#アンミナ #サイアン #女王候補と執事 #恋愛未満 #再録女王候補のバレンタイン続きを読む 素朴なつくりの小さな箱をあけると、いくつものチョコレートが艶やかな輝きを放っていた。「美味しそうでしょう? エリューシオンの市場で売っていたんです。しかも、見てください。梟のモチーフなの」 アンジュは弾んだ声で言った。 なるほど、と呟きながら、正面にいた執事が興味深そうに上から箱を覗き込む。 食文化に触れることによって民の生活がよくわかる気がして、視察のときはなるべく市場に寄り、ささやかな手土産を買うようにしていた。「あ、安全性は問題ないですよ。王立研究院でチェックしてもらいましたし」「ほう。バースのチョコレートとよく似ていますね。もう召し上がりましたか? どのような風味なんでしょう。フクロウ味とか」「違います。実は、すごく不思議なチョコで」 アンジュの表情が、急に真剣なものになる。「どういう理屈かはわからないんですけど……食べた人にとって、懐かしい味がするみたいなんです」「懐かしい味、ですか」「記憶に残っている味って言ったら良いのかな。レイナとタイラーにも食べてもらったんですが、レイナはお父さんと一緒に食べたリキュール入りのチョコ、タイラーは誰かが手作りしたチョコみたいな味がしたって言うんです。私は、部活帰りに友達と飲んだ缶入りのホットココアを思い出しました」「それは不思議ですね」 王立研究院の職員という立場上、不可思議な出来事に慣れているだろうとはいえ、サイラスは驚くこともなくあっさりと状況を受け入れた。「ココアを飲んだときの身体の温かさも再現されたみたいで、お腹のあたりがふんわりと温かくなって……ちょっと幸せな気分になりました」「そうですか。それは何よりです」 アンジュは、執事に箱を差し出した。「サイラスもひとついかがですか。甘いものが苦手じゃなければ、ですけど」 考え込むように少し間を置いたあと、長い指がすっと伸びてきた。やんわりと断られるかと思ったが、研究者として、チョコレートの効用に関心があったのかもしれない。「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」 高速で食事をたいらげることで有名なサイラスも、このときばかりは珍しくゆっくりとチョコレートを味わっているようだった。 飲み込んだあとの反応が薄いので、アンジュはおずおずと尋ねた。「懐かしい味、しませんでした?」「ふむ……。先ほどから、ノスタルジックな気配を探しているのですが、そもそも該当する思い出がないようです。私の感覚では、素材の良さを活かしつつ、丁寧に、心をこめて作り上げたチョコレート、ですね」「そうですか。確かに、個人的な体験の再現ですしね」 サイラスはにっこりと笑った。「その個人的な体験として申し上げれば、美味しかったですよ、とても。エリューシオンには腕の良い職人がいるんですね」 あの感覚を共有できなくて少し残念だったが、美味しいと言ってもらえたのは嬉しかった。サイラスはいつもアンジュたちの世話を焼いてくれるけれど、お礼をしようとしても巧みにかわされてしまうので。「もしかしたら」 そのとき、何かに気づいたように、サイラスがアンジュの手元にあるチョコレートの箱に視線を移した。「この先、もう一度このチョコレートを食べることがあれば、今日の味を思い出すのかもしれません」 さらりと言われて、アンジュは顔を上げた。「えっ?」 しばらくぽかんとしてしまった。 それは奇妙で、しかし鮮烈な感覚だった。目の前に、過去と現在、未来を繋ぐ一本のきれいな線を引かれたような、今まで知らなかった色が突然目に入ってきたような。 自覚すると同時に、アンジュは自然と笑顔になった。 斬新すぎる発想に振り回されることも多いけれど、女王候補の執事のふとした言葉は、私たちを驚くほど自由にしてくれる。「……だったら、素敵ですね」 サイラスは黙っていたが、心なしか、眼差しがいつもより柔らかい。 チョコレートの甘い香りを挟んで、ココアの思い出を味わったときと同じ、心地よい温かさが部屋中に広がっていくのを感じた。 サイラスが退室してから、アンジュはチョコレートをひとつ口に含んでみた。「あれ、さっきと」 明らかに味が違う。今度はココアじゃない。それまで体験したことのない未知のフレーバーや食感が、次から次へと口のなかで弾けた。まるで、未来の自分からの贈り物みたいに。 一粒をゆっくりと頬張りながら、アンジュは目を閉じた。 不思議なチョコの後味は優しくて、やっぱり、何だか懐かしい味がした。畳む 2025/02/24
