つがいのまねごと
 将生にコートを突き返して自室に入ると同時に、せき立てられるようにしてセーラー服を脱ぎ捨てた。視界に入らないように適当なビニール袋に押し込んで壁に叩きつけると、貴之は真っ先に勇一に電話をかけた。
 今日の失敗を出来るだけ早く報告する必要があった。最悪の場合、勇一の身にまで危険が及ぶかもしれない。しかし、何度呼び出し音が鳴っても勇一が応じる気配はなかった。
 仕方なく事の次第を記したメールを送る。送信すると同時にどっと疲れが押し寄せてきて、貴之はベッドに倒れ込んだ。身体は疲労困憊しているが、逆に頭はひどく興奮していて、いつまで経っても目は冴えたままだった。
 起きあがる動作はおろか、腕を動かすことも、思考することすら億劫で、天井をぼんやりと眺めて数時間、勇一から返信があったのは、ほとんど夜明けに近い時刻だった。
 こっちで全部片づけたから、安心して。
 一行だけの、簡単な文面だった。詳細が記されていないことが、余計に不安を煽った。片づけたというのは恐らく勇一ではなく、「研修」の場にいたような種類の男たちだろう。たぶん、いやきっと、相当の迷惑をかけたに違いない。
 貴之は微かに震える指で、ごめんなさいと打ち込んだ。返事はなかった。机の上でぴくりとも動かない携帯を見つめていると、ふと部屋の隅に投げ捨てられたビニール袋が目に入った。
 汚れたセーラー服、それから得体の知れない義理の父。突然、そいつらと同じ屋根の下にいるのがたまらなく嫌になってきた。
 衝動的に外出する準備をして、ダイニングテーブルの上にあったメモ紙に走り書きした。
 母の実家に行ってきます。
 予定があったわけではない。どこへ行くか考えたときに、母親の遺品が実家にまだ置いてあるのを思い出したのだった。
 わざわざ書き置きを用意したのは、昨日の今日で行き先を告げずに黙って家を出て行って、もし捜索願でも出されたら面倒なことになると思ったのだ。
 将生はまだ眠っているのか、寝室からは物音ひとつしない。なるべく音を立てないように、そっと玄関ドアを押す。
 家を出たとたん。夜と朝の気配が入り交じった冷気が頬にふれた。曙光の輪郭がようやく見え始めたばかりで、外はまだ薄暗かった。
 早足で風を切って歩きながら、自問する。
 逃げるのか。
 貴之は唇を固く引き結んだ。
 逃げることの何が悪いのだ。困難を乗り切るための、単なる手段のひとつに過ぎない。
 たとえ誰かに卑怯だと罵られても、自分は最も合理的な方法を選ぶ。何か問題が起きたとき、馬鹿正直に真正面から受け止めるばかりが正しい対処法だとは思わなかった。
 逃げる、では何から?
 法の処罰から?
 罪の意識から?
 精液まみれのセーラー服から?
 それとも……。
 唇を噛みしめて、貴之は口の中いっぱいに溜まった唾液を飲み込んだ。飲み込んでも飲み込んでも、喉が乾いて仕方がなかった。
 駅前の漫画喫茶でシャワーを浴びて時間をつぶしてから、昼ごろになって、下り電車に乗り込んだ。携帯には将生からの着信が何件か入っていたが、すべて無視した。勇一からの連絡はなかった。
 母親の実家までは、電車で四十分ほどかかる。そう遠くはない距離だが、由美子の存命中も法事や年末年始の挨拶のとき以外はほとんど訪れた覚えがなかった。父方の祖父母は亡くなっているらしく、そちらの親戚とはさらに縁が薄い。
 母が生まれ育った家には、祖母と母の実兄である伯父、それから伯父の妻と二人の娘が住んでいた。子供の目から見ても明らかに、彼らと由美子の折り合いは悪かった。
