#アンミナ #サイアン #女王と執事 #恋愛未満『静かな夜のこと』続きを読む「遅くまでありがとう、タイラー」「いえ、問題ありません。明日は午前中に休暇を頂いていますから。陛下もご無理をなさいませんように」 一礼して消えていくタイラーのホログラムに微笑みかけてから、アンジュはディスプレイを指でタップした。新しく展開した資料が次々と空間を埋めていく。目で文字を追いながら、零れ落ちた後れ毛を指ですくいあげ、耳にかける。視界が霞んでいるような気がするが、きっと気のせいだろう。 その仕草を正面から見ていた女王の執事兼補佐官が、グラフの間から顔をわずかに覗かせて尋ねた。「今晩はお休みなられては?」「あと少しだけ。これを読み終わったら寝ます」 本当に? という無言の問いかけを視線に乗せて、執事はアンジュをじっと見つめ続けていた。感情をきれいに消した眼差しから、圧力のようなものを感じる。 確かに、昨日もおとといもその前も、サイラスからかなり厳しく注意されていたのに睡眠時間を削りすぎてしまった自覚はあった。適当にごまかしたつもりだったけれど、ばれている。完全に。「……疑ってるでしょう?」「ええ。単刀直入に申しますと」 アンジュは挑むように見つめ返した。「本当に本当ですってば。休みます、一時間もしたらベッドに潜ってます。だからサイラスも休んでください」「オオ……驚きました。何と陛下の目には私が起きているように映っている、と。ですが、こう見えてもすでに夢の中におります。ぐーぐーぐーむにゃむにゃむにゃ」 真顔で寝言を言うサイラスに、アンジュの表情を覆っていた緊張がわずかに柔らかくなる。「ずいぶん大きな寝言ですね」「はい。タイラーは仮眠中にうなされていることも多いですが」「そうなの? 割り当て業務が多すぎるのかな。もうちょっと休めるような体制にしないと……」「なんて話している間にそちらの資料の要点はこちらにまとめました」「うそっ、早い!」「陛下のご健康、ひいてはこの宇宙の安寧のために、さっさと残りを終わらせましょう。おっと、すぴーすぴー……」「寝たふりはもういいですから」 二人がいるのは、女王の私邸にある書斎兼ワークスペースだった。古今東西の古い書物がびっしりと並べられた書棚に囲まれた室内には、真夜中という時間もあって、ひっそりと冷たい空気が流れているようだった。 先ほどまで補佐官であるレイナも一緒にいたのだが、数日にわたる長時間勤務で疲れが溜まっているようだったので、二人がかりで説得して下がらせたのだった。 ふだんであれば私邸に仕事を持ち込むことはない。しかし、今回はある彗星の軌道が複数の星系に影響を及ぼす恐れがあり、緊急の対応を要する事案だった。 女王の力を行使するとしても、それまでに必要な調査を行い、今後の方針を決めなければならなかった。 補佐官や守護聖に相談はできる。でも、最終的な決定を下すのは女王だ。……私なのだ。 そのとき、それまで黙っていたサイラスが突然口を開いた。「この件が落ち着いたら、どこか行きたい場所はありますか」「いっぱいあります! 温泉、南の島、あ、またレイナとグランピングもしたいなあ……。でも、女王が聖地を離れるわけには」 勢いで並べあげてしまってから、アンジュは現実を思い出した。「アンジュ様」 懐かしい呼びかけとともに、風船がしぼむように消えてしまった言葉のあとを引き取ったのはサイラスだった。「女王であるからといって、ささやかな楽しみを……人生を諦める必要はないんですよ」 資料に視線を置いたまま、サイラスは表情を変えずに告げた。さも当然とでもいうように。 まるで女王試験のときに戻ったかのような錯覚に襲われた。彼は執事兼女王試験管理者で、アンジュはあまり真面目とはいえない女王候補だった。あれから、ずいぶんと長い時間が流れた。数多の出会いがあり、同じだけの別れがあり、たくさんのものが変わって、それでも変わらないものがあった。「ま、そのあたりの調整はサイラスくんにお任せ下さい。執事ですから」 わずかな沈黙のあと、アンジュは宙に浮いていたホログラムの資料を次々に両手で押しのけて、身を乗り出し、相手の唇に自分のそれを重ねた。 離れていた影が、一瞬だけデスクの上でひとつになった。 夢のような恋、長い時が作り上げた親愛、憐憫に似た情に互いへの深い敬意……この微かな温もりが与えてくれるものの意味は何だろう? 柔らかな熱に溶けかけた思考を投げ捨てて、もう一度口づける。 とても疲れていたし――とても、静かな夜だったので。畳む 2023/08/05
『静かな夜のこと』
