#アンミナ #サイアン #女王と執事 #恋愛未満花火続きを読む「どうぞ」 ソファに座り込んだ宇宙の女王の目の前に背の高いグラスが差し出される。宙を見つめていた碧い眼差しが、ゆっくりとグラスに移っていった。「きれい」 薄い硝子に注がれた液体は鮮やかな橙と赤の入り交じった色で、小さな泡がいくつも弾けている。 ひとくち口に含むと、アンジュの口角が自然と上がった。「すごく優しい甘さ……蜂蜜や砂糖とは違いますね」「産地でつけられたキャッチコピーによると、黄昏の光の甘さだそうですよ。時間が経つにつれて色と味が変化していくとか」「しかもお酒でもジュースでもなくて、水なんですよね。星の時間を集めてグラスに閉じ込めたみたい。こんな不思議な飲み物、よく見つけましたね。通販ですか?」「はい、通販です」 女王の執事は、嬉しそうににっこりと微笑みながら、さりげない動作で窓を閉じ、カーテンを引いた。 とたんに、この部屋まで届いていた外の喧噪が遠いものとなった。 その晩、令梟の聖地では夏祭りが行われていた。スタッフの発案により、女王の郷里の夏を再現した催しが行われ、聖地の気候も息苦しいほどの暑さに調整されている。 決して過ごしやすいとはいえないのだが、一晩限りの熱帯夜と思えば、物珍しさもあり、守護聖や職員には意外と好評だった。 レイナとタイラーは、真夏の熱気のなかで味わうビールを美味しそうに、そして何だかいつもよりリラックスした様子で飲んでいた。 よく冷えたビールを飲んで、子どもみたいに水浴びをして、今は遠くなった蝉の声を聞いて――アンジュも心から楽しんでいた、あのときまでは。 イベントのクライマックスである打ち上げ花火がはじまったころ、女王の身体に起こった異変を察知した執事は、目立たないように馬車を手配して彼女を私邸に移動させたのだった。 サイラスは、空になったグラスにピッチャーから新しい水を注ぎ入れた。「どうぞ。ジャンジャン水分を取って下さい。少し横になってはいかがですか」「大丈夫。急に暑くなりすぎて、身体がついていかなかったのかも。ずっと聖地の穏やかな気候に慣れていたから、バースの自然ってこんなに力強かったんだなって驚きました」「ええ、なかなかに過酷な暑さです。夏バテという単語があるのも頷けますね」「そう言うわりに、サイラス全然汗かいてませんよね?」「そう見えますか」 サイラスは薄く笑い、どこから取り出したものか、手にしたうちわでアンジュをパタパタと仰いだ。 今ごろ、壁を隔てた向こうでは、打ち上げ花火が夜空を彩っているはずだった。火薬は使用しておらず、中央星の企業から購入した映像プログラムらしいのだが、音も光も、花火の再現度が非常に高いとタイラーは感嘆していた。「皆、楽しんでるかな」 水を飲むと、涼やかな冷たさが喉に、それから全身にすっと染み入るように流れていくのを感じる。 皆が楽しい時間を過ごしているときに、水を差してしまったのではないかと心配になる。「少し休んだら戻ります。心配かけちゃうし」「今さら言うまでもありませんが、レイナは優秀な補佐官ですよ。あなたの不在もそつなく取りなしてくれるでしょう」 サイラスの左手は腰の後ろ側にあるし、右手は相変わらずうちわを仰いでいる。でも、彼は自分に見えない手を差し伸べてくれた。はっきりとそう思った。「そうですね」 アンジュは頷き、閉じられたカーテンの向こうに空に弾けるいくつもの光の花を思い浮かべた。「……いつか」 深い沈黙のあと、胸の内を探るように言葉を続けた。 花火が打ち上げられた瞬間に思ってしまった。 ああ、よく似ている。 星が最期に放つ、あの光に。 かつて愛したもの、美しいと思ったもの。大切にしていたはずのものが、掌からこぼれ落ちていくような感覚に陥った。皆が笑顔でいるのに、途方に暮れて笑うことができなかった。「いつかもう一度、花火が美しいと思える日が来るんでしょうか」 それはサイラスに向けた言葉ではなかった。