吉崎は背を丸めて、携帯の液晶画面と物憂げに見つめ合っていた。視線の先には、赤いハートマークが舞い踊っている。当該メールの差出人は三枝だった。
三枝は気さくな人柄の好人物である。飲んだくれどもに向けて定期的に放たれる召集メールに、こういった遊び心溢れる絵文字で華を添えてくれることも珍しくない。
しかし、自意識過剰とは思いつつも、先週ああいったことがあった後では、ハートマークの裏に別の意味合いがあるのではないかと疑ってしまうのも無理からぬことではないだろうか。
「彼女?」
そのとき、すぐ隣に座っている友人の堺が画面をのぞき込むように身を乗り出してきた。吉崎は機敏な動作で携帯を伏せて言った。
「五十代男性」
「そうか」
堺は眼差しに憐憫の情を滲ませ、ビールをぐびりと飲み下した。
「さっすが先生!」
湿っぽい沈黙を蹴散らして、上座のあたりでどっと笑いが起こった。その中心には、中学時代の担任のすっかり荒れ野と化した頭頂部が見える。
さながら対岸の景勝地を崇める観光客といった風情で、二人は座敷の端から、ほう、と感嘆の息をもらした。
「楽しそうだな」
「ああ」
「最近、楽しいことあった?」
「膝枕してもらった」
「そりゃいいな」
誰に、とは聞かないところに堺なりの優しさを感じる。
飲み屋の二階にある座敷は貸し切り状態で、同じ年頃の男女が二十名ほどひしめき合っていた。いわゆる同窓会というやつだ。今も地元近辺に住んでいる人間が多いらしく、まずまずの集まり具合だった。
「膝枕か……」
何か思うところあるのか、堺は憧憬をこめてその響きをじっくりと味わった。
「してやろうか」
「お前に? 金貰ってもごめんだ」
男にしてもらう膝枕もそんなに悪いものではないことは実証済みだが、堺が心の底から嫌そうな顔していたのでそれ以上は奨めなかった。
堺とは幼なじみで、何の因果か小中高と同じ学校だった。学生時代はさほど親しくなかったのに、高校卒業後に何となくつるむようになった。
一緒のクラスになったことも多く、同窓会の情報はたいてい堺から回ってくる。そして自分が行きたいときには人の予定も確かめず勝手に出席と回答してくれる程度には、親切で適当な男だ。
「吉崎君だよね? 野球部だった」
堺が用を足すために席を立つのと入れ替わりで、隣にすっと誰かが腰を下ろす気配がした。グラスから視線を上げると、ショートカットの女性がビール瓶を持ってにこやかに笑っていた。
「ああ、久しぶり」
ビールをついでもらった礼がてらそう切り返したものの、真に言いたかった台詞は「どちら様でしょうか」だ。男子はともかく、女子は顔と名前が一致しない。
中高はひたすら野球ばかりしていた。吉崎少年のイガグリ頭は青い空と白いボール、汗くさいグローブにユニフォーム、それにお揃いのイガグリ頭のチームメイト達との暑苦しい友情でいっぱいで、男女交際と勉学に割く余力はなかった。その影響は現在まで尾を引いている。
一方女子の側からは、「ちょっと男子、遊んでないで真面目に掃除しなさいよ!」の指し示す「男子」の群れの一部とみなされていたのは明らかで、個人として認識されていたのか怪しいものだ。
そんな調子では共通の思い出などあろうはずもなく、会話の端緒は当たり障りのない例の台詞に委ねられた。
「仕事何してるの?」
