雲ひとつない澄んだ青空の下、将生と貴之は墓の前でそれぞれの掌を合わせた。将生がいない間も貴之が手入れをしていたので、墓はきれいに保たれている。
貴之は霊魂の存在など信じてはいない。だが、それでも胸のなかで母に語りかけずにはいられなかった。
俺は元気にやっています。だから心配しないで、と。
空を目指して立ち上る線香の煙が、祈りに応えるようにそっと揺れた気がした。
墓参りを終えてから、レンタカーで将生が新しく借りたマンションに向かった。将生が所有していた車は、転勤前に売り払ってしまっていた。
顔を合わせるのは一年ぶりだというのに、感動の再会、なんてイベントじみたものはなかった。行き帰りの車内で近況を伝え合うときも、盛り上がりどころのない会話が続いた。
「腕にずいぶん筋肉がついたんじゃないか？ 何かスポーツはじめたのか」
「ボート部に入ったんです。授業があるので、あまり練習には出られていないんですが。将生さんこそ、何ですか、その日焼け。最初に見たとき、何人かと思いましたよ」
「……そんなにひどいか？」
「まあ、少なくともぱっと見て、日本人には見えませんね」
将生は精悍といえなくもない容貌をしているため、日に焼けた肌はよく似合っていたが、そこまで言って褒めてやる義理はなかった。
「寮はどうだ」
尋ねられて、貴之は軽く肩をすくめた。
「むさくるしい男所帯ですよ。でも、まあまあ気楽で面白いかな」
「勉強は順調か？」
「ええ、お陰様で。学部が学部ですし、楽しいことばかりってわけじゃありませんが……毎日刺激的です。暇だと思う暇がないくらい」
「そうか、よかったな」
柔らかく表情を崩した将生から目線を外し、貴之は幹線沿いに立ち並ぶ家々を無関心そうに見つめた。
一時間後、車はマンションの玄関に到着した。将生は貴之に鍵を渡して部屋番号を伝え、車を返してくるから先に部屋に行って待っていてほしいと告げた。
「ついでに、寿司でも頼んでおいてくれ」
まだ引っ越しの片づけが終わっていないのか、将生の新居の玄関には段ボールが積まれたままになっていた。かつて一緒に暮らした部屋よりは少し狭いようだ。一人暮らしの住まいなのだから、当たり前といえば当たり前なのだが。
ふと横を向けば、廊下に面した部屋に続く扉が開いていて、なかの様子が窺えた。何も置いていない、がらんどうの部屋だった。この部屋を寝室にするつもりなのだろうか。
そんなことを考えながらリビングに足を踏み入れるとすぐに、マットレスと布団が壁際に畳んで置いてあるのが目に入った。移動するのが面倒なのか、どうやらリビングで寝起きしているらしい。将生は自分の持ち物も多くないし、部屋を余らせるくらいならもっと狭い物件を契約すればよかったのにと、不思議に思った。
テーブルの上に置かれていた寿司屋の品書きから適当に注文した後、将生が帰宅した。
「悪いな、まだ片づいていなくて」
将生は鞄と上着を床において、ネクタイを緩めた。
「寿司、三十分くらいかかるそうです」
「わかった。何か飲むか」
将生は尋ねながら、冷蔵庫の方に向かった。
「どっちがいい？」
差し出された右手には緑茶のペットボトル、左手にはビールの缶。
貴之は顔をしかめた。
「右に決まってるでしょう。あんた、悪い大人ですね。フライングですよ」
二十歳の誕生日まで一ヶ月を切ってはいるが、貴之は一応まだ十代だった。もちろん飲酒の経験がないわけではないが、継父の前で飲むのは嫌だった。酒が強い将生に、少し飲んだだけで酔いつぶれてしまうことを知られたくなかったのだ。
冷蔵庫から戻ってきた将生の手には、緑茶のペットボトルが二本あった。貴之は憮然とした。
「俺に合わせなくてもいいですよ」
「そういうわけじゃない。空きっ腹にビールはきついからな」
それなら、なぜさっき試すようなことをしたのか。まさか、彼なりの冗談だったのだろうか。
「わかりにくいんだよ……」
「何が？」