 最寄り駅についてから祖母に電話をして、用事があって近くに来たので遊びに行きたいと告げた。
「まあ、貴之! お母さんの新盆以来かしら? もっと早くに連絡してくれれば、色々用意したのに」
 祖母は嬉しそうに声を弾ませた。その用意とやらが嫌だから訪問の直前に連絡したのだ。自分のために豪勢な料理やら菓子やらが準備されている様を想像するだけで、その重すぎる好意に気が滅入る。
「よく来たわね」
 インターホンを鳴らしたとたん、待ちかまえていたように満面の笑みを浮かべた祖母が現れた。駅前で買った手みやげを手渡すと、媚びるような笑顔がさらに甘く蕩けた。
「まあ、いいのに。本当にあなたはよく気のつく子ね。……従姉妹とは違って」
 最後の一語は、家族の耳に入ることを懸念してごく押さえた声音で発せられた。気の強い祖母は、息子夫婦とも孫娘たちともあまりうまくいっていないようだった。
 祖母は溺愛といってもいいほどに貴之を甘やかしてくるが、満たされぬ心を埋めたいがために、愛するふりをして自分自身を慰めているようにしか思えなかった。それに成績優秀で有名校に通っている孫であれば、友人や知人に対して自慢の種にもなる。
「あら、貴之君。いらっしゃい」
 台所の方から、エプロンをつけた中年の女性が顔を見せた。伯母だった。
「ゆっくりしていってね」
 本人は精一杯の笑顔を作ったつもりらしいが、目が笑っていなかった。
 家が手狭になってきたので、実家に置いたままにしているお母さんの荷物を整理してほしい。でもね、急ぐことではないのよ、暇があるときでいいから。
 新盆の時に確かにそう言われたと記憶しているが、早く帰れと言われているような、少しの温かみもない目つきだった。
 祖母は伯母を無視して、孫の背に手を添えた。
「さあさ、疲れたでしょう。私の部屋でお茶でも飲みましょう。お菓子もあるのよ」
 貴之は勘弁してほしいという思いを上手く隠しつつ、困った風に曖昧な笑みを浮かべた。
 夕方から予備校の授業がある、だからなるべく早く母親の遺品を整理したいのだと説明して、貴之は祖母の誘いを丁重に断った。湿度が高くて愚痴っぽい祖母の話を延々と聞いていたら、ただでさえ参っている精神がさらにすり減ってしまう。
「じゃあ、私も手伝うわね。貴之だけじゃ大変でしょう?」
「ごめん。ひとりでやりたいんだ」
「え……」
 祖母は驚いたように目を大きくし、それから怪訝な顔をした。
「だって、結構な量よ?」
「荷物もだけど……ひとりになって、母さんの思い出を自分の中で整理したくて」
 殊勝な様子で俯きがちに言うと、祖母はあっさり騙されてくれた。孫の健気さに同情したのか、わずかに目が潤んでいる。
「ああ、そうよね。まだ半年だものね……」
 そうか、まだ半年か。
 祖母の言葉を、貴之は他人事のように咀嚼した。ここ数ヶ月の内に色々なことがありすぎて、母が亡くなったのがずいぶんと遠い昔のように思える。
「ねえ、貴之。お父さんとは、どう?」
 物置として使っている二階の部屋に向かう途中、祖母は上目がちに尋ねた。
「よくしてくれるよ」
「それならいいんだけど……」
 煮え切らない語調に反発を覚えて、わざと将生を誉めるような言葉を並べたてた。
「家事もほとんど全部してくれるし、毎朝弁当まで作ってくれるんだ。俺、将生さんが父親で運が良かったと思うよ」
「あら、そうなの」
 矢継ぎ早に手放しの賛美を聞かされて、祖母は呆気にとられたような顔をしていた。可愛い孫が不自由のない満ち足りた生活をしていると言っているのに、決して嬉しそうではなかった。横暴な継父にいじめられてひどい不幸を味わっていると切々と語ったほうが、きっと彼女を満足させることができただろう。