吉崎はこの三十分で、製薬会社の子会社で営業をしていて主に扱っている商品は栄養補助食品です、といった説明をもう五回は繰り返している。勤務時間の都合上途中参加となり、乾杯の際に行われたであろう自己紹介ができなかったのだ。
六度目の定型文を口にするのが面倒になって、わかりやすく端的に表現することにした。
「健康食品を売ってる」
「……健康食品?」
「そう」
健康食品という単語がお気に召さなかったのか、堺が便所から戻るなり、彼女は鮮やかに話を切り上げ別の空席へと移っていった。
「あれじゃだめだよ」
堺はハンカチをポケットに突っ込みながら、めっきり肉付きのよくなった尻を勢いよく落として座布団を圧死させた。
「だめって、何が?」
「痩せるお茶やらニンニクエキスやら売りつけられると思ったんだろ。一気に圏外だな」
「ところでさ」
「なんだよ」
「さっきの人の誰だっけ?」
「鈴木だよ。お前確か、中学三年間同じクラスだったぞ。脳細胞生きているか?」
「瀕死だ」
堺の助言を聞きながら、鈴木という名前を頭に留めた。次に話しかけられたら素知らぬ顔で名前を呼んでみるつもりだったが、その機会はもう二度と来ない予感がした。
「ひとつ相談があるんだけど」
突然真顔になった堺が、声を潜めてきた。
「俺でよければ」
「専門知識のあるお前にしか聞けないんだよ。……あのさ、薄毛に効く食い物ってある?」
吉崎は思い当たる栄養素と食品類を脳内で一巡させた。
「わかめ」
「食ってるよ。でも、抜けるんだ」
そう切実に訴える堺の眦には、うっすらと涙が滲んでいるような気がした。
「俺が求めてるのは、もっと即効性のあるものなんだよ。あ、生えてる、って実感できるような」
「そんなのあったら俺が教えてほしいよ」
堺はむっとしたように吉崎、もっと正確にいうと吉崎の毛髪を睨みつけた。
「嫌味か? 嫌味だろ?」
「保険だよ。今生えてたって明日どうなるかわからないんだ。誰しも、な」
吉崎は手酌でビールをつぎながら、ため息をついた。
「次は俺の相談いいか?」
「ああ」
「俺、実家に帰るたびに妹からくさいくさい言われるんだ。……加齢臭、するか?」
「加齢臭ねえ」
堺は吉崎の襟元に鼻を押しつけ、くんくんとひくつかせた。
吉崎は友人の男気をこれまで過小評価していたようだ。期せずして、堺による加齢臭の調査は吉崎の想像の遙か上をいく熱心さで行われた。
くんくんは段々と項から胸元まで下がっていき、吉崎が身体を捻転させて避けようとするのにも構わず、ついには聖域、すなわち脇の下にまで到達してしまった。
それでも納得いかなかったのか、くんくんはさらに下半身にまでその魔手を伸ばした。
「あ、堺、そこはちょっと……」
「遠慮すんな。友達だろ?」
同じテーブルについている数名が、うわあ、という顔をしているが、こちらから頼んだ手前強く拒むこともできない。
律儀にもあまねく全身を調べ尽くした後、仕上げに鼻をこすりあげた堺は満足げに頷いた。
「におわないと思う。若い女の子にしてみれば、兄貴の存在自体が汚らわしくみえるんじゃないか?」
慰めにもならない慰めが傷ついた心をさらに抉った。
「そうか、存在からして汚物か……」
「妹いくつ?」
「十七」
「すげえ! 女子高生?」
脳天気な声が響きわたったとたん、潮が引いたようにあたりがしんと静まりかえった。視線が集中する。沈黙が痛い。
ロリコン? 変態? 犯罪者?