「何でもありません。ところで、廊下側の部屋、もったいなくないですか？ 使わないなら、もっと狭くて安いマンションにすればよかったのに。寝るのもリビングなんでしょう？」
貴之が視線でマットレスを示すと、ああ、と将生は曖昧な返事をした。
「物置にしようかと思って」
物置が必要なほど物持ってないでしょう、そう言いかけて、貴之はあるひとつの可能性に思い当たった。
もしかしたら、あの部屋は貴之のために空けておいてくれているのかも知れない。
そう考えると、無駄に多い部屋数にも、将生の煮え切らない態度にも合点がいく。
仕事に学業にとそれぞれ忙しく、お互いの生活はすでに完全に離れてしまっている。これから先、将生と貴之が再び同居する確立はかなり低い。それでも、この継父は息子がいつでも帰ってこられるように、部屋を用意しているのではないだろうか。
それは、根拠のない妄想に過ぎなかった。過ぎないのだけれど。
貴之は、抑揚の少ない面差しから真意を探るように、将生の顔をじっと注視した。
「将生さん……」
口を開きかけたとたん、玄関の呼び出し音が鳴った。
「寿司が来たみたいだ。思ったより早かったな」
将生は言って、尻ポケットから財布を取り出しつつ腰を浮かせた。
そこではっと我に返った。たぶん、いや確実に、真っ赤になっているであろう顔を掌で覆う。
お前のための部屋だと直接言われたわけでもないのに、自分は一体何を言おうとしていたのだろうか。そんなものは必要ない、気を遣うなとでも伝えるつもりだったのか。
だがそれが全くの見当違いだったら、とんだ恥をかくことになる。あるいはこの一年の間に親しい人間ができていて、彼のために用意されたスペースという可能性も考えられる。
「……何やってるんだか」
溜息をつき、熱が残る頬に掌でぴしゃりと一発食らわせた。このタイミングで寿司が来てくれて助かった。
玄関から帰ってきた将生は、テーブルの上に寿司桶を二つ並べた。
「足りるか？」
「十分ですよ」
二人は時折緑茶を口に含みながら、黙々と箸を動かした。男二人が寿司を平らげるのにそう時間はかからない。小さな桶は、あっという間に空になった。
「うまかったか」
「はい」
「寿司食べたの、久々だな」
「俺もです」
気のない返事を送りながら、貴之は考えを巡らせた。
墓参りもした。食事もした。近況も報告した。あとはもう、するべきことは何もない。
「そろそろ帰ります。週明けに提出する課題があるので」
「帰る前に、少し時間をくれないか」
すんなり辞去できるかと思いきや、意外なことに、将生は貴之を引き留めた。
「お前に、話があるんだ」
貴之は目を見張った。いい話なのか悪い話なのか、全く見当がつかなかった。
将生はテーブルの上を手早く片付けると、棚に立てかけてあったブリーフケースと小箱を取り出した。
ケースの中には保険や相続に関する書類一式、それから通帳と印鑑が収められていた。
将生はそのひとつひとつの書類について、丁寧ながら事務的に説明した。
「これは証書類、これは保険金の請求をしたときの控えで、あとは通帳。昨日までの分の記帳は済ませておいたが、学費はここから引き落としているから、時々確認しておいてくれ。それと、相続関係の書類の目録だ。どんな書類があるのか、まとめてある」
高校生の頃、あれほど経済的な自立を望んでいたというのに、どうしてか、喉の奥に異物がはまりこんでいるような息苦しさを覚える。
貴之はやっとのことで声を絞り出した。
「……これも、フライングじゃないですか？」
「少し早いが、ちょうどいい節目だからな。あと一ヶ月もしないうちに、お前も二十歳になるし」
それから、と将生はクリアファイルから別の真新しい書式を取り出した。養子縁組を解消するための、離縁届だった。
貴之は、テーブルに置かれたその一枚紙を凝視した。必要な箇所はすでにほとんど記入してある。空白になっているのは、貴之の名前の欄だけだ。
