つがいのまねごと
 帰宅した勇一の手には、大きく膨らんだスーパーの袋が二つぶら下がっていた。
「ただいま」
「お帰りなさい」
「調味料とかよくわかんなくて、買いすぎちゃったよ」
 笑顔で出迎えると、勇一は気恥ずかしそうに頬を染めた。
「何かいいね、こういうの」
「先輩、食事の支度の前にちょっといいですか?」
 貴之は唇に笑みを浮かべたまま、冷蔵庫に食材をしまい終えた勇一を促して、ラグの上に座らせた。
「どうした? 俺がいない間になんかあった?」
 心配そうな表情をする勇一に、貴之はコップに注いだ冷茶を差し出した。
「お客さんが来ましたよ」
「客? まさか、あいつら……」
 あいつら、とは大学の友人たちを指しているのだろう。貴之はすぐに否定して、両手の掌を丸めて差し出した。
「いえ、このくらいの」
「随分ちっちゃいね。……もしかして、虫?」
 さっと青ざめた勇一を安心させるように、貴之は言った。
「雀です。窓から飛び込んできて」
「何だ。よかった」
 勇一は大きく安堵の息をついて、冷茶を飲み干した。
「近くに公園があるからね。そこから飛んで来たんだよ、きっと」
「鴉に追われて興奮していたみたいで、部屋の中をすごい勢いで飛び回ったんですよ」
「そりゃ災難だったね。びっくりしただろ?」
「ええ。雀にも驚きましたけど」
「……貴ちゃん?」
 いつまでも後に続く言葉を発しようとしない貴之に、勇一は怪訝な顔をした。
 戸惑う勇一をたっぷり三十秒は眺めてから、貴之はおもむろにデスクの下に置いてあった紙袋を持ち上げた。そこから、自分の映っている写真と空のペットボトルを取り出して、そっと勇一の前に置いた。
 和やかに流れていた室内の空気が、瞬時に変質した。
「すみません。見るつもりはなかったんですが、雀が暴れた勢いで段ボールが落ちてきて」
 貴之はなおも笑顔を絶やさずに、ちょうど勇一から見て正面にあるワーキングチェアに腰を下ろした。
 勇一は無言で俯いていた。可哀想に、石のように硬直してしまっている。
「仕事で使う写真でしょうか。いつ撮ったんですか? 全然気付かなかった。先輩、探偵の素質ありますよ」
 問いかける声は柔らかく響いたが、それは間違いなく尋問だった。
「このペットボトルのお茶、何か商品が当たるようなキャンペーンやってましたっけ? ラベルについている応募券を送ると海外旅行が当たるとか、そういうの」
 喋るのは貴之ばかりで、勇一はうなだれて押し黙ったままだ。
「覚えてますか。前に、俺に同じお茶分けてくれましたよね。美味しかったな」
 言いながら足先で弾いたのは、どこのコンビニでも自動販売機でも売っているような、ありきたりの商品だった。だが、貴之には確信があった。
「どういう風に使ってたんですか、これ」
 ここでようやく、勇一はおずおずと頭を上げた。貴之は冷然と観察した。顔色がない、というのはまさに今の勇一のような状態をいうのだろう。
「貴ちゃん、俺……」
 ひどく震えた、蚊の鳴くような声だった。貴之はその頼りない羽音を軽く振り払った。
「教えてください、先輩。ね?」
 貴之は目を細め、ワーキングチェアが前に転がるように体重をかけると、中途半端に膝を立てて座る勇一の股間に爪先を伸ばして強く押し当てた。
「こんな感じでしょうか。違ったらごめんなさい」
 勇一は眉と眉の間に深い影を落としたが、反抗することも拒絶することもせずにその屈辱的な行為を受け入れた。
「あ、靴下はない方がいいですね」
 貴之は靴下を脱ぐと、明らかに膨張しはじめたそれを足の親指と人差し指で挟みこんで、丁寧にもみしだいた。
 勇一の唇から、切なげな吐息が漏れる。足を使ってのぎこちない愛撫は、しかし彼の気に入ったらしく、一気に強烈な興奮を呼び起こしたようだった。下半身の存在感がみるみる増していき、布の下ではちきれそうになっている。
「苦しいでしょう? 下、全部脱いだらいかがですか」