魔女狩りにあって今にも火炙りにされそうな気分だ。
「そうなんだよ。うちの妹、十三も年離れてるんだよ」
汚名をそそぐべく、い、も、う、と、とわざと大きな声でアピールする。決死の作戦が功を奏し、一時氷点下に達した体感気温がようやく平年並みに戻った。
諸悪の根元は自分がしでかした罪の大きさを自覚していないようで、にやけ笑いを浮かべて脇腹をつついてきた。
「妹に友達紹介してもらえば? いいなあ奥様は女子高生」
「犯罪だ」
堺が思い描いているのは成人男性に都合のいい幻であって、真の女子高生というものの怖さを知らないのだ。一度身体の芯まで凍てつくような眼差しで「くさい」「うざい」「きもい」とリズミカルに韻を踏んで断罪されてみればいいのにと思う。
不毛な議論から抜け出したくて、話題を堺の私生活に差し向けた。
「お前はどうなんだよ」
「俺? 夏から彼女と一緒に住んでる。入籍と式は来年の春」
春、と呟く声は今にも消え入りそうで、とても春が来そうな雰囲気ではなかった。
「おめでとう」
「式は身内だけだから安心してくれよ」
「あんまり嬉しそうじゃないな」
「彼女とうちの母親がうまくいってなくてさ。あっちを立てればこっちが立たずで、板挟みってやつ。サンドイッチの具になった気分だよ」
「サンドイッチか」
堺の体格からいってカツサンドだろうかと考えていると、ちょっと気遣わしげに尋ねられた。
「吉崎はもう……」
そのとき、入り口のあたりからわっと黄色い歓声があがった。
「王子!」
白馬に乗った王子でも登場したのかと驚いて、二人はプレーリードッグを思わせる息のあった仕草で同時に首を伸ばした。
「王子ぃ?」
堺は疑わしげに王子なる人物を目視し、それがまさしく事実であることを認めた。
「あ、本当だ。王子じゃん」
吉崎も同意した。
「どう見ても王子だな」
幹事に促されて座敷に現れたのは、王侯貴族の血こそ引いていないものの、王子の愛称で女子から圧倒的な人気を博していた槇野晋だった。
槇野と比較的仲のよかった男が、一番に王子に拝謁する栄誉を賜りまして光栄の極みでございまするみたいな顔をして興奮気味に言った。
「まさか会えるとは思わなかったよ。王子、今日のメンバーに名前なかったよな?」
「出張の予定だったんだけど、急に取りやめになって。ごめんね、一度欠席で連絡したのに」
丁寧に謝罪すると、幹事は激しく横に首を振った。
「いやいやそんなの何とでもなるから! ちょっとしたサプライズにもなったし」
「大げさだよ」
はにかんだ微笑を浮かべた槇野の背後には、磨き上げられた王子オーラが燦然と輝きを放っている。あまりの眩しさに目がくらみそうだ。
中学時代、槇野はテニス部の部長でさらに生徒会長までつとめていた。しかも顔も性格も抜群によかった。妹の影響で少女漫画にはそれなりの造詣があるが、そこまで王子的な王子にお目にかかったことがないくらいの王子ぶりだった。
そして十五年たった後も、槇野はやはり王子だった。格好いい、優しそう、という昔からの印象に、仕事ができそう、という社会人にとっては最強の形容詞まで加わってしまった。
担任への挨拶がてら酌を済ませたとたん、アマゾネスの国に拉致された神話の王子よろしく、槇野は瞬く間に女性だらけの島へと連れ去られていった。
飲み会中盤のだらけた雰囲気は、王子の登場によって完全にぬぐい去られた。
「すごいな」
横で堺が愕然と言った。
「王子はやっぱり三十過ぎても王子なんだな」
「そうだな」
「とても自分と同じ種には思えないよ。スーツを着た同い年のホモサピエンスのオスって、かなりの共通項があるのに」
「たぶん、遺伝子の配列もだいたい同じはずだ」
「信じられない」
「槇野が兄貴だったら、うちの妹もくさいなんて言わないだろうな」
「ああ、確実にな」
遠目から見るだけでわかる。槇野は絶対に爽やかないいにおいがするはずだ。加齢臭という概念とは無縁だろう。
槇野の王子っぷりにとどめをさされたのか、悩める堺の酒量がぐっと増えた。
「飲み過ぎるなよ」
「わかってる。でも飲まずにはいられないんだよ」
切ない気持ちで結婚式にまつわる堺の苦悩を聞きつつも、意識は自然と王子と愉快な仲間たちのテーブルに向いてしまう。
