楽譜が一枚ずつ風にあおられるように、色あせた記憶が浮かび上がっては消えていく。
記憶、その奇妙な響きに首をかしげた。
まだ見ぬそれを、記憶と呼ぶことはできるのだろうか。
心に兆した疑問を、すぐに溜息と共に手放した。
深く考えたところで意味はない。答えは出ない。
これは夢だ。
夜明けと同じ数だけ忘れ去られる夢、そのひとつに過ぎないのだから。
荷ほどきする暇もなく、旅から旅へ。
鍵盤から鍵盤へ、指は走り続ける。
南で、北で。
東で、西で。
巨大なホールで、小さな荒ら屋で。
有名な曲を、無名の曲を。
客席にひしめく人々のために、時にはただひとりのために。
故郷の土を踏むのは、年に数日だけ。
再会の喜びはつまり、別れの始まりだった。
だから会う度に時を惜しんで肌を吸い合い、貪るように愛した。
変わらぬあの家で。
家。
変わらぬ?
いいや、変わった。
二人で住むための、新しい家。
美しい日々は、風のように流れていく。
時は流れる。
彼は定年を迎えて、またピアノ教室を始めた。
二部屋ある防音室の一室は、賑やかな子供の声で溢れた。
さらに時は流れる。
教え子たちから贈られた大きな花束と共に大学を辞したあと、演奏者としての活動を再開した。
新しくて立派なコンサートホールは若者たちの力強い音でいっぱいで、老人の古いピアノが入り込む余地などなかった。
批評家も、同業者も、ファンたちも気付けば皆いなくなっていた。
聴衆は今や老人や子供たち。
老人ホームや児童養護施設を回って、チャリティコンサートを開いた。
楽譜はもはや聖書でなく、古い友からの手紙だった。
鍵盤に置かれた四つの手。二十の指。
顔を上げれば、傍らにはいつも彼の微笑みがあった。
どれほど止まれと懇願しても、時は流れ続ける。
ふと二人で歩いて来た道を立ち止まって振り返ると、いつの間にか足元の影がひとつだけになっていた。
衰えた指からこぼれ落ちる音は、かつての精彩を失っていた。
それでも、指は鍵盤を駆け回る。
ひとりで住むには広すぎる家で、観客もなく、拍手もなく。
弾く度に余計なものがそぎ落とされていき、残ったのは純粋な、音楽のための音楽だった。
地位を勝ち取るための武器ではなく、矜持を守るための鎧ではなく、自己を表現するための手段でもなく。
無邪気な解釈、気まぐれな即興、秩序ある無秩序。
ああでもない、こうでもないと、子供が遊ぶように指を動かすと、すぐ横に彼の気配を感じた。
時は流れる。
あるとき、指はその役割を終えたように、ぱたりと動かなくなった。
自分の手をまじまじと見つめた。
すっかり枯れ果てた、骨と皮ばかりの老いた手。
それでも鍵盤を押そうとしたその瞬間、意識がなくなった。
意識がない。
奇妙なことだ。
意識がないことを、自分は知っている。
ピアノに突っ伏す自分を眺めている。
すると動かなくなったはずの指が、突然息を吹き返した。
弦と槌とが響きあい、うたい、冷たい鍵盤は音楽の喜びを思い出した。
バッハをはじめとした多くの古き友たち。
親しく付き合っていた者もいたし、そうでない者もいた。
けれど今となっては、誰もが大切な友人だった。
真っ先に包容を交わしたのは、モーツァルト、ベートーヴェン、リストにラフマニノフ、そして愛すべきショパン。
よく見れば、ピアノを弾いているのは、自分の指ではなかった。
親が、きょうだいが、友が、恩師たちが、それから彼が。
これまで出会ったすべての人たちの手が、動かくなった指をそっと導いてくれているのだった。
温かい。
そう感じたとき、身体がふっと楽になった。
いつの間にか、舞台に立っていた。
はじめての日本公演を行ったホール。
もうとっくに取り壊されたはずった。
客席には多くの人影が見えるのに、しんと静まりかえっていた。
舞台にたったひとり置き去りにされたような、冷え冷えとした寂しさを感じた。
コンサートホールはいつも戦場だった。
拍手の代わりに送られる、罵声に舌打ち。
重いため息、絶え間ないお喋り。
敵はあらゆる方位から、絶え間なく襲いかかってくる。
ひどい状態のピアノ、揚げ足を取ることしか頭にない聴衆。
我が儘放題の共演者、勘違いした批評家連中。
口の悪い同業者、何より自分自身。