 請うように見上げる熱を帯びた瞳の奥に、わずかな期待が兆すのを感じた。貴之はそのサインに気付いたことを態度で示しながらも、あえてはねつけた。
「ご自分でどうぞ」
 両手でひらひらと降参のような仕草を示す。
「俺の手は汚れていますから、先輩には触れません。足を使ったプレイはしたことないので、許容範囲ですよね」
「汚れてるなんて、そんなこと言うな」
 足元から、ようやく耳に入るくらいのか細い音がした。
「そんなこと……」 
 勇一の目に涙が浮かんだ。それが快感によるものかそうでないのか、貴之には判断がつきかねた。
 ふと思い立ったように腰を上げて、貴之は勇一に顔を寄せた。鼻先が触れそうなほど、吐息の湿り気を感じるほど近くに。だが唇が重なる直前でぴたりと動きを止め、腕を掴みかけた勇一の手を軽くあしらった。
「キスも、しません」
 代わりに、と貴之はペットボトルを差し出した。
「これ、舐めててください。もしかして俺、使い方勘違いしてましたか?」
 半ば強引にペットボトルの口を含まされて、勇一はたまりかねたように横たわると、服と下着を脚の半ばまで引きずりおろした。濡れた赤い舌先が、夢中でペットボトルを舐める。
「なるほど、やっぱりそんな感じで使われてたんですね。あんな写真で、役に立ちましたか? 言ってくれれば、もっといいポーズで撮ったのに」
 貴之は微笑みながら、今度は両足の土踏まずで挟み込むようにして、隆起したそれをしごきはじめた。ほとんど踏みつけているような乱暴な動作だったが、勇一は物憂げに喘ぎ、下半身に疼く快楽に耐えきれないように腰を浮かせた。
 勇一は貴之よりもずっと体格がいい。逆にやりこめようと思えばいくらでもできたはずだ。だが、彼はそうしなかった。
 その濡れた眼差しから、膨らんだ性器から、熱い吐息から、貴之は勇一の求めるものを緩やかな動きで探り出していった。
 その写真は仕事に使うために人に言われて撮ったものだ。
 ペットボトルはたまたま捨てるのを忘れていただけだ。
 俺はそんなことしない、変態じゃない。
 いくらでも考えつくのに、彼はひとつも言い訳しなかった。ならば貴之も、その誠実さに応えてやらなければならない。
 先端に滴る体液を足の親指で掬い取ると、そのまま溝を抉るように押し入れた。与えられた刺激に過敏に反応して、勇一はペットボトルにしがみつくようにしてその口を吸い上げた。
 芋虫のように必死に身をよじらせる姿は滑稽で、でもひどく哀しかった。憐憫に似た感情が、胸にこみあげてくるのを抑えられなかった。
 そのとき、テーブルの上に置かれていた勇一の携帯がものすごい音を立てて震えた。
 貴之は愛撫をやめて立ち上がると、携帯を手にとってディスプレイに浮かび上がった名前を告げた。
「誰ですか」
「友達」
「ああ、この間家に来ていた?」
「そう」
 息苦しさに顔をゆがめながら、勇一は乱れた呼気の合間に短く返答した。
 たぶん勇一の意志も予定も確かめず、これから遊びに行くから準備しておけよといったような、無神経で不愉快な内容だろう。
 力なく横たわったままの勇一の目の前に携帯を置いてから、貴之は再びワーキングチェアに腰を沈めた。
「電話、とってください」
「……このまま?」
「もちろん」
 少しだけ躊躇してから、勇一は携帯を操作した。
「もしもし、俺だけど。何か用?」
 最初の応答が終わるや否や、貴之は露わになった勇一の性器を再び弄びはじめた。勇一は愕然としたように目を見開き、自分を見下ろす貴之を凝視した。
 続けて。
 貴之は声を出すことなく、唇の動きだけで命じた。
 今までよりもずっと激しく速い動きで、貴之はすっかり固くなったそれを規則的にさすり上げた。
「……え、これから? 今日はちょっと予定があって」
 平たい声音を作ってはいたが、眉間に寄せられた皺が耐えている快楽の強さを健気に物語っている。それをわかって、貴之はなおも責め続けた。
「ごめん、無理。急に言われても困る」
