目隠しをされて車で運ばれてきたときには知る由もなかったが、その朽ちかけた建物はかつてある企業の社員寮として使用されていたもので、今は住む者もなくほとんど廃墟のようになっていた。
　悪童の巣窟になっているようだ、早くどうにかしてほしいと、防犯上の問題から地域住民が何度も役所に陳情をあげていたが、税金対策か、売却先が見つからないのか、いつまで経っても所有者が取り壊しをしようとせず、役所の職員も頭を抱えている。そんな場所だった。
　金子は貴之を後部座席から引きずり下ろし、背中を小突く仕草で歩けと命じた。自らの悪人ぶりに酔いしれているらしく、いやに芝居がかった声だった。
「いやあ、びっくりしたよ。たまたま通りがかったアパートのベランダに君の姿が見えてさ。まさに運命だと思ったね。一緒にいたのは彼氏？　羨ましいなあ。君みたいな子とつき合えるなんて」
　ざっくばらんな明るい口調とは対照的に、悪意をこめて足を掬われた。思わずよろけると別の男の腕に抱きかかえられた。と、ゴミ袋のように放り投げられて、肩と床がまともにかち合った。鈍痛を感じる間もなく、今度は蹴られて横に転がされた。
　次は何をされるのか、考えても仕方がないのに考えてしまう。痛みと恐怖で、全身に冷たい汗が滲んだ。
　こんな状況だからこそ冷静であろうと思うのに、徐々に増してくる痛みが神経を臆病にする。少しでも楽な姿勢をとろうともがいたが、後ろ手に縛られているので身動きができなかった。
　頭上から甘ったるい声がした。
「ガムテープはもういらないかな。ここ、結構でかい建物でね。いくら大きな声出しても、誰も気づかないから。いい声、聞かせてくれよ」
　誰かが笑って、口を塞いでいたガムテープを一気に引き剥がした。唇の肉を千切られたような衝撃に、思わず叫びを上げた。
　久方ぶりの深い呼吸を味わうよりも先に、命乞いを思いつく前に、貴之は尋ねずにはいられなかった。
「あの人は無事……」
　言葉半ばで強烈な一撃を頬に食らった。閉ざされた視界に火花が散り、鉄の味が口に広がっていった。その後を疼痛がじわじわと追いかけてきた。
　ここは危ない、一刻も早く逃げ出せと、鋭敏になった五感がしきりに警報を鳴らしてくる。
　だがこの最悪の状況で、逃げるなんて選択肢はどこを探してもなかった。
　また何度か殴られて、次第に意識が混濁しはじめる。両腕に胸にと、汗混じりの不愉快な体温と骨が砕かれそうな重みを感じた。苦痛から逃れるために身体をよじらせようとするが、ささやかすぎる抵抗は、腹にめり込んだ革靴の踵によって軽くいなされた。
　男たちが自分を囲む気配がした。直後、緊張で強ばった両脚を掴まれ、左右に大きくこじ開けられた。
　そして……。

　来るな。
　嵐の日の風の唸りに似た、苦しげなその音。
　来るな。
　勇一が耳元で叫んでいる。
　来るな。
　将生の低い声が囁く。
　遺体安置所の前に、二人が立っていた。
　誰も手を触れていないのに、重い鉄の扉が叫びに似た軋みをあげて開かれていく。
　中まで足を踏みいれたこともなければ、奥に何があるかもわからない。
　だが、貴之は知っていた。
　その先には、絶望が口を開けて待っている。

　どれほどの時が経ったのか、わかる方法もなかったし、知る必要もなかった。
　時間は意味をなくした。
　なぜなら、間もなく自分は死ぬからだ。貴之は何の疑いもなく確信していた。
　首を絞められかけたことも、薬を打たれそうになったこともある。命の危険を感じた経験は、これまで何度もあった。
　だが、危険に晒されることと実際に死ぬことは、全く別物だった。
　危機が迫ったとき、人の身体には身を守るための緊張が走る。当人の意志など無視して、肉体はぎりぎりまで生きようと努力する。それなのに、今の自分ときたらどうだろう？　手も脚も人形みたいにだらりとぶら下がって、ようやく胴に繋がれている有様だった。
　死ぬ、そう思ったとたん、痛みがふっと消えて息をするのが楽になった。音も消えた。肉体から精神がぷつりと切り離された。視界には、静かな砂嵐が広がっている。
