つがいのまねごと
11
 貴之が学校を休んでいる間、将生は朝仕事に行って、午後に一度帰ってきて、それから息子の食事の支度などをして再び出社し、帰宅するのはほとんど日付が変わる時間帯、という生活を送っていた。
 食事くらい自分でとれる、だから心配するなと言ったが、全く聞き入れられなかった。どれほど宥め賺しても将生は決して譲ろうとせず、結局、貴之の方が引き下がった。貴之は、このおっとりとした継父に頑固な一面があることをはじめて知ったのだった。
 頭が溶けてしまいそうなほど退屈きわまりない時期はずれの休暇の最終日、登校前の最後の診察のために田口がやってきた。
 田口はいつもの調子で、検査の結果どこにも問題はなかったこと、怪我も順調に回復していることを告げた。
「さすが高校生、お肌の張りも回復力も違うよね。僕にもちょっと分けて欲しいくらいだよ」
 別れ際、複数の連絡先が書かれたメモを手渡された。心療内科や各種の相談窓口、それに田口個人の電話番号とメールアドレス。
「君、何かあっても人に頼るようなタイプじゃないだろ? でもどうしようもなくなったら、ここに連絡しなさい。まあ、別に連絡しなくてもいいけど。とりあえず持っておけば、厄除けになるかも知れないよ」
 何気ない素振りで渡された紙を、貴之は丁寧に折り畳んで机にしまい込んだ。彼がまともな人間であるかは不明だが、確かにまともな医者で、恐らくまともな大人でもあるのだろう。田口なりの気遣いを感じ取って、嬉しいような、羞恥のような、複雑な感情が胸にこみ上げてきた。
「先生」
 ややあって、貴之は帰り支度をする田口に声をかけた。
「ん、何?」
「教えていただきたいことがあるんですが……」
 真剣な眼差しを受けて、田口は怪訝な顔をした。
「人生相談? 僕、見ての通り適当なことしか言わないよ」
「いえ、人生相談よりも具体的なことです」
 田口の表情に、興味深そうな色が浮かんだ。
「恋愛指南?」
「違います」
「じゃあ、僕への愛の告白とか? 参ったなあ、若い子に言い寄られるなんて悪い気はしないけど、体力に自信がないからねえ」
「違います!……実は」
 一週間かけて出した結論は、以前の貴之であればきっと思いつきもしないものだった。
 貴之が躊躇いがちにゆっくりと言葉を継ぐのを、眼鏡の下の眼を細めて、田口はいかにも面白げに眺めていた。

 田口が帰ったあと、ひとりになった貴之は、自分でも説明しがたい衝動にかられて、母の部屋の扉を開けた。
 日光を遮っていた厚いカーテンを開けると、黄色がかった午後の残光が部屋いっぱいに広がった。
 ハンガーに吊されたスーツ、衣装箪笥、鏡台の前に並んだ化粧品。ベッドサイドには数冊の実用書が並び、写真立ての中で幼い貴之が笑っていた。どれも、由美子が亡くなったときのままだった。
 荷物の整理をするでもなく、思い出に浸るでもなく、床に座り込んで、半年前から時間が滞留したその空間に身体と意識を沈めていた。室内には、化粧品だろうか、花のようなにおいが微かに漂っている。
 ベッドの足にもたれ掛かっていると、急に眠気が襲ってきた。見えない手で瞼を押さえつけられるように、いつしか、貴之は深い眠りへと落ちていった。
 奇妙な夢を見たのは、母の気配が強く残る部屋で眠ったせいだろうか。
 気に入りの傘を差して横断歩道を渡っている母の後ろ姿を、貴之は遠くから見つめていた。
 街を白く覆う、霧のような雨。
 事故のあった日は、そう、朝から小雨が降っていた。
 灰と白の横断歩道。鈍色の空。眠ったように黙り込む都会の街並み。
 由美子の足取りは生き生きとしているのに、景色からすっかり色彩が吸い取られてしまっていて、まるで古い映画の一場面を切り抜いてきたようだった。
 命あるものの息吹がない、しんと静まりかえったその世界で、小さな花を散らした傘だけがくるくると回りながら鮮やかに花開いていた。
 こつ、こつ、こつ。
 人も車も通らない静まりかえった国道に、ヒールの音が規則的に響いている。
 スーツ姿の由美子は真っ直ぐ前を向いて、いつものように、早足の大股で歩いていた。
 そうだ、と貴之は思い返していた。
