森の賢者が南の地より帰還したのは、隣国の兵が引いてから数月の後、雪のちらつく冬の半ばであった。賢者が気まぐれに思い立った招きに応じて、グンテルは単身その住まいである洞穴を訪れた。王の背丈では通るのがやっとの低い扉をくぐると、白髭をたくわえた老人は、高貴な客人を慇懃にもてなした。
「おお、よく来てくださった」
賢者は屈託のない笑みを浮かべ、入り口で外套についた雪を払うグンテルに座るよう促した。炉で熱した石を火箸でつまみ上げて、酒を注ぎ入れた杯のなかに落とす。じゅっと小気味よい音を立てたそれを、粗末な敷き布に胡座をかいた男に差し出した。肌に滲み入るような温かさに、かじかんだ指先が溶けていく。
「薬草酒です。芯から温まりますぞ」
南方の香料だろうか。甘いような辛いような、立ち上る湯気からはグンテルがこれまで嗅いだことのない複雑な香りがした。口に含むと、舌を痺れさせるような刺激が走った。かなり強い酒のようだ。だが、後味はまろやかで悪くない。体中に快い熱が回って、耳まで一気に火照った。
「味はもとより、滋養にもよいのですよ。この時期、年寄りの骨患いにも効く。さて、わしが留守にしている間に、竜を一頭しとめられたとか」
賢者にさらりと水を向けられても、杯を傾ける男の表情は変わらない。
グンテルには、今や輝かしい異名が与えられていた。
竜殺しの王。
詩歌や伝承として、後世に長く伝えられるであろう偉業を成した男。
各地を流れる楽師たちは王を讃える詩を競って歌い、周辺の領地からは畏敬を表する贈り物が山と届けられた。しかし、まるで神々に捧げる供物のごとく堆く積まれた進物を見ても、己を賛美する絢爛なる歌の数々を耳にしても、グンテルの心は少しも動かなかった。
だがこの老賢者ときたら、伝説の獣を打倒した戦士を前にしても常の飄々とした態度を崩さない。彼が求めるのは、胸躍る英雄譚ではなく真実の探究のみ。熱狂というもののすっかり欠けたその冷淡さが心地よくて、グンテルは酒の上澄みに漂っていた視線をゆるゆるとあげた。火影に照らされた男の顔に、王とも英雄とも思えぬ疲れがふと浮かんだ。
「竜とて獣に過ぎぬよ。狼や熊よりは、少々賢しいばかりの」
ただ、とグンテルは言外に続けた。忌まわしくはあるが邪ではない。近頃では人の方がよほど、野蛮な獣に近いのかもしれぬと感じることもある。
「ご謙遜召されるな。東の森に飛来した竜を、剣一本で討ち取られたと」
知的な欲求の従うままに、賢者は眼を輝かせて身を乗り出した。どんなまじないをほどこした剣を用いたのか、竜の身体のどこを狙ったのか。いかにして鋼を勝る固い鱗を貫いたのか。老人の関心を得ているのは、王の名誉でもなく、ましてやグンテルという男でもなく、ただ竜そのものだけだ。
その屈託のなさに、王の唇に微笑が浮かんだ。
「稀代の賢者とも呼ばれたそなたが、竜如きにただならぬ興味があるとみえる」
「無論。竜を殺した勇者の話など、命あるうちに二度と聞けるものではありませんからな」
「勇者? だが、家畜と近隣の村の何人かは殺された」
「それでも、民を救ったことに疑いはありますまい。あなたが首を切り落とさなければ、それ以上の人間が死んだはず。聞くところによれば、夏の戦においても竜が現れたとか。そのときはこの国を救うような行動をとったそうですが、次に見えたとたんに牙を剥くとは。やはり竜の心は人には図れぬ」
「……同じ竜かはわからぬさ」
「父上の褥に潜り込んだ竜、戦場に舞い降りた竜、人々を喰らった竜。竜そのものが常ならぬ存在であるというのに、ひとつの時代、ひとつの地にかように何頭も集まるなど、にわかに信じられぬことですが」
「信じるも信じぬも、真実を知るは神々ばかりだろう。そういえば、竜についてこんな話を聞いた」
グンテルは杯を含み、乾いた唇を薬草酒で濡らした。
「竜と交われば、その眼を借りて過去も未来をも見通すことができると。それはまことか」
賢者は瞠目した。
「死んだ竜で試してみるおつもりで?」
「まさか! 穢れを孕んだ死骸など、とうに燃やして灰にしてしまった。ただ、そういった伝承歌があると嘯く者がいたのだ。知恵者のそなたなら知っていよう?」
老人は声を上げて笑った。