埃っぽい乾いた空気と焼け付くような白い照明の下で、たったひとりで戦わなければならなかった。
今は、その思い出も遠い。
「老いたるヴィルトゥオーゾ、死にゆく友よ!」
静寂を引き裂く叫び、雨のように降り注ぐスポットライト。
声の主は、道化じみた身振りの仮面をつけた指揮者だった。
彼は優雅に腰を折った。
「愛には始まりがある。変化がある。そしていつかは終わりがくる。それを見届けばならんのだよ。辛いことだ、しかし喜びもある」
指揮棒を振ると、無人だったはずの舞台にオーケストラが現れた。
幻のように沈黙する楽団の前に鎮座するのは、見覚えのある古いグランドピアノ。
「勤勉にして忠実たる音楽の僕に、最後の贈り物を。君だけのための演奏会だ。何をご所望で? 独奏はもちろん、協奏曲に重奏曲、二台ピアノ、それとも歌曲が宜しいか? 素晴らしい楽団と、素晴らしい歌手たちが君を待っているぞ。超絶技巧で、どんなレパートリーも思いのまま。ご覧、その若くて美しい手を」
指揮者の言うとおり、見下ろした手はかつての若さと力を取り戻していた。
手だけではない。
身体が軽い。
無力な老人は消えて、力に溢れた若者の姿がそこにはあった。
指揮者が声を張りあげる。
「さあ、選びなさい!」
選ぶ?
選ぶ必要などない。
答えははじめから決まっている。
彼はオーケストラに背を向け、舞台の上からひらりと身を躍らせた。
息を切らせて通路を走る。
走りながら客の顔を確かめる。
客席にあるのは見知った顔ばかりだった。
懐かしい人々、今はもう失われた人々。
しかし違う。これも違う。
求める顔ではない。
彼ではない。
焦りと迷いが胸を蝕み、歩みが止まりそうになる。
「何をぐずぐずしてるの!」
するとどこからともなく、久しく聞いていなかった明るい母の声がした。
「もう先生はお帰りになったわよ。ほら、早く行きなさい!」
軽く背中を押されて、ぱっくりと口を開けた扉からホールの外へと飛び出した。
振り返ると、仮面を取った指揮者が舞台で手を振っていた。
「人間くさくていいじゃねえか。悩みとか、苦しみとか、弾いてる人間がもがいた跡が残る音」
高木はにやりと笑った。
「そんな音が俺は好きだぜ」
そうだ、あの夜、スタッフの打ち上げも著名な批評家からの食事の誘いも断り、タキシードにコートを羽織ってタクシーに乗り込んだのだ。
もどかしい思いで車窓から夜の町を眺めながら、あの懐かしい家へ向かった。
また、鍵をかけるのを忘れて。
呆れつつ玄関の扉を開けて、息も身なりも整えずにその部屋に飛びこんだ。
ピアノの音はしなかった。
だが、確信があった。
彼は必ずそこにいると。
果たして、彼はピアノの前に座っていた。
蓋をされた鍵盤は、静かに黙していた。
彼はゆっくりと顔を上げた。
「哉君」
「先生、また扉が開っぱなしで……違うんです。こんなことが言いたいんじゃなくて」
ここまで口にしてやっと、伝えるべき言葉を何も用意していないことに気が付いた。
「先生、俺は」
絶句した。
「俺は……」
目を閉じ、俯くことしかできなかった。
長い静寂。
やがて言葉の代わりとなったのは、優しく突き上げるような下からの深い口づけ。
唇が甘いと感じたのは、この時がはじめてだった。
哉は驚愕に目を見開いて、和臣の両肩をつかんだ。
和臣は何も言わず、哉を見つめ返していた。
力の限り抱きしめると、耳元で小さく痛いと声がした。
慌てて腕をほどき、それから今度は優しく抱いた。
欠けた時間を埋めようとするように、何度か激しく唇を重ねた後、哉は和臣の手をとって膝を折った。
「先生、俺と連弾をしてくれますか」
和臣は笑顔で尋ねた。
「シューベルトにしようか、それともブラームス?」
哉は微笑んで、手の甲に唇を押しつけた。
「では、モーツァルトのきらきら星を」
窓から漏れ聞こえてくる鐘の音に意識を揺り起こされて、目を覚ました。外はまだ明るい。すぐ隣から寝息が聞こえてくるのに気がつくと、哉は目を細めた。
「寝たふりしてもわかりますよ」
囁きかけながら、耳朶をはんだ。
和臣は眠っている哉を気遣って、寝たふりをすることがある。留学前のあのときも、本当は起きてたのだろう。しかしもう、哉をだますことはできなかった。
