つがいのまねごと
「貴ちゃん、どうしたの?」
 連絡なしで押し掛けたにも関わらず、玄関の扉から覗いた勇一の顔は、ちょっと驚いたような表情をみせただけだった。その間の抜けた声からは、迷惑そうな様子は少しも感じられなかった。全身を硬直させていた緊張が、瞬く間に解けていった。
「あ、もしかしてメールの返事しなかったから? ごめんごめん、不安にさせたよね。あのあと気が抜けちゃってさ、さっきまで寝てて……」
 勇一は決まり悪そうに寝癖の残る頭をかいた。あんな不始末をしでかしたあとなのに、なじることも責めることもなく、全く変わらぬ鷹揚な態度で接してくれる。にわかに後悔が押し寄せてきて、胸がきり、と締め付けられた。
 貴之は靴も脱がないまま、玄関口で深く頭を下げた。
「今回のこと、本当にすみませんでした」
 とりあえず中に入ってと、勇一は慌てた様子で貴之を促した。床にちらばった衣類を足で部屋の隅に寄せて、貴之が座る場所を作る。
「頼むから、謝らないでくれよ。だって、あの客がやりすぎたんだろう? 貴ちゃんは仕事もお金のこともちゃんとしてるから、上の人たちも全然怒ってなかったし」
 上の人。やはり、今回の件の後始末をしたのは勇一ではなかったらしい。
 ついでとばかりに、勇一は付け加えた。
「大丈夫だから。何も問題なし。お咎めもなし、違約金もなし」
「だったら、いいんですが」
 貴之は俯いて、言葉を濁した。
 問題ない。普通ならば安心感を呼び起こすはずのその一言に、なぜか引っかかりを覚えた。
「ところで、今日はどうしたの。仕事なかったよね? まあ、俺はいつ来て貰っても構わないんだけど」
 照れ臭そうに言うと、勇一は急に真顔になった。
「もしかして、父親に何かされた?」
「いいえ」
 反射的に答えたが、間違ってはいない。仕掛けたのは、むしろ貴之の方だ。そんなことはもちろん言えず、さらりと嘘が口をついて出た。
「単なる喧嘩です。進路のことでちょっと揉めて」
「喧嘩するほど仲良くなったの? いや、この間は全然口利かないって言ってたからさ」
「仲良く……は、なってないと思いますけど」
 空々しく言ってから、貴之はきちんと座り直して勇一に向き合った。
「あの、図々しいお願いだとは思うんですが、しばらく泊めて頂けませんか」
「貴ちゃんが? 俺の部屋に?」
 勇一はぎょっとしたように腰を浮かせて、そわそわと落ち着きなく視線を漂わせた。この部屋には何度も来ているが、どんなに帰りが遅くなっても泊まったことは一度もなかった。
 相手がまごつく様子を敏感にみてとって、貴之はすぐさま自分の頼みを撤回した。
「先輩の都合も考えず、いきなり無理を言ってすみませんでした。この辺だったら漫画喫茶もネットカフェもいくらでもありますし、適当なところで……」
「いやいや、ぜひ泊まってって! 都合とか予定とかないから、全然! たいしたおもてなしもできないけど」
 勢いよくまくし立ててから、勇一は腕を組んで突然黙り込んだと思うや、しみじみと呟いた。
「しかし、貴ちゃんが俺を頼ってくれるなんてなあ……」
「頼ってるじゃないですか、いつも」
「そんなこと言ってくれるの、貴ちゃんだけだよ」
 はにかんだように笑う勇一の横顔にふっと影が差した気がしたが、瞬きする間に、暗い翳りのようなものは跡形もなく消えていた。
「飯まだなら、外に食いに行こうか」
 よし、と気合いをこめたかけ声と共に立ち上がって、勇一は貴之の肩に手をかけた。
「厄落としっていうの? うまいもんでも食べて、嫌なことは忘れようよ」
 大盛りで有名な行きつけの定食屋で食事をして帰宅する途中、一緒に飲もうと思ったのか勇一はしこたまアルコール類を買い込んだが、貴之にいらないと拒否されたので、借りてきた映画を一緒に観つつ、ひとりで何本も酒の缶を空にした。
「このくらい大丈夫、大丈夫」
 言うものの、元々強い方ではないのだろう、貴之にしがみつきながらホラー映画を観ているうちに、酔いが回ってつぶれてしまった。
「先輩、こんなところで寝たら風邪引きますよ」
 肩を強く揺り動かしても気持ちのよさそうな寝息が聞こえるばかりで、簡単には目を覚ましそうにはなかった。仕方なくベッドから掛布団と毛布を取ってきてかけてやった。