緑茶で潤したばかりの喉が、からからに乾いていてしまっていた。
「前に言っていただろう、二十歳になったら養子縁組を解消するって」
貴之はこめかみに手をあてて、薄れかけていた記憶を引き出した。
確かに、以前電話で言い合いになったとき、そんなことを口走ったような覚えがある。勢いで言ってしまっただけで、もちろん本心ではない。よほど些末なものであったのか、口論の原因すら忘れてしまっている。けれど、まさか将生がその台詞を覚えていて、馬鹿正直に様式まで用意しているとは思わなかった。
内心で頭をかかえつつ、貴之は言った。
「本気にしたんですか？ だってあれは……」
戸惑いがちに文句を言いかけた声は、しかし途中でぴたりと止まった。
ひょっとすると、これがたった一度きりの、最後の機会なのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎり、勇一と別れたときの痛みが胸に蘇ってきた。
すでに別々の道を歩き始めている二人だが、籍を抜かない限り、いつまでも父と子であることに変わりはなかった。だがこの先、将生に生涯の伴侶として、一生を共にしたい相手が現れないとも限らない。そうなったら、将生はきっと貴之に配慮して、相手と法律上の関係を結ぶことを躊躇う。そんな事態は、何としても避けたかった。
親子としてやり直したい、かつて将生は貴之にそう言った。貴之が成人を目前に控えた現在、その目標は十分に果たされたと思う。
今このときが、最後のチャンスなのだ。将生にとっても、貴之にとっても。これまで与えられるばかりだった貴之ができる、最初で最後の親孝行だった。
離縁しても、親子として過ごした時間が消えてしまうわけではない。変則的な家族にとっての、変則的な巣立ちの儀式に過ぎないのだ。
「……何か、書くものありますか」
平板な声で言うと、将生はすぐにボールペンを持ってきた。貴之は淀みない手つきで空欄に自分の名前を埋めた。
「これでいいんですよね」
尋ねたものの、将生からの返答はなかった。
「将生さん？」
怪訝そうに何度か名を呼んでやっと、将生は書類を見つめていた顔を上げた。
「ああ、すまない。これで全部だ」
その態度に不審を抱いて、貴之はゆっくりと繰り返した。
「もう一度聞きますけど、これでいいんですよね？」
将生は書類を見つめたきり、再び黙り込んでしまった。貴之は困惑した。この男が何を考えているのか、さっぱりわからない。
「何か、言いたいことがあるんですか」
継父の心情を計りかねたまま、貴之は問いかけた。
「これは、俺だけじゃなくて、将生さんの問題でもあるんです。あんたが口下手なのは知ってますが、自分の気持ちを、自分の言葉で聞かせてください」
長い間石のように黙したあと、将生はようやく口を開いた。
「昔から、読書感想文を書くのが苦手だった」
「……すみません、意味がわからないんですけど」
それまでの流れを絶つような将生の呟きに、貴之は眉を顰めた。相変わらず、唐突に話題を変える男だ。
「自分の意見とか考えとか、人に伝わるように表現する努力をしろとよく言われたよ。……年食っただけで、ガキの頃から全然進歩してないんだな」
苦く笑うと、将生はおもむろに離縁届を手に取った。
びりっと軽快な音がしたかと思うと、貴之の目の前で離縁届は二枚に破かれてしまった。
「え？」
突如起こった事態に頭がついていかなった。ぽかんと口を開ける貴之を後目に、Ａ３の再生紙はどんどんちぎられて細かく小さくなり、ほどなく紙屑の山になってしまった。
「言葉じゃなくて悪いが、これが俺の気持ちだ」
「だって、これじゃ……」
俺の気持ち、とやらの底意を汲むことができず、行き場のない視線と意識がしばらく宙をさまよっていたが、離縁届の成れの果てを呆然と手ですくい上げたとたん、怒りとも失望ともつかない激情が爆発した。
最後の、チャンスだったのに。
