子供の頃、ドラマや漫画などに出てくるぱっとしないサラリーマンというのは、あまり現実的な存在ではなかった。今考えれば父親はその典型だったのだが、それ以外の周りの大人は皆ちゃんとして見えたので、例外中の例外だと思っていた。
学生時代の飲み会で、よくこんな光景に出くわした。ごめんごめん仕事が抜けられなくてと遅れてスーツ姿で現れた卒業生が、取引先がどうのとか納期がどうのとか、社会人の苦悩を半ば得意げに、半ば疲れ気味に愚痴り始める。しまいには社用の携帯を取り出して、参ったな課長から電話だよなどと苦笑しながら席を抜けたりする。すると不思議なことに、どんなにへらへらして頼りなかった先輩でも、とたんに大人っぽく、格好良く見えたものだ。
だが、自分が会社員になって、うだつのあがらないサラリーマンというものが実在するのだと嫌でも知る羽目になった。毎朝鏡に向かうたび、奴は覇気のない目でこちらを見つめてくる。
つまり俺だ。
「おい、見ろよ。あんなところで寝てやがる」
ゴミ箱に足を突っ込んだところで力つきたと思しき酔っぱらいを指さし、連れの三枝がげらげらと笑った。盛大な鼾が響きわたるなか、生ゴミから漂う芳しいにおいが鼻をつんと刺激する。古式ゆかしいコントのようだ。が、吉崎は笑う気にはなれなかった。
あれはもしかしたら、二時間後の自分の姿かもしれない。そう思うと、同情心めいたものが胸にこみあげくる。
夜が更けるごとに艶めきを増していくネオン。「愛」やら「瞳」やら年期の入ったスナックの看板を彩る歯ぬけの電飾、どこからともなく流れてくる下手な流行歌。
深夜の飲み屋街というのは、華やかであるほどもの悲しい。特に金曜、それも立地的に学生が少なく、勤め人の多い場所であればなおさらだ。学生の若々しく底抜けに明るい馬鹿騒ぎとは違って、どんなに陽気にはしゃいでいても、どこか滑稽な白々しさが漂っている。
累積していくばかりの疲労も、終わりのない業務も、もつれすぎて収拾のつかない人間関係も、酒程度で慰めるには少々根が深すぎることは誰もが承知しているのだが、それでも狭い路地に漂う少しくたびれた空気は妙な魅力を放ち、誘蛾灯のように人々を引き寄せるのだ。
ある店の前にグループが塊になっていた。顔ぶれから察するに、若い社員の同期会といった雰囲気だ。皆魔法にかけられたかのようにテンションが高い。特に何の根拠もなさそうだが、俺たちは最高の仲間で、最高の同期で、最高の友人で、まあとにかく最高にすばらしい何かだと確信しているようだ。
しかし、そのうちのひとりが不意に正気を取り戻し時計を見た。最高にすばらしい魔法は一瞬にして解けた。
「終電!」
そう、終電は五分前に走り去ってしまったのだ。
「吉崎君さ、独身なんだろ? じゃあ問題なし! 次行こうぜ、次! この先にいい店があるんだよ」
先を行く三枝は元気に声を張り上げた。
問題なし、と「はい」「いいえ」等の発声すら許される前に是も非もなく決めつけられてしまったが、吉崎は異議を唱えることのできる立場にはなかった。
吉崎は大手製薬会社の子会社である食品会社の営業で、カルシウムウェハースや鉄分入りゼリー等の業務用栄養補助食品を売り歩いている。主な取引先は病院や福祉施設、またそれらに類する施設で給食を委託されている企業だ。
三枝はさる大病院の院長の実弟で、事務方を牛耳っている。顧客としては大口中の大口、つまり当然ながらここで「問題があるので失礼します」という選択肢は存在しなかった。
どういうわけか吉崎は三枝にたいそう気に入られていて、接待の名目でしょっちゅう飲みに誘われる。接待する側される側の立場が逆転することも少なくなかった。娘しかいないと言っていたから、出来の悪い息子の世話をする親の気分を楽しんでいるのかもしれない。たいした話術も愛嬌も持ち合わせていない吉崎には、このうえなく結構な上客だった。
この陽気な男に問題があるとするれば、酒への愛が些か強すぎるという点だろうか。
今宵、生ゴミ男に至るまでの道のりは決して平坦なものではなかった。一軒、また一軒、さらに一軒、とどめにもう一軒と愉快に乾杯を重ねるごとに三枝の部下たちは次々と脱落していき、最後に残ったのは吉崎ひとりだけだった。
四軒目を出るときに、気の利く部下が迷子札よろしく三枝の住所を書いたメモを渡してくれた。いっそ完全につぶれてくれればそのメモと一緒にタクシーに押し込んではいさようなら、という荒技を使うこともできたのだが、次なる店を求めて貪欲に突き進む背中を見ると、残念ながらゴミ箱に頭を突っ込む段階にはまだ至っていないようだった。