 少々酒臭いが幸せそうな寝顔を眺めていると、眠気が伝染したようで、貴之の口からも欠伸が零れた。どうせ起きていてもやることなどないのだ。貴之は照明を消すと、自分のコートを毛布代わりにして固い床に横になった。
 夜明け前、ふとだしぬけに目が覚めて、貴之は薄く瞼を開けた。暗がりに自分の部屋のものではないにおいが満ちている。
 そうだ、家出をして、勇一の部屋に転がり込んだんだっけ。築年数の経った古いアパートは、以前母と住んでいた住まいに雰囲気がよく似ていて、今の家よりもずっと居心地がいい。新しくもきれいでもないけれど、温かい生活のにおいする。
 いつまでもここにいたい。いつまでも……。
 心地よい微睡みにうつらうつらしていると、顔のすぐ近くに人の気配を感じた。そっとためらいがちに、しかし着実に距離をつめてくる吐息の熱。
「……先輩?」
 小さく囁くと、文字通り飛び上がって壁側に後ずさっていく勇一の姿が、闇に慣れてきた眼に映った。
「あ、あれ、貴ちゃん、起きてたの?」
「今起きたところです」
「ごめん、起こしちゃったね。あの、ええと、ちゃんと息してるか心配になって……」
 まだ醒めやらぬ酔いのためか、呂律がうまく回っていない。
「生きてますよ」
「ああ、うん。元気そうでよかった。息もしてるしね」
 勇一は慌てたような声音で、意味の通らないことを口走った。
「そうだ、貴ちゃん。ベッドに寝ろよ。俺はここで平気だから。悪かったね、ひとりで布団も毛布も使っちゃって。寒かっただろ?」
 貴之は眉を顰めた。
「先輩を差し置いて俺がベッドで? できませんよ」
「でも……」
 なおも渋る勇一に、貴之は提案した。
「じゃあ、ベッドに一緒に寝ましょうか」
 その言葉の意味するところを、どうやら勇一はすぐには飲み込めなかったようだった。
「男二人じゃ狭いと思うけど……え?」
「男同士のセックス、興味があるならためしてみますか?」
 貴之は夜闇を探って、勇一の手に自らのそれを重ねた。掌を濡らす、じっとりとした汗の感触。間違いなく、それは欲情した男のものだった。
 ひんやりとした夜闇に、蚊の鳴くような声が震えた。
「俺、貴ちゃん買えるほど金もってねえし」
「金なんていりませんよ。先輩にはたくさん借りがあるのに、俺にはこれくらいしか返せるものがないので。本番は抵抗ありますか? それなら、口にしましょうか。男女関係ないですし、照明を落としたままなら……」
「だめ、だめだめ!」
 貴之が胸にもたれかかると、勇一はものすごい力で腕をばたつかせた。身を解かれて肌の熱が離れた瞬間、喉の奥を拳で塞がれたような痛みと苦しみを感じた。
 拒絶されるのは、これで二度目。こんなことに心乱されている自分の顔面に唾を吐きかけたかった。勇一が自分を拒むことなどないと、心のどこかで勝手に思いこんでいた。
 内心の動揺が外に出ないように、平静な声を作り上げた。
「やっぱり、俺相手じゃ無理ですか」
「違う!」
 思いのほか強い否定を叩きつけられて、貴之は目を見張った。
「貴ちゃんが悪いんじゃなくて……いやほら、酔いすぎて勃ちそうにもないし」
 言い訳じみた台詞をもごもごと口の中で転がしてから、勇一はそうだ、と急に声を明るくした。
「さっきみたいに二人で床に寝よう。そうしよう! ベッドはやめ!」
 子供番組の司会役のような明るさで言い放つと、勇一はもはや捨て鉢という体でばたりと倒れ込むように横になった。少ししてから、貴之も勇一と同じように固い床に寝ころんだ。それぞれが、掛布団と毛布を一枚ずつ引き取った。
 勇一は貴之に背を向けていたが、しばらくして、毛布を貴之の方に押しやった。
「貴ちゃん、毛布も使いなよ。寒いだろ?」
「平気です。先輩こそ」
「じゃあ、半分ずつな」
 二枚の寝具を横にして使い、二人は暖を分け合った。勇一は心配そうに言った。
「寒くない?」
「いえ」
 酔って勃たないという割には、勇一の声はしっかりしていた。酒には弱いが、抜けるのは早いのかもしれない。とすれば、先ほどの発言は、やはり貴之の誘いから逃げるための口実なのだろう。だが、布団の優しい温かさに包まれていると、もうすべてが面倒になってきた。考えるのも動くのも、何もかも。