一年間何事もなく家族として過ごし、さらに一年間離れて暮らして、胸に燻り続けていたこの感情も、とっくに消えたものだと思っていた。
だが、将生の姿を目にしたら、もうだめだった。
「どうして」
無意識のうちに彼の仕草を追い、彼を求めている自分がいた。距離をおけばそのうち収まると思っていた恋しさは、消えるどころか、自分でも気づかぬうちに手に負えないほど膨れ上がっていた。
将生の胸ぐらをつかむと、貴之は詰め寄った。
「普段受け身のくせに、どうして大事なときに限って譲らないんだよ？ あんたの、そういうところが気にくわないんだ！」
養父に対してというよりは、自分に向けて考え得る限りの罵りの台詞を吐いたその唇で、貴之は将生のそれを塞いだ。触れあうだけの臆病で浅い口づけを、将生は拒まなかった。わずかに目を見開いたが、動揺している様子はない。平静な態度を保たれることで、余計に焦燥が募っていった。
貴之は将生の胸ぐらに拳を叩きつけた。
「どれだけ俺を惨めにさせるつもりですか。あんたに親切にされるたびに、相変わらず自分のことしか考えてないんだって思い知らされるんです。母さんとの間に恋愛感情がなかったと聞いたとき、俺は、嬉しかった。……一瞬でもそんなことを思った、自分が許せなかった」
不自然にならないよう十分に時間をかけて、きれいに後腐れなく離れていくつもりだったのに、そんな予定など無視して口はみじめたらしい言葉を吐き続ける。止めたいのに、止められなかった。秩序立っていたはずの感情と思考が、たったひとりの言動によってめちゃくちゃにされてしまう。
「あのまま離縁届を出してくれれば、何もかもうまくいったんだ。元の通り他人に戻って、あんたのことなんか忘れて、別の誰かと暮らして」
顔が歪んでいるのが自分でもわかった。喉元にこみあげてくる苦味を堪えるのに精一杯で、思いをうまく言葉にできない。
「だから、お願いです。もう一度書き直して、これきりに……」
最後まで言いきる前に、躊躇いがちに伸びてきた腕に抱き寄せられた。思いがけない無言の返答に、貴之は目を見開いた。
「将生さん」
上からのしかかってくる熱が、言葉を継ごうとする唇の動きを止めた。
現実とは思えない状況、けれど現実以外の何ものでもない、生々しい人肌の体温と感触。
口腔からねじ込められた狂おしいほどの喜びは、瞬く間に理性を圧倒した。本能の求めるまま、将生の顔を両の手で強く引き寄せて、噛みつくような口づけで応えた。けれどそれはほんのひとときのことで、唇が離れた瞬間、あれほど激しく燃え上がった情熱は一気に温度を失った。
まやかしのような接合を、素直に喜ぶことのできる自惚れも自信もなかった。
正気を取り戻した貴之は将生の肩をぐいと押しのけ、自らを蔑むような、冷淡な声を吐き出した。
「今のは、みっともなく醜態をさらした人間への同情からですか」
「違う」
それなら、と貴之は一段と声を荒くした。
「俺が父親に似てるからですか」
「それも違う」
応じる将生の態度は落ち着いていた。先ほどみせた熱情の片鱗は、嘘のように消えていた。
「お前に同情したことなんてないし、先生も関係ない。それに、お前、平井先生に似てる……か？」
疑問符をつけながら、将生が真正面から見つめてきた。貴之は反射的に顔を背けた。
「冗談言わないでください。そっくりでしょう！ しょっちゅう言われるんですよ、瓜二つだって」
「そういわれてみれば、似てるかもしれないな。でも、言われるまで気づかなかったよ。確かに顔のつくりは同じ気がするが……お前と先生は、血はつながっていても別の人生を送ってきた別の人間だ。印象が違ってもおかしくないだろう？」
「それなら、何で」
その先を発するのがどうにも気恥ずかしくて、不安でもあって、なぜキスをしたのか、という疑問は、閉じた口の中で無意味に転がって終わった。
将生の回答は、彼らしく簡素なものだった。
「離縁届と同じで、お前の気持ちも立場も考えずに、自分のしたいようにしただけだ。俺だって、自分勝手だよ」