女王候補のバレンタイン
素朴なつくりの小さな箱をあけると、いくつものチョコレートが艶やかな輝きを放っていた。
「美味しそうでしょう? エリューシオンの市場で売っていたんです。しかも、見てください。梟のモチーフなの」
アンジュは弾んだ声で言った。
なるほど、と呟きながら、正面にいた執事が興味深そうに上から箱を覗き込む。
食文化に触れることによって民の生活がよくわかる気がして、視察のときはなるべく市場に寄り、ささやかな手土産を買うようにしていた。
「あ、安全性は問題ないですよ。王立研究院でチェックしてもらいましたし」
「ほう。バースのチョコレートとよく似ていますね。もう召し上がりましたか? どのような風味なんでしょう。フクロウ味とか」
「違います。実は、すごく不思議なチョコで」
アンジュの表情が、急に真剣なものになる。
「どういう理屈かはわからないんですけど……食べた人にとって、懐かしい味がするみたいなんです」
「懐かしい味、ですか」
「記憶に残っている味って言ったら良いのかな。レイナとタイラーにも食べてもらったんですが、レイナはお父さんと一緒に食べたリキュール入りのチョコ、タイラーは誰かが手作りしたチョコみたいな味がしたって言うんです。私は、部活帰りに友達と飲んだ缶入りのホットココアを思い出しました」
「それは不思議ですね」
王立研究院の職員という立場上、不可思議な出来事に慣れているだろうとはいえ、サイラスは驚くこともなくあっさりと状況を受け入れた。
「ココアを飲んだときの身体の温かさも再現されたみたいで、お腹のあたりがふんわりと温かくなって……ちょっと幸せな気分になりました」
「そうですか。それは何よりです」
アンジュは、執事に箱を差し出した。
「サイラスもひとついかがですか。甘いものが苦手じゃなければ、ですけど」
考え込むように少し間を置いたあと、長い指がすっと伸びてきた。やんわりと断られるかと思ったが、研究者として、チョコレートの効用に関心があったのかもしれない。
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
高速で食事をたいらげることで有名なサイラスも、このときばかりは珍しくゆっくりとチョコレートを味わっているようだった。
飲み込んだあとの反応が薄いので、アンジュはおずおずと尋ねた。
「懐かしい味、しませんでした?」
「ふむ……。先ほどから、ノスタルジックな気配を探しているのですが、そもそも該当する思い出がないようです。私の感覚では、素材の良さを活かしつつ、丁寧に、心をこめて作り上げたチョコレート、ですね」
「そうですか。確かに、個人的な体験の再現ですしね」
サイラスはにっこりと笑った。
「その個人的な体験として申し上げれば、美味しかったですよ、とても。エリューシオンには腕の良い職人がいるんですね」
あの感覚を共有できなくて少し残念だったが、美味しいと言ってもらえたのは嬉しかった。サイラスはいつもアンジュたちの世話を焼いてくれるけれど、お礼をしようとしても巧みにかわされてしまうので。
「もしかしたら」
そのとき、何かに気づいたように、サイラスがアンジュの手元にあるチョコレートの箱に視線を移した。
「この先、もう一度このチョコレートを食べることがあれば、今日の味を思い出すのかもしれません」
さらりと言われて、アンジュは顔を上げた。
「えっ?」
しばらくぽかんとしてしまった。
それは奇妙で、しかし鮮烈な感覚だった。目の前に、過去と現在、未来を繋ぐ一本のきれいな線を引かれたような、今まで知らなかった色が突然目に入ってきたような。
自覚すると同時に、アンジュは自然と笑顔になった。
斬新すぎる発想に振り回されることも多いけれど、女王候補の執事のふとした言葉は、私たちを驚くほど自由にしてくれる。
「……だったら、素敵ですね」
サイラスは黙っていたが、心なしか、眼差しがいつもより柔らかい。
チョコレートの甘い香りを挟んで、ココアの思い出を味わったときと同じ、心地よい温かさが部屋中に広がっていくのを感じた。
サイラスが退室してから、アンジュはチョコレートをひとつ口に含んでみた。
「あれ、さっきと」
明らかに味が違う。今度はココアじゃない。それまで体験したことのない未知のフレーバーや食感が、次から次へと口のなかで弾けた。まるで、未来の自分からの贈り物みたいに。
一粒をゆっくりと頬張りながら、アンジュは目を閉じた。
不思議なチョコの後味は優しくて、やっぱり、何だか懐かしい味がした。
畳む