「ここだよ、ここ」
覚束ない足取りで街灯のまばらな路地を行ったり来たりするうちに、三枝は見事目当ての店までたどり着いた。今にも地面と同化せんばかりのクラゲみたいな状態で、どうして目的地まで行き着くことができるのだろう? 酔っぱらいの習性とは時に驚異的ですらある。
その店は、路地の奥のそのまた奥にあった。このあたりには何度も飲みに来ているが、こんな場所に店があるとは知らなかった。看板が出ていないから、一見さんお断りの店なのかもしれない。
「他の奴らには内緒だからな、な?」
三枝は小首を傾けて、上目遣いでこちらを見てきた。得意先の人間にここまで可愛がられるなんて営業冥利につきるというものだが、中年男性の媚態を受け止められる程度の度量を持ち合わせておらず、吉崎は曖昧な笑みを浮かべて一歩後ずさった。
「内緒なんだけど、本当にいい店なんだって! おじさん嘘言わないから!」
いい店を連呼する三枝に促されて暖簾をくぐると、店内は予想以上に狭かった。カウンター席だけの、こぢんまりとした、ごくありふれた小料理屋という印象だ。客はひとりもいない。
驚いたことに、店に入った瞬間、隣にいたクラゲが人間に戻った。
「おう、久しぶり」
カウンターの向こうで女将とおぼしき和服姿の女が、にこやかに応じた。見るからに玄人の、あだっぽい美人だ。どうやら美人というものはそこに存在しているだけで、クラゲを人間に変える力を持つらしい。
「あら、三枝さん。ごぶさた」
「上空いてる?」
「ええ、ちょうど。絵美ちゃんは手前よ。お連れさんは?」
「俺が持つよ。つけといてくれ」
「でしたら、一番奥どうぞ」
「奥は誰?」
「理世ちゃんっていうの。三枝さんはご存じないと思うわ。最近入った子でね、金曜しかいないから」
「……そっちにしようかなあ」
「絵美ちゃんが妬くわよ?」
「わかった、わかった。手前にするよ。泊りで」
女将との会話でどういう店であるか察しはつくが、泊り、の一語に驚愕する。明治時代の遊郭か。
さすがはお大尽、と感心する吉崎を促して、三枝は慣れた様子で下足入れの前で靴を脱ぎ、店の奥にある階段を上りはじめた。
今どき滅多にお目にかかれないような、前世紀のにおいがぷんぷんする古い建物だ。段を踏みしめるたびに足元がぎしりぎしりと鈍い軋みをあげた。俺様を安物の汚い靴下で踏みやがってこの三下が、と文句をつけられているような威圧感を足裏に感じる。
と同時に、再びクラゲに近づきつつある三枝を、ひやひやしながら後ろから支えた。各方面の名誉を守るためにも、この場所で救急車が出動するような事態はなんとしても避けたい。
「この店はねえ」
階段の半ばほどで、三枝がそっと耳打ちした。
「初回は常連の紹介がないと入れてくれないんだ。……ここだけの話、うまくすれば本番までさせてくれる」
「……本番?」
「え、そういうの好き? 好きだよな、若いもんな。よっ、夜の三冠王! 若くないけど、俺も好き!」
酔っぱらいの戯れ言はともかく、そのひとつ前の発言に関して軽く聞き流すことができず、吉崎は思案して眉根を寄せた。
店構えからして、いわゆる本番行為が合法で行われているような雰囲気ではない。つまり、抜き打ちで警官が突入してきたらまずい所なのではないだろうか。
「違います! 誤解です! 知らなかったんです!」
真昼の情事を夫に見咎められた間男の如く、素っ裸で弁明する自分の姿が脳裏に浮かんだ。
三枝の飾らない人柄は好きだ。世話にもなっているし、デュエットでも裸踊りでも喜んでやってやる。けれど刑務所の臭い飯まで一緒に食いたいとまでは思わなかった。
吉崎の懸念を感じ取ったのか、三枝はへらへらと笑った。
「ああ、大丈夫。男だから」
酔っぱらいはさらりと言った。
男。
「それはどういう……」
大丈夫のひとことで済ませられない程度の問題について詳しく教えてほしかったが、再び活力を得た三枝は、「絵美ちゃあん」と甘ったるい声を作って愛しい絵美ちゃんの待つ部屋に飛び込んでいってしまった。
もの寂しい廊下にひとりぽつねんと放り出されたとたん、様々な憶測が波飛沫をあげて頭の中を駆けめぐった。
三枝の性的対象は男だったのだろうか。
彼には妻も子もいるはずだが、世間の目を隠すための偽装であったのか?