「言っている意味、わかってますか」
「そのつもりだが」
感情の制御を失った貴之はどういう顔をしたらいいかわからず、とりあえず苦虫を噛み潰したような表情をした。
「ここは日本で、意味もなく、その、そういうことをするような文化はありませんよね」
「ああ、そうだな」
「だから、つまり」
続く言葉を形にできなくて、貴之は言葉尻を濁した。重い沈黙を割って、将生がおもむろに口を開こうとした。
「つまり、俺は」
「言わなくていい！」
耳まで赤くして目の前の口を塞いだ。これ以上余計なことを言わないでくれと切実に願いながら。
この場から一刻も逃げたい気持ちと雲に届きそうなほど浮ついた気持ちが、心中で激しい戦いを繰り広げている。混乱する、という表現が今ほどぴったり合う状況はなかった。
だしぬけに顎を持ち上げられたかと思うや、濃密で、しかし優しい口づけと、苦い溜息が落ちてきた。
「悪かった」
「悪いって、何が？」
「俺はいい父親になれなかった」
「あんた、俺に言いましたよね。息子にいいも悪いもないって。それなのに、自分だけいい父親になろうとしてたんですか？」
畳みかけるように詰め寄った。
「いい息子でも、いい父親でもない。それがどうしたんですか。ここまで来て、今さらガタガタ言わないでください」
一息おいて、貴之は呟いた。
「……これで満足してる俺が、馬鹿みたいじゃないですか」
往生際の悪い男の腕が、背中に回される。それに応えるように、もう一度、二度と唇を吸って弱くはみながら、柔らかい感触が夢でないことを確かめた。
名残惜しげに唇を離すと、鎖骨のあたりに頬を寄せたまま、ぶっきらぼうな口調で尋ねた。
「どっちがいいんですか」
主語も目的語も必要ない。それから先何をすべきか、何をしたいのか、互いの身体から立ち上る甘ったるい空気と吐息、それから微かに触れた指先だけで十分に伝わってきた。
「お前は？」
「質問に質問で返されても困ります。俺は、どっちでも」
「俺も別に」
貴之は半ば困惑し、半ば苛立って詰め寄った。
「あの、ここで揉めてたら先に進めないんですけど」
「貴之はどうしたいんだ？」
「どうって」
「じゃあ、どうされたいんだ」
耳元で静かに問われて、貴之は唾を飲み下した。
わかっているくせに、意地が悪い。
その台詞を言う顔を見られたくなかったし、相手を見たくもなかった。だから首に両腕を回して覚悟を決める時間を置いてから、やっと耳に入るほどの細い声で、ようやく口にした。
「……抱いてください」
言い終わるか終わらないか、唇を奪われた。口腔を嬲る舌先の、縺れ乱れた動きが次第に手足に移っていく。舌でする愛撫の合間に手際よく服を脱がされて、同時に骨ばった大きな手に肌を探られた。
情事の時、どの男たちの掌も興奮にじっとりと汗ばんでいたものだった。だが、将生のそれはひんやりとして乾いている。隠してきた欲望が理性的な指先に暴かれてしまうようで、心ならずも頬に朱が散るのを感じた。
レースのカーテンがひかれた窓からは、午後の日差しが降り注いでいた。くそ、と小さく悪態をつく。身体も顔も、隠したいものすべてが丸見えだ。逃げ場がない。どうして今このとき、よりによって昼間なのだろう。
この明るさのなかで、ひとりだけ裸でいるのは嫌だった。
「あんたも脱いでくださいよ」
不機嫌そうに言って、将生のワイシャツに手をかけた。ボタンを外す度に、胸が高鳴ってうるさい。普段何気なく着ている衣服が、これほど邪魔だと思ったことはなかった。
互いにすべて脱ぎきったあと、床に押し倒された。肌をまさぐる手の動きを休めないまま、将生が囁くように言った。
「背中、痛くないか」
「フローリングに押し倒されたんですよ。痛いに決まってるでしょう？ でも、マットレス用意するまで我慢できますか」
「……できない」
子供じみた言いぐさに、貴之は笑って将生の頭を近づけて唇を重ねた。求めていたものにやっと手が届いたような、そんな心が軽くなる口づけだった。