 仕事に行くとき、母はいつも黒やグレーの地味なスーツを着ていたっけ。
 しかしより深く記憶を探ってみると、小物や普段着る私服などは、華やかで可愛らしいものを好んでいた。白っぽい地色に淡いピンクの花を散らした傘も、そのひとつだった。
 葬儀にも来ていたたくさんの部下たちを率いるという立場から、公の場ではきちんとした格好をするように配慮しているのだ、生前はそんな風に考えていた。もちろん、それも大きな理由のひとつだろうが、隙のない髪型や服装は、見えないものと戦うための鎧であったのかもしれないと、今になって思う。
 自分自身と、それから何より貴之を守るために。
 女手一つで息子を育てていくために、きっと貴之が想像している以上の苦労があったのだろう。陰口を叩かれることも、心ない扱いを受けることも、厳しい視線を向けられることもあったに違いない。
 長い間、戦って、戦い抜いて、やがて休息の時が訪れた。
 彼女にとっても息子にとっても、その休息はあまりにも突然で、あまりにも早すぎたけれど。
 やりたかったことも、やり残したことも、まだまだたくさんあったはずだ。
 それなのに、母の時はあの瞬間で止まってしまった。そして、もう二度と動くことはないのだ。
 そんな考えが頭によぎったとたん、貴之はたまらなくなって、唇を押し上げた。
 母さん。
 由美子のいる場所はあまりにも遠い。
 聞こえるはずがないのに、それでも繰り返した。
 母さん。
 ふいに、傘の動きがぴたりと止まった。
 それから、ゆっくりと振り向いた。
 小雨の描く輪郭は淡く、弱々しくて、息を吹きかけたらすぐに消えてしまいそうに頼りなかった。
 ……ごめんね。
 顔のほとんどが、軽く傾けられた傘に隠れてしまっている。
 見えたのは、薄く口紅を引いた唇だけだ。
 ……あんたが大人になるまで見届けられなくて。
 そんなことはない、謝らないで欲しい。
 そう伝えたいのに、どんなに奮いたてても、喉はぴくりとも動こうとしない。
 ……ご飯ちゃんと食べて、よく寝て、ほどほどに勉強して、運動して。
 声のない声が雨音に混じって、優しく響いた。
 ……幸せになって。
 母の姿が徐々に滲んでいった。
 視界を歪めているのが、睫からしたたり落ちてくる雨だれではなくて、自分の目から溢れている涙なのだとすぐに気づくことができなかった。
 ふと、傘が持ち上がった。
 母の顔が、静かにこちらを見つめている。
 もうとっくに思い出になったと思っていた、その顔立ち、眼差し。
 でも、忘れられるはずがなかった。悲しくないはずがなかった。
 自分の弱さに直面するのが恐くて、目を背けていただけだ。
 由美子は、泣きそうな表情で微笑んでいた。
 再び、ごめんねと言葉を刻む唇を見て、貴之は激しく首を振った。
 なぜ母も将生も謝るのだろう。
 悪いのは、謝らなければならないのは、貴之の方なのに。
 あの日のことを、今でもはっきりと覚えている。
 母が恋人を連れてきたあの日。
 背の高いその男は、飾り気のない口振りで簡単な自己紹介をした。
 若いくせに、老成しているというか、落ち着きすぎている。妙な男だと思った。
 ふと顔をあげたとき、視線が交わった。
 自分を映す、優しくて穏やかな目。
 その瞬間、心臓が跳ね上がった。
 何度深呼吸を繰り返しても、狂ったように早鐘を打つ鼓動を抑えることができなかった。
 だが、彼は男だ。しかも母の恋人で、いずれ母の夫になる人間だ。
 そう言い聞かせるのに、身体と心は少しもいうことを聞かなかった。
 やがて、由美子と将生は結婚し、将生は貴之の父になった。
 この思いは絶対に人に知られてはならなかった。どれほど苦しくても、隠して、隠し通して、死ぬそのときまで抱えていかなければならないものだった。
 そんなとき、母は死んだ。
 仏滅に入籍したからといって、不幸になるわけではない。
 墓を買ったからといって、すぐに死ぬわけではない。
 どれほど強いものであっても、人の感情だけで世の中が動かせるはずがない。
 母の死と自分が隠してきた思いに因果関係などない。
 それでも、母が死んだのは、自分のせいだと思った。
 だから痛めつけなければならなかった。
