舞台は夢、夢は舞台
前編
「あんた、日本に帰ってくるんですって? 高木先生に聞いたわよ。どうしてもっと早く連絡してこないの!」
 数ヶ月ぶりに聞いた母親の声を懐かしく思うより前に、哉は思わず電話口から耳を離した。老齢にさしかかっているというのに、礼子の声の張りと饒舌ぶりは、まったく衰えというものを知らないようだった。
 鼓膜に迫る激しい振動に圧倒されながらも、哉は事務的に説明した。
 来春から高木が教授をつとめている大学で教鞭をとる予定であること。
 それに伴い、活動拠点を日本に移すこと。
 息子からの遅すぎる事後報告を聞いて、礼子はいたく憤慨しているようだったが、やがて諦めたように声の調子を落とした。
「まったく、昔から肝心なことに限って黙ってるんだから。ほら、覚えてる? 小学生の時にも……」
 哉はうんざりした表情で手元に引き寄せた新聞に視線を落とすと、長々と続く昔話に適当な相槌を打った。
「ちょっと、聞いてるの?」
「聞いてるよ」
「ところで、今どこにいるのよ? ロンドン?」
「パリだよ。泊まってるホテルの部屋」
「本当に、あっち行ったりこっち行ったり落ちつかないわねえ!」
 この率直な言葉は、哉の生活をよく言い表していた。
 有能なマネージャーによって切れ目なく仕事が入れられていたので、ここ十数年はほとんど休みもなく働き詰めだった。とにかくあらゆる場所でピアノを弾いた。
 振り返ってみれば、恐ろしく混沌とした演奏家生活だった。退屈はしなかったが、レパートリーを増やすための練習と研究にあてる時間がほとんどないのが悩みだった。
 いつも胃痛に苦しめられている男の憂い顔が、脳裏に思い浮かんだ。この勤勉なイギリス人マネージャーは、怠惰を最大の悪徳と信じていて、自分が付き人を勤めるピアニストのスケジュールに空白ができることに対して、ある種病的なまでの恐怖感を抱いていた。
 今冬を限り、哉が所属している事務所の契約を終える予定であると知って、彼はひどく嘆いていた。それは別れの悲しみというよりも、これから哉よりはるかに扱いにくい音楽家を相手に仕事をしなければならない自分の不運を呪っていたのだった。一昨日ひとつ仕事を終えた後、同行していたマネージャーは一足先に帰国していた。
 日本に転居した後は演奏旅行の頻度を減らすつもりだと告げると、母親はその考えに賛同した。
「そうよね、あんたもいい年だしね。しょっちゅう引っ越して連絡はつかないし、今日はドイツ、明日はアメリカみたいな生活だしじゃ、身体が持たないわよ。そろそろ腰を落ち着ける頃合いだと思うわよ」
 そういえば、と礼子は哉に言葉を挟む余地を与えずに続けた。
「住むところはどうするの? うちはもう無理よ。二世帯住宅で、ただでさえ手狭なんだから。でもあれよね、ピアノのことを考えると、マンションって言うわけにもいかないわよね。ちゃんとした防音室がないと。友達のお孫さんもピアノを弾くらしくて、マンションをリフォームして防音室を設えたんだけど、やっぱり多少音が漏れるんですって。でも、ひとりで一軒家買うって言うのもねえ」
「もう決めてある」
 滝の水が落ちるがごとく流れ続ける母親の声をせき止めようと、哉は努めて強い口調で言った。
「え、どこよ? 買うの、借りるの?」
「白瀬先生の家に住むよ」
「先生と? 二人で?」
「そう。ちょうど家を立て直すらしいから。費用は二人で折半して」
「あら、そうなの」
 哉の方はそれなりの覚悟を決めて口にしたというのに、礼子はあっさりと事態を飲み込んだようだった。自分と和臣の関係を話したことはないが、それとなく察していたのだろうか。
 礼子はでも、と続けた。
「先生のお父様は亡くなったそうだけど、お母様はお元気なんでしょ? 確か、フランスに住んでらっしゃるって聞いたわよ。日本にはお戻りにならないのかしら」
「フランスで再婚したよ」
「まあ!」
 礼子はうわずった声を上げた。弾むような感嘆符の奥には、古い恋愛映画のキスシーンを観たときのような憧れが滲んでいた。
「それなら、パリにはその関係で? お会いしたの? 何度かお目にかかったことがあるけど、お綺麗な方よねえ」