「嫌だったら言ってくれ。辛いとか、苦しいとか」
無意味な気遣いだと思った。
将生と寝た経験などないのに、わかりきっていた。自分に対して彼がする行為に、辛いことなんてあるはずがない。
触れられたところからじわりと滲んでいく温かい思いを胸の奥にしまいこんで、貴之はわざと憎まれ口を叩いた。
「本当に嫌だったら、何か言う前に蹴り飛ばしてますよ。それにご存じの通り、俺、天の邪鬼なんです。いやだとかやめろとか言ったら」
よく日焼けしたその逞しい背中を、誘うようにさすりあげた。
「逆のことをしてください」
「……わかった」
浅く、深く、幾度となく唇を貪ぼり合うと、抱きしめる腕の力が強くなった。露わになった肌がぴったりと吸いつき、相手と自分とを隔てるものがすべて失われていった。
骨までどろどろに溶けあってひとつになっていくような錯覚をおぼえ、危うい浮遊感に感覚が覚束なくなる。皮膚を湿らせているのが相手の汗なのか自分の汗なのか、もう区別がつかない。
二つの身体に分かれているのがもどかしくて、もっと深く繋がりたくて、絡みつけた足が互いの性器をこすりあげるたび、熱っぽい吐息が空気を濡らした。
相手の指の間に自らのそれを滑り込ませると、先ほどまで乾いていた掌がじっとりと汗ばんでいることに気がついた。
「興奮してるんですか」
「そうじゃなかったら、こんなことになってないだろ」
舌先でなぶるように、指に絡んだ汗を丹念に舐めとる。
「いつから、こうしたかった？」
「自覚したのは、さっきだよ」
「さっき？」
鈍いにもほどがあるだろうと呆れた。
「あんたね、自分のことをないがしろにしすぎなんですよ」
そうだな、と耳の側で低い声がして、どちらともなく唇を吸い上げた。
「久しぶりにお前の顔を見て、一年がやたら長く感じた理由がようやくわかった」
恍惚にたゆたいながら考える。欲情されることが嬉しい。馬鹿みたいに興奮しているのは、自分の方だ。
今まで多くの人間と寝てきたけれど、どれも性器を抜き差しし、精液を吐き出すだけ、あるいは絶頂を迎えるための過程に過ぎなかった。疲労と虚しさだけが残る不毛な行為は、相手がいる自慰と変わりない。
けれど将生との交接は、今まで経験したどんなセックスとも全く違った。こんなにも強く一体感を感じたことはなかった。それに全身の神経が過敏になっているようで、どこを触られても、何をされても、響くように感じてしまう。これが相性の良さというものなのだろうか。それとも、相手に寄せる絶対の信頼感ゆえか。
挿入もしていない状態で、愛撫と抱擁だけでこんなにも満たされたているのに、最後にはどうなってしまうのだろう。
「不安か」
耳朶をはみながら、将生が問いかけてくる。本音を覗き見られたようで、貴之はふいと横向いた。
「いえ」
平常心を装って言う間にも、すでに先端からは液が溢れそうなほどこぼれ落ちていて、無言のうちに身を苛む快感を伝えてしまっている。仕事の時とは真逆だ。あのときは感じていないことを知られるわけにはいかなかった。だが今は、感じていることを、知られたくない。
将生は先走りをすくいとって指を濡らすと、後部に当てた。が、表面をなでさするばかりで、なかなか挿入してくれない。こちらはして欲しくて仕方がないのに、ふざけるなと怒りがこみあげてくる。
仕方なく、入れて、と耳打ちして下半身を押しつけた。包容が強くなる。それからようやく、ゆっくり、ゆっくりと熱を持つ異物が内部に入り込んできた。
狭い穴が少しずつ押し拡げられていくにつれ、圧迫感と快感がせめぎあって、官能を優しくいたぶった。肉体よりもさらに奥深くを探られているようで、みっともないと思うのに、四肢が自然と悶えるような動きをしてしまう。
ずっと見つめ続けてきたあの指先が秘部に食い込み、己を犯しているのだと思うと、それだけで達してしまいそうだった。