 堕ちるところまで堕ちて、汚れるところまで汚れて。
 苦しめて、痛めつけて。
 継父に捨てられるかもしれない、だから金が必要なのだと無意識のうちに理屈をこねあげて、彼を騙し、何より自らを騙し、罪悪感と不安と、激しく身を焦がす汚い感情を押し殺すために、もっともらしい理由をつけて、己を虐げた。
 それは償いというよりも、単なる自己満足だったのかもしれない。
 けれど、そうせずにはいられなかったのだ。
 掻き出しても掻き出しても、汚泥のような欲望はとどまることなく溢れていった。
 自分のことで精一杯で、自分のことしか考えられなかった。
 結果、自分も他人も深く傷つけた。
 貴之は力なく地面に膝をついて、両手に顔を埋めた。
「俺には、幸せになる資格なんてない」
 アスファルトと膝が、鈍い音を立ててぶつかり合った。
「ごめんなさい……」
 地面につっぷして、貴之は嗚咽した。涙があとからあとから溢れてきて、雨と泥と混じり合った。
 そのとき、上から伸びてきた誰かの腕が貴之を抱きしめた。温かな肌からは、懐かしいにおいがした。かつて一番近くにあった人、今は失われたその人の。
 ……幸せって恐いわね。幸せであればあるほど、失ったときの苦しみは大きい。でも、それでもね、貴之。私は……。
 最後の言葉が消えたとたん、二つの掌が濡れた頬を優しく包み込んだ。記憶にあるよりも、ずっと細くて小さな手だった。
 ……あんたに幸せになって欲しいの。うんと、幸せに。
 縋るように顔をあげたとき、母は横断歩道を渡り終えるところだった。向かい側で、由美子に手を差し出した人影があった。白いもやが濃くたれこめていて、顔は見えない。けれど貴之はそれが誰であるのか、確かに知っていた。
 由美子は少女のように息を弾ませて、彼の腕のなかに飛び込んだ。
 手から放たれた傘が宙に浮いたそのせつな、淀んでいた時の流れが動き始めた。
 吹き付けた強い風に煽られて、薄紅の傘が空に勢いよく舞い上がった。
 貴之は泣きはらした目をあげて、今や小さな点となった傘の行方を追った。
 爽やかで清々しい風が、涙で汚れた頬を拭うように流れる。高く、どこまでも高く、翼あるものの自由を得て、傘は軽やかに飛んでいく。雨はもうやんでいた。白く輝く光が、雲間から差し込んでいる。と、灰色の雲が一気に散った。単色で描かれた世界に、鮮やかな色彩が蘇る。
 頭上には、澄み渡った美しい青空が果てしなく広がっていた。

 約一週間ぶりに登校する朝、継父が起きてきた気配を察し、貴之は台所から愛想なく声をかけた。
「おはようございます」
「……おはよう」
 朝食の支度がすっかり整った食卓ときれいに詰められた二つの弁当を見て、将生は言葉を失ったようだった。自室ですでに着替えは済ませていたが、髪には寝癖がついている。
 貴之は愛想なく言った。
「見ればわかるでしょうが、朝食はできてます。弁当も」
「すまないな」
 でも、と先を続けようとした将生を貴之は素早く遮った。
「弁当も食事も、これからは俺も作ります。交代で。いい気晴らしになりますし、たぶん料理の腕はあんたより上です。それに俺だって、自分の好きなものも食べたい。甘い卵焼き、好きじゃないですし」
「そうだったのか」
 将生はこれまで見た中で、一番ショックを受けた顔をしていた。貴之は腕を組んで継父を睨みつけた。
「母さんが死んでから、料理とか洗濯とか、俺に全然やらせなかったですよね。家のことは俺がやるから、子供は子供らしく勉強して遊んでろって? 余計なお世話ですよ。自分のことぐらい自分でできます。それにあんたにあれこれ気を遣われると、却って疲れるんです。……養ってもらってることには、感謝してますが」
 そこまで早口で言うと、貴之は高飛車な態度で味噌汁をついだ椀と、飯を盛った茶碗の二つを両手でずいと差し出した。
「ほら、わかったらさっさと食べてください」
 その後すぐ、貴之も将生の向かいに座って朝食を食べ始めた。今日は妙に箸が軽く感じる。
「……将生さん」
「何だ?」
 少しの間をおいて、将生が応えた。自分が呼ばれているものと気づかなかったらしい。
 貴之は自分のネクタイを指で示した。
「ずっと思ってたんですが、ネクタイのセンスなさすぎですね」