 口元まで引きあげた毛布からは、勇一のにおいがした。
「今急に思い出したんだけど」
 それまで完全にくつろいでいた勇一の声に、仕事の話をする時の張りつめた調子が少しだけ混じった。
「この間、あの客……金子が出入りしてるマンション見つけたんだ」
「この近くですか」
「割とね。住んでる、のかなあ? 何人かの男と連れだって入って行くのは何度か見たんだけど」
「悪いことしてるんでしょうね。あんまり深入りしないほうがいいですよ」
 そうだねえ、と勇一は欠伸をかみ殺した。
「貴ちゃん、仕事してて恐くなったりしない? あいつ相当柄悪いよね。そういう客、少なくないし」
「恐くはないですが、緊張はしますね。自分で自分の身を守らなきゃいけないですから」
 勇一はごくりと喉を鳴らした。
「変なこと聞くけど……客のがよすぎて、はまっちゃいそうになったりしないの」
「ありません」
 貴之ははっきりと告げた。
「客に主導権握られたら、仕事にならないでしょう?」
「貴ちゃんて、何というか、職人だよね」
 感嘆の念をこめて告げてから、そういえば、と続けた。
「父親と進路のことで喧嘩したって言ってけど、もう進路決まってるんだ。貴ちゃんの将来の夢ってどんなの?」
 夢、と聞いて違和感を覚えた。進路希望はあるが、将来の夢と呼べるようなものはない。
「就職しようかと思って」
「へえ、意外。てっきり、すごい難関大学受けるもんだと思ってた。それで官僚とか弁護士とかになって。父親もそういう道に進んで欲しいと思ってたわけ? だから喧嘩したの?」
「ええ、父は進学してほしいみたいで。でも、俺、出来るだけ早く独り立ちしたいんです。経済的にも、社会的にも」
 あくまで快活な口調になるように努めたが、将生とあのような形で別れた現在は、進路の話など絵物語のように空虚に響いた。
「相変わらずしっかりしてるね。俺なんか、高校生の頃なんて、何となく周りについて行ってるだけだったな。友達が勉強してるから、大学行くからついてくって感じで。今もだけど。もう就活の時期なのにさ。貴ちゃんのほうが、よっぽど将来のこと考えてるよ」
 勇一は深く溜息をついた。
「スポーツとか勉強とか、やることが具体的に決まってるといいんだけど、自分で考えなきゃいけないものになると、ぜんぜんだめ。この仕事をはじめるちょっと前、それが原因で彼女にも振られたよ。何でもかんでもあたしに頼らないで、ちょっとは自分で考えないなさいよ! のろい、鈍い、鬱陶しい!……って言われて」
「それは、きついですね」
 彼女の言葉を模した声音には生々しい迫力があって、貴之は微かな同情を覚えた。
「きついけど、事実だよね」
「だから、この仕事はじめたんですか」
 はっきりとは見えないはずなのに、闇の中で勇一が曖昧に笑った気がした。
「どうだろう。そうなのかな」
 過去に思いを馳せているのか、いつにも増して緩やかな語調だった。
「ゼミの先輩の友達の友達、つまりほぼ他人なんだけど、たまたま何人かで飲みに行ったとき、誘われたんだよね。簡単で、しかも金になる仕事があるって」
 勇一の声に、苦い笑いが混じった。
「ちょっと悪いことに手を出せば、周りの人間を見返してやれると思ったんだ。今考えると、くだらないよね。でも正直、この仕事はじめたとき、狭かった世界がいきなり拓けた気がして、すごい開放感があった」
 少しの沈黙を置いて、貴之は尋ねた。
「その人とは、まだ付き合いあるんですか」
「先輩の友達のこと? いや、もうそれきり。どうしてるんだろ」
「消されてたりしないですよね?」
「まさか。ドラム缶に詰められて、海に投げられたって?」
 勇一は冗談めかして笑ったが、貴之はその気になれなかった。
 どちらかといえば、自分が物事を悲観的に捉える性格であることを貴之は承知していた。
 だが勇一に関して言えば、直感のような不安がこびりついて離れなかった。
「先輩、さっきから質問ばかりですみません。これで最後にします。……いつまでこの仕事続けるつもりですか」
「逆に聞くけど、貴ちゃんはどうなの」
「まとまった額が溜まったらやめます」