　衰えつつある脳の最後のあがきなのか、乱雑な思考が好き勝手に頭の中を飛び回った。
　後悔、という語からまっさきに連想したのは、なぜかハンバーグだった。
　せっかく材料を買ってきてもらったのに、無駄にしてしまった。人のために何かするなんて久々のことだったから、特別力を入れて作るつもりだった。自分の料理をあんなに楽しみにしてくれた人はいなかった。他の誰でもなく、あの人に食べてもらいたかった。
　そう、臆病で決断力がなくて、でも誰より優しくしてくれたあの人に。
　どうしているだろうか。
　ひどく殴られたに違いない。怪我は大丈夫だろうか、生きているのだろうか。いや、きっと無事だ。無事なはずだ。
　母親には悪いことをしたな、と思いかけて、貴之は首を傾げた。
　そうだ、母は死んだのだ。
　死んでいてよかったと心の底から思った。
　このボロ雑巾のような姿を見られずにすんだ。
　それから、あの男。
　名前も顔も忘れてしまった、背の高い男。
　記憶の海に漂う、広い背中がゆっくりと振り向いた。
　あと少し目を凝らせば顔が見える、あと少しだけ。
「ほらほら起きて。朝ですよお」
　望むものに手が届きそうなところで、髪を掴まれた。衝撃を受けて身体が大きくしなり、落ちかけていた意識が再び引きずり上げられた。
「ねんねするには早いよ、坊や。……こっちはまだ足りねえんだよ」
　自分がまだ死んでいなかったことに、貴之はひどく落胆した。
　痛覚はすでに役目を放棄している。下腹部に感じるのは、杭のようなものをねじ込まれる圧迫感だけだ。男は薬の力を借りて、猿みたいに腰を振り続ける。
　こいつら、俺が死体になっても気づかないでやり続けてるんじゃないだろうか。
　唇だけで軽く笑うと、生死の区別すら些細なことに思えて、もうどうでもよくなった。どうせ、かろうじて動いている内蔵に生かされているだけの命だ。
　目隠しをされているのに、自分が眼を閉じる仕草をしているのが滑稽だった。
　だが、ひどく眠たくて、だるくてどうしようもなかったのだ。
　もう痛いのにも苦しいのにも飽きてしまった。すべてを忘れて、寝てしまおう。もう二度と起きなくてすむくらい、深い眠りに。
　そのときだった。
「火事だ！」
　場違いなほど脳天気な声が、どす黒い闇を一瞬で蹴散らした。
　冷静な判断力と良識を持った人間であれば、この調子の狂った叫びにうろたえることなど決してなかっただろう。だがこの場にいた男たちはそのどちらも備えていなかったし、悪事を働いているという自覚もあった。あたりに満ちていた嘲笑は、一瞬にして不安そうなざわめきに変わった。
「お巡りさん、こっちです！　こっちこっち！」
　次の一言が決定打であったようだ。
　貴之を取り囲んでいた悪意と暴力の気配は、蜘蛛の子を散らすように消えてしまった。
　自分が置かれている状況に頭が追いつかなくて、貴之はしばらくその場から動くことができずにいた。
「貴ちゃん」
　涙声で呼ばれたかと思うと、飛びつくように抱きしめられた。
「……先輩」
　物理的なものではない、だが確かに存在する、体温とは別のぬくみが心に力を与えてくれた。あの男たちが発していた不快な熱とどこが違うのだろうと、貴之はくたびれた頭でぼんやりと考えた。
「今解いてやるからな」
　勇一は不器用な手先を必死に動かして、数分かけて貴之の手首を戒めていた紐を解き、目隠しを外した。
　そろそろと瞼を押し上げると、室内は明るく、すでに朝になっているようだった。暗闇に慣れた眼には朝日の眩しさは凶暴で、貴之は軽い目眩を覚えた。
　飲食物のごみや昨夜使用した器具の残骸が散乱しているところに、清々しい朝の光がたっぷりと降り注いでいた。
　全体的にかなり古びているし、床板が剥がされてコンクリートがむき出しにはなっているものの、貴之が長い一夜を過ごしたのは、小さなキッチンを備えたごく普通の狭いマンションの一室であった。いわゆる悪役の秘密基地のような、もっと広くて暗い場所を想像していたのだが。