ほとんど自分への問いかけに近いものだった。 アンジュは宇宙の女王である。本当ならば誰にも伝えずにしまっておいたままにするべき感情であり、弱さだった。でも彼なら言葉にしなくてもわかってくれるんじゃないか、そんな甘えがあった。「ふむ。難しい問題ですね」 応える彼の声はいつも通り飄々として、けれどアンジュがそうであったように、やはり独白めいていた。「来るかもしれないし、来ないかもしれない。現時点では何とも申し上げられません。しかし」 会話の間にも、どこで手に入れたのか、干物のキャラクターが描かれたファンシーなうちわは、優しく柔らかな風を送り続けてくれている。「あらゆる可能性は無限である。……あなたが、あなたの仕事によって我々に示してくれたことです」 サイラスの顔を見たいのに、テーブルに置いたままのグラスから目を動かすことができない。水色は、穏やかに天穹を包む夜空を思わせる、深い青に変わっていた。 そのとき、急にうちわの動きが止まった。サイラスはポケットから連絡用の小さなタブレットを取り出して、画面に視線を落とした。「そろそろ花火が終わるようですね。私は一度会場に戻ろうかと。何かありましたら私邸に控えているスタッフにご連絡ください」「わかりました」「では。こちら、よろしければお使いください」 女王の執事はうちわをテーブルに置いて、アンジュに背を向けた。 皆によろしくね。 できれば閉会式には顔を出したいな。 そんなことを事務的に伝えるつもりが、気づいたときにはサイラスの袖を掴んでいた。「ごめんなさい」 軽く顎を上げると、彼は少しだけ驚いた顔をみせた。 沈黙に満たされた室内で、頼りなく繋がった二つの影が静止している。 ややあって、女王の唇から微かな声がした。「もう少しだけ、ここにいてくれますか」 グラスの中の透明な水が軽やかに弾け、夜明けの色に変わっていた。畳む 2025/07/06
花火
「どうぞ」
ソファに座り込んだ宇宙の女王の目の前に背の高いグラスが差し出される。宙を見つめていた碧い眼差しが、ゆっくりとグラスに移っていった。
「きれい」
薄い硝子に注がれた液体は鮮やかな橙と赤の入り交じった色で、小さな泡がいくつも弾けている。
ひとくち口に含むと、アンジュの口角が自然と上がった。
「すごく優しい甘さ……蜂蜜や砂糖とは違いますね」
「産地でつけられたキャッチコピーによると、黄昏の光の甘さだそうですよ。時間が経つにつれて色と味が変化していくとか」
「しかもお酒でもジュースでもなくて、水なんですよね。星の時間を集めてグラスに閉じ込めたみたい。こんな不思議な飲み物、よく見つけましたね。通販ですか?」
「はい、通販です」
女王の執事は、嬉しそうににっこりと微笑みながら、さりげない動作で窓を閉じ、カーテンを引いた。
とたんに、この部屋まで届いていた外の喧噪が遠いものとなった。
その晩、令梟の聖地では夏祭りが行われていた。スタッフの発案により、女王の郷里の夏を再現した催しが行われ、聖地の気候も息苦しいほどの暑さに調整されている。
決して過ごしやすいとはいえないのだが、一晩限りの熱帯夜と思えば、物珍しさもあり、守護聖や職員には意外と好評だった。
レイナとタイラーは、真夏の熱気のなかで味わうビールを美味しそうに、そして何だかいつもよりリラックスした様子で飲んでいた。
よく冷えたビールを飲んで、子どもみたいに水浴びをして、今は遠くなった蝉の声を聞いて――アンジュも心から楽しんでいた、あのときまでは。
イベントのクライマックスである打ち上げ花火がはじまったころ、女王の身体に起こった異変を察知した執事は、目立たないように馬車を手配して彼女を私邸に移動させたのだった。
サイラスは、空になったグラスにピッチャーから新しい水を注ぎ入れた。
「どうぞ。ジャンジャン水分を取って下さい。少し横になってはいかがですか」
