 男は貴之の左脚を持ちあげて、白い靴下に包まれたつま先を、飴でも転がすように口に含んだ。それから高揚に震える指で靴下を脱がせて自分の顔面に押しつけ、鼻を鳴らしながらにおいを嗅いだ。貴之はその様子に、犬や猫が皿に頭を突っ込んで餌を悔い漁る姿を重ねた。
 この制服、使用後すぐに捨ててくれないだろうか。
 もし男の手元に残されたとして、これからどういう使い方をされるのか、末路は簡単に想像できる。
 体毛の濃い短い薬指に、あまり趣味のよくない指輪が光っているから、恐らく既婚者なのだろう。家に持ち帰る可能性は低い、と思いたかった。
 今日は静かでいいわねとか何とか笑いながら、今頃妻も子も呑気に夕飯でも食べているかもしれない。男なんて旅先で何をしているのか、わかったものではないのに。夫が素人の若い女と不倫するのと、男性高校生を買ってセーラー服を着せた上に、靴下のにおいを嗅いで歓ぶのと、妻にしたらどちらの方がましだろう。
 貴之が暇を持て余していることにも気づかず、男はしばらく新しい玩具を与えられた子供のように靴下に夢中になっていたが、やがて満足したように獲物を手放すと、再び貴之の脚を押し開いた。貴之が、え、と驚きの声をあげて声を失う間に、禿頭が脚の間に埋もれていた。
「そんな、だめです。汚いところ……だったら、俺が先生の」
 貴之は軽く身じろぎして、眉を顰めた。今まで自分の性器を客に銜えられた経験はなかった。けれど男は聞く耳を持たず、より強い力をかけて貴之の股を押さえつけてきた。
「きれいだよ」
 背筋に悪寒が走る。風呂で温められたはずの身体の熱が、瞬時に引いていった。それは快楽のためではなくて、嫌悪と恐れからくるものだった。
 相手は得体の知れない人間だ。今にも急所を食いちぎられるのではないかという恐怖が肌を粟立たせた。悦びを感じるどころではない。
 だが、もうこうなっては諦めるより仕方がなかった。頃合いをみて、主導権を奪い返そう。それまでは演技をして持ちこたえるしかない。
 悲壮な決意を胸に、股ぐらに収まった頭に触れた。滲んだ脂汗のぬるりとした感触にぞっとして、思わず手を離した。目標を見失った手で、最も手近にあったシーツを握りしめた。
 ふと見下ろすと、自分の性器を執拗にしゃぶる禿頭が視界に入った。
「どうした、元気がないようだが」
 視線に気づいたのか、男は顔をあげて怪訝な表情をした。
 元気がない、つまりは貴之が少しも反応していないことが、男には不服なのだ。
 当たり前だ。
 似合いもしないセーラー服を着せられて、ほとんど他人に等しい老人に陰茎を舐められているこの状況で、一体どうすれば興奮できるというのだろう。偉い医者ならひとつご鞭撻いただきたいものだ。
 そんな冗談めかした皮肉を飛ばせるわけもなく、貴之は内心で頭を抱えた。この客は舌技に自信があるようなのに、萎えたままではお前は下手くそだと正直に言っているようなものだ。最悪の場合サービス不足を理由に、数万円が水泡に帰してしまうかもしれなかった。
 貴之はきつく目を閉じ、興奮の呼び水となりそうな記憶を必死で探した。
 けれど今まで経験したどんなセックスも、性的な映像や写真も、身震いするような現実の前ではまるで役に立たなかった。
 そのときふと、ある疑問が頭をよぎった。
 あの男は、どんな風に女を抱くのだろうか。
 閃光のように迸った思考が自分でも信じられなくて、貴之は思わず天井を凝視した。
 どうして、あいつのことなんか。
 憎しみも露わに厳しく眉を寄せ、脳裏に浮かんだ影を躍起になって振り払おうとするが、消え去るどころかその存在感は、不本意にも益々強くなっていく。
 と同時に、性器に血が通って熱を持ち始めた。貴之は苦しげに顔を歪め、奥歯をきつく噛みしめた。それでも、一度理性から手放してしまった妄想は、坂道を転がり落ちるように止まることを知らなかった。