「浅はかな好奇心からお試しにならなかったことは、幸いでしたな。竜の血を飲んで不老となったという伝説は数多ございますが、大気に触れたものを除き、竜の体液は人には猛毒です。毒を中和する方法がないわけではありませんが」
グンテルは息をのんで、賢者に詰め寄った。
「それは?」
「竜がある果実を食せば、毒が中和されると書いた書物を読んだことがあります。もっとも、竜にとってはこの果実こそが毒。自ら口にするはずもない。その果実自体は珍しいものではありません。城の裏庭にもございますでしょう、あの酸味のある赤い実がそれです」
「……誤って口にしてしまうことは?」
尋ねる声が微かに震えているのに、賢者は気づきもしないようだった。
「とうてい考えられませんな。飲み下すだけで喉を焼くような苦しみがあるはず。ですから、お父上が竜との間に子を成したと聞いたとき、ありえぬことと仰天したものですよ。もっとも、あの女の姿をとっていた竜は、この地にやってきたときにはすでに狂っていたのでしょう。そうでなければ、わざわざ竜が人の姿をとって、人の里に降りてくる理由がない。恐らく、わけもわからぬままにあの実を食べ、喉を苛む苦痛の元凶とすら気づかぬまま逝った。……一時は、竜もまた人に似た愛をすら抱くものであるかもしれぬと、そんな考えが浮かんだものですが。あの雌の竜は、王と褥を共にしたいがために、自ら望んで果実を喰らったのではなかろうかと。詩人どもが好みそうな、陳腐な艶物語でもあるまいに」
グンテルは組み合わせた指に己の額を埋めた。いかにも気怠げな仕草は酔いのためと考えたのか、そういえば、と爆ぜる炎をかき混ぜながら、賢者は気分が優れない様子の王に構わず話を続けた。
「半竜はどうなさいましたか」
「死んだ」
短い返答に賢者は驚きもしなかった。
「左様ですか。半ば竜、半ば人。歪んだ存在ゆえ、長くは生きられまいと思ってはいたが。王が討ち取られたのは、あの半竜ではなかったのですかな?」
グンテルは首を振った。老人はそれ以上問いつめはしなかった。沈黙が落ちる。火種の弾ける音だけが、両者の間に横たわった。
ややあって、賢者は口を開いた。
「実は、あれが産まれた夜、わしは王に進言したのです。空往く者に手綱はつけられぬ、竜を御してこの地の守りとするなど不可能だ。竜とはいえ、赤子であれば皮も柔らかく力も弱い。ここで殺さねば国にとって、大きな災いとなるだろうと。だが、あなたのお父上は聞き入れなかった」
「……なぜ」
「さて。森に隠る人間というのは、古今のまじないに通じてはいても、人の感傷には疎いものですから。おや失礼、杯が軽くなっていなさるのに気づきもしませんで。今宵の寒さはとりわけ骨身に染みる。もう一杯いかがですかな?」
その日の夜更け、酒をしこたま煽って酩酊したグンテルは、倦怠が絡みついた身体をよろめかせて寝床から離れた。賢者から貰い受けた薬草酒の壷はとうに空。白い息を吐きつつ覚束ない足取りで向かったのは、城の裏庭に植えられた一本の果樹であった。
指先が痛むほどの寒さだ。用もなく歩き回る者もいなかった。薄暗い庭一面に、日中降り積もった雪が白銀の輝きを放っていた。
白色に半ば埋もれかけた果樹は葉も実も落ちきり、枝は雪の重さで軋みをあげて苦しげにしなっている。凍てつく夜気にみすぼらしい裸体をすくませているようだった。
グンテルは据えた眼でひょろりと頼りない姿を睨みつけた。
「どうしてこんなところに呆けて立っている? 何か言え! 口を持たぬのか? お前はまったく、人の話を聞こうとしない」
木に向かってぶつぶつと悪態をつくと、ついには力つき、幹に背中を持たせかけて座り込んだ。
「そうだ。いつも人の話も聞かず、身勝手に……」
唇に熱の余韻がまだ残っているような気がして、グンテルは手で己の口をまさぐった。だがいくら求めても、冬の夜の冷たさしか見つけられぬ。背中を掻いた爪痕も、もうすっかり癒えてしまっているだろう。
よすがとなるものを、あの男はほとんど持って行ってしまった。情事の残り香を求めて訪れた地下室には、形見となる品のひとつもなく、露の湿り気を孕んだ虚無と静寂が重く立ちこめるばかり。いずれは色あせていく記憶の欠片と血に濡れたあの剣、ただそれのみが残された。
掌に重い頭を預け、酒の気配が濃厚に残る吐息を吐く。