「それって、たとえばいくらぐらい?」
「そうですね」
 目標額を指で示すと、勇一は目を剥いた。
「え、そんなに?」
「まだ全然足りませんが」
「……よかったら俺も手伝おうか? 俺の稼ぎなんてたいしたことないけど、ちょっとは足しになるんじゃないかな」
「何で先輩が?」
 なぜそんなことを言い出したのか見当がつかず、貴之は怪訝に思った。いくら親しくしていても、そこまでしてもらう理由がない。
「お気持ちはありがたいですけど、俺の問題なので」
「そうだよね、ごめん」
 勇一は苦笑した。
「でもさ、具体性があって君らしいよ。俺は……」
 本当に聞きたかった最後の一語は、曖昧なままに途切れてしまった。
 迷うくらいなら、今すぐ手を引いたほうがいい。
 口にしかけた言葉を、貴之は飲み込んだ。
 貴之は勇一の家族でも友人でも、ましてや恋人でもなく、彼の選択にどうこう言える立場ではない。こんな危ない事態が想定される、だからこの仕事をやめろと説き伏せたとしても、貴ちゃんは心配性だなと弱々しく笑って流されるだけで、きっと勇一の心には届かないだろう。
 実際に客をとっている貴之が感じている危険は、金とメールのやりとりをしているだけの勇一にとって所詮対岸の火事であり、ゲームで起こるイベントと同じなのだ。この非日常的な仕事が、現実と繋がっているという認識がない。認識がないだけで、確かに繋がっているのに。
 結局、それからすぐに大きな欠伸をして勇一は寝入ってしまった。ほどなくして、貴之の意識も浅い眠りの淵へと落ちていった。

 翌朝、寝ぼけ眼の勇一がのそのそと床から起きあがったときには、すでに朝食の支度は済んでいた。
 ガスコンロの前にいた貴之は半ば振り返り、声をかけた。
「おはようございます。二日酔い、大丈夫でしたか」
「……おはよ。貴ちゃん、何してるの?」
 鍋から立ち上る湯気を見つめて、勇一は何度も目を瞬かせた。
「すみません、あるもので勝手に作ってしまいました。よかったら食べてください。口に合うかわかりませんが」
 朝食とはいっても、レトルトの白米と卵と調味料だけで作った簡単な雑炊だったが、勇一はいたく感激したようだった。
「え、いいの? 俺が食べて」
「もちろん。先輩のために作ったんですから」
 勇一はほとんど泣きそうになりながら、雑炊をひとくちひとくち味わうように噛みしめた。
「……うまい」
「今日、授業一限からって言ってましたよね?」
「あ、そうだ。もう支度しなきゃ!」
 名残惜しそうに雑炊を掻きこむ勇一を眺めながら、貴之は尋ねた。
「先輩が学校に行っている間、洗濯させてもらってもいいですか」
 洗濯とかいいから気にしないで、と恐らくそんなことを言おうとした勇一の口を、貴之は先回りして制した。
「俺が昨日着てた服を洗いたいんです。先輩の服、借りっぱなしってわけにもいきませんし」
 貴之は困ったような顔をして、肘までたくし上げたシャツを示した。今着ているのは勇一から借りた服で、貴之にはサイズが大きすぎた。
「それなら、お願いするよ。でも、掃除とかはいいからね」
 もちろんです、と貴之は頷いた。居候の身で、家主の意向を無視してあれこれと手を出しすぎるのも失礼だろう。
 そのときふと、思いついたことがあった。
「よかったら、夕飯作りましょうか」
 なかなか留まり終えないボタンと格闘していた勇一は、その一言に反応して機敏な動作で振り返った。
「いいの?」
「何がリクエストありますか」
「じゃあ、ハンバーグ!」
 満面の笑顔で言ってから、勇一ははっとしたように口の動きを止めて、恥ずかしそうに俯いた。
「あ、いや、何でもいいよ……」
 貴之は思わず顔を綻ばせた。
「ハンバーグ、了解しました。帰るときに材料買ってきてもらえますか」
 手近なメモ紙に食材名を書いて勇一に手渡そうとしたとき、まじまじと見つめられていることに気が付いて、貴之は困惑した。
「先輩?」
「貴ちゃんがちゃんと笑った顔、今日初めて見たかも」
「……ちゃんと?」
「営業用の笑顔か苦笑いしか見たことなかったから。でも、そういう風に笑った方が可愛いよ。自然で」
 屈託なく言われたが、貴之は戸惑いを隠せなかった。
