#アンミナ #サイアン #女王候補と執事 #恋愛未満『秘密の一夜』続きを読む 窓を開けると濃い水のにおいがした。眼下には夜の色に染まった運河が流れ、さざ波に落ちた街灯が星影に似た華やかな煌めきを放っている。 少し湿り気を帯びた空気は春めいた温かさを孕んでいて、シャワーで火照った肌になんとも言えない心地よさを与えてくれた。 ミスティックカナルには視察で何度も訪れているけれど、宿を利用するのは今回がはじめてだ。 もっと素朴な施設を想像していたが、お湯も出るし、ベッドも清潔だし、バースのビジネスホテルと比べてもほとんど遜色がない。「アンジュ様」 背後から声をかけられて、アンジュは振り向いた。「ずいぶん早かったですね。もっとゆっくりすればよかったのに」「ゆっくりさせていただきましたよ」 サイラスは普段と変わらない飄々とした態度で告げた。見慣れた執事服を身につけているせいか、シャワーを浴びたばかりだというのに『私はただいま仕事中です』という空気を全身から醸し出しているようだ。少しばかりほかほかしている気もするが。 出窓を閉め、アンジュはサイラスに向き直った。「サイラス、今日は本当にありがとうございました。一緒にいてくれたお陰で心強かったです。もう、よりによってひとりで視察に来た日に星の小径に不具合が起こるなんて……。しかも、サポートに来てくれたサイラスまで帰れなくなっちゃうし」「その点はお気になさらず。設備の故障は、女王試験管理者である私の責任ですから。……お怪我がなかったのは幸いでした」 最後の一言はいつものトーンとやや雰囲気が違う気がしたものの、顔を上げて見ると、そこにいたのはやはりいつもの執事だった。 その日の顛末を、アンジュは頭のなかで反芻した。前回の土の曜日、レイナがエスポワールでアンジュにネックレスを買ってきてくれたのが事の始まりだ。『この石の色、素敵なピンクだと思わない? あなたの髪によく似ていると思って』 微かに頬を染めたレイナの手を思わず握りしめずにはいられなかった。そんなに高価なものではないから気にしないでと言われたが、そんなことできるはずがない。 というわけで、レイナへの贈り物を選ぼうと今日はひとりで育成地にやってきたのだが、琥珀色の瞳によく似合うイヤリングを無事見つけて帰ろうとしたときに異変に気がついた。どうやっても星の小径が開かないのだ。ウンともスンとも言わない。それでもしつこく小径があるはずの場所に手をかざしたり、無理やりこじ開けようとしたり叩いたりしていたら、突然星の小径が開いてサイラスが現れた。「アンジュ様、力ずくで解決されようとするのはよろしくありませんね」 執事を吐き出すのに最後の力を振り絞ったのか、星の小径はそれきりまた閉じてしまった。 通信の問題はないようで、タブレットを利用して飛空都市と連絡は取れている。しかし、夜になっても帰還できる目途が立たず、結局育成地に宿をとることになった。ちょうど街で大規模なイベントがあったらしく、どの宿屋も満室だったのだが、たまたま運良くキャンセルがあり、この一部屋だけが空いていた。 ただし部屋はひとつ、ベッドもひとつだけ。「おや」 人ごとのように呟きながら、サイラスは自分のタブレットを立ち上げた。「タイラーからです。明朝には復旧する見通しが立ったとのことですよ」「よかった!」「私も安心しました。飛空都市や育成地は神鳥の宇宙の女王陛下の加護を受けているとはいえ、ワープ中に宇宙空間にポンッと放り出されたらさすがにひとたまりもありませんから」「えっ……?」「ときにアンジュ様。お腹は空いてますか?」「お腹ですか? さっき食べたばかりだから空いてませんよ」「あの生物を魚……と呼んでいいのかわかりませんが、まあとにかく魚的な干物、なかなか刺激的な味でした」「食べたとたんに口の中でパチパチ弾けましたからね……」 どうしてここで魚の話が出てくるのか。 言動が読めないサイラスのことだ、次に何が飛び出してくるのかと無意識に身構えたアンジュを尻目に、女王候補の執事はいきなり指さし確認をはじめた。「つまり腹ごしらえ、よーし! シャワー、よーし! 明日の準備、多分よーし! ……となれば、次々と迫り来るハプニングでアンジュ様もお疲れかと思いますし、もう寝ましょうか」 そのまますたすたと部屋に備えられた椅子に向かおうとしたサイラスを、アンジュは呼び止めた。「サイラス!」「はい」「どこで寝るつもりですか?」「椅子ですが」 この部屋にはソファなどの家具は置かれておらず、ベッド以外に眠れそうな場所といえば確かに椅子だけだ。 