自分の身体が、夏祭りで売られているような水風船になった気分だ。弱いところを優しくなでられ、絶え間なく甘い蜜をそそぎ込まれて、大きく膨らまされた風船。ここで強い刺激を与えられたら、あっという間に弾けてしまうだろう。
相手に身をゆだねる歓びに酔いしれつつ、一方的に与えられるという状況は男として屈辱でもあった。
快感に押し流されそうになりながら、貴之はそれでも強がることをやめなかった。
「次は、逆ですから」
「ああ、次はな」
次などどうでもいいのか、おざなりな返事しかかえってこなかった。将生は貴之の顎を押し上げた。別の生き物のような卑猥な動きで、露わになった首の突起を生ぬるく濡れた舌が這う。同時に、胸の中央をきつめに揉みしだかれて、思わず猥らな声を上げそうになった。はじめてなのに、弱いところを的確に責めてくるのが癪に障る。
その間にも、ほぐされて緊張の解けてきた穴には、二本、三本と指の数が増やされていった。無遠慮に暴れる三本の指にいいように蹂躙され、限界は目前に迫っていた。
もう、指では足りない。
潤んだ眼差しで訴えると、将生は意を汲んで小さく頷いたような気がした。
すぐ間近に迫る行為への期待感に、貴之の全身が粟だった。
「……いいか？」
気づけば、脚に当たる将生のそれも、張りつめて固くなっていた。貴之が限界を感じるのと同じように、将生も追いつめられていたのだろう。
「将生さん」
喘ぎ混じりの呼びかけは媚びるような響きを帯びていて、自分のものではないように聞こえた。
「後ろから、してください」
かすれた声で頼みはしたものの、決して後ろから責められる体位が好きなわけではない。
乱れきった姿を正面から見られるのが、どうしても嫌だったのだ。そんなこと、別の誰かと身体を合わせたときには思いもしなかった。
身体を売って金を稼いでいたことが信じられないような、処女じみた羞恥心がどこからわき上がってくるのか自分でもわからなかった。将生にはもう、汚いところも見られたくないものも全部知られているのに。
だが、とにかく恥ずかしい。彼と肌を合わせていると思うだけでも、たまらなく恥ずかしいのだ。正常位で揺さぶられたら、羞恥のあまり心臓が止まってしまうかもしれない。
将生はわけも聞かず承諾すると、貴之を後ろ向かせた。だが、将生はすぐには挿入しようとはせず、黙って貴之の背中を見つめているようだった。
その理由を悟り、貴之は軽く振り向いて尋ねた。
「傷、まだ残ってますか」
「もう消えてるよ」
将生は短く言うと、唇をそっと背中に当てた。熱い息が辿るのは、かつて傷のあった場所だ。その仕草があまりにも優しくて、喜びとも悲しみともつかない何かが、喉を重く詰まらせる。
唇での愛撫が終わると、貴之は挿入がしやすいように膝を立てた。割れ目をぐっと押され、指よりも太く固いものがあてがわれる。外から圧迫されて貴之の身体は抵抗を試みたが、それでも強い疼きを伴いながら、隆起した陰部が徐々に飲み込まれていった。
根本まですっかり収めてしまった後も、将生はすぐには動かないで、接合部がなじむのを待っているようだった。その間、甘い疼きの誘惑に耐えられず、浅ましく腰を動かしたい衝動と必死に戦っていた。
何もしていないのになじられているようで、貴之は自らの腕をきつく握りしめた。元々の性格の慎重さもあるだろうが、暴行の傷跡を慮っているのだろう、将生が貴之に与えるものは性急さとは無縁だった。二年、重傷ではない程度の身体の傷が癒えるには十分だが、心に負ったそれが消えるにはあまりにも短い。
大事にされていることが伝わってきて、心から有り難いと思う。けれどもうひとりの自分が耳打ちする。もっとかき回して、激しくして、乱して欲しい。
己のさもしさへの嫌悪感と背徳的な歓びとが押し寄せてきて、思わず腰を振りかけたとき、何の前触れもなく、緩慢に、しかし深く奥を突かれた。不意打ちのように衝撃と法悦を与えられ、半身が跳ね上がった。