　光の下で改めてみると、勇一は浮浪者のような姿をしていた。顎には無精ひげが生えかけ、髪も服も悲惨な乱れ具合で、眼の周りに大きな青あざがきれいな円を描いている。しかし一見したところ、そのあざ以外に怪我はなさそうだった。
　貴之はかすれた声で尋ねた。
「先輩、怪我の具合は……」
「俺のことなんかどうでもいいだろ！」
　勇一の顔に、いつもの曖昧な笑いはなかった。怒鳴られたことに驚いて返答に窮していると、骨が折れそうなほどきつく手を握られた。
「それより、貴ちゃんが」
　言いかけて、勇一はもう限界だといった様子で貴之の肩に額を乗せた。肩が熱く濡れていくのを感じる。そのとき感じた胸の痛みは、身体につけられた傷よりもよほど強かった。
　勇一は子供のように泣きじゃくった。
「ごめん。ごめん、守れなくて」
「俺なら大丈夫です。仕事のときも結構あるんですよ、こういうプレイ。もう少し手加減してほしかったですけど……ほら、泣かないで」
　震える背中を優しく撫でさする。貴之の口調は、普段と変わらぬ落ち着きを取り戻していた。
　勇一の呼吸が少しずつ整ってくるのを確かめて、貴之は言った。
「その辺に俺の服が落ちてたら、拾ってきてくれませんか？　ちょっと腰が痛くて」
「そうだよな、そんな格好で寒かっただろ。ごめんな」
　大仰な身振りでさらに謝罪を重ねようとする勇一をなだめつつ、それから、と貴之は続けた。
「すぐにここを出ましょう。あいつらが戻ってくるかもしれませんし」
「でも身体が」
　勇一は鼻をすすり上げ、いたぶられた痕が色濃く残る貴之の裸体から目をそらした。
「平気です。見た目よりもひどくないですから」
　悠然と告げる態度には、確かに暴行の痛手はどこにも感じられなかった。
　しかし、勇一は貴之の申告を疑っているのか、なかなか引き下がろうとしなかった。
「……本当？　無理してない？」
「俺の言うことが信じられないですか？」
「そういう意味じゃないよ！」
　ここで揉めていても仕方がないということで、結局、勇一の方が渋々ながら譲歩した。
　貴之は勇一が集めてくれた服に袖を通した。単に服を着ただけなのに、ようやく人間の世界に戻って来られたような、妙な安堵感と嬉しさがこみ上げてきた。
「よかった、破かれてなくて。さすがに裸のままじゃ、外歩けませんからね。そういえば、ここ、住所でいうとどのあたりにになるんでしょうか」
　勇一から告げられたのは、彼の家からそう遠くない地名だった。
　貴之は尋ねた。
「先輩はどうしてこの場所がわかったんですか？」
「玄関で殴られたとき意識を失いかけたけど、すぐに目が覚めて。ちょうど貴ちゃんが車に乗せられてるのが見えたから、自転車で追いかけてきたんだよ」
　必死の形相で自転車をこいで車を追いかける勇一。その光景がありありと目に浮ぶようで、貴之は心の底から申し訳ない気持ちになった。
「すみません、大変な思いさせて……」
「無我夢中だったせいか、全然疲れなかったんだよ。でも、途中で自転車がパンクしちゃって、結局あいつらの車を見つけた時には朝になってた。……俺があそこで追いついていれば」
「先輩のせいじゃありません。謝らないでください。俺がお礼を言えなくなるじゃないですか。だから」
　乾きかけた涙でひきつった勇一の顔を、貴之は優しく両手で挟み込んだ。
「……ありがとうございます」
「貴ちゃん」
「じゃあ、行きましょうか」
　今まさに唇を重ねようとした瞬間、期待に満ちた勇一の視線をひらりとかわし、貴之は軽やかに立ち上がった。
　勇一は露骨に落胆した様子で聞いた。
「行くって、どこに」
「まず公園。水を飲んで、顔を洗って、トイレに行きたいです」
　二人は身を寄せ合うようにして、金子たちの姿がないか周囲に神経を尖らせながら、廃屋近くにある小さな公園に向かった。貴之よりも勇一のほうが覚束ない足取りだった。
「はは、足が笑ってるよ」
　勇一は恥ずかしそうに苦笑した。
　貴之がトイレに行くというと、勇一は近くのコンビニで食べ物と飲み物、それから貴之が頼んだメモとペンを買うために、よろよろと頼りなく公園を出て行った。
　薄汚れた公衆トイレの鏡に映る自分を、貴之は用心深く注視した。