いや、若いホステス相手に鼻を伸ばしている姿は、とても演技には見えなかった。つまり男も女もいけるということか。
人様の嗜好にとやかく口を出す筋合いはないが、先ほど吉崎に見せた媚態に酔っぱらいの戯れとは別の意味があったとすると話は別だ。不相応に与えられてきた好意の数々に説明がついてしまう。
まさか……。
吉崎は頭を抱えた。
甘かった。そこまで想像が及ばなかった。
しかしどんなに努力しても、三枝の想いに応えることはできそうもなかった。第一、奥さんや娘さんに申し訳が立たない。
混乱が混乱を呼んで本番どころの話ではなかったが、支払いまでしてくれたのに、このまま帰って三枝の顔をつぶすわけにもいかなかった。
その店の造りはまるで鰻の寝床のようで、案外奥行きがあって部屋数が多い。裸電球で照らされた板廊下の突き当たり、割り当てられた一番奥の部屋の前で、吉崎はしばし逡巡した。廊下を歩いている最中、どこからともなく生活音とは明確に性質を異する、実に人間らしい営みの気配が桃色の芳香を帯びて漂ってきたが、ひとまずは何も見ず、何も聞かなかったことにした。
世の中の裏も表も、酸いも甘いも見てきましたという顔をして、脂臭そうな古い引き戸が前方に立ちふさがる。天国か地獄かは不明だが、ともかくこの先には新しい世界が広がっているのだ。援護なしで未開の地に突撃するため、吉崎は努めて心を無にした。
子供の頃、扉の開閉は静かにすべしと祖母に厳しく躾られたものだ。その甲斐あって、戸は音もなくすっと横に滑った。
ほの暗い部屋で、真っ先に目に入ったのは畳に投げ出された剥き出しの素足だった。
長い髪の女、に見える人影がこちらに半ば背を向けて文庫本のページをめくっていた。脚を斜めに折り、小さな座卓に肘を乗せて、軽く首を傾けている。いかにも女性らしい、柔らかな仕草だった。
……男?
吉崎は疑問符を何度も脳裏に描きながら、すらりと伸びた脚を無言で見下ろした。
「え、お客さん?」
よほど読書に夢中になっていたのか、それとも吉崎の存在感が空気と同じレベルだったのか、便宜上、彼、とする以外に適当な代名詞が浮かばないないその人物が客の存在気づいたのは、引き戸が開いてからたっぷり三秒ほど後のことだった。
驚きに大きく見開かれた目を見て、ノックぐらいすべきだったと悔やんだが後の祭りだ。きれいな顔立ちをしているのに、そちらに見とれるどころか不作法にも脚ばかり凝視してしまった。
「ごめんなさい!」
彼は急いで立ち上がった。ぴょんという効果音が聞こえそうな慌てぶりだった。立ち上がった拍子に文庫本がばさりと畳に落ちた。
「気づかなくて……あれ、下から連絡あったかな?」
あれ、あれ、と呟きながら彼はかけていた眼鏡を外して、本と一緒に朱塗りの鏡台に置いた。背を向けているので、顔はよく見えない。声は女にしては低い気がする。服装は、朝の満員電車でよく見るような地味なブラウスとスカートだ。
「何か召し上がります? 簡単なものでしたら、すぐにご用意できますけど」
必要ないと告げると、彼は備え付けの茶器で緑茶を入れ、温かいおしぼりを添えて差し出した。熱い茶をすすると、飲み屋を放浪し続けた結果すっかり冷え切っていた身体に、心地よい熱がじわりと広がった。
彼はどこか恥ずかしげに俯いたまま声をかけてきた。
「外はお寒かったでしょう?」
「ええ」
日中どんなに暖かくても、秋の夜は思いのほか寒い。ついでに給料日前に飲んでしまったので、懐も寒い。
吉崎は畳の上にあぐらをかき、ふだんより丹念に手を拭きながら室内を一瞥した。
雨戸が閉じられた六畳ほどの部屋の隅には、色のあせた布団が折り畳まれていた。続きの間があるようだが、襖で仕切られている。天井は低く、部屋全体がすすけていた。ここに線香のにおいと祖母の小さい背中を足せば、実家の仏間のような雰囲気だ。
「お布団のご用意しますね」
