#アンミナ #サイアン #元女王と元執事

『名前のない毎日』
(いい夫婦の日に書こうと思って遅刻したもの)

 その朝の目覚めは、爽やかとはとても言いがたいものだった。
 窓から寝室に差し込んでくる陽の光は眩しく輝いていて、今朝に限っていえば、その純粋さは凶暴ですらある。アンジュは頭を抱えて、小さくうなり声を上げた。
「あーー……」
 気持ち悪い。頭痛い。水飲みたい。
 どう考えても二日酔いだ。調子に乗って飲み過ぎた。
 昨日飲んだのはこの土地に移り住んでからはじめて買ってみた地酒で、口当たりは甘くて濃厚だけれど後味はすっきり。花の蜜のような香りもいい。食前に一杯だけ、のつもりが次々と杯を空にしてしまった。だが、もう一回人生をやりなおしたとしてもやはりひとりで一本開けて二日酔いになるだろう。それくらいおいしかった。
 後悔はない。とは思うものの、アンジュは半分起こしかけた身体をぱたりとベッドに沈めた。
「うぅーん……」
 こんなにも完璧に酔い潰れたのは――いつぶりだろう? 記憶にないくらい昔の話だ。
 うつぶせで一分ほど夢とうつつを行き来したあと、ガンガンとリズミカルに痛みを響かせる頭と重い手足をなんとか動かして、転がって、ベッドから這い出ようと頑張ってみる。が、手を突こうと思ったところになぜかベッドがなくて上半身のバランスが崩れる。落ちる。
 まずい、と思った瞬間、二日酔いの諸症状がきれいに拭い去られて思考がクリアになった。
 そうだ、もうクィーンサイズのベッドじゃないんだった。あれは宇宙でたったひとつの特別製だった。ベッドの上で三回くらい前転しても落ちないくらいの広さがあった。しなかったけど。
 とっさに身体を固めて目を瞑るが、予想していたような床にぶつかる衝撃はやってこなかった。
 背後から現れた二本の腕が、アンジュの腰を見事なタイミングで抱えたのだった。
「……ナイスキャッチ」
「ワーパチパチパチ! 危機一髪でしたね」
 後ろを振り返ると、その人はいかにも楽しげに唇に薄い笑みを浮かべていた。
「いたんですね」
「いましたよ」
 あっさりした返事が呼び水となって、さらに記憶がゆるゆると蘇ってくる。
 ――寝室を使っているのは自分ひとりではないということ、ベッドは二つあること。
 とたんに、二日酔いのヘビーな重みがずしりと全身に戻って来る。シンプルな部屋着姿のサイラスは、中途半端に浮いたアンジュの身体をずりずりと再びベッドに引きずり上げてくれた。
「あーそれ、どっこいしょ、と」
「重くてすみません……」
「今のは単なる気合いをいれる掛け声であなたの体重と関連性は特にありません。お気になさらず。しかしまあ」
 恐らくひどいことになっている顔を間近で遠慮なくじろじろと見られる。見られるのは慣れているけど、相手にアルコール臭がいかないように毛布を頭からかぶってガードする。
「わかってます、お酒くさいしひどい顔してますよね」
「それは今さらなので問題ありませんが、起きるのにずいぶん苦労されてるご様子だと思いまして」
 毛布をぺろりと捲られる。
「ま、それはそれとして、こちら水です」
 アンジュは礼を言って差し出されたグラスを受け取り、コクコクとおいしそうに喉を鳴らして水を飲み干した。
「ありがとう。ちょっとすっきりしました」
 空になったグラスを上からさらうと同時に、サイラスが尋ねてきた。
「諦めてみたらいかがですか」
「諦めるって、起きるのをですか?」
 サイラスの提案を、アンジュはぼんやりと繰り返した。そういう選択肢は頭になかった。
「でも朝だし、今日のうちにやっておきたいことも……いったたたたぁ……」
 喋ると顎の動きに合わせて頭痛がひどくなる。
「たまにはいいんじゃないでしょうか」
 枕に顔を埋め、しばらくじっと考え込んでから、横目で彼女の元執事を見る。
「……諦めてもいい?」
「どうぞ」
 じゃあ、とアンジュは言った。
「サイラスもここにいてください。あなたが働いてたら、諦めたくなくなるから」
「ほう? なるほど」
「あ、やっぱり今のなし。サイラスはしたいようにしてください。お腹すいてるだろうし」
「今はすいてませんよ」
 サイラスはそれ以上何も言わなかったが、ベッドボードにもたれかかってタブレットを開き、アンジュの隣で宙に浮いたディスプレイを操作し始めた。
 その様子を眺めていると何だかほっとしたような気持ちになって、アンジュは毛布に潜り込んだ。素肌に触れる熱がいつもより温かい気がするのは、今朝が寒かったせいか、それとも二人分の体温を含んでいるからだろうか?
 サイラスは通販のサイトを見ているようだ。指の動きがすごく早いなあ、目と頭はついていけてるのかな、なんて思っているうちに、浅い眠りに意識が溶けていった。
 寝返りをうったとき、肩から落ちてしまった毛布をかけなおしてくれたのは、たぶん、長くて少し骨張ったあの指。