 常からはとても想像できない強い口調で、勇一は吐き捨てた。昂ぶった陰茎はもう限界寸前だ。貴之の足の裏は勇一の先端から溢れたもので、べとべとに濡れていた。
「そういうの、迷惑だから。もう来ないでくれ!」
 ほとんど怒鳴りつけるような声で言うと、電源ごと切ってしまった。信じられないという表情で、勇一は真っ黒な画面を見つめていた。
 勇一が自分の力で「お友達」の影響力を払いのけたことは嬉しかったが、貴之はそんな気持ちをおくびにも出さなかった。
「先輩、やろうと思えばできるんじゃないですか。できないのは俺と寝ることだけですね」
 にっこりと微笑んで、貴之は憔悴した様子の勇一に尋ねた。
「それとも、ひとりで妄想しながらするほうが好きなのかな。俺が男のをしゃぶって、犯されてる姿を想像して、興奮しましたか? 客と会う前に、トイレで慣らしてたのも知ってたんでしょう。そうですよ、自分でしてました。自分の指にローションをたっぷりつけて、ぐちゃぐちゃにかき回して。でも」
 貴之は囁くように言った。
「今もこんなに勃ってるのに、セックスまではしたくない……俺と同類になるから?」
 勇一は口を開きかけたが、唇からはすすり泣きのような声が漏れただけで言葉にはならなかった。
「金をもらって男と寝てるわけじゃない、買ってもいない。悪い組織の正式な一員というわけでもない。自分はまともな人間で、お前らとは違うって思ってたんじゃないですか。この仕事だって、力試しでやってみているだけだ、いつでも足ぬけできるんだって」
 貴之は淡々と継ぎながら、足の指の間に性器をねじいれて、裏側を優しくさすりあげた。勇一は耐えきれないように自らも前後に腰を動かした。熱っぽい震えが、足裏から伝わってくる。
「単なる連絡役で、メールと金のやりとりしてるだけ? 甘いですよ、先輩。俺もあなたもとっくに犯罪者なんです。ちょっと運が悪ければ、あっという間に奈落の底。俺はまだ未成年だけど、先輩、もう二十歳になってましたよね? マスコミの対応とか、量刑とか、ずいぶん違ってきますよ。先輩の場合、逮捕されたら確実に名前も顔も出ますから」
 ふと、継父の声が思い出された。
 お前の言動は矛盾している。
 確かにそうだ。全くその通りだ。
 馬鹿だった。勇一も、自分も。わかったつもりでいて、何もわかってなどいなかった。
 勇一はみじめたらしく哀願した。
「もう、やめてくれ」
「いいんですか、やめて」
 酷薄に告げて、貴之は何の躊躇もなく足を離した。
「ほら、やめましたよ。続きはご自由にどうぞ。俺は見てますから」
 しばし逡巡したあと、勇一はぐっと唾を飲み込んで上半身を起こし、自らの手で竿を素早くしごきはじめた。時折、ちらと貴之を見やる気配がある。だが貴之は約束通り、勇一の痴態を黙って眺めているだけだった。
「あ、もう……」
 背中がぶるりと震え、とっさに床にあったティッシュケースに手が伸びた。
 と、横から伸びた足が、軽い紙箱を蹴り上げた。ケースは乾いた音をたてて、部屋の隅へと滑っていった。
 勇一の片腕は、目標を失って空しく宙に投げ出されていた。
「だめ、目瞑らないで。そこがどうなってるか、見て」
 呆然とした表情の中にも暗い歓びが見え隠れしていることを確かめて、貴之は秘された願望をわざと口にした。
 勇一は優しい。優しいが、臆病で卑怯な男だ。淫らに固くなった性器を露わにして、それでも一線を越えようとはしない。
 貴之は顔を歪めた。
 勇一は狡いが、自分はもっと狡い。
 やり場のない苛立ちを彼にぶつけて何になる。性欲を発散させるためだけのセックスのほうがよっぽどいい。
「俺にも、出すとこちゃんと見せてください」
 嗜虐的な台詞が空しく響いた。
 勇一に対して発する言葉のすべてが、自分に返ってくる。
 相手を責め苛むことで、自分自身を責め苛む。
 彼が傷つくと同時に、自分も傷ついている。
 彼を汚す度に、自分も汚れていく。
 自分が本当に虐げたかったのは、一体どちらだったのだろう?