そう言って腰を浮かせると同時にごつんと鈍い音がし、肘鉄を食らった鏡台の上からポーチが転がり落ちた。ファスナーが閉まりきっていなかったらしく、中から避妊具の小袋や、ハンドクリームでも歯磨き粉でもなさそうなチューブ、それに用途不明な玩具など飛び出した。
仏間にあったらご先祖様が嘆き悲しむであろう、生々しい品の数々だ。
「すみません!」
吉崎は近くに飛んできたストッキングの袋を手にとって、まじまじと眺めた。
あの、と背後でか細い声がした。
「履きましょうか? 別料金で五千円頂きますけど……」
女物の衣類の相場などわからないが、サービス料込みでも五千円は高い。とりあえず必要がないので断っておいた。
別に嫌いではないが。
商売道具をポーチにしまい終えて、ようやく布団にとりかかろうとしたとき、彼ははっとして顔を上げた。
「いけない、上着! お預かりしますね!」
彼はしきりに詫びながら吉崎の上着を受け取ってハンガーにかけた。新入りだと階下で女主人がもらしていたが、段取りの悪さからして本当に慣れていない様子だった。何をするにもいちいちおっかなびっくりという感じだ。
「照明落としましょうか?」
明るかろうが暗かろうがどちらでもよかったが、相手がやりにくそうだったので、照明をひとつ消してくれるように頼んだ。元々薄暗かった室内の照明は、豆電球の橙がかった頼りない光だけになった。
万事がそんな調子で、えっちらおっちら、という表現が似合いの事前準備を終え、二人はようやく布団に落ち着いた。
落ち着く、とはいっても艶めかしい空気はどこにもない。正座をして真正面から向き合い、さり気なく互いの一挙一動を探る。
古めかしい建物と相まって、まるで見合い結婚した男女が初夜を迎えて途方に暮れているようだ。彼は全身これ神経といった塩梅で、シャツの袖をまくっただけでびくっと肩をこわばらせる姿を見ると、何だかいけないことをしている気分になった。
そうして、双方固まったまま五分ほど経過した。
「あの」
「あの」
ゆるい沈黙は、同時に発せられた二つの声によって破られた。
お先に、いいえたいしたことじゃありませんから、いえ私こそ、と慎ましい譲り合いでさらに時間を無駄にすること約三分、痺れをきらせた吉崎はせっぱ詰まった声で言った。
「お願いがあるんですが」
あまりに余裕のない声色に、彼は冷静な判断を下した。
「お手洗いですか?」
「違います」
それまで伏せがちだった互いの視線が絡んだ瞬間、吉崎の内部で小さな爆発が起こった。腹の底からわき上がってくる、動物じみた野蛮な衝動を抑えることができない。
「すみません、もう我慢できない」
「お客さん……」
彼の腕をそっと引き寄せ、懇願するように言った。
「寝てもいいですか」
間近に向かい合った顔がぽかんとしている。
「あ、はい、もちろんです」
困惑気味に応じる声音から、両者の認識に齟齬が生じているのは明らかだった。寝るという動詞が状況的に適切な表現でないと気づき、吉崎は訂正して言い改めた。
「そういった行為をするんじゃなくて、睡眠をとってもいいですか」
「……睡眠?」
「はい。猛烈に眠いんです」
遠慮がちに窮状を訴えながら、吉崎の心は歓喜に打ちふるえていた。目の前に布団がある。やっと寝られる。瞼の筋肉はすでに活動を停止しつつある。明りを落とされたことが決定打だったようだ。吉崎淳史という存在の電源はすでに落ちかけていた。
三枝の前では虚勢を張ってきたが、三十路の肉体はとうに限界を超えていたのだ。今日早く上がるために週の頭から遅くまで残業に勤しんだ影響が、強烈な眠気という形で心身を苛んでいた。古来、そういった拷問方法があったのも頷ける。気が狂わんばかりの苦しさだ。
「私は構いませんが」
客側から言い出したことなのに、彼のほうが申し訳なさそうな口ぶりだった。
「いいんですか? せっかくお金を払ってくださったのに」