 物置に着いてからも、祖母は後ろ髪を引かれるような表情を見せてまごついていたが、しばらくしてようやく自分の部屋へと戻っていった。雨戸が閉まったままの室内は埃っぽくてじめじめしていたものの、やっとひとりになることができてほっとした。
 将生のところを飛び出したら、児童養護施設に預けられる前に、まずこの家に引き取られるという選択肢が提示されるはずだ。
 だが今日訪れてみて、この家に住むことはできないと改めて実感した。
 将生との生活の息苦しさは、空気が薄い場所にいるときの状態と似ていた。けれどこの家に充満しているのはひどい臭気だ。一日過ごしただけで毒気にあてられて、窒息死しそうだった。
 伯父は幸いにも外出しているようだった。伯父は悪意のない無神経、という極めて優れた性質を持った人間だった。祖母は娘の由美子には無関心だったが、一人息子にはめいっぱいの愛情をそそぎ込んだ。結果、立派な暴君が生まれたわけだった。
 表向きは気が弱くて従順な叔母も、時々、人を殺せそうな目で夫を見ていることがある。二人の娘たちは内面も外面もそれぞれ両親の遺伝子を色濃く受け継いでいて、親しく付き合いたいと思ったことは一度もなかった。
 由美子が亡くなって、誰が貴之を引き取るか親戚間でもめたとき、伯母は年頃の貴之と自分の娘たちが同じ家に住まうことで、何か間違いがあるかもしれないと心配していたようだ。そんな事態に陥る可能性は皆無なので安心してほしいと耳元で叫びたいくらいだった。
 貴之は重い溜息をついた。
 金はある。生活能力もある。分別や判断力だって、自分のそれが周囲の大人よりも劣っているとは思えない。それが高校生だというだけで、誰かの後見なしでは生活できないのだ。
 将生は、貴之が手に入れた金について、どうやら親戚には詳しい額を知らせていないらしい。皆せいぜい百万とか二百万とか、そのくらいだと思っているのだろう。
 もし知らせているのなら、金の管理について祖母が口を出してこないはずがないし、伯父や伯母が掌を返してすり寄ってくる様が容易く想像できる。確かに、将生が貴之の財産を奪い取るかもしれないと仮定してはいるが、血の繋がった人間を略奪者の座に当てはめてみた方が、ずっと自然で現実的だった。
 薄暗い室内に舞い散る埃を払いながら、貴之は母親が学生の時に使っていた机を整理した。将生から逃げるための口実が欲しかっただけなのだが、今日ここに来てよかったと思った。親しくもない人間に、勝手に母の持ち物を漁られるのは嫌だった。そうなるくらいなら、自分の手で処分してしまいたい。
 友達からの手紙や昔流行った曲のCD、学生時代の教科書などを、次々と分別してビニール袋に放りこんだ。無心で作業していても、人の思い出を汚しているような罪悪感が掌に残った。
 高校の教科書をぱらぱらとめくると、赤線を引いたり、余白に書き込みをしたりと、熱心に勉強したあとがあった。母親も自分と同じように高校に通い、勉強して、友達と笑いあって過ごした時期があったのだろうが、とても想像できなかった。
 大きなごみ袋二つがいっぱいになったところで、最後に机の一番下の抽斗を開けた。雑誌や図鑑などの雑多な本を床に積み上げているうちに、一番奥に、まるで隠すようにして分厚い茶封筒がしまわれているのに気が付いた。封筒に収まっていたのは、ずいぶん使いこまれた中学の国語の教科書だった。他の教科書とは、明らかに別にしてある。
 なぜこんなものを大切にしまいこんでいたのだろう?