盗み聞きするつもりはなかったが、王子の登場に興奮した女性たち声のボリュームが最大値まで上昇し、どうしても会話が耳に入ってくるのだ。
槇野であれば女性に人気ナンバーワンの若手実力派俳優の肩書きを背負っていても驚きはしないものの、話の内容から察するに、化粧品会社の研究員をしているようだった。
ファンデーションだかコングラチュレーションだか、彼らが変幻自在に操る専門用語は難解すぎてほとんど耳を素通りしていったが、槇野が化粧品に関する相談を見事な手際で次から次へとさばいているのは伝わってきた。
「そうだね、買う前に一度カウンターで試してみるとずいぶん印象が変わると思うよ。自分が好きな色と似合う色が違うことも多いからね」
「わかってるんだけど、ねえ」
「店頭でゆっくりみてる余裕がないんだよね。一応、ネットで調べはするんだけど」
「でも、好きな色と似合う色が違うって人生の縮図みたいだよね。仕事も人間関係もだいたいそうじゃない?」
「化粧品はまだいいよ。試せるし、飽きたり合わなくなったら替えもきくし」
三十年も生きていれば、各々それなりに辛苦をなめてきたのだろう。あははと虚ろな笑いが広がった。
今やほとんどの女性は槇野の周りに集まっていた。槇野がすごいのは、あれだけの数の女性に包囲され、ちやほやされているというのに、浮かれも怯えもせずにさり気なく皆を平等に扱っているところだ。王子というよりもはや仏の境地に至っているのではないだろうか。
やけ酒を煽る手を止めて、ふっと堺が自嘲した。
「俺も王子に生まれたかった。あいつ、きっと悩みなんかないんだぜ」
「さすがにそれは失礼だろ。槇野だって人間なんだから、悩みの一つや二つくらい……」
「たとえば?」
「いや、思いつかないけど」
少なくとも体毛関係の悩みはなさそうだと思ったが、堺の苦悩を徒に深くするのも可哀想なので口には出さなかった。
「ほらな。王子だったら、嫁姑問題で苦しむこともないんだ。笑顔ひとつで解決さ。うらやましいよ」
「……うらやましいか?」
以前同僚の女性が「気になる男の人がいたら、まず左手の薬指を見ちゃう」なる発言をしていたことがあった。吉崎自身も、あ、今薬指を見られたな、という感触を得た経験が全くないわけではない。今日もあった。だがいずれの場合もひゅっひゅっと眼球が移動する音が聞こえそうな速さで、関心の程度が速度に比例しているように思われた。
当然槇野の指もそのような視線に晒されている。ただしその観察行為にかかる熱量は吉崎の比ではなかった。槇野は独身なのか結婚指輪らしきものはしていなかったが、指の細胞の数まで数えられているのではないだろうかというくらい四方から凝視されていた。
うらやましいというより、恐い。
槇野と目線がぶつかったのは、色男も大変だなと思いながら何気なく顔を上げたときだった。槇野はなぜか吉崎を見て、困ったような、途方に暮れたような表情をしていた。
「槇野くん、これおいしいよ!」
視線を交えたまま腰を上げようとした槇野は、アマゾネス軍団の妨害によって再び孤島の人となった。
吉崎は首をかしげた。これだけ同級生がいるなかで、槇野がわざわざこちらに注意を向ける理由が全く思い当たらなかった。
むしろ、目が合ったような気がしたのは勘違いで、堺の方を見たと考えた方が自然だった。現在の豊満な肉体からはとても想像できないが、堺はテニス部のエースだった。
そういえば、槇野に気を取られて堺の存在をすっかり忘れていた。隣がいやに静かだなと思った次の瞬間、たおやかな巨体が腹部めがけてしなだれかかってきた。
「ぐえっ」
タックルさながらの勢いで腰を抱きしめられた吉崎は、和やかな宴席に相応しからぬ潰れたカエル様の重低音を発した。
「さ、堺?」
「……ごめん、俺もうだめ」
堺の言わんとすることを瞬時に察知して、吉崎はぎょっと目を見張った。
「馬鹿、弱いのにちゃんぽんするからだ!」
「ごめん」
「待て待て、謝らなくていいから我慢しろ!」
自己申告の通り、見るからにもうだめそうな青い顔の堺を慌てて抱えた。
「無理……」
「無理じゃない、お前ならやれる! 頑張れ!」
必死の叱咤激励がきいたのか、堺は健気にも男子トイレまで頑張ってくれ、間一髪、きわどいところで最悪の事態だけは避けられた。