 礼子の予想通り、昨日、財産などに関する諸々の手続きのために、哉は和臣の母親に会いに行った。これまで何度か顔を合わせる機会はあったが、面と向かってきちんと話をするのはこれがはじめてだった。
 ふんわりと柔らかく微笑む様はどこか儚げで、まるでおとぎ話の妖精か、あるいは歳を重ねた白髪のオフィーリアのようだと思ったものだ。
 だが現代のオフィーリアは、狂気に打ち勝つ冷静さも強かさも持ち合わせている。白瀬治人の死後しばらく経って、彼女は一回りも年下のフランス人男性と再婚したのだった。
 和臣の父親は息子と哉の関係を知っていたが、結局最期まで認めないまま亡くなった。音楽誌の紙面では演奏を厳しく批判され、公の場では完全に無視され、握手のために差し出した手はすべて拒否された。
 それも当然の反応だった。治人にとって、哉の手は自分と同じ商売道具である前に、息子の肌を撫で回す忌まわしい汚物に等しいものだ。何より間接的にとはいえ、和臣の才能を奪ったのは他ならぬ哉なのだから。
 だが驚いたことに、自らが愛用していたハープシコードを哉に遺していたことが、死後、遺言状によってあきらかになった。弁護士から説明を受けて、哉は困惑した。かなり高価で貴重な品であったため、当初は権利を放棄するつもりだったのだが、どうしてもと和臣の母親に請われて、結局は引き取ることになった。
 現在は和臣の家で管理してもらっている。元の持ち主と同じく非常に扱いにくい代物で、日本に帰国した折に弾いてみる度、お前の演奏には精神がない、音楽への敬意もないと、耳元で痛烈な皮肉を言われているようだった。
 しかし、これまで縁の薄かったバッハやヘンデルを勉強し直すいいきっかけとなった。以前はあまり関心がなかったが、ある程度歳を重ねてから改めて向き合ってみると、曲の底に流れる息吹、現代の人間が失い、十八世紀以前の人間が持ち得ていたであろう単純さ、明快さ、無邪気さがかえって新鮮で、自然と心が引き寄せられた。
 治人がハープシコードを遺すことによって、何を自分に伝えたかったのかは不明だ。だが、音楽の世界にはまだまだ未知の領域が広がっているのだと、どこか懐かしい音色を通じて実感させられたのは確かだった。
 礼子はわざとらしく息を吐いた。
「ずいぶん具体的に話が進んでるじゃない。もう、あれもこれも何にも言わないで、ひとりで勝手に終わらせちゃうんだから……」
「悪かったよ」
「いいわよ、謝らなくて。悪いなんて思ってないんでしょ? それよりもね、驚いたわよ。あたしてっきり、高木先生とお付き合いしてるんだと思ってたから」
 思いがけない母親の言葉に、哉は我が耳を疑った。
「……誰が、誰と?」
「あんたと高木先生よ」
 その告白に衝撃を受けて、哉はしばし声を失った。
 確かにイギリスでの師は、何を勘違いしたのか、哉を「タカギの子猫ちゃん」だと思いこんでいたことがあった。実際には、高木は何匹か飼っている本物の猫の世話で手一杯で、「子猫ちゃん」に関心などなかっただろう。
 しかし、礼子はいったいどこからその話を聞きつけたのか。イギリスに来たときに母と彼女を引き合わせた記憶はあるが、礼子は決して英語が堪能ではないというのに。強い個性を持つ女同士、相通ずるものがあるのだろうか。
 哉は呆れたように言った。
「俺と高木先生じゃ、親子くらい歳が離れてるだろ」
「白瀬先生とだって変わらないじゃない。まあ、それはいいんだけど、お金のこととか、法律のこととか、二人で話し合ってきちんとしておくのよ。できれば専門家にも相談して」
「ああ、わかってる」
「先生、定年までまだ年数があるんでしょう? あんたは海外暮らしが長いから感覚が違うかもしれないけど、よくわきまえて行動して、気をつけて差し上げなさいよ。悪いことだとか、そうじゃないかなんて関係ないの。世間の目って、下らなくって、どうしようもなくて、それ以上に理不尽で恐いものなのよ。実体がないぶん、余計にね。特に学校の先生は大変よ。聖職だなんて言われてるくらいですからね。それと、日本に帰ったらお父さんにも二人で報告に来なさいね。あ、体調のいい日にしてね。ちょっとは驚くだろうから、心臓でも悪くしたら洒落にならないわ」