「いいんです」
吉崎は力強くうなずいた。彼が対峙しているのは、人間の欲求のうち一番強力なものだ。他のいかなる欲も勝てはしない。
そのとき突然、キャバクラでしこたま飲まされて、有り金を全部ぼったくられた先輩の話が脳裏をよぎった。こういった店で無防備な姿を晒すということは、それなりの危険を伴う行為だ。
しかし、カード類は家に置いてきたし、財布には数枚の千円札しか入っていない。社員証? ほしけりゃくれてやる。眠気がすべての判断力をきれいに奪い去った。
「疲れた……」
弱音を吐き出すなり布団と一体になった吉崎の耳に、おずおずと控えめな声がした。
「膝枕しましょうか?」
一切何もしないのは逆に失礼かと思い、小考の後有り難く申し出を受けた。
「お邪魔します」
瀕死のクラゲと化した身体をずるずると引きずって、彼の腿に頭をのせる。膝枕に関する知識も経験も乏しいため、男女で寝心地が違うかどうかはわかりかねた。
人間の太腿は構造上枕に向いているとは言いがたく、固い感触は決して快いものではないはずなのに、なぜか居心地がいい。そう思うのは、直に触れた人肌からどこか懐かしい温かみが伝わってくるせいだろうか。
半分寝ぼけながら、吉崎はふと尋ねた。
「……りよさん」
「あ、はい!」
「で、よかったですか? 女将さんがそう呼んでたので」
「ごめんなさい、私、名乗ってもいなかったですね……」
「どういう字書くんですか」
「字?」
「漢字」
「理科の、り、世の中の、よ、です」
「いい名前ですね」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。もう少ししたら、その辺に投げておいてください」
「何を?」
「俺の頭。重いんで、足が痺れます」
ここでようやく緊張が解けたのか、耳元でふっと笑う気配がした。
「お客さん、礼儀正しいですね。言葉遣いも、すごく丁寧で」
「初対面ですから。他の客は違うんですか」
「そうですね、色々な方がいます」
理世の声には、耳に残るような不思議な甘さがあった。少しかすれた声を必死に女性に近づけようとしている様子はなんだかいじらしくて可愛かったが、どこか窮屈そうだ。素のままでもいいのにと思った。
「触っても?」
構わないと答えると、優しい指の動きで理世が髪を撫でてきた。
「すみません、今日はお見苦しいところばかり」
一呼吸おいて、理世は囁くように言った。
「お客さん、私の初恋の人に似ているんです。だから、驚いてしまって」
やたらにどぎまぎした態度もそのためか、と納得した。
しかし初恋の人というは、男だろうか女だろうか。どちらでもかまわないが、自分に似た女というのはちょっと想像したくない。
どうでもいいことを考えているうちに、眠気が頂点に達した。
「おやすみなさい。……お仕事、お疲れさまでした」
甘いにおいのする声に包まれて、吉崎はほとんど昏倒するように意識を失った。
後頭部を殴打された如くに爆睡し、すっきりと気持ちよく目覚めたのは、翌朝、始発電車が動き始める頃だった。三枝は夜が明ける前にタクシーに飛び乗って帰宅したと聞いた。恐らくは奥方から、お叱りというには生ぬるいお叱りの電話でもあったのだろう。
帰り際、雨が降りはじめたからと理世は傘を貸してくれた。どうやら私物らしく、理世が帰宅するとき困るだろうと固辞したのだが、二本持っているからと最後には強引に握らせられた。
「お気をつけて」
見送りのときに理世がみせた微笑はどこか寂しげだった。
昨晩、理世は自分が初恋の相手に似ていると言っていた。もし何か粗相をして大切な思い出を汚してしまったのなら、悪いことをしてしまった。
理世が貸してくれたのは、明らかに男物の、無骨な紺の折り畳み傘だった。硬派な傘が雨を弾く音を聞きながら、やっぱり男なんだなあと妙に強い印象を残した。