 この仕事をするようになってから、世の中の見方が大きく変わった。街や駅を濁流のように流れる人々の、くたびれて無個性な顔。しかし、一見無害で善良と見えるその誰もが、多かれ少なかれ、後ろめたい秘密や欲望、隠された罪悪を背負い込んでいる。ならば、あの継父は。彼は、内にどんな暗いものを抱えているのだろう。
 男の舌先が、液の漏れ始めた先端をじゅるりと啜りあげた。
 貴之の眉根に刻まれた皺が、より苦しげに、より深くなった。
 欲などとうに捨てたとでもいうように常に引き結ばれた薄い唇の奥にも、この医者と同じような赤く濡れた器官があるはずだった。そうして、このけだもののように舌を使ったこともあったかもしれない。
 柔らかい舌と口腔で、貪るように、きつく吸い上げて。
「……あ」
 抉るような動きで割れ目に舌先が侵入したとたん、自分のものとはとても信じがたい嬌声が漏れて、貴之は瞠目した。
 淫らな喘ぎを聞きつけたのか、男がにやけた顔をあげた。
「そんなによかったか?」
「はい、すごく」
 甘い声を作りながらも、貴之は内心で畜生、と毒づき舌打ちした。
 まるで盛った獣のような悲鳴だった。聞き間違いだと思いたかった。
 いつもなら砂糖をまぶしたような喘ぎをいくら聞かせても平気なのに、今このときばかりは、自分の口から漏れ出る不快な音を客の耳に入れるのがどうしても我慢ならなかった。
 せめてもの抵抗で、声が外に漏れないように制服の裾をたくしあげて噛みしめた。
 突起のあたりまで薄い胸が露わになった艶めかしい絵図に満足してくれたようで、ありがたいことに客から文句はつけられなかった。瞼を閉じると、感覚のすべてが生ぬるく淫靡な水音に支配された。
 陰茎に与えられる刺激の合間に、後部を撫でさすられ、直後、膜を突き破るような衝撃があった。狭い穴に、何か固いものが食い込んだ。指を差し込まれたのだと気づくのに時間はかからなかった。
 ず、ず、と指は慎重に、しかし無遠慮に侵入してくる。病院の診察室で、内診のために生傷を抉るような手つきだった。
 痛かったら、言ってくださいね。
 そんな空耳が聞こえてきそうだ。
 腐っても医者というべきか、前立腺の場所を正確に当てられて、折り曲げた指の腹で優しくさすられた。
 刺激が繰り返されるその度、口いっぱいに押しこんだ制服に、声にならない声が飲まれていった。
 実際に襞を擦りあげているのは、たっぷり肉のついた短い指だ。それなのに、想像の中で貴之は、別の人間の骨っぽい大きな手でいたぶられていた。そう思うと、男の口腔でまた欲望が膨らんでいった。
 早く終わらせてくれ。
 切ない望みをあざ笑うかのように、性器をなぶる舌先も前立腺で遊ぶ指先も、快楽を誘う一点を巧みに刺激はするが簡単に絶頂に至ることを許してはくれなかった。
 身体中に広がっていく甘い痺れが耐え難いほどになってくるにつれて、水中に投げ込まれたように息が出来なくなってきた。喉を塞がれているような息苦しさをそれでも耐えていると、目の端から自然と涙がこぼれてくる。
 苦しい。気持ちよさなど欠片もないセックス。ただひたすらに苦しかった。
 それなのに、他人の思うままにいたぶられ、暴力的な快感を一方的に与えられているという屈辱が、本人の意志とは裏腹に、下腹部にくすぶる情欲をさらに燃え立たせる。
「ん、ん……」
 飲み込んでも飲み込んでも、喘ぎが零れて止まらない。
 仕事中、こんなにも乱されたことはなかった。これからどうなってしまうのか、自分でもわからなかった。快楽の底が見えなくて、セックスという行為をはじめて恐いと思った。
 客、いや違う。今このとき、貴之を抱いているのは欲にまみれた老人ではなかった。
 ぐちゃぐちゃにされた感覚に溺れるうちに、耳元にそっと囁く声がした。
 ……ほら、おねだりしてみろよ。
 うるさい。
 ……指よりも太いものを入れて、激しく揺すぶって。
 俺はあいつらみたいなけだものとは違う。これは仕事だ。金を稼ぐために利用しているだけだ。
 ……奥まで抉って、突き上げて、早く楽にして、って。
 うるさい、黙れ!