 会話の切れ間に、哉はごく小さな声で言った。
「……ごめん、昔から心配かけてばかりだな」
「何か変なものでも食べたんじゃないの。あんたがそんな殊勝なこと言うなんて。別に、心配なんかしてないわよ」
 礼子は素っ気なくそう言ったものの、言葉の端々から溢れる気遣いは隠しようがなかった。
 二十代の頃であれば、洪水のように襲いかかってくる高い声に嫌気がさして、何かと理由をつけて電話を切っていたところだろう。だが親の言動のそこかしこに老いを感じるようになってくるようになると、素直な感謝の気持ちしか湧いてこなかった。
 礼子はそれからさらに畳みかけるように姉の子、つまり哉の甥について話し始めた。礼子曰く哉に憧れて、同じように小学校に上がる前からピアノ教室に通っているのだそうだ。親戚が集まった時に会う程度の付き合いだが、口の達者な子供という印象だった。
「まあ、本人は頑張ってるみたいだけど、実力はどうなのかしら。今度みてやって頂戴よ。あんたみたいに本格的にやらなくても、趣味のひとつになればいいんじゃないって、私やお姉ちゃんは思ってるんだけどね。……昔はピアノって情操教育にいいと思っていたけど、あんたを見てるとそんなことないんだってわかったわよ。音楽って必ずしも人生を豊かにしたり、情緒を育てたりするもんじゃないんだってね」
 哉は眉を潜めた。さりげない調子で、とてつもなく失礼なことを言われている気がする。
 礼子はそんな息子の懸念にも気付かず、しみじみと言った。
「私ね、あんたが始めてから時どきピアノを聞くようにはなったけど……あのね、怒らないでよ。哉の演奏のどこがいいのか、未だによくわからないのよ。確かに上手だとは思うけど、他にも上手な人はいっぱいいるし、別のピアニストの音と比べても違いはわからないし」
 でもね、と母は幾分か声を和らげて、言葉を継いだ。
「執念だけは人一倍あったと思うわよ。だからきっとピアノで食べていけてるんでしょうね。初恋も実らせたしねえ」
「どういう意味だよ?」
「あらやだ、自覚なかったの? 昔から先生、先生って、話す内容といえば先生とピアノのことばっかり。でもどんなに慕ってても男同士で、しかもあんたが五つの時、先生は十九よ? どう考えても成就するとは思わないじゃない。ねえ、先生は今近くにいらっしゃるの?」
「まさか。いないよ」
「あらそう、残念ねえ。もしいらしたらご挨拶差し上げようと思ったのに。不肖の息子ですが、これからも宜しくお願いしますって」
 礼子は明るい笑い声をあげると、おやすみ、と言って電話を切った。

 母の声が完全に聞こえなくなったのを確かめてから、哉はゆっくりと振り返った。
「すみません、いないなんて嘘をついて。……どうしてわかったんでしょうね。ひとことも言ってないのに」
 すべてを了解しているように、和臣は微笑していた。
 この場に和臣がいると知ったら、また延々と長電話が続くに決まっている。
「鋭い方だからね。お元気そうなのは伝わってきたよ」
 夏が間もなく終わろうとするこの日、和臣は夏期休暇を利用して、母親に会うためにパリに来ていた。
 和臣は年を重ねても雰囲気や容貌があまり変わらなかった。髪に白いものが多くなって、より柔らかさが増した。たまに眼鏡をかけるようになって、毎年のごとくバレンタインには大量のチョコレートを貰っていた。
 相変わらず和臣の感情表現は控えめで抑揚が少なかったが、今ではちょっとした仕草や表情から、彼の喜びや、悲しみを感じ取ることができるようになった。
 年月を重ねたからといって年齢の差が埋まるわけではないが、途方もないほど開いていると思っていた距離が、段々と縮まってくるような気がするのは、決して哉の思い過ごしではないだろう。
 昔は年上の和臣の気持ちを計りかねて、不安ばかりが先走って、余裕のない言動でずいぶん傷つけたはずだ。それを思うと、今この時、彼をいっそう大切にしなければいけないと思うのだった。
 和臣は言った。
「そういえば、この間、高木先生にも会ったよ。君によろしくって」