「大丈夫。急に暑くなりすぎて、身体がついていかなかったのかも。ずっと聖地の穏やかな気候に慣れていたから、バースの自然ってこんなに力強かったんだなって驚きました」
「ええ、なかなかに過酷な暑さです。夏バテという単語があるのも頷けますね」
「そう言うわりに、サイラス全然汗かいてませんよね?」
「そう見えますか」
サイラスは薄く笑い、どこから取り出したものか、手にしたうちわでアンジュをパタパタと仰いだ。
今ごろ、壁を隔てた向こうでは、打ち上げ花火が夜空を彩っているはずだった。火薬は使用しておらず、中央星の企業から購入した映像プログラムらしいのだが、音も光も、花火の再現度が非常に高いとタイラーは感嘆していた。
「皆、楽しんでるかな」
水を飲むと、涼やかな冷たさが喉に、それから全身にすっと染み入るように流れていくのを感じる。
皆が楽しい時間を過ごしているときに、水を差してしまったのではないかと心配になる。
「少し休んだら戻ります。心配かけちゃうし」
「今さら言うまでもありませんが、レイナは優秀な補佐官ですよ。あなたの不在もそつなく取りなしてくれるでしょう」
サイラスの左手は腰の後ろ側にあるし、右手は相変わらずうちわを仰いでいる。でも、彼は自分に見えない手を差し伸べてくれた。はっきりとそう思った。
「そうですね」
アンジュは頷き、閉じられたカーテンの向こうに空に弾けるいくつもの光の花を思い浮かべた。
「……いつか」
深い沈黙のあと、胸の内を探るように言葉を続けた。
花火が打ち上げられた瞬間に思ってしまった。
ああ、よく似ている。
星が最期に放つ、あの光に。
かつて愛したもの、美しいと思ったもの。大切にしていたはずのものが、掌からこぼれ落ちていくような感覚に陥った。皆が笑顔でいるのに、途方に暮れて笑うことができなかった。
「いつかもう一度、花火が美しいと思える日が来るんでしょうか」
それはサイラスに向けた言葉ではなかった。ほとんど自分への問いかけに近いものだった。
アンジュは宇宙の女王である。本当ならば誰にも伝えずにしまっておいたままにするべき感情であり、弱さだった。でも彼なら言葉にしなくてもわかってくれるんじゃないか、そんな甘えがあった。
「ふむ。難しい問題ですね」
応える彼の声はいつも通り飄々として、けれどアンジュがそうであったように、やはり独白めいていた。
「来るかもしれないし、来ないかもしれない。現時点では何とも申し上げられません。しかし」
会話の間にも、どこで手に入れたのか、干物のキャラクターが描かれたファンシーなうちわは、優しく柔らかな風を送り続けてくれている。
「あらゆる可能性は無限である。……あなたが、あなたの仕事によって我々に示してくれたことです」
サイラスの顔を見たいのに、テーブルに置いたままのグラスから目を動かすことができない。水色は、穏やかに天穹を包む夜空を思わせる、深い青に変わっていた。
そのとき、急にうちわの動きが止まった。サイラスはポケットから連絡用の小さなタブレットを取り出して、画面に視線を落とした。
「そろそろ花火が終わるようですね。私は一度会場に戻ろうかと。何かありましたら私邸に控えているスタッフにご連絡ください」
「わかりました」
「では。こちら、よろしければお使いください」
女王の執事はうちわをテーブルに置いて、アンジュに背を向けた。
皆によろしくね。
できれば閉会式には顔を出したいな。
そんなことを事務的に伝えるつもりが、気づいたときにはサイラスの袖を掴んでいた。
「ごめんなさい」
軽く顎を上げると、彼は少しだけ驚いた顔をみせた。
沈黙に満たされた室内で、頼りなく繋がった二つの影が静止している。
ややあって、女王の唇から微かな声がした。
「もう少しだけ、ここにいてくれますか」
グラスの中の透明な水が軽やかに弾け、夜明けの色に変わっていた。
畳む