愚かであった。
父も、その愛人たる竜も。半竜の子も、そして自分も。
「はは……」
突然、乾いた笑いがこみあげてきた。グンテルは声をあげて笑った。酔いすぎたのかもしれない。笑いが抑えきれない。堰を切ったように溢れたものが、喉を塞ぐ。苦しくてたまらないというのに、止めどなく溢れてくる。
狂ったように笑う王を見つめるのは雪明りだけ。その眼差しは冷たく、厳しく、無慈悲なほどの静謐さを湛え、しかし優しくもあった。かつて愛したものと同じように。
どこぞで誰かが呼ぶ声がした。幻聴などではない。確かに耳の膜が震えたのだ。
前触れもなく眠りを妨げられて、男は胡乱に瞼をあげた。薄暗がりに眼を凝らしたものの、すぐ横で妻が寝息を立てている他に人の気配はなかった。嗚咽と聞こえたのは、妻の無邪気な寝言だろう。安堵の息をついて、男は再び温もりの残る寝床に潜り込んだ。早春の夜は長く、深く、暁はまだ遠い。
このような夜も遅い時分に夫婦の閨を侵すような不躾な客があるとしたら、よい報せを携えているはずがない。たとえば、病で臥せている王の身にただならぬ事態が起きたとか。容態は落ち着いていると薬師は言っていたが、病が悪しき方向に転じるのは、大抵静かな真夜中のことだ。
男の仕える王が倒れたのは一月前。中年の終わりに差し掛かろうという年齢ではあったが、身も心も若者に負けぬほど逞しく、老人と呼ぶにはいささか躊躇する壮健さを誇っていただけに、急な病に誰もが驚かざるを得なかった。薬師の見立てでは、恐らくはそう長くはないとのこと。
王が死ぬ。
それを思うだけで、心臓を冷たい指で握られる心地がした。
男は寒村の生まれであったが、未曾有の長雨に襲われた年、恐れ多くも王の面前で物乞いをした。彼が流行病で親類縁者をことごとく失ったことを知った王は、恐らくは寛大な慈悲心から、この愚かで哀れな少年を引き取り、城付きの司祭に命じて文字と作法とを教えさせたのだった。少年は王への恩義に報いるべく懸命に学び、努力し、ほどなく頭角を現して、成人する頃には国事に関わる仕事を任されるようになった。
その低い出自ゆえ、却ってものの見方が大臣たちのそれよりも柔軟で機知に富んでいると、男は実利を尊ぶ王に重用されていた。当然ながら身分高き他の臣下たちは面白く思うはずもない。だがどれほどやっかみを受け、陰に日向に嫌がらせを受けようとも、王のために、この国のために男は力を尽くしてきた。主君に対する忠義は、岩山をはるかに凌ぐほど固く厚いものであった。
城の女主人たる奥方はとうに亡くなって久しい。縁続きの王から貰い受けたのは見るからに儚げな姫で、土地の水が合わなかったのか、輿入れしてからすぐに床につき、それから数年後、ほとんど表に現れることなく息を引き取った。
義父たる王は、素知らぬ顔で病持ちの娘を与えたのだと人々は噂した。悪意と好奇心から流れた噂とはいえ、それは限りなく真実に近いだろうことを男は鋭く感じ取っていた。
初夜の証である赤い染みが閨に落ちていたのは確かであるが、婚礼の翌朝、王の指先に小さな傷があるのに気づいた。男以外の誰の眼にも止まらなかったほどの些細な痕跡に、不敬な疑念が湧いて出た。白い結婚であったのかもしれぬ。男女の営みに耐えられぬ身体の妻を守るために、偽りの血痕をこしらえたのだとすれば。王の人柄を思えば、ありえない話ではなかった。
元から病みがちな娘をそれとわかって嫁がせたのならば、離縁の十分な理由になる。王の親族らは証拠を探った。だが奥方が郷里から連れてきた侍女たちは主に忠実で、どれほど脅しても宥めすかしても、また褒美をちらつかせても、決して口を割ろうとはしなかった。今なお真実は王と一握りの女たちの胸だけに秘められたままだ。
二人の間に子はなく、王は後添いを求めなかったので、最も血の近しい領主の末子を養い子として引き取った。能力、人格共に優れた若者で、王亡き後も国は安泰であろう。
それでも、と男は寝床で半身を落ち着かなく捩らせた。
主人を失いたくはなかった。臣下としてだけではなく、ひとりの人間として。男にとって、父にも、否、神にも等しい存在だった。郷里の人間は皆死に絶えた、そう告げられて絶望の淵にたたき落とされたとき、差し伸べられた手の温もりを忘れはしない。底なき闇に瞬く一条の光のような人だった。この国が豊かに栄えていく様を、共に見ていたかった。いつまでも、永遠に。