「女子じゃないんで、可愛いと言われても」
「高校生らしいっていったほうがいいのかな」
「普段は、そんなに老けて見えますか?」
「そうじゃないんだけど、達観してるというか……それにいつも、緊張してる感じがする」
 でもさ、と勇一は笑って、貴之の頭に手を置いた。
「俺といるときはそんなに緊張しなくてもいいから」
 ぐしゃぐしゃと髪を撫でられた。乱暴で、しかし優しい仕草に、兄に対するような頼もしさを感じた。今まで先輩と呼んで敬っている振りをしていても、心のどこかでは勇一を馬鹿にしていたのかもしれない。自覚したとたん、申し訳なさに耳まで赤くなった。
 そんな貴之の気持ちの変化に気付くはずもなく、勇一は時計を見て、まずい、と顔色を失った。
「ごめん、もう時間だ。そうそう、洗濯機はベランダにあるから! 今日五限まであってちょっと遅くなると思うけど、なるべく早く帰るようにする。雑炊、本当にうまかった。ありがとな!」
 家主が慌ただしく出て行ってしまうと、部屋が急に静かになった。
 置き時計を見れば、間もなくホームルームがはじまる時間だった。生まれてはじめて、病気でも忌引きでもないのに学校を休んだ。
 皆いつも通り下らない話をして、宿題を写しあって、あるいは授業前の小テストの勉強をしている者もいるかもしれない。クラスのひとりが休んでいようが、授業がはじまってしまえば話題にも上らないだろう。どうせ風邪でも引いたのだと思っているに違いない。
 頭に思い浮かべた教室の光景が、ひどく遠いもののように感じられた。再び時計に目線を戻すと、まだ一分も経っていなかった。時間の流れが、いやに遅く感じられる。
 将生はどうしているのか気にならないわけではないが、携帯の電源は切ったままで、留守電やメールの確認をする気力が起きない。
 いくら感情面で鈍いところのある将生でも、義理の息子が売春をしていることを知り、そのうえ脅迫までされて、これまでと同じような生活を継続しようとは思わないだろう。
 どうしてあんなことをしでかしてしまったのか、自分でもよくわからない。冷静になって考えれば、ごまかして切り抜ける方法はいくらでもあったはずだ。
 最悪のやり方だった。後悔よりもずっと冷たいものが臓腑にへばりついて、凍傷のようなひりつく痛みをもたらした。これから先、放り投げた小石がどこに転がっていくのか、見極めがつかなかった。もしこのままいったら、一体どこまで落ちていくのだろう。
 勇一がいくら構わないといっても、長い間ここにやっかいになることはできないし、ぼんやりと待っているだけで事態が好転するわけでもない。自分で蒔いた種だ。次の手を打つのも考えるのも、自分自身だ。
 そう思うのに、建設的な案が何も浮かばない。
 貴之はそこまで考えて、重く首を振った。
 それから、勇一が空にした皿とコップを手にして流しに向かった。
 暇がありすぎると人間はろくなことをしないし、考えないというのが、貴之の持論だった。そういうときは一度頭を空にして、気分転換を図るに限る。
 洗いものを終えてから、貴之は洗濯に取りかかった。自分の衣類と、ゆうにその数倍はある溜まりに溜まった勇一の汚れ物を洗濯層に押しこむ。自宅とは仕様が全く違う洗濯機とにらみ合ってしばし頭を悩ませたが、数分後には大体の機能を理解して、何とか脱水にまでこぎつけた。
 洗濯の終了を告げる電子音が聞こえたので、貴之は流しを磨いていた手を止めて、ベランダに面した窓を開けた。
 と突然、耳のすぐ近くでもがき苦しむような激しい羽音がした。同時に飛んできた小さな影を避けようと、貴之は反射的にしゃがみこんだ。室内に向かって猛然と突っ込んできたのは、一羽の雀だった。外から鴉の鳴く声がした。鴉に追い立てられて逃げてきたのだろう。
 図らずも狭苦しい場所に入り込んでしまった雀は、興奮した様子で、小さな羽を力一杯ばたつかせて部屋中を飛び回っている。
「待て、止まれ!」
 鳥に呼びかけたところで意味がないとわかってはいても、叫ばずにはいられなかった。悪い予感が的中して、速度を落とさないまま直進した雀は、勢いよく棚にぶつかった。棚の一番上に乱雑に積み上げられていた段ボール箱やら雑誌やらが、その衝撃で床に崩れ落ちた。