 高木は大学の教授として今や社会的な地位のある立場にいたが、口が悪いのは相変わらずだった。ざっくばらんな人柄と適切な指導で、多くの学生の信頼を得ている。たとえ同じ大学で教鞭を取ったとしても、自分が高木ほど優れた指導者になれるとは到底思えなかった。
 数年前、高木と二人で飲む機会があった。酔いに任せて、ずっと気にかかっていたことを尋ねた。
 高木は哉が和臣の腕を奪った事故の関係者であることを知っていて、しかも演奏者として再起不能になった彼をずっと見守ってきた男だ。哉を教えることについて、わだかまりはなかったのかと。
「そういやそうだな。言われるまで気づかなかった」
 酒臭い息を吐きながら、高木は頭をかいて言った。
「天才ってのは、凡人には計れねえところがある、厄介な生き物だからな。もし白瀬があのまま事故に遭わずに留学してたら、案外さっさと見切りをつけて、今ごろしれっと音楽とは全然関係ない仕事してたんじゃねえかと思うんだよ。家にピアノも楽譜もない生活してな。むしろあの件があったからこそ、音楽とぎりぎりのところで繋がっていられたのかもしれないぜ。……なんて勝手な推測されて、本人も困るだろうが」
 高木は苦く笑った。
 和臣と高木がどういう関係だったのか、知る機会はなかったし、聞くつもりもなかった。ただ、高木は二人きりで話す機会があっても、もう和臣のことを下の名前で呼ぶことはなかった。
「美味しそうだね」
 和臣が紙袋から食料を取り出す音で、ぼんやりと漂っていた哉の思考はホテルの室内に引き戻された。
 二人は市場で買った総菜と貰いもののワインで、簡単な昼食をとった。
 部屋には小さなテーブルしかないため、仕方なくベッドに新聞を敷いて、その上にプラスチックの器を並べた。ふと和臣はフォークもナイフもないことに気が付いて、困った風に笑った。
「フロントに電話して、用意してもらえるか聞いてみようか?」
 哉は鴨肉をひとつつまみ上げて、口に含んだ。
「手でいいですよ。誰も見てないですし。……うまいな、これ」
 著名な料理店のコースから取り分けてきたような料理は、どれも非常に美味しかった。
 幸いコルク抜きだけは手元にあったので、ワインを開けることはできた。部屋にひとつしか備えていなかったガラスのコップに白ワインを注いで、二人で交互に分け合って飲んだ。
 子供が大人に隠れて自分たちだけの秘密基地で飲み食いしているようで、これはこれで楽しかった。
「このあと練習室を借りているので、一杯だけ」
「練習室はどこにあるの?」
「すぐ近くです。歩いて五分くらいのところで」
 哉は言いながら、丁寧に作られた料理の数々をじっと見つめていた。
「……日本に帰ったら、料理でも始めてみようかな。車の免許も取って」
 学校の調理実習以外では、ほとんど包丁を握ったことがなかった。手には保険をかけているとはいえ、怪我でもしてピアノが弾けなくなる可能性があることを考えると、どうしても刃物を扱う気が起きなかったのだ。同じ理由で、車を運転したこともなかった。
 和臣は大きく頷いて賛意を示した。
「すごく凝った料理を作りそうだね。僕は適当なものしかできないから、期待してるよ。そういえば、一昨日の夜は仕事だったらしいね。何を弾いたんだい? 会場はどこかのホール? シーズンオフだと思っていたけど……」
 和臣の視線は、壁にかけてあるタキシードに注がれていた。ロンドンに帰ったら、馴染みのクリーニング店に預けるつもりだった。
「個人の屋敷ですよ。スーツでいいかと思ったんですが、ドレスコードのある席だったので」
 パリ郊外在住の、ある有力者を囲む私的な集まりで弾いたピアノを、哉は何の感慨もなく思い返した。
「ショパンとシューマン、リスト……それに先方の強い希望で、ベルリオーズを編曲したものを。いきなり言われても無理だと断ったのですが、どうしてもと押し切られて」
「ずいぶん難しい注文だね」
「我ながら、ひどい演奏でした。お喋りとワインに夢中で誰も聞いてなかったのが、不幸中の幸いですね。ピアニストの肩書きがついた人間は、皆リスト並の超絶技巧を持っていると思われてますから」
 哉は指先についたソースを嘗めとりながら苦笑した。