 声には出さなかったはずなのに、逼迫した叫びが届いたのだろうか。穴がぐっと押し開かれ、もう一本の指が襞を割って侵入してきた。
「その制服ね」
 唾液と精液とにまみれた唇を離して、男は嬉しげに言った。好色そうな目に、残忍な光が浮かんだ。
「娘のなんだよ」
 二本の指によって強い快楽が与えらえたそのせつな、貴之は大きく目を見開いた。全身が軽く痙攣し、つま先から迫りあがる白い奔流に理性を手放した。誰かに縋りつきたいという欲求を必死に押さえ込んで、掌が鬱血するほど強くシーツを握った。
 窒息しそうな圧迫感とほとんど気絶寸前の快感に、目の端から光るものが幾筋も滑り落ちた。
 ふと、涙にかすんだ視界の端に男の脂ぎった禿頭が見えた。ぞっとしない光景だった。精を放ちきった性器に、男はなおもしゃぶりついていた。若い精液が、若返りの妙薬になるとでも思っているように。
 男を股ぐらに抱え込んだまま、半身を起こす力も言葉を発する力もわかず、疲れ切った身体をぐったりと横たえていると、手首にひやりと冷たい感触があたった。
 手錠だ。
 理解した瞬間、貴之は自分を取り戻した。
 まずい。
 緊張した全身に、熱い血流が迸った。
 逃げようとする貴之の腰に、男がのしかかってきた。いくら若くて力に勝る貴之でも、肉付きのいい成人の男に全力で圧し掛かられては、思うように動くことができなかった。
「何するんですか!」
 ベッドに力任せに押し倒されながら、貴之の視線は男の手中にある鋭い光に注がれていた。男の右手には、注射器が握られている。
「大丈夫、そんなに痛くはないからね。気持ちよくなるだけだ。身体に害はない。安心しなさい」
 安心できるか、と叫びたい気持ちを抑え、貴之は一応の説得を試みた。
「ねえ、先生。やめましょうよ。注射以外でしたら、いくらでもサービスしますから」
「動くんじゃないぞ。痛くしないから」
 男はいかにも親切そうに目を細めた。人の話をまったく聞いていない。恐怖より先に腹の底から怒りがこみ上げてきた。
「少しちくっとするだけだ。さあ、大人しくして……」
 腕をつかむために男が一瞬腰を浮かせた隙をついて、貴之は顎に肘鉄を食らわせ、みぞおちを思い切り蹴り上げた。
「触るんじゃねえ、この糞野郎!」
 蹴りは見事に命中した。男は低く唸って、腰を丸めて床に転がった。サイドテーブルに置かれていた手錠の鍵と思しき小さな鍵を握りしめて、貴之は苦痛に悶える男に一瞥もくれず部屋の外に逃げ出した。 
 しくじった。違約金払わなきゃいけないかな。
 下手したら、もっと悪いかも。
 先輩、ごめんなさい。
 ホテルの廊下を走っている最中、様々な考えが脳内にめまぐるしく浮かんでは消えていった。
 額にじっとりと嫌な汗が滲んだ。だが、今は後悔に浸っている時間などない。ひとまず、この場を切り抜けなければ。
 廊下の突き当たりを曲がった瞬間、二つの人影が目に入った。どちらもサラリーマン風で、ひとりは泥酔した男。言葉にならない叫びを上げながら、座って壁にもたれ掛かっている。もうひとりも男。こちらは素面で、酔った男の腕を持ち上げて部屋に入るよう促しているようだった。
 男と男。
 疑問符が頭をよぎったが、このホテルはそういった客の利用も可能だから仕事に使っているのだと思い至った。ともかく、目を合わせないで通り過ぎよう。頼むから、こっちを向かないでくれよ。
 そう念じていたのに、突然、介抱している方の男が顔をあげた。
 二つの視線が固く絡まったとき、両者の時間は確かに止まっていた。
「……貴之?」
 継父が自分の名前を呼ぶのを、貴之は悪い夢でも見ているかのように愕然として聞いた。
「何だ、その格好」
 冷静に言われてやっと、自分がセーラー服を着ていることを思い出した。理性的な人間の目にこの姿がどう映っているか自覚したとたん、激しい羞恥心が襲ってきた。