「暑いですか?」
わずかに汗ばんだ背中を後ろから抱き寄せると、和臣は振り返らないまま言った。
「大丈夫。よく眠っていたみたいだね」
「一昨日は遅くまで仕事でしたし、まあ、昨日はその……」
言葉尻を濁す哉に、和臣は声を殺して笑った。
それから二人は散漫に、家に関する話の続きをした。まだ頭にも身体にも気だるさが残っていて、具体性のある話し合いというよりは、ただ思いつきを並べていっただけだった。
和臣は尋ねた。
「君が帰国する前に、ベッドだけは買っておいてもいいかな? 今使っているのは、ほとんど壊れかけていてね。別にしばらくは床に寝てもいいけど……」
「だめです。腰を悪くしますから」
和臣の背中から、溜息の気配が伝わってくる。
「もう若くないしね」
「若かろうが年だろうが、固い床に寝るのはよくありませんよ」
「買うとしたら、どんなものがいいだろう」
「そうですね……」
今まさにシングルベッドの狭さを実感しながら、哉は考えた。キングサイズがクィーンサイズか、大きいものがいい。二人でひとつ。だが、和臣は嫌がるかもしれないと思って、口には出さなかった。
「俺は、寝られれば何でも」
「じゃあ、大きいのひとつかな。でも」
一度口にした明るい提案を、和臣は早々に打ち消そうとした。
「勤務先が遠いから、五時くらいに起きるんだよ。君はそんなに早くないし、朝は苦手だろう? だったら、別々の方が……」
「俺、この頃早く起きるようになったんです。だから大きいのにしましょう」
力強く言われて、和臣は納得したようだった。
哉は和臣の髪を指ですき、唇を寄せた。石鹸だろうか、それとも別の何かだろうか。彼からはいつも、清潔ないいにおいがする。
「和臣さん、頼みますから、火の元と鍵には気をつけてくださいね。せっかく家を建てても、火事になったり空き巣に入られたりじゃたまりませんから」
「努力するよ」
「お願いします。俺も気をつけますけど」
少し間を置いてから、和臣はどこか気恥ずかしげに言った。
「実はね、一回だけ、わざと開けていたことがあるんだ。玄関の扉に鍵をしないで」
「わざと? どうしてですか?」
「君が初めて日本でソロリサイタルをした夜、鍵を開けたままにしておけば、もしかしたら来てくれるんじゃないかと思った」
哉は押し黙った。
軽い調子で返したいのに、どうしてか何も言葉が出てこない。
きつく目を閉じて、返事を諦める代わりに和臣を抱く腕に力をこめた。
「……さっき、夢を見ました」
「どんな夢?」
「もうはっきりと内容は思い出せないんですが、幸せな夢だった気がします」
「いい夢の途中で目が覚めてしまうと、少し残念な気分になるね」
「そんなこと、考えもしませんでした」
さも当然というように、哉はさりげなく言った。
「今が一番幸せですから」
顔を見なくてもわかる。和臣はきっと笑っているだろう。
掌から力を抜き、哉は丸めていた五指をゆっくりと開いた。
この手は何のためにある。
飲食のために。
読み書きのために。
あらゆる道具を使うために。
握り合うことによって挨拶するために、あるいは互いの存在を認めるために。
打ち鳴らすことによって、敬意を示すために。
何よりピアノを弾くために。
そして。
そこで思考を中断して、哉は自分のものではない指を絡め取った。
均整のとれたしなやかな、しかし強さを持つ和臣の手。
右に、左に、哉の指先が滑らかに流れる。
肌に触れ、輪郭をなぞり、優しく突いて。
鍵盤の上と同じ動きだった。
だが愛撫するだけの指は、音を奏ではしない。
それでも、和臣はわかっているはずだ。
音のない音がうたうのは、愛の夢。
今日は和臣の誕生日だった。
誕生祝いに何を弾こうかと聞くと、毎年リストのこの曲をリクエストされた。
直接目の前で演奏することは稀で、大抵は電話ごしに。
どんな大舞台で演奏するときも緊張したことなどないというのに、和臣の前で弾くとなると、妙に萎縮して指が動かなくなって、何度となく音を外した。それでも和臣は、嬉しそうに聞いてくれるのだった。
哉はそっと瞼を下ろした。
背中に当てた耳に、穏やかで規則正しい鼓動が伝わってくる。
それは最も原始的で単純な、人間がはじめて出会う音楽だった。
(終)