#アンミナ #サイアン #元女王と元執事 #恋愛未満

ひとつの新しい物語

 その人の姿が目にとまったのは、ほんの偶然だった。公園のベンチに座り込み、ぼんやりと行き交う人たちを眺めていたときに、コートを着た背中が視界にふっと浮き上がってきたのだ。
 すらりと整った姿勢は人形のようで、何だか現実離れしている。吐息すら凍りつきそうな寒い朝、さらさらと素通りしていく時間のなかでそこだけが静止していた。
 落ち着かなく周囲を見回したり、時間を気にしている様子はなかったけれど、誰かを待っているようだ。そんな風に考えてしまうのは、今座っているベンチがひどく硬くて冷たくて、手袋を忘れた指先が痛いほど凍えていて、私が今こうしてひとりでいるからなのだろうか。
 想像を巡らせながら、私はポットに入れた熱いお茶を少し飲んだ。
 目の前には池があって、水鳥が気持ちよさそうに泳いでいる。どこかで鳥が鳴く声が聞こえた、と思いかけて眉を上げた。いや、空耳かもしれない。自然の一部に交わるにしては人間くさくて、まるでメロディがある歌のようだったから。
 頭上に広がる空は青く透き通っていて、そのせいか、いつもよりずっと遠くにあるように思えた。
 風が吹く。
 薄い薄い灰色を重い筆で撫でたような、冷たい風だ。
 思わず首に巻いたマフラーをきつく巻き直して身体を丸めたが、目の前の背中はきれいな形を保ったまま崩れることもなく、ただコートの裾だけがばさりと踊った。
 動きがあるのに、彼がいるところだけ切り取られた絵みたいだ。触れることができない、一冊の美しい絵本。そのページをめくるのは私の指ではない。
 物語の続きを見せてくれるのは、きっと……。
 そのとき、それまで池に向けられていた顔が動いた。首が傾き、そこではじめて彼の横顔を見た。輪郭のほとんどは前髪で隠れてしまっているが、口元は見えた。乾いていた。唇の端が、音もなくすっと上がった。
 遊歩道沿いに歩いてきた女の人が、彼に気づいて手を振った。
 池のほとりに伸びた二つの影が、ゆっくりと、だんだんと互いの間にある距離を短くしていった。
 彼らは長い別れのあとに再会したようにも思えたし、ずっと一緒に暮らしている相手とたまたまこの場所で待ち合わせたようにも思えた。
 確かなのは、待ち人たちが巡り合い、二つの物語が一つになったということだけ。一瞬であれ永遠であれ、そこに時間の入り込む余地などなかった。
 少し道化じみた仕草で、彼は恭しく彼女の手をとった。彼女は鮮やかに微笑み、ごく自然に、まるで女王のようにそれを受けた。
 肌を刺すような寒さは変わらず、身体を芯から凍らせている。それなのに、突然、二人の周りに新しい季節がやってきたみたいだった。
 彼女と彼は短い言葉と視線を交わし、連れ立って歩きはじめた。
 そのとき、池にいた鳥が一斉に飛び立った。そちらに意識を取られた一瞬の間に、不思議な人たちの姿は視界からすっかり消えていた。
 熱くて甘いお茶を口に再び含み、白い息を大きく吐いて、私は冷え冷えと澄んだ空に視線を映した。
 似ていたな、と思った。
 私には、子どもだったときに優しくしてくれた年上の人、たくさんの大切なものを教えてくれた人、憧れそのものだった人がいた。その人は、ある日宇宙の女王になって、聖なる土地に行ってしまった。
 それから、時々、こうしてひとりで空を見上げるようになった。清々しく晴れた青空、雲で覆われた重苦しい曇り空、雨のにおいがする空、星が瞬く夜空、そのすべてに懐かしい呼吸を感じる。静かに、名前を呼んでくれるあの声を聞く。
 私は寂しい、でも悲しくはない。生きる世界が違っても、優しかったあの人と同じ空を眺めることができるから。
 もう一度、丁寧に記憶を重ねてみる。
 やっぱり、彼女たちはよく似ていた。
 私の想像のなかにいるあの人は、彼女のように笑い、彼女のように誰かの手を取って、美しいドレスを翻し、まっすぐに前を見て歩いている。
 陽の光を受けて明るく輝きはじめた空が、じんわりとぼやけていく。冷たく清潔な世界の中で、涙だけが熱い。
 たとえそれがどれほど無力であっても、届かない祈りであっても、大切な人が幸せであるように、私は明日も空を仰ぐのだ。



「どこか行きたいところはありますか?」
「特に個人的な希望はありませんが、あなたがお望みであれば、地の果てから海の向こうまで、どこへなりともお供しますよ。全力で」
「全力? ダッシュで?」
「はい、ダッシュで」
「ふふ、私はそんなに体力ないし欲張りでもないので、とりあえず歩きましょうか」
「……たまにはいいんじゃないですか、多少欲が張っていても」
「何か言いました?」
「そこに浮かんでいる鳥が鳴いてるようですね。ピーヒョロロ、と」
「そんな鳴き声してませんよね?」
「そうでしたか」
「いいお天気ですね。空気が気持ちいい! ちょっと寒いですけど」
「本当に」
「今の、笑うところですか」
「まあ、そうですね」

畳む