「おい、大丈夫か」
 青い顔をして駆け寄る貴之の心配をよそに、雀はすぐに元気を取り戻し、小さな身体は再び宙に舞い上がった。鴉がもういないことを確認してから、貴之は必死に声をかけたり手を振り回したりして、雀を開け放した窓の方まで誘いだした。ようやく空からの珍客が帰ってくれたときには、ひどい疲労感でいっぱいだった。
 たった数分のことなのに、ずいぶん長い時間戦っていたような気分だった。野生の鳥の持つエネルギーにすっかり振り回されてしまった。掌に収まるほどのか弱げな身体のどこに、あれほどの生命力を蓄えているのだろう。
 不意に、開け放した窓から冷たい風が入り込んできた。気持ちのいい秋風だった。窓の外にはちぎれ雲ひとつない澄み切った青が広がっていた。冬の到来を予感させる、秋の終わりの高く美しい空だった。先ほどの雀だろうか、小さな鳥の姿が蒼穹に浮かび上がって、やがて彼方に消えていった。
 風に誘われるように、貴之はベランダに出た。手すりに頬杖をついてぼんやりと空を眺めているうちに、我知らず呟いていた。
「いいよな、お前は」
 あの小さな生き物が羨ましかった。
 秋の風に乗って、翼を繰って、あの大空を自由に飛び回ることができたら、どんなに気持ちがいいだろう。
 何もかも忘れて、何もかも捨て去って。
 今までそんな感傷に浸ったことなどなかったのに、急にこみ上げてきた気持ちに自分でも当惑した。
 たとえ鳥になって逃避したところで、今直面している数々の問題が解決されるわけではない。ましてや、自由になどなれるはずがない。
 馬鹿らしい幻想を振り払うように、貴之は目の前の現実、つまり雀にすっかり荒らされた室内に視線を移した。
 すると、ひっくりかえった段ボール箱から飛びだした、ほとんど裸体といっていい格好をした女の笑顔と目が合った。
 しまった。
 よりによって、一番触れてはいけないものを落としてくれたわけだ。雀に責任を問うなど詮ないことだが、それでも文句のひとつも言いたくなる。
 貴之は、倒れてこちらに底を向けた状態の段ボールに苦い表情を向けた。なるべく目に入らないようにして、さっさと片づけてしまおう。お互いのためにも。
 直視しないように注意して、貴之は事務的な手つきで落ちたものを箱に収めていった。ほとんどは本やDVD、写真と思しき紙類、それから雑多な小物だった。万が一特殊な嗜好を示すものがあったとしても、仕事が仕事だからよほどのものでなければ驚きはしない、と思う。
 目を逸らしながらの作業は、当然ながら円滑に進むはずがない。歯がゆさを感じながら、のろのろと箱の隙間を埋めていった。
 ふいに、小銭でも本でもない何かが手に触れた。ごく軽いプラスチックの感触。恐る恐る手元に引き寄せて確かめてみれば、何のことはない、きれいに洗われた携帯サイズの空のペットボトルだった。
 どうしてどこにでもあるようなペットボトルを大事そうにしまい込んでいるのだろうか。貴之は首をかしげながら、ともかくそれも箱に入れた。
 勇一の妙なコレクションに驚いて気がゆるんでしまったのか、つい何気なく箱の中身を正視してしまった。
 成人向けの雑誌に紛れて、自分の顔が見える。
「……何だよ、これ」
 網膜に映ったものが信じられず、衝撃にかすれた目を再び凝らすと、確かにそこには貴之の顔があった。正確には、貴之を写した写真があった。記憶にある限り、勇一に写真を撮られた覚えはない。それに写真はどれも日常の一部を切り取ったような画ばかりで、つまりは明らかに隠し撮りされたものだった。
 その瞬間、血管が凍り付いたような錯覚に陥った。思いだしたくもない情景が、鮮やかに脳裏に蘇る。
 そうだ、お茶あるよ。ちょっと待って。
 飲みかけで悪いけど。
 貴之は、箱に横たわるペットボトルを愕然と凝視した。
 見なかったことにしたいのに、目を瞑ることができなかった。
 由美子の抽斗、将生の手紙、そして勇一の箱。
 人の秘密なんて知りたくない。どんなに些細なものでも手に余る。
 空のペットボトルと数枚の写真を見下ろしながら、そんな台詞が真っ暗になった視界にぽっかりと浮かんだ。