　顔を殴られたのは、最初の一撃だけだ。
　これなら大丈夫、そこまでひどい顔はしていない。
　口の端が少し切れて血がこびりついているが、人混みで視線を集めるほどではなかった。
　ラブホテルで将生に出くわしたあの夜、タクシーの車窓に映った顔の方が、ずっと惨めな顔をしていた。
　傷口の血もほとんど乾いているから、服に染みてはいない。薬も打たれていないようだ。
　大丈夫。
　貴之は声に出さずに繰り返した。
　人の群れに紛れても誰も気に留めないような、普通の人間だ。
　トイレから出ると、ちょうど勇一が戻ってきたところだった。
「どう？　食べられそう？」
「大丈夫です。ありがとうございます」
　勇一が差し出したペットボトルのお茶と菓子パンを、二人で分け合って食べた。
　お茶とパンを黙々と口に詰め込む貴之の横顔を、勇一は不安そうに覗き込んできた。
「あ、おにぎりの方がよかった？」
「俺、甘いものあまり好きじゃないんですけど」
「うわ、ごめんね！」
「でも、このパン、すごくおいしいです。今まで食べたもののなかで、一番」
　指でちぎった一切れを丁寧に咀嚼しながら、貴之はその言葉をもう一度噛みしめた。
「おいしい」
　それは世辞でも嘘でもなかった。ずっと口にすることがなかった、心からの本心だった。
「本当？」
　素っ気ない一言から貴之の気持ちをきちんと受けとめてくれたのか、勇一の表情が明るくなった。
　だが目の前に迫る現実は、束の間の楽観主義をすら許さない厳しいものだった。
　金子たちは今もこの街にいて、再び貴之に危害を与えてくる可能性は高い。勇一の家も知られてしまっている。
　蝋燭の火がふっと消えるように、勇一の笑顔は瞬く間に失われてしまった。
「このあとどうする？」
「先輩の家に帰るのは危ないですよ」
「そうだなあ」
「よかったら、付き合ってもらえませんか」
「いいけど、どこに？」
「ちょっとした野暮用です」
　貴之はにっこりと笑ってから、勇一に尋ねた。
「先輩、携帯貸してもらってもいいですか」
　勇一は意図が飲みこめない様子だったが、促されるまま素直に携帯を取りだした。
「それとお願いばっかりで申し訳ないんですが、この間、金子が出入りしてるマンションを見つけたって言ってましたよね。どのあたりか教えてください」
「あ、うん。ちょっと待ってて」
　勇一は慌てた様子で携帯を操作した。
「ここだよ。三丁目の、このマンション」
　貴之は地図に示された町名と番地をメモに記入した。
　それから人が来たら教えてほしいと勇一に頼んで、借りた携帯で電話をかけた。
「もしもし？　あの、友達のことで相談したいことがあるんですが……」
　横で話の内容を聞いていた勇一の表情が、次第に厳しくなっていった。
「実は、友達が悪い仲間に誘われて、ドラッグを売る手伝いをしたり、詐欺の手伝いをしてるみたいで。俺、どうしたらいいかわからなくて」
　貴之は声を詰まらせた。嘘泣きは慣れたもので、泣こうと思えば涙が勝手に出てくる。泣きの技を駆使しながら、いもしない友人の非行を切々と語り続けた。
「事務所とかいうマンションに一度連れて行ってもらったんですけど、若い男が何人もいて、携帯とパソコンがたくさんあって、とてもまともな仕事をしているようには見えなくて……場所？　はい、わかります。ちょっと待ってください」
　わざとらしく時間をおいてから、貴之は金子のマンションの住所を告げた。宜しくお願いします、と弱々しく言って通話を終える。
「貴ちゃん、今の電話って」
「お巡りさんに匿名で情報提供したんです。そういうフリーダイアルがあるので」
「……何でそんな番号知ってるの？」
「仕事の時に客ともめたら使おうと思って、色々調べたんです。さ、次行きましょうか」
　心なしか血色のよくなった貴之に、勇一は呆気にとられながら聞き返した。
「次？」
「あいつのマンションですよ」
　歩いて行けない距離ではなかったので、二人は男たちの溜まり場となっているマンションへと向かった。貴之は暴行された直後とはとても思えない軽快な足取りで、勇一は疲れ切ったように足を引きずって。