便座と抱き合うこと小一時間、どうにか歩けるまでに回復した堺と座敷に戻った吉崎は、襖を開けるなり崖から突き落とされた気分を味わった。
誰もいない。荷物もない。見事にもぬけの殻だった。瀕死の脳細胞を奮い起こすまでもなかった。置いてけぼりを食らったのだ。
「みんなひでえよな! コントのオチかよ!」
堺は吉崎の十倍くらい時間をかけて事態を理解し、吉崎の百倍くらい憤慨した。元はといえばお前のせいだろうという言葉を、吉崎はぐっとこらえた。彼もいろいろと辛い立場なのだ。
不幸中の幸いといっていいのか、幹事が店側に話を通してくれていたようで、二人の荷物はレジに預けられていた。
「別にいいんだけどさ、メールくらいくれてもいいんじゃねえの? いいんだけどさあ」
いいんだけど全然よくない、とひとり高度な問答に耽っている堺を支えつつ店を出たとき、ほろ酔いも一発で醒めそうな爽やかな美声が聞こえた。
「堺、大丈夫だった?」
予想していなかった援軍の登場に、吉崎はしばし呆けて声を失った。
「槇野……」
「よかった、ずいぶん顔色よくなったね」
ほっとしたように笑って、槇野は吉崎の反対側から堺を抱えた。細身の割に力があるようで、肩のあたりがぐっと楽になった。
「助かるけど、重いだろ」
「このくらい平気だよ。ところで幹事から連絡あった?」
「なかったな」
「やっぱり。連絡しとけって言ったんだけど、みんな相当できあがってたから……。二人とも、二次会はどうする?」
吉崎は首を振った。
「やめとく。堺がこんなだし」
「俺はあ、平気だあ!」
堺は叫び、そして力つきた。
「な?」
「そうだね」
「槇野は?」
「僕も帰るよ」
「あのさ」
「何?」
「ひとりでずっと待っててくれたのか? ごめんな」
吉崎が申し訳なさそうに言うと、槇野は苦笑した。
「別に謝るようなことじゃないよ。僕も久しぶりに二人と話したかったからね」
「そうだな。堺、テニス部だしな」
「いや、君とも……」
「槇野」
そのとき、屍と化していた堺がむくりと頭をもたげた。
「お前になら抱かれてもいい。むしろ抱いてくれ! 俺を!」
「気持ちは有り難いけど、ちょっとそれは難しいかなあ」
酔っぱらいの受け流し方にも余裕と品位を感じる。俺もかくありたいものだと、吉崎は感心せずにはいられなかった。
国道で拾ったタクシーに堺を乗せ、吉崎と槇野は徒歩で駅に向かった。
歩き始めて五分後には、二人共独身であり、しかも同じ駅を挟んで南側と北側に住んでいることが判明した。
吉崎はしみじみと言った。
「同じ駅使ってても、案外会わないもんだな。いつから住んでるんだ? 俺は半年前」
「僕は九月から。秋の異動で本社勤務になって。今までずっと地方にいたんだけどね。うちの会社、研究職でも一年だけ企画や営業に配属されることがあるんだ」
「へえ」
「畑違いの仕事だって嫌がる人も多いけど、僕はいいシステムだと思う。研究職ってどうしても他のセクションと繋がりが少なくて、排他的になってしまうところがあって……自分がやってる仕事が他の部署とどういう形で関わっているのか、具体的に想像できなかったりするんだよね。勤務地も離れてるし」
「わかるよ。そういうのあるよな。うちもくだらないことでよく揉めてるよ」
同じお役所と同じ法律に支配された仕事をしているせいもあるだろうが、同窓会で飲んでいたとき以上に話が弾んだ。槇野の隣は不思議と居心地がよくて、たいした話はしていないのにやたら楽しかった。
思い返せば、槇野は中学時代から特別だった。片田舎の男子中学生というのはたいてい泥にまみれた芋のようなものだが、人当たりがよくて爽やか、という芋畑に突如現れたマスクメロンみたいな存在だった。
彼は女子の注目を得るために、卑猥な単語を馬鹿みたいに大声で叫ぶ必要などなかった。つまり大人だったのだ。その点は、お互い名実ともに成人した今でもあまり変わらない気がした。
ほとんど満員に近い電車に揺られながら夢中で話をしているうちに、あっという間に最寄り駅のホームに着いてしまった。
中学時代、接点の薄い槇野とは話したことすらほとんどなかった。唯一の思い出と言えば、卒業式の日に……。
色あせかけた記憶を引っ張り出して、吉崎はうなった。
今更聞いたところで困らせるだけだと思うが、結局あれはどういう意味だったんだろう?