「春にやったグリーグのピアノ協奏曲もあまりいい出来ではなかったので、先生に録音を送ろうか止めようか迷いましたよ」
「すまないね、返事が遅れてしまって。まだちゃんと聞き込んでいないんだ」
「こちらこそ、いつも送りつけてすみません」
 公演がある度に、哉は演奏の録音を必ず和臣に送っていた。和臣からはいつも丁寧な、しかし忌憚のない意見を綴った分厚い手紙が届くのだった。
 今まで和臣から受け取った手紙は、すべて大切に保管してある。一緒に住むようになったら、どこに隠しておくべきかが思案の種だった。
「君が言うほど、悪くはなかったと思うけれど」
 甘口のワインを嬉しそうに味わいながら、和臣は言った。
「頑張って戦っているのがよく伝わってきたよ。緊迫感が出て、逆に面白い演奏だった。でも、君がオーケストラに対してあそこまで強くでるのは珍しいね」
「ああ」
 哉はどこか気まずそうな顔をして、ちぎったクロワッサンを口に放り込んだ。
「直前まで指揮者と揉めて」
 実はリハーサルの際、曲の解釈の違いが原因でちょっとした諍いが起きて、激昂した老年のベテラン指揮者から、哉の「親しい男友達」についてかなり直接的かつ卑猥な言葉で侮辱を受けたのだった。
 音の解釈を巡って揉めるのは珍しいことではないし、自分自身の音楽が批判されることにも、音楽以外の部分で差別を受けることにも慣れていたが、周囲の人間にまで攻撃が及ぶのは許し難かった。
 険悪な雰囲気のままリハーサルは中断され、そのまま本番を迎えてしまった。
 後に楽団員が証言したところによれば、指揮棒とピアノの間に激しい火花が散っていた。そんな演奏だったそうだ。
 そして互いに決して主導権を譲ろうとしない両者のせめぎ合いは、冒頭の悲痛な曲調と相まって、当人たちが思うよりも劇的な効果を上げた。
 緊張感に満ちた演奏が終わったとたん、客席から地面が割れるような盛大な拍手がわき起こったのだ。いつまでも続く喝采を浴びながら、指揮者と独奏者は気まずそうに視線を合わせ、包容を交わした。そのとき、耳打ちするように謝罪めいた言葉を口にされた。
 いがみ合っていたことも忘れて、思わず笑ってしまった。結局のところ、この指揮者も哉も、音楽の持つ魔力には抗えなかったのだ。
 いい演奏ができれば嬉しいし、そうでなければ悔しい。耐え難いほど悔しい。
 どれほど気勢を張ったとしても、自分たちは卑しく忠実な音楽の下僕のひとりに過ぎなかった。
 事の次第など知るはずもないのに、和臣は微笑を浮かべて告げた。
「でも、最後はうまくまとまったみたいだね」
 その後、食事の片付けをしてから、和臣が日本から持参した新居の設計図を間に挟んで、部屋の設えについて話し合った。
 ベッドの上に胡座をかいて、テイクアウトした濃くて苦いコーヒーを啜りながら、ああでもない、こうでもないと意見を出し合うだけで、胸が弾むようだった。十年以上根無し草のような暮らしをしてきた自分が、新しい生活にうまく馴染むことができるのか、全く不安がないと言えば嘘になるが。
 哉は仮の間取り図を眺め、隅々まで目を通した。
「防音室はやっぱり二つ必要ですね。先生、退職されたらまたピアノ教室を始められるんでしょう?」
「できればいいなとは思っているんだけど。君も教えてみる?」
「……子供相手はちょっと」
 哉の表情に苦いものが浮かんだ。
「大学生くらいならともかく、子供は自分の手で可能性を潰してしまいそうで恐いですね。いい先生にはなれないと思いますよ」
「教えるとはいっても、僕たちが出来るのは手を貸すことだけだ。それに、大人が思っているほど子供は柔じゃないよ」
 微笑む和臣に、それでも、と哉は口ごもった。
 設備の話がまとまると、二人だけの会議の議題はより細かい部分へと移った。
 和臣は手を顎にあてて、考え込む仕草をした。
「とりあえず必要なものだけ買って、あとは今の家にあるものを使おうと思うんだけど。欲しいものがあれば後々から揃えていけばいいだろうしね。僕はセンスがないから、哉君に任せるよ」
「俺の好みに合わせると、音楽関係のもの以外何もない部屋になりますよ」
「それもいいんじゃないかな」
 哉は顔を上げて、和臣をまじまじと見つめた。
「どうした?」