　マンションのすぐ向かいにある公園の、ちょうど茂みに隠れるような位置に、張り込みにお誂え向きのベンチがあった。
　楽しげに雑談を交わす振りをしながら、二人はマンションの様子を伺った。この周辺にはいくつも大学がある。端から眺めれば、ごく普通の大学生の二人組にしか見えなかっただろう。目の前を何組もの親子連れが通り過ぎたが、特に注意をひくこともなかった。ただ、勇一の顔にある青あざだけは隠しようがない。勇一は貴之の隣でずっと俯いていた。
「来ました」
　雑談のネタもつきてきた頃、貴之が耳打ちした。勇一は人の目を気にするようにそっと顎を上げ、思い切り顔をしかめた。
「……間違いないな。あいつらだ」
「ええ」
　軽くうなずきながら、周囲の様子を注意深く観察する。
　二十代から三十代と思しきスーツ姿の男たちが数名、通行人を威圧するような大声で談笑しながらマンションに入っていく。金子の耳は潰れていたから、同じような格好をした男たちの間にあってもすぐに見分けがついた。この耳は自慢のひとつらしく、レスリングだか柔道だかをやっていて、かなりの腕前なのだとベッドで嘯いていたことを思い出した。
　彼らは遠目でもわかるほど皆安っぽいぺらぺらのスーツを身につけていた。ホテルの客室で金子といた時には気づかなかったが、着慣れない服に無理やり身体を押し込んでいるといった風情だった。たとえば、将生の選ぶスーツやネクタイのセンスが悪くて見栄えがしないのとは全く違う印象だ。どちらかといえば、貴之がセーラー服を着た自分を見たときに覚えた違和感と似ていた。
　今にも飛びだして殴りかかって行きそうな勢いの勇一を、貴之は押し留めた。
「正直さ、殺してやりたいよ」
「落ち着いてください」
「だって、あいつらが貴ちゃんを……」
「やり方を間違えると、返り討ちに遭いますよ」
「じゃあ、これからどうするの？　隙を見て中に突入？」
「先輩、映画の見すぎです。か弱い小市民には小市民の戦い方があるんです」
　冷静に言い放たれて、勇一は頬を赤くした。
「あと十分待ちましょう。動くのはそれからです。先輩だって、家に帰ってすぐに勉強したり、ゲームしたりしないでしょう？」
「まあ、そうだね」
「タイミングが悪いと逃げられちゃうかもしれませんからね」
　貴之の言うとおり、くだらない話をして十分が過ぎるのを待った。
　ふと公園の時計を見上げると、貴之は勇一に言った。
「そろそろいいかな。先輩、さっきからお願いばっかりで悪いんですが」
「何でもするよ、貴ちゃんの頼みなら」
　貴之は目線で公園の端にある公衆電話を示した。
「あそこから、警察に通報してください」
「……え？」
「俺、ついさっき電話してるので。あんまり何回もかけたくないんですよね、だから念のため」
「でも、何て？」
　貴之は先ほどコンビニで買ってきてもらったメモ帳を取り出し、勇一に示した。
「これから俺が書く通りに話してください」
「わかったよ」
　しばらく無言で考え込んでいたが、勇一は決意したように勢いよく立ち上がった。
　周囲に気を配りつつ、貴之は公衆電話に向かう勇一を横から覗きこんだ。
「使い方わかります？」
「多分」
　微かに震える指で赤いボタンを押すと、短いコールの後、すぐに女性警察官の声が応じた。勇一は貴之のメモを目で必死に追った。
「あの、さっきマンションの前を通りかかったら女性の悲鳴が聞こえて……。はい、はい、そうなんです。それで驚いて声がしたほうを見たら、女性に向けて男が刃物を向けているような影が見えました。住所は」
　ここで勇一は今いる場所の住所を告げた。額も掌も、汗でぐっしょり濡れていた。
「はい、七階の角部屋です。そこの部屋、以前から妙な男たちが住んでいたんで、おかしい感じだったんですよ。二十代、三十代くらいのサラリーマン風の男たちなんですけど、会社があるわけでもないのに、朝も晩もひっきりなしに出入りしていて。……もしもし、聞こえます？　急に電話が遠くなって。あの、すみません！　聞こえますか？　え、何でしょう？　電話の調子が悪いのかなあ。一度切りますね！……こんな感じでよかった？」