だが、クッションもない一人がけの木製の椅子は見るからに固く冷たそうで、とてもではないがぐっすり寝られそうもない。 アンジュは右手をすっと挙げた。「異議あり。私が椅子で寝ます」「それはいけません」「どうして?」 サイラスは自信ありげに胸を手に当てた。「執事ですから」「理由になってません。それならじゃんけんで決めましょう。公平に。私だけベッドで寝るのは嫌です」 アンジュは力説したが、サイラスは目を細めるだけで頑として首を縦に振ろうとはしなかった。「アンジュ様が椅子、私がベッド? アリかナシかで言えばナシですね。では」「待って!」 声を張り上げると同時に、アンジュは梟のぬいぐるみをベッドの中央にどんと置いた。レイナへのプレゼントを選んだ店で自分用に買ったものだ。「このぬいぐるみをベッドの境界にしましょう。そこから先は進入禁止。どうですか?」 アンジュはサイラスをまっすぐに見据えた。「もし私ひとりでベッドを使わせてもらっても、サイラスが椅子に寝てるのが気になって、絶対に熟睡できません。あと、そんなに寝相は悪くないからサイラスを蹴り飛ばす危険性はないと思います」「問題はそこですか?」「寝相、結構重要だと思いますけど」 長すぎるくらいの沈黙の後、サイラスは溜息交じりにようやくアンジュの提案を受け入れた。「……仕方ありませんね」 右と左どちら側に寝るかはじゃんけんで決めて、梟を挟んで二人はベッドに入った。中央に見えないラインが引かれていても、端と端に二人の人間が寝るのに十分な広さがある。 サイラスは王立研究院に連絡しているのか、帽子をベッドサイドに置き、枕を背もたれにしてタブレットを操作しはじめた。 さすがに上着は脱いで、首元のボタンもひとつ外し、袖をまくり上げている。整髪料を使っていないので、乾かしたばかりの髪はまっすぐではあるけれど、どこかふんわりと自由に遊んでいるみたいだ。 珍妙な鼻歌を口ずさみつつ何かデータを入力しているらしいサイラスの横顔を見ていると、なぜか落ち着かなくなってきて、アンジュも特に目的もなくタブレットをいじっていた。 ……落ち着かない、という単語をもう一度頭で繰り返してみる。そこでやっと、アンジュは自分が妙な緊張感に襲われていることに気がついた。 守護聖たちやレイナとエリューシオンを視察するときのような、胸が弾んでドキドキする感じとはとは全く違う。慌てて宿泊先を探したときも、おいしいと評判のレストランでの食事をしたときも、潮のにおいがする夜の街を一緒に見て回ったときも、サイラスといるのは完全に仕事の一部、同僚と出張している感覚だった。気兼ねなく過ごせるし楽しくもあるのだが、甘い空気は微塵もなかった。それどころかシャワーを浴びてすっぴんを晒しても気にならない。いつも晒しているからだ。 さすがはサイラス、と思ってどこか安心していたのだが、ここに来て急に心拍数が上がりはじめた。同じベッドに寝ると言ったのはアンジュなのだが。 ふと、頭に疑問がよぎった。 サイラスは睡眠を取るのだろうか? そもそも、アンジュからみれば異星人の宇宙人ではあるのだが、本当に人類なのか? アンドロイドとかじゃなく? 生身の、人間の男性――「そんなに端に行くと落ちますよ」「あっ」 距離を開けすぎてベッドから落ちそうになったところで冷静に突っ込まれて、アンジュは慌てて体勢を直した。サイラスがタブレットを枕元に置く。「照明、消しますか」「そっ、そうですね!」「おっとその前に」「何ですか?」「私、寝るときにある習慣がありまして」「習慣?」 じっと見つめてくる視線が意外と強くて、アンジュは負けじと見つめ返した。瞼は一重にも二重にも見えるなとか、照明によって目の色が変わるんだなとか、横になると足の位置が自分よりずいぶんベッドの下の方にくるなとか、どうでもいいことを考えてしまう。考えると、また心と体が緊張する。 飛空都市にいたら、こんなコミュニケーションの取り方は絶対にしない。 飛空都市という非日常から育成地というさらなる非日常に来てしまったせいで、ちょっと変わったこの執事が、ちょっと変わっているけれど普通の人に思えてしまう。 試験がはじまってから女王候補と執事の間に置かれていた壁、柔らかくも絶対に崩れそうになかった壁が、水の匂いがする夜に触れて形を変えていく。「サ――」 早く続きを言ってほしくて口を開こうとした瞬間、サイラスに先を越された。「……こちらです!」 ジャン、といつもの効果音をつけて、サイラスはどこからともなくそれを取り出した。 