 疑問に思いつつ持ち上げた瞬間、本の間に挟まっていた葉書が何枚かばらばらと落ちた。拾い集めながら、何気なく中身を確認する。何の変哲もない年賀状や暑中見舞いだった。かなり劣化していて、縁が黄ばみはじめている。消印の日付は十年以上前だ。
 あけましておめでとうございます。
 暑中見舞い申し上げます。
 お元気ですか。
 こちらは元気でやっています。
 ごく簡単な挨拶が書かれた、どこにでもあるような、普通の葉書。
 だが貴之は信じられないものでも見るように、差出人を凝視した。
 そこには、将生の名前が記されていた。

 夕刻、貴之が帰宅したとき、将生は食事の支度をしていた。台所から出汁のいい香りが漂ってくる。
「おかえり」
 将生は包丁を置いて、普段と変わらない様子で貴之を出迎えた。
「……怒らないんですか」
 貴之はただいまも言わず尋ねた。
「怒る? どうして」
「どうしてって、黙って家を出たんですよ」
 将生は少し考えてから言った。
「書き置きがあれば、黙って、とは言わないだろうな」
「じゃあ、何で電話してきたんですか」
「夕飯を食べるのか食べないのか、聞こうと思っただけだ」
 予想外の返事に、拍子抜けしてしまった。貴之はふてくされた表情でソファにどっかと座り込んだ。
「コーヒー飲むか」
「いりません」
 そこで一度コンロの火を止めて、将生が近づいてきた。
「どうだった、あちらの家は」
「どうもこうも。相変わらずですよ」
 皆まで告げなくても伝わっているだろう。将生もまた、由美子の結婚相手としては若すぎて世間体が悪いとの理由で、親族には決して歓迎されていなかった。
 そうか、と関心がなさそうに言って、将生は貴之の向かいに座った。
 窓から差し込む西日を挟んで、気まずい沈黙が流れた。
 何か聞いてくれればいいのに、将生は腕を組んで押し黙ったままだ。
 かといって、こちらから話す気にもなれない。
 貴之は足下に置いた鞄と、その中にしまってある数枚の葉書に注意を向けた。電車で眠れば夢から覚めたように消えてくれないかと期待したが、浅い眠りのあと鞄を開けて確認すると、やはりあるべき場所にしっかりと収まっていたのだった。
「少し早いが、食事にするか」
 立ち上がりかけた将生に、貴之は思わず苛立った声を叩きつけた。
「彼氏ですよ」
 将生は足を止め、再びフローリングに腰を下ろした。
「昨日の、あの人」
「ずいぶん年が離れているようだったが」
「人の好みにケチつけないでください。……言っておきますけど、指一本触れてません。お茶飲んで喋っただけです」
「ホテルで、セーラー服着てか?」
「セーラー服着て、外じゃ話せないでしょう」
 我ながら苦しい言い訳だった。それでも隙を見せまいと、貴之は強気の態度を崩さなかった。
「俺が女装することの何が悪いんですか。別に法に反したことはしてませんよ。だいたい、村沢さんだって人のこと言えないですよね。男とラブホテルなんて、そのつもりがなければ来ませんよね、普通。どうなんですか。ゲイなんですか?」
 ややあって、将生は告げた。
「そうだ」
 憎たらしいくらい、落ち着いた声音だった。
 予想できた返答のはずだ。だがその一言に、貴之は頭を思い切り殴られたような衝撃を受けた。自分の周囲の空気だけ、一気に薄くなったようだった。
「一緒にいたのは、昔付き合っていた男だ。偶然再会して、飲みに誘われた。あまり酒癖のよくない奴で、昨日も酔って店の中で暴れ始めたから、ホテルで休ませようと思った」
 将生は淡々と説明した。
 貴之の内部で、怒りが炎のように燃え上がった。
 この男、自分が何を口走っているのか理解できているのだろうか。
 なるべく感情を殺そうと思ったのに、絞り出した声は微かに震えていた。
「それなら、どうして母さんと結婚した? 騙したのか?」
「由美子さんは知っていたよ」
「それじゃあ、利害関係の一致から? ゲイとシングルマザーが身を寄せ合って、世間の荒波を乗り切るために偽装結婚したってわけですか? それとも……」
「貴之」
 穏やかな呼びかけが、なおも濁流のように溢れ出ようとする声を制した。
「俺は何と思われても構わないが、由美子さんのことは悪く言うな」
 それは由美子のためというよりも、貴之のための叱責だった。自分が発した衝動的な言葉に傷ついているのが、他ならぬ貴之自身であると見抜かれているのだ。