「先生、前々から思っていたんですが……俺もいい年ですから、いい加減、君付けはやめてくれませんか」
 和臣は驚いたように軽く目を見張ってから、そうだね、と呟くように言った。
「悪かったね。ずっとそう呼んでいたから、意識していなかったよ。じゃあ、哉」
 思いの外あっさりと言われて、哉は拍子抜けしたようになった。
「あ、はい」
「それなら君も、そろそろ先生を卒業しようか?」
 まさかそう切り替えされるとは予測しておらず、哉は緊張に身を固くした。
「でも、先生は先生ですし」
「嫌ならいいよ」
 気を悪くするでもなく、和臣は自然に言った。
 哉は当惑した。
 嫌なはずがない。かといって、簡単に名前を口にすることもできない。
 いくら年月と共に形が変化しているとはいっても、根本にあるのは教師と教え子という関係であり、やはり聖域には違いないのだ。教師を名前で呼ぶことに対する抵抗は、自分で思っているよりもずっと強いようだった。
 やがて哉はからからに乾いた喉を懸命に動かして、ようやくその一語を絞り出した。
「か、和臣……さん」
「うん」
「いえ、用はありませんけど」
 和臣は笑っていた。
 時々、彼はすべてをわかっていて、わざと自分をからかっているんじゃないかと思う。
 和臣のいる方を正視できなくなって、哉は視線を図面に戻した。
 先週、新聞記者の前で偉そうに音楽哲学を語っていたことが信じられない。これまでインタビューを受けた編集者や記者たちが今の自分を見たら、呆れ果てるに違いなかった。
 いい年をして彼の言葉や挙動に一喜一憂して、今このときも、意中の人と初めて手をつないだ中学生のように、胸を弾ませて舞い上がっている。絶対に誰にも知られてはならなかった。もちろん和臣にも。この秘密は、墓の穴まで持って行かねばなるまい。
 ふと考えてみれば、和臣の名前を呼ぶまでに、出会いから三十年以上の年月を必要としたわけだ。
 これから先も二人の関係は同じようでいて、ゆっくりと変化し続けるのだろう。
 そのとき急に、設計図に見入る和臣の横顔に、紙をなぞる整った指先に、彼の母親の面影が重なって見えた気がした。
 彼女が夫を愛していたのは間違いなかった。その死を心から悲しんだことも。悲しんで、苦しんで、涙して、しかし次また人を愛することを、恐れも躊躇いもしなかった。
 この母と子は、見た目以上に気質がよく似ているような気がする。
 現在の彼の気持ちを疑ったことはないが、その一方で、自分が死んだ後、別の誰かと寄り添って暮らす和臣を想像するのも難しくなかった。それを思うと、胸が焼けるように苦しくなった。
 いもしない相手に嫉妬するなど馬鹿げている。そう頭では冷静に考えられても、火傷のような深く鋭い痛みをぬぐい去ることができない。どうしようもない独占欲に、自分でも呆れる。
 ピアノと同じだ。
 今すぐにでも支配したい。されたい。
 愛したい。そして、愛されたい。
 欲望に促されるまま、ぎこちない動きで腕を伸ばして、和臣の腰を強く抱きすくめた。
「先生……いえ、和臣さん」
 おずおずと頬に指を添え、間近に和臣の目を捉えた。
「身体が辛かったやめます」
 和臣がパリに着いた、昨日の晩を思い出す。十数時間のフライトの後だというのに、シャワーを浴びる暇も与えず、部屋に入ったとたんにその肌を求めた。
 そもそも、尋ねること自体が狡いやり方なのだ。和臣が拒まないことを理解した上で、選択肢を与えているふりをしているだけなのだから。
 和臣は哉の手に自らのそれを重ねた。
「練習室は何時から予約しているの?」
「夕方です。まだ時間に余裕は……」
「それなら、指はあまり使わないようにしないとね」
 指が絡み合い、優しく甘やかな響きが耳を刺激した瞬間、息が止まったようになった。
 今やお互いの身体を相手よりも知り尽くしているというのに、穏やかな声音に引き出された羞恥が抑えきれなくなって、和臣の髪に火照った顔を埋めた。
「……はい」
 相手の吐息を確かめるように、幾度となく唇を合わせた。部屋の小さな窓に真昼の白い月が映っているのが見えたが、濡れた熱情の波に飲み込まれ、じきに溶けて消えてしまった。