　電話を切って勇一は顔をあげた。言葉が出なくなるほど疲れ切っているようで、大きな溜息をついて項垂れた。
「先輩、いい役者になれますよ」
　貴之はにこやかに笑って、孤独な戦いを終えた勇一に拍手を送った。
「あとは、警察の人が真面目に仕事をしてくれるのを祈って待ちましょうか」
「いたずらだと思われなかったかな？　名乗らずに切っちゃったけど」
「放っておいて後々問題になったら困るだろうし、確認しには来ると思いますよ。それに迫真の演技でしたから、大丈夫ですよ」
　呑気な会話をしているうちに、ほどなく一台のパトカーが滑るようにやってきてマンションの前に停まった。二人の警察官が、管理人の案内でマンションの中に入っていく。
　十分ほど経過したが、警察官が戻ってくる様子はない。
「……長いな。何してるんだろ」
　じれながらも、二人は黙って行方を見守っていた。
　すると、二台、三台と次々にパトカーが現れ、最初の一台に続くように停車すると、五名ほどの警察官の背中がマンションの自動扉に吸い込まれていった。
　さらに数分後、警察官に促されるようにあの男たちが降りてきた。皆一様に強ばった顔をしている。手錠はされていないものの、彼らにこれからどのような待遇がまちうけているのか、想像するのは難しくなかった。
　すると突然、若い警察官を殴りつけ、その場から逃げ出そうとした男がいた。潰れた耳の大柄な男。見間違えようがない。金子だった。しかし近くにいた別の警察官にすぐに取り押さえられ、即座に手錠をかけられた。公務執行妨害というやつだ。
　今ここに警官が来たら投げ飛ばしてやるとか、拳銃を奪ってやるだとか、ベッドの上では威勢のいい口を聞いていたが、実際は呆気ないものだった。
　冷静な貴之とは違って、映画のワンシーンのように繰り広げられる情景を、勇一は固唾をのんで見つめていた。その眼差しには、興奮がありありと浮かんでいた。
「すごかったね。ドラマみたい」
「さっきの情報提供からも、芋蔓式に余罪が出てくればいいんですけどね。できる限り長く壁の向こう側にいてもらったほうが、俺たちもありがたいですし」
「ああ、あれ、そういう意味だったんだ。どこで手に入れたの、薬だの詐欺だのって情報」
「前に言いませんでしたか？　武勇伝を聞かせてくれたって。ま、武勇伝なんてかなり話を盛ってるとは思いますが。とりあえずの安全は確保できましたけど、先輩も早くあの部屋引き払ったほうがいいと思いますよ。あと、できれば携帯も解約して」
　普段は呑気な勇一も、さすがに状況を理解して貴之の案に賛成した。
「そうだな、今日中に一度帰って荷物をまとめるよ。部屋の様子も確認したいし」
　二人の怪我人がのろのろと歩いてアパートに戻った頃には、すでに日は傾きかけていた。
　土足で踏み荒らされたフローリングやラグは白っぽい茶色に汚れ、棚からいくつか物が落ちてはいたが、幸いにも貴重品に手がつけられている形跡はなかった。よほど執着していたのだろうか、金子の目的は完全に貴之だけだったらしい。
　てきぱきと荷造りをしながら、貴之は勇一をせっついた。
「先輩、急いで」
「うん」
「今日警察に連れて行かれたのが、金子の仲間全員だとは限らないんですから」
「うん、わかったよ」
「ゲームソフトは置いて行ってください」
　貴之は非情な手つきで、今まさにバッグに入れられようとしていたゲームソフトを取り上げた。
「あ、でもゲーム機の本体は持って行った方がいいですね。個人情報が残ってたら困りますし」
「そうだね」
　なすがままという体の勇一を鼓舞し、手伝い、本当に必要なものだけを選び抜いて、最後には大きめのスポーツバッグ二つに荷物をまとめた。
「こんなものでしょう。これで終わり」
　貴之は、独り言のように囁いた。
「全部、おしまい」
　両手にバッグを持って、勇一は唸るように感嘆の声をあげた。
「恐いくらい手際いいなあ。貴ちゃんだけは敵に回したくないよ。でも最高だったな、あの金子の顔！　お陰ですっきりしたよ」