「じゃあまた」
「お疲れ」
改札を出て、名残惜しさを感じながらもそれぞれ北口と南口に向かおうとしたそのとき、吉崎は急に思い立って槇野の腕を掴んだ。
「槇野!」
踏み出しかけていた槇野の足がぴたりと止まった。
「ちょっと待ってくれ。俺、お前の連絡先知らないんだ。教えてくれよ」
ゆっくりと振り返った槇野の顔が、みるみる真っ赤になった。あまりに見事に赤いので、自分の鼻先に猥褻物でもぶら下がっているのかと不安になったほどだ。
「あ、そうだね。連絡先……」
槇野は、つい数分前まで気安く雑談をしていたのと同じ人物とはとても思えないほど激しく狼狽していた。
完全無欠の王子ではなく、酔っぱらいを華麗にあしらう仏でもなく、槇野晋という生身の人間の素顔を不用意に覗き見てしまった、そんな罪悪感じみた思いがこみあげてきた。
「悪い」
吉崎は反射的に手を引っ込めた。まではよかったが、勢い余ってよろけて、鞄を落とし、さらには中身を地面にぶちまけてしまった。
「くそ、やっちまった」
財布だの定期券だの名刺入れだの期限の切れたポイントカードだのを一緒に拾い集めてくれていた槇野が、ふと黒い折り畳み傘に目を留めた。理世から借りた傘だった。槇野は何の変哲もないその傘が気になるのか、数秒の間、無言でじっと見つめていた。
「汚れてはなさそうだな。よかった」
吉崎は、槇野から受け取った傘を上に下にとぐるぐる回して検分した。
槇野がぽつりと尋ねてきた。
「その傘、大事なものなの?」
「借り物なんだ。今日返しにいこうかと思ってたんだけど、同窓会あるの忘れててさ。来週の金曜は予定があるし、その次の金曜は……」
「金曜?」
「色々事情があって、金曜しか会えない人なんだ」
「へえ、どんな人?」
「どんなって」
吉崎は少し考えて、理世の姿を思い浮かべた。
「可愛い感じの人だよ」
顔立ちだけでなく、雰囲気から所作から声まですべてひっくるめた素直な感想だった。
「……そう」
数秒の沈黙をおいて、突然槇野が詫びた。
「ごめん。ちょっと急用を思い出したんで、失礼するね。今日はお疲れ様」
王子らしい優しげな笑顔を残し、軽やかに踵を返して南口の方向に歩き始める。
「え、あの、連絡先……」
そこでちょうどタイミング悪く、下り方面の列車が到着した。槇野の背中は、改札口から吐き出された人波に瞬く間に飲まれてしまった。思わず伸ばした指先が宙ぶらりんのまま行き場を失った。
「おい、槇野!」
足取りは颯爽としていたのに、最後に見た槇野は、さっきと同じ、ひどく途方に暮れた顔をしていた。