 追いつめるつもりが逆に余裕のある態度を示されて、屈辱と怒りに腸が煮えくり返りそうになる。
「……あんた、何者なんだよ」
 貴之は叫ぶように言って、鞄から葉書をつかみ取ると、勢いよくテーブルに叩きつけた。
「これ、母さんの部屋で見つけました。十年以上前って、村沢さん、まだ十代ですよね? 恋人じゃない。なら、どういう関係だったんですか」
「懐かしいな。……そうか、とっておいてくれたのか」
 独り言のように呟いてから、将生は言った。
「俺は、お前のお父さんの教え子だった」
 突如眼前に突きつけられた真実に、貴之は声を失った。
「平井先生は、中学の時の担任だ」
「担任? でも、何で母さんに関係が……」
 言葉を詰まらせた貴之を注視し、将生は先を継いだ。
「俺には親がいなかった。それで、色々と問題を起こした時期があったんだが、平井先生は見捨てずに親身になって世話を焼いてくれた。あの事件があったとき、ちょうど俺は入院していてな。退院した時には通夜も葬式も終わっていて、後日、先生の家に線香を上げに行ったんだ。由美子さんは温かく迎えてくれた。ひとりになるまで我慢するつもりだったのに、先生の遺影の前に座ったら、涙が止まらなくなった。床に突っ伏して号泣する俺の背中を、由美子さんはずっと優しくさすっていてくれた。今思えば最悪だな。一番辛いのは彼女だったのに。それから俺たちは……友達、みたいなものになった」
 友達と断定するのを避ける口振りから、二人の間にあった複雑な感情が伝わってきた。
 由美子とは友人関係だった。ならば、と貴之は率直に尋ねた。
「好きだったんですか、父さんのこと」
 沈黙よりもずっと苦しい、息の詰まるような無言の重圧。それから静かに発せられたのは、吐息と同じほどの短い台詞だった。
「……ああ」
 貴之は顔を歪めた。自分はつまらない本やドラマの中にでも迷い込んでしまったのではないだろうか。腹を抱えて笑いたい気分だった。
「結婚したのは、もしかして俺のためですか?」
 熱を失ったその声は、他人のもののように響いた。
「好きな人の息子を守るために、好きでもない人と結婚したってわけですか」
 しかし意外にも、将生は首を振って否定した。
「もちろんお前のこともあった。だが、それだけじゃない」
 わずかに考え込むような仕草をしてから、将生は続けた。
「夫婦の間で蹴りがついた話だ。人に上手く説明できるものでもない」
 理由もないのに確信した。将生は嘘をついていない。だからこそ、激しく拒絶されたような感覚に陥った。
 胸を苛む苦痛を振り払うように、貴之は強い語調で継父を挑発した。
「夫婦? あなたゲイなんでしょう?」
「確かに、由美子さんと俺の関係には恋愛感情も性交渉もなかった。でも、その二つがなければ夫婦にはなれないのか?」
 愕然として顔をあげると、将生の輪郭が夕闇にぼんやりと浮かび上がっている。気づけば、陽はほとんど沈みかけていた。
 外から車の流れる音がする。長すぎる沈黙が痛い。将生に見つめられている気配を感じたが、貴之は継父の視線を避けるようにずっと俯いていた。
 照明のついていない室内から、徐々に光が失われていった。視界からも、心からも光が消えていく。傾斜を転がり落ちていくような気分だった。底の見えない、暗い谷底へと向かって。
 貴之はおもむろに立ち上がって将生に歩み寄ると、すぐ横の床に膝をつき、将生の鎖骨のあたりを力一杯押した。無表情のまま体重をかける。押し倒された格好の将生は、驚いたように身を引こうとした。だが貴之は、それを許さなかった。
「動かないで下さい。でないと父親に暴行されたって、警察と学校に通報します。そんなことされたら、困りますよね?」
 貴之はさらに身を寄せながら囁きかけた。布越しに将生の体温が伝わってくる。この男も一応血の通った人間であったのかと、何の感動もなく思った。白い壁にもつれ合う二つの黒い影が映っていた。とても元は人間だったと思えないほど、歪な姿だった。
「あの男は彼氏なんかじゃないですよ。売春してたんです。遊ぶための金が欲しかったので、何十人の男とセックスしました。どうです、軽蔑しますか。客と、こうやって」
 言いながら、貴之は自らの脚を将生のそれの間に滑り込ませて、服のうえからぐっと押し当てて刺激した。
 だが将生の理性は、そんなものではぐらつきもしないようだった。