　ここで急に、勇一は語気を落とした。
「貴ちゃん、身体本当に大丈夫？」
　貴之は平然と言い切った。
「もし大丈夫じゃなかったら、あそこからここまで歩けます？　それに、水分も食事もとれてますし」
「……貴ちゃんは強いな。でも無理するなよ」
　心配そうに言う勇一に、貴之は笑いかけた。
「先輩は心配性ですね。何度でも言いますけど、無理なんかしてませんよ」
「今日はゆっくり休んで……あ、でもここには泊まれないから、漫画喫茶かネットカフェか」
　ホテルは、と言いかけて、勇一は急に耳を赤くした。この部屋で耽った行為を、にわかに思い出したのかもしれなかった。
「いや、俺はいいんだけど、貴ちゃんは……」
「先輩」
　突然横を向き、貴之は勇一を真正面から見据えた。勇一は狼狽したように視線を泳がせ、ごくりと喉を鳴らした。
「何？」
「俺、この仕事やめます」
「そっか……」
「警察沙汰になるような問題も起こしましたし、そろそろ潮時かなと」
「わかった。そうだよね、あんなことがあった後じゃ仕方ないよ。……でも俺たち、これからも」
「先輩とは、もう会えません。その方がいいと思います、お互いのためにも」
　これからも会えるよな、そう続けようとした勇一の声を、貴之は冷たく切り捨てた。勇一の顔から笑みが消えた。それまで二人の間に流れていた和やかな空気は、もうどこにもなかった。
「それ、どういう意味？」
　問い返す声音が、わずかに震えていた。
「警察呼ばなかったんですね。俺が連れて行かれたとき」
　触れて欲しくなかった一点を抉られて、勇一はぎょっとしたように目を見張り、口元を強ばらせた。
「それは……」
「正確には、呼べなかった。違いますか」
　勇一は口ごもった。
「だって、そんなことしたら俺たちまで」
「そう。俺たち、殺されそうになっても、堂々と助けを求めることもできないんです。自分が後ろめたいことをしてるから。この仕事を続けるって、つまりはそういうことです。俺みたいな目に合いたいんですか？　次は先輩の番かもしれませんよ」
「貴ちゃん……」
「そもそも先輩、こういうの向いてないですよ。商品に情寄せちゃだめでしょう。それに流されやすいから、このままいくと泥沼ですよ。あなたには平凡な幸せがお似合いです。真面目に大学通って、会社勤めして、適当な時期に結婚して、奥さんの尻にひかれながら年取っていくようなね。だから、ここできっぱり足ぬけした方がいい。俺と完全に縁を切って、環境も一新して」
「やめるにしても、別に縁まで切らなくても……」
「無理ですよ。先輩、意志弱いし」
「貴ちゃん、ひでえな」
　勇一は真っ青な顔をしていた。恩を徒で返すようなひどいことを言って、勇一を傷つけた自覚はあった。厳しい視線を勇一に留めたまま、それでも貴之は口の動きを止めなかった。
「俺、先輩がいなかったら、たぶん殺されてました。先輩が必死で俺のことを探して、あそこで助けてくれなかったら」
　自分の拙い言葉が勇一の心に届くのか、貴之には確信がもてなかった。一笑に付されて流されるか、あるいは一度やめたとしても、麻薬のような非日常の刺激を求めて、再び似たような仕事を始めるかもしれない。
　それでも、今ここで伝えなければならないと思った。そうでなければ、また、生ぬるい馴れ合いの日々に甘えてしまう。
「先輩、今まで友達や家族に、散々いじられてきたんじゃないですか？　お前は優柔不断だ、だめな奴だって。でも」
　平常心を保っていなければ、相手を説得するなどできない。
「そんな奴らの言うことになんて、耳を貸すな」
　感傷的になるな。
　冷静になれ。
　そう思うのに、胸から溢れる思いで感情の収集がつかなかった。弁明も反論も許さないというように、貴之は口を開きかけた勇一の襟元を掴みあげ、壁に押しつけた。
「言い訳なんていらない。だから黙って俺の言うことを聞け！」
　今にも泣きそうな勇一の表情が目に入ったとたん、喉から激流が迸った。
「聞こえないなら、十回でも百回でも言ってやるよ。先輩は格好いいよ。誰よりも格好いいよ。こんなくだらない仕事しなくても、十分いい男だよ。だから、もっと自分に自信持てよ。……俺の言葉を信じろよ！」