 勇一は素直に言うことを聞き、自由にならない両足をよじらせながら、限界まで肥大した半身を必死に貴之の方に向け、果てた。
 弾けた精液が床を濡らしたとき、我に返った。やりすぎてしまったと、急に後悔がこみあげてくる。
「……ごめん、先輩」
 しゃがみこんで、うなだれた勇一の肩に呟いた。
「俺、だめだなあ。本当に、だめ人間だ」
 俯いた先から、涙交じりの笑い声がした。勇一の顔は、歪んだ笑顔と涙でぐしゃぐしゃに汚れていた。

 順番にシャワーを浴びて、そのまま食事もせずに何時間もテレビの前に座り込んた。日はとっくに落ちていたが、明かりをつけることもカーテンを閉めることも忘れていた。二人とも、ひどく疲れていたのだ。
 どこかに逃げ出してしまうことを恐れるように、勇一はずっと貴之にしがみついたまま離れなかった。
 暗い室内で、テレビの画面だけが煌々と光を放っている。四つの眼はバラエティ番組を映してはいたけれど、何も見てはいなかった。
 勇一の部屋で彼の服を着て抱かれていると、勇一のにおいに丸ごと包まれているような気分になった。隣の部屋から時々物音がするのに、世界に二人きりになったみたいだった。
 勇一は、貴之のうなじに熱い唇を埋めてきた。
「温かい。人とくっつくの、久々だな」
「あんまり力入れないでください。やわなので」
「貴ちゃんとこうしてるの、変な感じがする」
 耳元で笑う気配がした。
「仕事で接点なかったら、きっと俺なんかと口も利いてくれなかったよ」
「そんなことないですよ」
 そこまで自分を卑下することはないんじゃないか。意識して声に含みを加えたが、勇一はどこか悲しげに首を振った。
「貴ちゃんさ、もう家に帰るつもりないんだろう?」
 無言を肯定と受け取ったようで、勇一は続けた。
「俺、考えたんだけど……どっか遠くに行こうか。誰も知らない街で、二人で暮らそうよ」
「駆け落ちってやつですね」
「大学は?」
「やめる。貴ちゃんの方が大事だから」
「行くあてはあるんですか」
「いや、ないけど」
「じゃあ、無理ですよ」
 短く突き放したが、勇一はなおも食い下がった。
「貴ちゃん、来年十八だよね? 二人で一生懸命働けば」
 育ちの良さからくる呑気な楽観主義に、貴之は苛立ちを覚えた。
「身分も能力もない俺たちに、まともな働き口があるとも思えませんが。いずれ、似たような仕事に収まるんじゃないですか。先輩は悪人の使い走りみたいな仕事して、俺は身体を売って」
「そんなことさせない!」
 声音からも触れ合った肌からも、真剣な気持ちが伝わってくる。勇一の正直さや真摯さは、貴之にはないものだ。誇っていい長所だと思う。だから余計に、勇一が口にする夢物語が痛々しく響いた。
 貴之はあえて冷たく言った。
「若いうちはそれでもやってけるかもしれませんけど、そのまま年を取ったら悲惨ですよ。身体を切り売りできるような若さもなく、仕事もなく、金もなく……もしかしたら、愛も情もないかも。お互い愛想を尽かしてなかったら、最後には仲良くホームレスかな。あ、でもその前に病気になったら終わりですね。健康保険に入ってなかったら、とても診療費払えませんから」
「……それでもいいよ」
 いくら悲観的な現実を並べても、勇一は抱きしめる腕の力を緩めなかった。背中に触れた胸が、微かに上下するのを感じる。
 その心地よさと温かさに、どうしようもない苦しみが喉にせり上がってきた。
「先輩、もう……」
 そのとき、玄関でチャイムが鳴った。
 一度目、二度目と無視したが、なおも耳障りな高い音は鳴り止まない。
 三度目にして、勇一はようやく重い腰をあげた。
「何だろ、宅急便かな」
 もし勇一の知人だったら、二人の関係を説明するのが面倒だ。貴之はテレビを消し、手探りで玄関から見えない場所に移動した。
 がちゃりと扉が開く気配がしたとたん、何か固いものがぶつかり合うような鈍い音が響いた。驚いて立ち上がると、玄関から勇一の鋭い声がした。
「来るな! 窓から逃げ……」
 もう一度衝撃音がして、言葉は嘔吐するような呻きに変わった。
「先輩!」
 貴之が玄関に向かう前に、土足と思しき足音がどかどかと室内に入り込んできた。異常な事態が起こったのだという認識はある。だが勇一の言うとおりにはできない。彼を置いて逃げるなんて、できっこない。
 勇一の友達?
 いや、悪ふざけといっても、さすがにここまではしないだろう。
 ならば誰がと思いかけたとき、男の声がした。
「真っ暗だな。電気つけろよ」
 未知の侵入者が舌打ちすると、薄暗かった室内に一瞬にして光が満ちた。
 貴之は声を失った。
 見るからに堅気とは思えない数名の男たち。その先頭に見知った顔がある。
「久しぶりだね、ヒライユウイチ君?」
 金子は満面の笑顔を浮かべていた。だがそれは、とても笑みには見えなかった。
 吐き気を催すような強い香水のにおいが、ゆっくりと近づいてきた。