#アンミナ #サイアン #女王と執事 #恋愛未満花惑い続きを読む 柔らかな湯気を纏って白磁のティーカップに注がれていくお茶の水色を見て、女王は弾けるような声を上げた。「ピンク? 珍しいですね。初めて見ました」「ある星のさらに一部の地域でしか採れない茶葉だそうですよ。ネット通販のセールで購入したものです」 ティーポットを持ったまま、女王の傍らでサイラスが微笑んだ。 女王の執務室で午後三時に行われる定例のお茶会は、多忙な女王にとって息抜きができる貴重な時間である。補佐官であるレイナや守護聖たちが同席することも多いが、この日部屋にいたのはアンジュとサイラスだけだった。「それに、いい香り」 微かに揺れる淡いピンクの茶を眺めてから、アンジュはうっとりと目を閉じた。 まるで花が開くようにポットの注ぎ口からふんわりと立ち上る甘酸っぱい香りは、懐かしい思い出を呼び起こす。 世界のすべてが微睡んだような春の空気。温かな風に舞い散る花びら。数え切れないほどの出会いと別れ。笑顔と涙。とうに失われて、しかし胸のどこかに今も大切にしまわれているもの。「桜みたいですね」「タイラーも同じ感想を口にしていました。バース出身の方にとって、特別な花なんでしょうね。カナタ様とレイナにも後ほどお裾分けしようかと」「はい。きっと喜びますよ」 素知らぬふりをしてセールで買ったなんて言うけれど、サイラスはきっと、彼らが喜ぶ顔が見たかったのだと思う。 そんな気持ちを見透かされたのか、目が合うとふっといたずらっぽく唇が引き上がった。「ささ、冷めないうちにどうぞ。お手製のおやつもありますよ」 スコーンの入った小さなバスケットとソーサーが差し出される。 アンジュはカップを手にとると、ゆっくりと香りを楽しんでから口に含んだ。「おいしい! フルーツみたいな風味がありますね。サイラスは飲んでみました?」 そう言って笑いかけると、サイラスの顔にいつもは見せない表情がよぎっていった。まるで驚いているような。「サイラス、どうかしました?」 不思議そうに問いかけるアンジュをじっと見つめてから、サイラスはどこからともなくハンカチを取り出して、アンジュに手渡した。「よろしければこちらを」 その、日向のにおいがする白いハンカチを受け取ってやっと、アンジュは自分が泣いていることに気がついた。 途切れることなく頬を伝っていく透明な滴が、花びらのようにティーカップに落ちていった。薄い桜色をした小さな波紋が、いくつもいくつも、生まれてはすぐに消えていく。 一ヶ月前、アンジュの即位後はじめて、守護聖の交代が決まった。予兆はあった。女王として覚悟もしていた。交代の準備も順調に進んでいる。けれど、心だけがついていかなかった。 守護聖交代の決定以来、睡眠時間を削ってろくに休みも取らず働き続けてきた女王を見かねて、この日、執事が強制的に休息時間を与えたのだった。 ありがとうと伝えたくても、言葉が喉につまって声にならなかった。女王になってから、泣いたことなどなかったのに。 笑って、笑って、笑って。 そう思って笑顔を作ろうとしたけれど、なぜかどうしてもうまくできないのだ。「こちらのお茶」 震える唇を優しく覆うように、サイラスが告げた。「タイラーに味見をしていただきましたが、実はまだ飲んだことがないのです。いただいてもよろしいですか」 子どものように鼻をすすりながらこくりと頷くアンジュに、サイラスはもう一客用意してあったティーカップにお茶を注ぎ、アンジュの向かいに座った。「……いい香りですね」 じっくりと時間をかけてひとくちを味わうと、サイラスは目を伏せて、どこかのんびりとした口調で言った。それきり黙って側にいた。 そのときだけは星の光は見えなかった。涙で歪んだ景色の中で、無数の見えない薄紅の花びらに抱かれて、二人で、終わりのない嗚咽を聞いていた。畳む 2025/03/29
花惑い