アンジュは一瞬言葉を失い、それからじっとりと湿度の高い視線を執事に向けた。「それって」「オオ、ご存じですか」 サイラスがにっこり笑って広げたのは、童話に出てくる老人やサンタがかぶっているあの帽子。いわゆるナイトキャップだ。青地に白の水玉模様で、てっぺんにちゃんとポンポンの飾りもついている。 どんなにロマンチックな展開も一瞬で崩壊する、最強のアイテムである。「……かぶるんですか?」「ええ。髪がサラサラのツヤツヤになりますよ。最近ネット通販で購入しました。使います?」「使いません」「寝ますか」「寝ます」「それがよろしいかと」 完全に脱力したアンジュに、サイラスはにっこりと笑いかけた。「では、お休みなさい。いい夜を」 柔らかな声が耳のなかで溶けたとたん、部屋は魔法をかけられたようにまろやかな闇に包まれた。 その夜、それまで全身を石のように固くさせていた緊張も混乱もうそのようにきれいに消え去り、アンジュは心からリラックスして、夢も見ずにぐっすりと眠ることができたのだった。 それからずっと後。女王に即位してからしばらくして、王立研究院に残っていたデータを偶然見る機会があった。そこではじめて、実はあの夜サイラスが一睡もしておらず、女王候補が無事であることを十分ごとに飛空都市に報告していたことを知った。 そして、自分でも意味がわからないけれど、何も起こらなかったあの夜。何も起こらなかったがゆえに、アンジュは、忘れえぬ恋に落ちたのだ。畳む 2024/01/08
『秘密の一夜』
窓を開けると濃い水のにおいがした。眼下には夜の色に染まった運河が流れ、さざ波に落ちた街灯が星影に似た華やかな煌めきを放っている。
少し湿り気を帯びた空気は春めいた温かさを孕んでいて、シャワーで火照った肌になんとも言えない心地よさを与えてくれた。
ミスティックカナルには視察で何度も訪れているけれど、宿を利用するのは今回がはじめてだ。
もっと素朴な施設を想像していたが、お湯も出るし、ベッドも清潔だし、バースのビジネスホテルと比べてもほとんど遜色がない。
「アンジュ様」
背後から声をかけられて、アンジュは振り向いた。
「ずいぶん早かったですね。もっとゆっくりすればよかったのに」
「ゆっくりさせていただきましたよ」
サイラスは普段と変わらない飄々とした態度で告げた。見慣れた執事服を身につけているせいか、シャワーを浴びたばかりだというのに『私はただいま仕事中です』という空気を全身から醸し出しているようだ。少しばかりほかほかしている気もするが。
出窓を閉め、アンジュはサイラスに向き直った。
「サイラス、今日は本当にありがとうございました。一緒にいてくれたお陰で心強かったです。もう、よりによってひとりで視察に来た日に星の小径に不具合が起こるなんて……。しかも、サポートに来てくれたサイラスまで帰れなくなっちゃうし」
「その点はお気になさらず。設備の故障は、女王試験管理者である私の責任ですから。……お怪我がなかったのは幸いでした」
最後の一言はいつものトーンとやや雰囲気が違う気がしたものの、顔を上げて見ると、そこにいたのはやはりいつもの執事だった。
その日の顛末を、アンジュは頭のなかで反芻した。前回の土の曜日、レイナがエスポワールでアンジュにネックレスを買ってきてくれたのが事の始まりだ。
『この石の色、素敵なピンクだと思わない? あなたの髪によく似ていると思って』
微かに頬を染めたレイナの手を思わず握りしめずにはいられなかった。そんなに高価なものではないから気にしないでと言われたが、そんなことできるはずがない。
というわけで、レイナへの贈り物を選ぼうと今日はひとりで育成地にやってきたのだが、琥珀色の瞳によく似合うイヤリングを無事見つけて帰ろうとしたときに異変に気がついた。どうやっても星の小径が開かないのだ。ウンともスンとも言わない。それでもしつこく小径があるはずの場所に手をかざしたり、無理やりこじ開けようとしたり叩いたりしていたら、突然星の小径が開いてサイラスが現れた。
「アンジュ様、力ずくで解決されようとするのはよろしくありませんね」
執事を吐き出すのに最後の力を振り絞ったのか、星の小径はそれきりまた閉じてしまった。
通信の問題はないようで、タブレットを利用して飛空都市と連絡は取れている。しかし、夜になっても帰還できる目途が立たず、結局育成地に宿をとることになった。ちょうど街で大規模なイベントがあったらしく、どの宿屋も満室だったのだが、たまたま運良くキャンセルがあり、この一部屋だけが空いていた。