「遅くまでありがとう、タイラー」
「いえ、問題ありません。明日は午前中に休暇を頂いていますから。陛下もご無理をなさいませんように」
一礼して消えていくタイラーのホログラムに微笑みかけてから、アンジュはディスプレイを指でタップした。新しく展開した資料が次々と空間を埋めていく。目で文字を追いながら、零れ落ちた後れ毛を指ですくいあげ、耳にかける。視界が霞んでいるような気がするが、きっと気のせいだろう。
その仕草を正面から見ていた女王の執事兼補佐官が、グラフの間から顔をわずかに覗かせて尋ねた。
「今晩はお休みなられては?」
「あと少しだけ。これを読み終わったら寝ます」
本当に? という無言の問いかけを視線に乗せて、執事はアンジュをじっと見つめ続けていた。感情をきれいに消した眼差しから、圧力のようなものを感じる。
確かに、昨日もおとといもその前も、サイラスからかなり厳しく注意されていたのに睡眠時間を削りすぎてしまった自覚はあった。適当にごまかしたつもりだったけれど、ばれている。完全に。
「……疑ってるでしょう?」
「ええ。単刀直入に申しますと」
アンジュは挑むように見つめ返した。
「本当に本当ですってば。休みます、一時間もしたらベッドに潜ってます。だからサイラスも休んでください」
「オオ……驚きました。何と陛下の目には私が起きているように映っている、と。ですが、こう見えてもすでに夢の中におります。ぐーぐーぐーむにゃむにゃむにゃ」
真顔で寝言を言うサイラスに、アンジュの表情を覆っていた緊張がわずかに柔らかくなる。
「ずいぶん大きな寝言ですね」
「はい。タイラーは仮眠中にうなされていることも多いですが」
「そうなの? 割り当て業務が多すぎるのかな。もうちょっと休めるような体制にしないと……」
「なんて話している間にそちらの資料の要点はこちらにまとめました」
「うそっ、早い!」
「陛下のご健康、ひいてはこの宇宙の安寧のために、さっさと残りを終わらせましょう。おっと、すぴーすぴー……」
「寝たふりはもういいですから」
二人がいるのは、女王の私邸にある書斎兼ワークスペースだった。古今東西の古い書物がびっしりと並べられた書棚に囲まれた室内には、真夜中という時間もあって、ひっそりと冷たい空気が流れているようだった。
先ほどまで補佐官であるレイナも一緒にいたのだが、数日にわたる長時間勤務で疲れが溜まっているようだったので、二人がかりで説得して下がらせたのだった。
ふだんであれば私邸に仕事を持ち込むことはない。しかし、今回はある彗星の軌道が複数の星系に影響を及ぼす恐れがあり、緊急の対応を要する事案だった。
女王の力を行使するとしても、それまでに必要な調査を行い、今後の方針を決めなければならなかった。
補佐官や守護聖に相談はできる。でも、最終的な決定を下すのは女王だ。……私なのだ。
そのとき、それまで黙っていたサイラスが突然口を開いた。
「この件が落ち着いたら、どこか行きたい場所はありますか」
「いっぱいあります! 温泉、南の島、あ、またレイナとグランピングもしたいなあ……。でも、女王が聖地を離れるわけには」
勢いで並べあげてしまってから、アンジュは現実を思い出した。
「アンジュ様」
懐かしい呼びかけとともに、風船がしぼむように消えてしまった言葉のあとを引き取ったのはサイラスだった。
「女王であるからといって、ささやかな楽しみを……人生を諦める必要はないんですよ」
資料に視線を置いたまま、サイラスは表情を変えずに告げた。さも当然とでもいうように。
まるで女王試験のときに戻ったかのような錯覚に襲われた。彼は執事兼女王試験管理者で、アンジュはあまり真面目とはいえない女王候補だった。あれから、ずいぶんと長い時間が流れた。数多の出会いがあり、同じだけの別れがあり、たくさんのものが変わって、それでも変わらないものがあった。
「ま、そのあたりの調整はサイラスくんにお任せ下さい。執事ですから」
わずかな沈黙のあと、アンジュは宙に浮いていたホログラムの資料を次々に両手で押しのけて、身を乗り出し、相手の唇に自分のそれを重ねた。
離れていた影が、一瞬だけデスクの上でひとつになった。
夢のような恋、長い時が作り上げた親愛、憐憫に似た情に互いへの深い敬意……この微かな温もりが与えてくれるものの意味は何だろう?
柔らかな熱に溶けかけた思考を投げ捨てて、もう一度口づける。
とても疲れていたし――とても、静かな夜だったので。
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