柔らかな湯気を纏って白磁のティーカップに注がれていくお茶の水色を見て、女王は弾けるような声を上げた。
「ピンク? 珍しいですね。初めて見ました」
「ある星のさらに一部の地域でしか採れない茶葉だそうですよ。ネット通販のセールで購入したものです」
ティーポットを持ったまま、女王の傍らでサイラスが微笑んだ。
女王の執務室で午後三時に行われる定例のお茶会は、多忙な女王にとって息抜きができる貴重な時間である。補佐官であるレイナや守護聖たちが同席することも多いが、この日部屋にいたのはアンジュとサイラスだけだった。
「それに、いい香り」
微かに揺れる淡いピンクの茶を眺めてから、アンジュはうっとりと目を閉じた。
まるで花が開くようにポットの注ぎ口からふんわりと立ち上る甘酸っぱい香りは、懐かしい思い出を呼び起こす。
世界のすべてが微睡んだような春の空気。温かな風に舞い散る花びら。数え切れないほどの出会いと別れ。笑顔と涙。とうに失われて、しかし胸のどこかに今も大切にしまわれているもの。
「桜みたいですね」
「タイラーも同じ感想を口にしていました。バース出身の方にとって、特別な花なんでしょうね。カナタ様とレイナにも後ほどお裾分けしようかと」
「はい。きっと喜びますよ」
素知らぬふりをしてセールで買ったなんて言うけれど、サイラスはきっと、彼らが喜ぶ顔が見たかったのだと思う。
そんな気持ちを見透かされたのか、目が合うとふっといたずらっぽく唇が引き上がった。
「ささ、冷めないうちにどうぞ。お手製のおやつもありますよ」
スコーンの入った小さなバスケットとソーサーが差し出される。
アンジュはカップを手にとると、ゆっくりと香りを楽しんでから口に含んだ。
「おいしい! フルーツみたいな風味がありますね。サイラスは飲んでみました?」
そう言って笑いかけると、サイラスの顔にいつもは見せない表情がよぎっていった。まるで驚いているような。
「サイラス、どうかしました?」
不思議そうに問いかけるアンジュをじっと見つめてから、サイラスはどこからともなくハンカチを取り出して、アンジュに手渡した。
「よろしければこちらを」
その、日向のにおいがする白いハンカチを受け取ってやっと、アンジュは自分が泣いていることに気がついた。
途切れることなく頬を伝っていく透明な滴が、花びらのようにティーカップに落ちていった。薄い桜色をした小さな波紋が、いくつもいくつも、生まれてはすぐに消えていく。
一ヶ月前、アンジュの即位後はじめて、守護聖の交代が決まった。予兆はあった。女王として覚悟もしていた。交代の準備も順調に進んでいる。けれど、心だけがついていかなかった。
守護聖交代の決定以来、睡眠時間を削ってろくに休みも取らず働き続けてきた女王を見かねて、この日、執事が強制的に休息時間を与えたのだった。
ありがとうと伝えたくても、言葉が喉につまって声にならなかった。女王になってから、泣いたことなどなかったのに。
笑って、笑って、笑って。
そう思って笑顔を作ろうとしたけれど、なぜかどうしてもうまくできないのだ。
「こちらのお茶」
震える唇を優しく覆うように、サイラスが告げた。
「タイラーに味見をしていただきましたが、実はまだ飲んだことがないのです。いただいてもよろしいですか」
子どものように鼻をすすりながらこくりと頷くアンジュに、サイラスはもう一客用意してあったティーカップにお茶を注ぎ、アンジュの向かいに座った。
「……いい香りですね」
じっくりと時間をかけてひとくちを味わうと、サイラスは目を伏せて、どこかのんびりとした口調で言った。それきり黙って側にいた。
そのときだけは星の光は見えなかった。涙で歪んだ景色の中で、無数の見えない薄紅の花びらに抱かれて、二人で、終わりのない嗚咽を聞いていた。
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