ただし部屋はひとつ、ベッドもひとつだけ。
「おや」
人ごとのように呟きながら、サイラスは自分のタブレットを立ち上げた。
「タイラーからです。明朝には復旧する見通しが立ったとのことですよ」
「よかった!」
「私も安心しました。飛空都市や育成地は神鳥の宇宙の女王陛下の加護を受けているとはいえ、ワープ中に宇宙空間にポンッと放り出されたらさすがにひとたまりもありませんから」
「えっ……?」
「ときにアンジュ様。お腹は空いてますか?」
「お腹ですか? さっき食べたばかりだから空いてませんよ」
「あの生物を魚……と呼んでいいのかわかりませんが、まあとにかく魚的な干物、なかなか刺激的な味でした」
「食べたとたんに口の中でパチパチ弾けましたからね……」
どうしてここで魚の話が出てくるのか。
言動が読めないサイラスのことだ、次に何が飛び出してくるのかと無意識に身構えたアンジュを尻目に、女王候補の執事はいきなり指さし確認をはじめた。
「つまり腹ごしらえ、よーし! シャワー、よーし! 明日の準備、多分よーし! ……となれば、次々と迫り来るハプニングでアンジュ様もお疲れかと思いますし、もう寝ましょうか」
そのまますたすたと部屋に備えられた椅子に向かおうとしたサイラスを、アンジュは呼び止めた。
「サイラス!」
「はい」
「どこで寝るつもりですか?」
「椅子ですが」
この部屋にはソファなどの家具は置かれておらず、ベッド以外に眠れそうな場所といえば確かに椅子だけだ。
だが、クッションもない一人がけの木製の椅子は見るからに固く冷たそうで、とてもではないがぐっすり寝られそうもない。
アンジュは右手をすっと挙げた。
「異議あり。私が椅子で寝ます」
「それはいけません」
「どうして?」
サイラスは自信ありげに胸を手に当てた。
「執事ですから」
「理由になってません。それならじゃんけんで決めましょう。公平に。私だけベッドで寝るのは嫌です」
アンジュは力説したが、サイラスは目を細めるだけで頑として首を縦に振ろうとはしなかった。
「アンジュ様が椅子、私がベッド? アリかナシかで言えばナシですね。では」
「待って!」
声を張り上げると同時に、アンジュは梟のぬいぐるみをベッドの中央にどんと置いた。レイナへのプレゼントを選んだ店で自分用に買ったものだ。
「このぬいぐるみをベッドの境界にしましょう。そこから先は進入禁止。どうですか?」
アンジュはサイラスをまっすぐに見据えた。
「もし私ひとりでベッドを使わせてもらっても、サイラスが椅子に寝てるのが気になって、絶対に熟睡できません。あと、そんなに寝相は悪くないからサイラスを蹴り飛ばす危険性はないと思います」
「問題はそこですか?」
「寝相、結構重要だと思いますけど」
長すぎるくらいの沈黙の後、サイラスは溜息交じりにようやくアンジュの提案を受け入れた。
「……仕方ありませんね」
右と左どちら側に寝るかはじゃんけんで決めて、梟を挟んで二人はベッドに入った。中央に見えないラインが引かれていても、端と端に二人の人間が寝るのに十分な広さがある。
サイラスは王立研究院に連絡しているのか、帽子をベッドサイドに置き、枕を背もたれにしてタブレットを操作しはじめた。
さすがに上着は脱いで、首元のボタンもひとつ外し、袖をまくり上げている。整髪料を使っていないので、乾かしたばかりの髪はまっすぐではあるけれど、どこかふんわりと自由に遊んでいるみたいだ。
珍妙な鼻歌を口ずさみつつ何かデータを入力しているらしいサイラスの横顔を見ていると、なぜか落ち着かなくなってきて、アンジュも特に目的もなくタブレットをいじっていた。
……落ち着かない、という単語をもう一度頭で繰り返してみる。そこでやっと、アンジュは自分が妙な緊張感に襲われていることに気がついた。
守護聖たちやレイナとエリューシオンを視察するときのような、胸が弾んでドキドキする感じとはとは全く違う。慌てて宿泊先を探したときも、おいしいと評判のレストランでの食事をしたときも、潮のにおいがする夜の街を一緒に見て回ったときも、サイラスといるのは完全に仕事の一部、同僚と出張している感覚だった。気兼ねなく過ごせるし楽しくもあるのだが、甘い空気は微塵もなかった。それどころかシャワーを浴びてすっぴんを晒しても気にならない。いつも晒しているからだ。
さすがはサイラス、と思ってどこか安心していたのだが、ここに来て急に心拍数が上がりはじめた。同じベッドに寝ると言ったのはアンジュなのだが。
ふと、頭に疑問がよぎった。
サイラスは睡眠を取るのだろうか?