 将生はシャツの胸ポケットに突っこんでいたネクタイをつまみ上げて、まじまじと眺めた。
「そうだな。同期にもよく冷やかされたよ」
「今着てるスーツの色にそのネクタイ、全然合いませんよ。薄いブルーの持ってましたよね? あれのほうがまだましです」
「ブルー……」
 将生はしばし考え込んでからやっと、件のネクタイの存在を思い出したようだった。
「わかった、それにしよう。後で締め直してくる。しかし、どういう風の吹き回しだ? いきなりアドバイスしてくれるなんて」
「別に、人の服にいちいち口を出すような趣味はありませんが」
 貴之は一度口を噤んでから、吐き捨てるようにその言葉を発した。
「……父親がみっともない格好をしてたら、こっちが恥ずかしいですから」
 将生は箸を動かす手を止めて、じっと貴之を見つめてきた。動揺を悟られないよう、瞬時に視線を逸らす。
「何か文句ありますか?」
「いや。よかったら、明日も選んでくれるか」
「は?」
「ネクタイ。お前が選ぶのを見て、勉強させて貰うよ」
「……構わないですけど」
「それから、うまいよ、飯。ありがとな」
 視界の外にいるはずなのに、将生が笑っている様子が伝わってくる。貴之はさらに大きくそっぽを向くと、苛立たしげに白米をかきこんだ。

 病休のため遅れに遅れていた貴之の三者面談が実現したのは、冬に入ってからだった。
 静まりかえった教室には、教師が資料をめくる指と空調の送風口だけが乾いた音を響かせていた。担任は五十代半ば頃の男性で、将生とは何度か面会したことはあるはずだが、どこかやりにくそうな様子だった。若い父親に微かな当惑の眼を向けながら、二人の前に資料を広げた。
「ええと、村沢君の成績なら、かなりの上のレベルの大学も狙えるでしょうね。今は理系コースですが、進路を変更して文系の学部を受験しても問題ないかと……以前出してもらった進路希望調査票によると、就職を希望していたね? 就職が悪いとは言わないが、個人的にはできるなら進学して専門的に学んで欲しいと思うよ。もちろん、ご家庭の事情もあると思うから、無理にとはいえないが」
 色々と奨学金もあるし、と人の良さそうな教師は、父親の様子を窺いつつ額の汗をぬぐった。自分のクラスの生徒が上位の大学に合格すれば彼個人のポイントになるのは明らかだが、それ以上に、貴之の将来のことを慮ってくれていることが伝わってきた。
 一呼吸おいてから、貴之は慎重に、丁寧に言葉を選んだ。
「先生、僕、あれから考え直して」
 担任の頭がぱっとあがった。
「やっぱり大学に?」
「はい」
「希望する学部や学科はもう決まってるのかな?」
「医学部を受けたいと思っています」
 貴之の高校では、医学部を受ける生徒は珍しくなかったから、担任は驚きはしなかった。
「なるほどね。具体的には?」
「法医学を学ぶつもりです」
 それまで穏やかに話を聞いていた教師の顔が、にわかに厳しくなった。
「ええと、事故や事件で亡くなった人の解剖をする?」
 貴之は頷いた。
「またどうして。内科に外科に……医者っていっても、色々あるだろう? 私も詳しく知っているわけじゃないが、他と比べてもかなりきつい仕事だと思うよ」
「知人の医者にも同じことを言われました。給料も安いし、精神的にも体力的にも厳しい、理想や感傷だけで続けられる仕事ではないと」
 わずかな沈黙のあと、貴之は重い口を開いた。
「半年前、母を事故で亡くしたとき、強がって平気な振りをしていました。でも本当は、自分でも気づかないほど、深く打ちのめされていました」
 詳しく話さなくても、事情は承知しているのだろう。教師の視線が、貴之と将生との間を所在なさそうにさまよった。
「それから、迷って、たくさんの人を傷つけて、遠い回り道をして……やっと落ち着いて考えられるようになって、将来どんな仕事をしたいか改めて思い描いたとき、母が死んだ日のことが頭に浮かびました。僕は結局、母と最期の別れをすることはできませんでしたが」
 ややあって、貴之は大きく息を吐くように告げた。
「……様々な形で命を終える人間がいるなら、その最期を見届ける人間も必要だろうと」
 お父様の考えは?