　勇一は壁に背を預けたまま、ずるずると座り込んだ。それから足の間に顔を埋めて、長い間動かなかった。
　貴之はその傍らに腰を下ろし、高層ビルがつくる稜線に沈みつつある夕日を眺めた。排気ガスまみれの都会の空は、それでも美しかった。
「家、帰ります。色々とご迷惑をおかけして、すみませんでした」
　やがて貴之はおもむろに立ち上がり、座り込んだままの勇一に告げた。
「さようなら」
　靴を履いてドアノブに手をかけたとき、だしぬけに後ろから抱きとめられた。
「先輩……」
「ごめん、年上のくせに本当に情けないよな。君にそんなことまで言わせてさ。……でも貴ちゃん、君はひとつだけ勘違いしてるよ」
　抱きしめる腕にも耳元にかかる吐息にも、情欲の兆しはどこにもなかった。隙間なく背中に押し当てられた微温は、ただただ優しかった。
　勇一の声が、耳に溶けいるように響く。
「君を抱けなかったのは、恐かったわけでも嫌だったわけでもない。こんなこと言うのは恥ずかしいけど、俺、ちゃんとしたかったんだ。正直に気持ちを伝えて、もし振られなかったら付き合って、キスして、緊張しながら手なんかつないだりしてさ。変態のくせに笑えるよね。でも、普通の恋人同士みたいにしたかった。……君が、好きだったから」
　そこまで言うと、背中からふっと熱が離れた。
　勇一が与えてくれた純粋な愛情は嬉しかったし、心地よかった。それに何度も救われた。離れがたかった。
　だがここで振り返ってしまったら、すべてが水泡に帰してしまう。
「あのとき叱ってくれて……見捨てないでいてくれて、ありがとうございました」
　貴之は、ドアに視線を止めたまま言った。
「それから、ごめんなさい。ハンバーグ、作れなくて」
　伝えるべき言葉はもう尽きていた。わざわざ口に出さなくても、二人ともわかっていた。これが、最後のチャンスなのだ。
「一目惚れだったんだ」
　背中でドアが閉じる重い音がして、馴染んだ部屋のにおいが、思い出の名残が、一瞬で消えてしまった。
　これで、本当にひとりになった。
　もう二度と開かれることはない扉の向こうで、小さな嗚咽が聞こえた気がした。

　貴之はあてもなく街をさまよい歩き、それに飽きると、行き先も決めずに電車に乗った。幸い、通学用の定期券に入金していた額にはまだ余裕があった。
　具体的な目標も目的なく、ただ電車に乗り、ただ車窓に映る夜の街を眺めるだけ。
　ちょうど勤め人が帰宅する時間帯で、どの駅も多くの人で溢れかえっていた。
　時々、殴られた腹が鈍痛を訴える。そんなときふと周囲を見回すと、忙しく行き交う人々の群れと薄い透明な壁で隔てられているのがわかった。雑踏に紛れているはずなのに、ひどく静かだった。自分はもう、彼らと同じ世界には生きていないのだと思った。
　気づいたときには、見覚えのあるマンションの前に立っていた。疲れと冷えに身体の芯まで侵されてしまって、歩くために手足を動かすのも億劫だった。
　どうして、こんな場所に来てしまったのだろう。
　星のように煌々と光を放つマンションの窓のなかで、真っ黒に塗りつぶされたひとつを眺めながら、貴之は緩慢に思考を働かせた。
　あれは、かつて自分の家だったものだ。
　でも、今は違う。
　貴之は自嘲した。
　さっき勇一には、馬鹿なことを言ってしまった。家に帰るだなんて。
　母はもう死んだのだ。
　家族はいない。
　家もない。
　帰るところも……。
「貴之」
　背後から声をかけられて、貴之はゆっくりと振り向いた。
　この男はいつも、一番会いたくない時に限って目の前に現れる。
　将生は傘を差していた。
　いつから雨が降り始めていたのだろう。
　ずっと戸外にいたのに、少しも気づかなかった。
　傘に隠れてしまって、将生の顔はよく見えなかった。
　どこに行っていたんだ。
　何をしていたんだ。
　心配したんだぞ。
　覚悟していた質問も叱責もなかった。
「……おかえり」
　将生は傘を差し出して、雨音によく似た、静かな声で言った。