そもそも、アンジュからみれば異星人の宇宙人ではあるのだが、本当に人類なのか? アンドロイドとかじゃなく?
生身の、人間の男性――
「そんなに端に行くと落ちますよ」
「あっ」
距離を開けすぎてベッドから落ちそうになったところで冷静に突っ込まれて、アンジュは慌てて体勢を直した。サイラスがタブレットを枕元に置く。
「照明、消しますか」
「そっ、そうですね!」
「おっとその前に」
「何ですか?」
「私、寝るときにある習慣がありまして」
「習慣?」
じっと見つめてくる視線が意外と強くて、アンジュは負けじと見つめ返した。瞼は一重にも二重にも見えるなとか、照明によって目の色が変わるんだなとか、横になると足の位置が自分よりずいぶんベッドの下の方にくるなとか、どうでもいいことを考えてしまう。考えると、また心と体が緊張する。
飛空都市にいたら、こんなコミュニケーションの取り方は絶対にしない。
飛空都市という非日常から育成地というさらなる非日常に来てしまったせいで、ちょっと変わったこの執事が、ちょっと変わっているけれど普通の人に思えてしまう。
試験がはじまってから女王候補と執事の間に置かれていた壁、柔らかくも絶対に崩れそうになかった壁が、水の匂いがする夜に触れて形を変えていく。
「サ――」
早く続きを言ってほしくて口を開こうとした瞬間、サイラスに先を越された。
「……こちらです!」
ジャン、といつもの効果音をつけて、サイラスはどこからともなくそれを取り出した。
アンジュは一瞬言葉を失い、それからじっとりと湿度の高い視線を執事に向けた。
「それって」
「オオ、ご存じですか」
サイラスがにっこり笑って広げたのは、童話に出てくる老人やサンタがかぶっているあの帽子。いわゆるナイトキャップだ。青地に白の水玉模様で、てっぺんにちゃんとポンポンの飾りもついている。
どんなにロマンチックな展開も一瞬で崩壊する、最強のアイテムである。
「……かぶるんですか?」
「ええ。髪がサラサラのツヤツヤになりますよ。最近ネット通販で購入しました。使います?」
「使いません」
「寝ますか」
「寝ます」
「それがよろしいかと」
完全に脱力したアンジュに、サイラスはにっこりと笑いかけた。
「では、お休みなさい。いい夜を」
柔らかな声が耳のなかで溶けたとたん、部屋は魔法をかけられたようにまろやかな闇に包まれた。
その夜、それまで全身を石のように固くさせていた緊張も混乱もうそのようにきれいに消え去り、アンジュは心からリラックスして、夢も見ずにぐっすりと眠ることができたのだった。
それからずっと後。女王に即位してからしばらくして、王立研究院に残っていたデータを偶然見る機会があった。そこではじめて、実はあの夜サイラスが一睡もしておらず、女王候補が無事であることを十分ごとに飛空都市に報告していたことを知った。
そして、自分でも意味がわからないけれど、何も起こらなかったあの夜。何も起こらなかったがゆえに、アンジュは、忘れえぬ恋に落ちたのだ。
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