 そう無言で問いかけてくる教師の視線を感じたか、それまで黙っていた将生が、静かに口を開いた。
「私からは、何も。息子には、自分の選んだ道を行って欲しい。それだけです」
 そっと背中を押すように、机の下で優しく手を握る感触があった。貴之は目頭が熱くなるのをぐっと堪えて、真っ直ぐ前を見据えたまま、その手をしっかりと握り返した。

 その後、月日は平穏に流れていった。
 他の受験者から大きく遅れをとっているという自覚があった貴之は、それまで以上に猛勉強し、翌年の冬、第一志望の大学の医学部に合格した。
 学費については将生と揉めに揉めた。将生は自分が払うと言って聞かなかったが、最後には由美子の保険金を充てることで決着がついた。
 母親の遺した金で、遊んだり、高価なものを買ったりする気にはなれない。だから、これが一番適切な使い道ではないのか。
 何度も丹念に説得を重ねて、頑固な継父をやっとのことで説き伏せたのだった。
 売春で稼いだ金は、すべて河原で燃やしてしまった。かなりの金額だったが、紙幣も所詮紙に過ぎないのだと実感して、突き抜けるような開放感と妙な感慨に耽ってしまった。憑きものが落ちた、まさにそんな気分だった。
 暴行の後遺症は自分で思っていたよりも心身に深く根ざしていたようだ。しばらくは、満員電車に乗ったときに男性客と肌が触れ合うだけで冷や汗が出て、吐き気をこらえるのに苦労した。だがそんなとき、心を落ち着ける魔法の言葉があった。
「火事だ!」
 あのときの勇一の必死な叫びを思い出すと、笑みがこみあげてきて、恐怖に粟だった心が不思議と鎮まっていくのだった。お陰で半年も経つ頃には、ある程度自分の恐怖心をコントロールできるようになっていた。
 もしかしたら、田口から貰った「厄除け」の効き目もあったのかもしれない。万が一のときに頼ることのできる場所があるのとないのとでは、心にかかる負荷が大きく違うのだろう。
 田口と同じ大学に合格したことをメールで報告すると、目がちかちかするほど絵文字がぎっしり並んだ嫌がらせのような返事があった。以後彼からは、可愛い後輩へ、というタイトルで、読むだけで頭が痛くなる個性的なメールが時々届くようになった。
 将生があるとき、ぼそっと呟いた。
「田口、お前からメール貰って喜んでたぞ。ああ見えて、あいつ案外寂しがりなんだ」
 それを聞いて、気軽に連絡を取ったのは軽率だったと気が付いた。彼はまともな医者であると同時に、何より面倒くさい人間だった。将生とどういう風に友達づきあいをしているのか、未だに謎だ。
 「仕事」を勝手に辞めたことにより、売春を斡旋していた組織からの報復があるのではないかと懸念していたのだが、一向にその気配はなかった。ある朝、何気なく見ていたニュース番組で、金子、と自称していた男とその仲間たちが、詐欺の容疑で逮捕されたことを知った。もしかしたら、古参の客であった金子の逮捕が自分たちまで波及する事態を恐れて、商売から一旦手を引いたのかもしれない。
 弟の栄二から聞いたところによれば、勇一はあの後すぐにアメリカに留学し、よほど水が合ったのか、日本の大学をやめて、留学先の大学に編入し直したそうだ。そのまま院に進んで、あっちで就職するんじゃないか。のろまな兄貴だと思って馬鹿にしてたけど先越されたな、と栄二は苦い顔で笑っていた。
 将生と貴之の暮らしは相変わらずだった。二人とも急にお喋りになるわけでもなく、会話が特別増えたわけでもない。毎日の生活は静かなものだった。
 ただ、相手の好きな物と嫌いな物くらいはわかるようになっていたし、つまらない諍いは確実に増えた。その大半は、自分自身のことに無頓着な将生に対して、貴之が一方的に怒っているだけなのだが。
 将生はぬめりのある食材が苦手なので、喧嘩の後などには、わざともずくやなめこなどを献立に加えることで仕返しをした。そういうときも、将生は眉を厳しく寄せてそれを喉に流し込み、絶対に貴之が作った食事を残すことはなかった。
 その様子を見ると、胸がすく反面、今度は自分の方が悪い気がしてきて、翌日の食卓には逆に、将生の好物が並ぶのだった。将生はそれを控え目な喜びを示して食べるので、些細な喧嘩のほとんどは、大抵それで収まった。
 そうして、お互いにぎこちなく歩み寄ったり離れたりを繰り返して、自分の持ち物と相手の持ち物の区別がだんだんとつかなくなってきた頃、将生は海外赴任を命じられた。貴之が大学に入学する年の四月付けで。
 それまで住んでいたマンションを三月末で解約し、ひとりは東南アジアに、ひとりは大学の寮に移り住むことになった。
「お元気で」
「お前もな」
 空港で交わされた別れの挨拶は、ごくあっさりしたものだった。
 二人共それぞれ慣れぬ環境での仕事や勉強で忙しく、再会を果たしたのは、将生が赴任を終え帰国した一年後のことだった。