#アンミナ #サイアン #女王と執事 #恋愛未満

彼女たちの幾星霜

 どこかで鳥の鳴く声がした。と、反射的に顔を上げたとたん、真正面から目線がぶつかった。
 思いのほか強烈な感触だったのでアンジュは一瞬怯んだが、相手はそうではなかった。
「私ではありませんよ」
 アンジュの思考をまるで完全に読み取っているかのようにサイラスは言って、窓のある方向に視線を移した。夜だというのに、無防備に開け放された窓にはカーテンも降りていない。
「もういなくなってしまったようですが」
 声の主は、羽音もさせず飛び去ってしまったようだ。後には、穏やかな静寂だけが残っている。
 バースの夜景のような煌びやかさはないけれど、星々に照らされた聖地の夜には軽く柔らかな雰囲気があった。窓から入り込んでくる花の香りがそう思わせるのだろうか。
「おや、陛下。イマイチ納得されてないご様子ですね」
「だって」
 まさにサイラスが言ったとおりの表情をして、アンジュはすっかり身体に馴染んだ私室のソファに腰を下ろした。
「サイラスの声にそっくりだったから。……あれ、この表現ちょっと変ですか?」
「つまり私のモノマネの精度が上がったという意味であれば、日々鍛錬を重ねてきた甲斐がありますね」
 わざとらしく微笑んでからサイラスは女王の執事の顔に戻り、中断していた明日のスケジュール確認が再開された。
 一日の業務を終えてから、その日あったことや翌日の予定をサイラスと私邸で話し合ったり再確認したりするのが、即位してからの日課になっている。
 スケジュールはタブレットを見ればわかるようになっているし、打ち合わせるにしても対面で行う必要はないのだが、気の置けない相手と軽い雑談ができる時間は貴重だ。ストレス解消にもなるし、リラックスもできる。サイラスもそれをわかってくれているんじゃないかと思う。何しろ、長い付き合いだから。
「ああ、言い忘れてましたが、明日の会議の議題はこちらです。ジャン」
 サイラスが展開した画面に、アンジュは目を見張った。
「ずいぶん多くないですか?」
「先週は出張された守護聖様方が多いですから。実際に様々な星の現状をご覧になって、問題点が明らかになることもあるでしょう。忌憚なく活発な意見交換ができるというのは、宇宙を運営していく上で重要だと思いますよ」
「そうですね」
 会議の様子を想像して、思わず唇が綻んでしまった。散々好き勝手言って、ほとんど喧嘩といっていいような言い合いをして、話があらぬ方向に飛んでいって……でも不思議と最後には皆の意見がまとまるのだ。
 アンジュはこの宇宙を、九人の守護聖たちを心から愛していた。
 宇宙にとって、女王の笑顔は幸先が良いことの証だ。サイラスは唇の端を引き上げた。
「清く正しく美しく、明日も頑張りましょう。ファイ、ト!」
 言うなり、アンジュとサイラスの間にあったディスプレイがふっと消えてお互いの顔がはっきり見えるようになった。アンジュはドレスのスカートを摘まみながら、ゆっくりと立ち上がった。
 何度伝えても、どれほどの年月を共に過ごしても、その場に二人だけしかいなくても、決してアンジュの横に座ろうとしないのだ、この執事は。彼の職業意識の徹底ぶりには、溜息交じりの賞賛を贈るしかできない。
 アンジュはサイラスに背を向けて立ち、窓の外を眺めた。お休みなさい、という短い言葉がもたらす別れを惜しみたかったのかもしれない。たとえいずれは朝が来るとしても。
 テラスから続く庭園は、眠りについたように静謐としている。ノアの性質に影響されているのか、聖地の夜闇は穏やかで優しいけれど、どこまでも濃く深い。
 すると、遠くから微かに歌うような鳥の声がした。先ほどの鳥が帰ってきたのかと、アンジュは窓を大きく開けて身を乗り出した。
「今のは私です」
「サイラス……」
「近頃は距離感の表現に凝ってるんですよ」
 満足そうな様子で胸に手を当てた執事に、アンジュはじっとりとした視線を向けた。
「音量を変えただけですよね?」
「僭越ながら、そのご意見はあまりに短絡的すぎますね。音量をトレースするだけではもちろん足りません。鳥の声質、周囲の環境、そして彼らの心情……すべてを総合的に解釈することによって、より質の高いモノマネができるんですよ」
「……心情?」
「はい。仲間と連絡を取りたいとか、迫り来る危険から逃げているとか」
「そのわりには、聖地の動物によく威嚇されてますよね」
「ええ、残念ながら好かれてはいないようです」
 いつものように軽口を楽しみながら、声には出さず昨夜の記憶を反芻してみる。
 同じような夜、同じような雰囲気のなか、サイラスとキスをしてみたのだ。
 突然恋愛感情が芽生えたわけでもなく、身体的な欲求が湧いたわけでもなく。
 そんなことをしたところで、自分たちは何ひとつ変わらないのだということを確かめたかった。はじめから答えはわかっているはずなのに、試してみたかった。
 結果は予想通り。キスをしようがしまいが、繰り返される夜と朝はびくともせず、サイラスは相変わらずアンジュの隣には座らない。

 
 サイラスにおやすみなさいと告げてしばらく、アンジュは照明を消してソファに横たわった。眠るつもりはなく、ただ心地よいものに身を預けたかった。
 生ぬるい夜闇を眺めていると、昨日の夜の記憶が陽炎のように立ち上ってくる。
 あのときも窓際にいた。鳥の声はしなかったと思う。していてもきっと、気がつかなかった。
 時が停滞したような空間で、なぜか無意識のうちに相手の腕を掴んでいた。彼は黙ってこちらを見た。
 アンジュは自分が女王であり、宇宙の時間の中央にいるのだということをそのときだけ忘れた。宇宙の女王は時を自由に操るが、己を取り巻く時の流れは彼女たちの自由にはならなかった。
 たとえ機械じみたところのある男でも、唇が人体でも特に柔らかい場所であることは変わらない。軽く触れるだけの接触は、ふんわり、ふわり、ドレスの裾が膨らむときの柔らかさに似ていた。
 目は開けたままだった。淡いグレーの瞳には何が映っていたのだろう。宇宙の女王か、アンジュか、それとも別の誰かか。

 遡ること数日前、依頼していた件の進行状況についてタイラーと通信したとき、ついでに聞いてみたのだ。私たちがいなくなってから、バースの時間はどれくらい流れたの、と。興味がなかったわけではないが、あえて調べることもしていなかった。
 ややあって、返事があった。躊躇うようなその短い一拍が、彼の中に、今このときも故郷への思慕が存在することの確かな印だった。
「一万年くらいだな」
 そっか、と思うだけだった。
 少しも驚かなかったことが、タイラーと同じ感情をもう共有できないとわかってしまったことが、ひどく悲しかった。

 もっと近づけばもっと別のものに手が届くような気がしたから、額に落ちてきた髪を指で払って首に腕を回して、けれどまた目を閉じるのを忘れてしまった。身体は思うよりも冷たく、何をも間に置かず寄り添った唇だけが、温かった。
 温かったと思いながら、アンジュは自らの唇を指でそっと撫でた。
 星空を仰ぎ、一万年、と歌うように囁いて。

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