 たぶん耳まで赤くなっているだろうが、そんなことは考えたくもなかった。咄嗟に弁明をしかけて、しかし貴之は開きかけた口をすぐに閉じた。どう考えても、即興の言い訳で切り抜けられるような状況ではない。
「ちょうどいい、そいつを捕まえてくれ!」
 そのとき、背後からかん高い声がした。貴之の攻撃から回復した男が後を追いかけてきたのだ。素肌に羽織ったバスローブを翻し、逆上のあまり赤黒い顔色をしていた。
 しまった、と小さく舌打ちして立ち去ろうとしたが、将生に腕を掴まれた。振りほどこうにも力が強すぎる。思いもしなかった継父の行動に、貴之は目を見張った。
「ちょっと、何するんですか。離してください!」
 将生は言うことを聞く代わりに自分が着ていたコートをおもむろに脱いで、貴之の肩にかけた。
「着てろ」
「でも」
「その服で外に出るつもりか」
 返す言葉もなかった。男が息を切らせて近づいてくると、将生は貴之を自分の背後に隠すように立ちふさがった。
「この子が何か」
 男は背の高い将生にやや怯んだようだったが、社会的地位のある人間らしい傲然とした口調で命じた。
「他人が口を出すな。私たちの問題だ。さあ、わかったらそのガキを渡せ」
 一見すると、将生は家のリビングでくつろいでいるときと同じような様子だった。相変わらず怒ってもいないし、動じてもいない。
 だが、この異常な状況でなお平静さを保つ姿が、逆に恐かった。
 将生はついと前に進み出て、たじろいだ男の顔をゆっくりと見下ろした。明らかに生物の雄としての競り合いに負けた男は、それでも呂律の回らぬ舌を必死に動かそうとしていた。
「何だ、お前。文句があるなら……」
「他人?」
 将生の唇から発せられたのは、底冷えするような静かで低い声だった。血の気を失った男の襟首を、自分の目線に届くようにぐっと引き寄せる。
「俺の息子だ」
 敗北を予感していたのか、すでに腰が引けていた男を制圧するには、その短い一言で十分だった。男は飢えた金魚のように口をぱくぱくさせていたが、足はもう一歩も動こうとせず、貴之を追いかける意気はすっかり消失してしまったようだった。
「行くぞ」
 将生は貴之の肩を抱いて、さっさと出口へと向かっていった。布越しに感じる、冷たくて大きな手。そこではっと、継父のなすがままにされていることに気付いた。手錠によって自由を奪われた両手に無言で悪態をつきながら、貴之は身をよじらせて、肩に置かれた将生の手を振り払った。
 混乱した心を悟られないように、わざと落ち着き払った口振りで尋ねた。
「連れの人は?」
「自分で何とかするだろ」
 素っ気ない口調に、相手との親密さ、と呼ぶには温もりが足りないような、微妙な距離感が伝わってくる。
 ホテルを出るとすぐに、将生はタクシーを拾った。後部座席に二人で乗り込んで運転手に行き先を告げると、将生が突然、何か思い当たったように横を向いた。
「それ、鍵はあるのか?」
 手錠のことを言っているのだと察して、貴之は頷き、それまで必死に握り続けていた掌を開けた。将生は手錠がバックミラーに映らないように気を配りながら、コートの下で鍵を穴に差し込んだ。小さな鍵は予想通り、手錠の鍵穴にぴったり合った。
 その後は、途切れがちの無線が流れる他には喋る者もなかった。重苦しい沈黙が車内に満ちた。
 夜の国道を彩るネオンをぼんやりと眺めながら、貴之はぽつりと呟いた。
「……何も聞かないんですか」
「詳しい話は明日でいい。今夜はもう休め」
 将生は前を向いたまま、彼らしい簡潔な語調で言った。
 どうして男とホテルにいたのか。
 たとえ会社の同僚や友人が酔いつぶれたとしても、ラブホテルに連れてくるという選択肢はまずありえない。
 ならばゲイなのか、それともバイなのか。
 もしゲイならば、なぜ母親と結婚したのか。
 聞きたいことは山ほどあったが、逆に自分が言いたいことはひとつもなかった。
 もう休め。
 将生がなぜそんなことを言ったのか、黒い車窓に映った自分の顔を見て合点がいった。確かに、今まで見たことがないくらい、ひどい顔をしていた。