次の瞬間、肩を前後に揺すられた。妻でも夢でもない、現実の重みを持つ筋張った大きな手の感触。男は驚いて跳ね起きた。
暗がりに浮かぶその人の顔を見誤るなど、決してありえぬことだった。
「王よ、御用でございますか」
男は急ぎ姿勢を正して膝を屈し、抑えた固い声で尋ねた。次いで呑気に眠りこける妻を起こそうとしたものの、王の身振りによって妨げられた。無礼極まる行為と恐縮しつつも、有り難く受け入れた。王がやってきたと知ったら、妻は仰天して騒ぎ立てるに違いない。
しかし、王はどうやって城の端にあるこの部屋までやってきたのだろう。最後に見えたときには意識が混濁し、歩くどころか、半身を起こすことすらできなかったはずなのに。
「預けたものを取りに来た」
王は、どこか夢見るような遠い口調で言った。男はその言葉の意を図りかねて、尋ね返した。
「預けたもの、とは?」
「剣だ。そこなる櫃に収められているはずの」
部屋の隅に置いた古い櫃を指で示されて、男の顔から一気に血の気が失せた。
数日前、熱にうなされた王は竜殺しの剣を持ってくるようにと男に命じた。しかし、竜の血を浴びたその剣は、王の所有物であると同時に国の宝でもある。さらには敬愛すべき王とはいえ、今や熱に混乱した病人でもあった。考えなく渡してしまっては、自らや周りの者を害さないとも限らない。熟慮の末、よく似た剣を探し出し、刃先を潰して恭しく差し出したのだった。
本物は男が密かに預かり、櫃に隠し置いていた。家令の他には、この秘密を知る者はいないはずだった。
「グンテル様、申し訳ございません。私は……」
蒼白の表情で唇を戦慄かせる男を責めるでもなく、王は暗闇を迷いのない足取りで櫃に向かい、重い蓋を押し開けた。厳重に鍵をかけておいたはずが、なぜが容易く持ち上がった。そこから一振りの剣を見つけだすと、王の面貌に微笑が広がった。
「ああ、そうだ。欲しかったのはこれだ。この剣は持って行くぞ。あれが寂しがっているだろうから」
位の高い女にでもするようにごく丁重に剣を胸に抱いて、主の姿は衣擦れの音と共に闇に消えていった。
「お待ちください。そのように重いもの、お身体に障ります。私が……」
王を追いかけようと立ち上がりかけた瞬間、男は昏倒したように意識を失った。目に見えぬ曲者に強か頭を殴られたかと思うほどの、強烈な眠気に襲われたのだ。
男が再び深い眠りの檻から解き放たれたのは、日が改まり、夜明けの空に曙光が滲む時分であった。
去りゆく夜の彼方から不思議な歌声が流れ聞こえてきて、微睡む耳を心地よく揺らした。寝床に横たわったままぼんやりと天井を見つめているはずが、男の目は小さな琴をつま弾く老楽師の姿をはっきりと捉えていた。
朝の息吹を縒りあげた弦を巧みに操り、楽師は高らかに歌う。
世の悲しみ、嘆き、
あらゆる災厄をば、
見通すは竜の眼なり。
だが、心せよ。
竜の眼に映じるは、
真実に似て、
真実ならざるもの。
賢き者とて、
強き者とて、
ときに迷い、苦しみ、
惑うがさだめと知れ。
涙に眼曇り、
愛に心狂うと知れ。
人の子よ、
しかと感じよ、
人の眼で、
しかと捉えよ、
真実は汝が内にあり。
世の喜び、幸い、
あらゆる祝福をば、
見いだすは、ただ、
己が眼のみなり。
「あなた、どうなさいましたの?」
男に遅れることしばし、ようやく目覚めた妻は何気なく良人の顔を見て、驚きに声を上ずらせた。呆けて寝床に座りこむ男の頬には、まるで何かに憑かれたように、我知らず光るものが幾筋も流れ落ちていた。
国王崩御の報せが城内を揺るがしたのは、男が楽師の歌に涙を流した同じ朝のことだった。
グンテル王は今際の際、竜殺しの剣を固く握りしめて離さなかった。遺骸と宝剣とを引き剥がそうと試みた臣下らのあらゆる努力も空しく終わり、ついに二つを分かつことはかなわなかった。だが男たちには王の気持ちがわからぬでもない。戦さを知る男にとって、鉄と鋼とから成る相棒のみが裏切ることなき友、孤独の慰みとなる伴侶であれば。
こうして英雄の名誉れ高き王の肉体はとこしえの眠りにつき、その魂は死者の国へと旅立って行った。胸に抱いた剣を、永き旅路の道連れとして。