 午後になって体調もよくなったので、軽く食事をしてから外に買い物に行くことにした。
 街の中心部で開かれている市は多くの人で賑わっていた。食料から日常品、骨董のような嗜好品まで様々な店が身を寄せ合うように並んでいて、歩くだけでも楽しめる。活気のある雰囲気がエリューシオンの市とよく似ていた。
 アンジュが新生活の場に選んだのは、故郷や風土が故郷とよく似た星の小都市だった。
 家具や細々とした生活必需品などは、どんな方法でどこから買ったのか謎ではあるが、ともかくサイラスが通販で揃えてくれた。
 ただ、生活していくうちにどうしても足りないものは出てくる。朝食兼昼食を食べながら、深いの、浅いの、小さいの。食器がもう少しあるといいなと思った。
「このエコバッグ、飛空都市で使ってたものなんですよ。覚えてますか?」
「はい、もちろん。よく色々なものを拾われてましたね」
「人聞きの悪い言い方してますけど、あのアイテムってサイラスが用意してたんですよね?」
「そうですよ。ご褒美があった方がお散歩のしがいがあると思いまして」
「確かに、宝探しみたいでちょっと面白かったです」
「それは何より」
 ぽっかりと空いた時間を、とりとめのない言葉で埋めてしまいたいこともある。何てことはない思い出話ができる相手がすぐ側にいてくれるのが嬉しかった。
 市に来たのは、まだ片手で数えられる程度の回数だ。おしゃべりをしながら物珍しげにあたりを見回していたアンジュは、ある屋台で視線を止めた。
「あ、あのパンおいしそう」
「あちらの店よりも路地裏のパン屋の方が安いですよ。味や品質もそんなに変わりません」
「もうそんな情報仕入れてるんですか」
「情報というものは鮮度と精度が肝心ですよ、アンジュ様。しかし、食欲が戻られたようで何よりです」
「サイラスが入れてくれた……お茶? すごくよく効きました」
「お茶というより草の汁、といった方が正しいんじゃないでしょうか」
「それはそうなんですけど、言い方……」
 歩いているうちに、二人は飲食店が軒を連ねている区域にやってきた。道幅が狭くなっているあたりは特に混雑していて、間に入ってきた人波に負けてサイラスと離れそうになってしまう。
「あっ」
 はぐれてしまう、と思わずサイラスの腕を掴む。掴んだものの、反射的にぱっと指を解く。
 サイラスが不思議そうにこちらを見てきた。
「アンジュ様?」
 わけもなく言葉をつまらせていると、ぽつりと頬を滴が打った。
「雨だ」
 周囲から声が上がると同時に雨は急に勢いを増した。
 ――雨。
 降りしきる雨だれのリズムを肌に感じた瞬間、ここは聖地じゃないし、自分はもう女王じゃないのだと思い出した。夜寝るのはクィーンサイズのベッドではなく、緊急事態に対応することなんてないから寝坊してもいい。前後不覚になるまで酔っ払ってもいい。人目を気にすることなく誰とでも腕を組むことも、好きな場所に住むことも旅行することもできて、クローゼットにドレスも冠も必要ない。この手は時を動かすことはできないし、梟の囁きはもう聞こえない。
 午後の雨の冷たさが心地よくて、混乱していた心がすっと落ち着いていった。
 この街では通り雨は珍しくもないのか、誰も雨宿りしそうとはせずのんびりと人の流れは続いている。
「迷子になりそうですね」
 掌を上に向けて、恭しくサイラスに手を差し出す。黙って手元から視線を上げてきた元執事に、アンジュはにっこりと笑いかけた。
「お手をどうぞ」
 一拍おいてから、では遠慮なく、と面白がっているような響きをもった答えが返ってきて、軽く掌を置かれる。掌と掌が触れた瞬間、自然と視線が重なる。アンジュの目線のやや上のところにある睫は、雨滴が落ちて濡れていた。ふいに睫が上下に動いた。口も。
「何か?」
「サイラスは結構遠慮なく人の顔じろじろ見てきますけど、私は逆にサイラスの顔、よく見たことがなかったかもと思って」
「なるほど、興味ありますか。ご自由に観察してください。記録をつけていただいても構いませんよ」
「記録をつけてどうするんですか?」
「たぶん楽しめるかと」
「えー……」
 自分の顔の記録をつけるのは楽しいとしゃあしゃあと言ってのけた男は、さて、と顔の向きを変えた。
「帰りましょうか」
 二人で手を繋いで、濃い雨のにおいを浴びながら街の目抜き通りを歩いていく。
 空を仰ぐと、ものすごい速さで雨雲が流れていくのが見えた。雲の向こうには晴れ間が広がっていて、落ちかけた夕日が山際を赤く染め上げていた。
 雨が降り、風が吹く。花が咲く。季節が変わり、時間が流れていく。当たり前のようで当たり前ではなかったもの。目を閉じれば、その微かな気配、鼓動に似た音が聞こえてくるようだった。
 聖地を去ってから、髪も爪も伸びるようになった。肌荒れはするし、暑いのにも寒いのにも慣れていなくてすぐ疲れるし、王立研究院による体調のサポートもなくなって、油断するとすぐ風邪を引く。身体って何て重いんだろうと思う。宇宙意思の声も星々の声も聞こえることはなく――あんなにも静かだった世界は、猥雑ともいえるにぎやかさと、美しさと醜さでひしめく鮮やかな色合いを取り戻していった。夜と朝を繰り返すたび、その懐かしい場所にゆっくりと還っていくのを感じていた。
 ふと横を向くとサイラスの顔は髪に隠れてよく見えなくて、ずるいなあと思って笑って、少しだけ手を握る力を強くした。

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