「お前、言ってることとやってることが矛盾してないか。法を侵して捕まったら、就職どころじゃない。早く自立したいんだろう?」
 現実的なことを言われて頭に血が上った。貴之は荒々しく吐き捨てた。
「そんなのわかってる。隠し通すつもりだった」
「俺にばれたのに?」
 筋の通った回答を示されて、悔しげに唇をきつく噛みしめた。
「あんたが、男をホテルになんか連れ込まなきゃよかったんだ」
 反論と呼ぶにはあまりにも拙い台詞では、相手の眉ひとつ動かせない。
 押し倒されている将生が全く余裕を失っていないことが、優位にあるはずの貴之を逆にじりじりと追いつめていった。
「教えてくださいよ。どうして身体を売っちゃいけないんですか。ありきたりな説得じゃ、面白くないな」
 わざと相手の苛立ちを誘うような貴之の口振りに、しかしなおも将生は動じなかった。貴之は突き上げる衝動のままにまくしたてた。
「職業に貴賤はないでしょう? あなたの立場が悪くなるから? 法律で罰せられるから? 危ないから? でも、危険な仕事なんて世の中にはいくらでもある」
「どれも違う」
 投げつけられた蔑むような視線を、将生は正面から受け止めて言った。
「お前が傷ついてるからだ」
 耳に染み入るような静かな声音に、これまでかろうじて抑え込んでいた感情が爆発した。
 将生の身体を固い床に手荒く押しつけると、貴之は服と下着を力任せに引きずりおろした。
「おい、待て」
 腕をつかんできた将生の手を、貴之はすげなく振り払った。
「さっきも言ったでしょう、動くと通報するって。ねえ、お父さん?」
 俺の勝ちだ。
 貴之は薄く笑った。
 一度関係を持ってしまえば、共犯者として後ろ暗い秘密を共有することになる。それは玩具じみた手錠などよりも、ずっと強い拘束だった。
 脚の間に顔を埋めると、将生の表情はもう見えなかった。
 はじめからこうすればよかったのだ。
 裏切られるのが嫌なら、先に支配下に置いてしまえばいい。
 もっと前に気づいていれば、余計な回り道をしないで済んだのに。
「これで、お前の気が済むのか?」
 問いかける声の奥に憐れみとも諦めともつかない色を感じ取って、貴之は忌々しげに眉に影を刻んだ。
 気が済む?
 この男は、何を的外れなことを言っているのだろう。
 自分の置かれている状況を理解していないのか。
「……黙っていてください」
 突き放すように言うと、露わになった性器を指でそっと愛撫した。幾度となく繰り返してきた動きだ。相手が誰であろうと同じ。感傷や快楽からは完全に切り離された、義務的な行為。
 殴るなり蹴るなりして暴れられたら体格的にとても適わないが、将生は暴力で抵抗するつもりはなさそうだった。脅迫者の側にある貴之の方が、主導権を握っていることは明らかだった。
 男同士のセックスの経験があるならば、拒否感はないだろう。あとは勃たせたものを、後部に押し入れて抜き差しするだけだ。
 先端の割れ目を舌先で巧みにいたぶって、同時に指で刺激を与える、掌で擦り上げる。多くの男たちの情欲を揺さぶってきた手順を慣れた動きで辿っていく。
 それなのに、どれほど時間をかけても、丁寧に愛撫しても、将生は一向に反応をみせなかった。
 強くしてみたり、逆に弱い刺激を与えてみたり、口の中で弄ぶ方法を、舌で舐め取る場所を、追い立てられるように思いつく限り試した。
 けれど努力はすべて徒労に終わった。
 口腔に含んだそれは、その行為の、いや貴之の存在すべてを否定していた。
 額に冷や汗が滲んだ。憎悪にも絶望にも似た、どす黒いものが喉元にこみ上げてきた。
 どうして。
 将生の指先に困惑を感じ取って、貴之は歯噛みした。
 どうして駄目なんだ。何がいけないんだ。
 すると突如、セーラー服姿の自分と脂ぎった中年男との情交の様が頭に浮かんだ。
 今、将生は同じ眼で貴之を眺めているのだろうか。
 かつて貴之が客の禿頭を見つめていたのと同じ、乾いた無関心な眼差しで。
 鼻の奥に鋭い痛みを感じたとたん、臓腑からせり上がってくる耐え難い嘔気に突き動かされて、貴之は床に置いたままにしておいた鞄をひったくるように拾い上げた。
 反射的に伸ばされた将生の手は、しかし素早く駆けだした貴之の身体には届かず、空しく宙を切った。
「貴之!」
 背中を貫いた声を無視して、貴之はそのまま外へと飛び出した。