間をおかず、先走りでぐっしょりと濡れたものを上下にしごかれて、貴之はほとんど涙声で言った。
「そこ、だめ」
いやだ、やめて、いくらそう口にしても、将生が手を休める気配はなかった。制止しようと将生の腕をつかんでみたものの、彼がどのように自分を責めているのかが直に伝わってきて、却って快感を煽り立ててしまった。
溺れたように息が出来なくなったそのせつな、背筋が反り返った。継父の掌が汚れていくのがわかったが、もう止められなかった。絶頂の余韻にぼんやりとしながら、彼を汚してしまったという罪悪感が甘く胸を焦がした。
繋がったままの体勢で、将生は胸を荒く上下させる貴之を後ろから抱きしめた。
貴之は何度か深呼吸をして息を整えると、できるだけ愛想を殺して言った。
「黙ってないで、何か言ってくださいよ」
余韻に浸っている間、将生の声が聞きたいなんて、口が裂けても言いたくなかった。
すると将生がさらに身を寄せてきた。胸と背中が隙間なく埋められて、互いの体温を肌を通して分け合った。暑さを言い訳に上半身を離そうと試みたが、きつく抱き止め続ける腕がそれを許さなかった。貴之は唇を噛みしめた。無様に跳ね上がった鼓動が、伝わってしまっているに違いない。
耳朶を味わう歯の間から、低い声が震えた。
「何を言えばいいんだ。可愛いとかか？」
「思ってもないこと言わないでください」
「思ってないわけじゃない」
貴之は自嘲の笑みを浮かべた。可愛い、という形容詞で表されるような愛嬌が自分にあるとは思えなかった。
「どこが。顔ですか？」
「それもあるが」
言うと、突然将生が腰を引いて、挿入していたものを抜き去った。
「……あ」
はからずも物欲しげな声がこぼれてしまい、貴之は悔しげに顔を歪めた。
と思うや、強い力で腰を押され、仰向けにされた。絶頂の倦怠感から回復しきっていない身体は、不本意にも容易く将生の思うがままにされてしまった。
不意を衝かれた貴之は狼狽をごまかすことも忘れて、自分を見下ろす将生の顔を凝視した。将生は穏やかな表情のまま、貴之の脚を押し開いた。
「え、ちょっと、何考えて……」
「お前は、可愛いよ」
強引ともいえる切迫した動きで、陰茎が抉るように進入してきた。二度目の挿入に対する身体の抵抗は一度目よりも少なかったけれど、半ば無理やり与えられた快感は、歯を食いしばってもとても堪えきれるものではなかった。思わず切ない喘ぎが零れた。涙に滲んだ視界の端に、口元に微笑を浮かべた顔が映った。
「策士のくせに、自分の策に溺れるところが」
貴之は愕然として目を大きく見張った。
一途に見つめてくる眼差しは、言葉よりも能弁だった。隠していたもの、隠したかったもの、すべて露わにされて相手の手の内にあったというわけだ。
「見るな！」
将生の目を覆おうとした掌は、簡単に払われてしまった。
舌打ちしたいのに口から流れるのは唾液の絡まった喘ぎばかりで、舌はもはや完全に制御を失っていた。
思い通りになるどころか、予想の斜め上、いやそれ以上の展開に引きずり込まれて、翻弄される。それがたまらなく口惜しくて、そして頭がおかしくなりそうに気持ちがいい。
腰を持ち上げられて、これまでよりも、さらに早く穿たれる。肉感的な水音が耳の膜を打つ。段々と短くなっていく吐息の合間に、すすり泣きめいた譫言が止めどなく流れ落ちた。
「卑怯者、臆病者」
「うん」
「狡い」
「ごめん」
「謝るのは、狡い」
「うん、そうだな」
「好き」
一瞬、驚いたように動きが止まった。それから、息がつまるほどきつく抱きしめられた。
「……好き」
熱っぽい唇と舌に埋められて、続く言葉は消えてしまった。
夏の日の雨のように、上から温かな汗が雫となって滴り落ちてくる。将生の表情から、次第に余裕が失われていくのがわかった。苦しげに眉根を寄せている。将生もいっぱいいっぱいなのだ。そう思うと、胸が切なく締めつけられるようだった。
ふいに、今にも達しようとした将生が、下半身を引こうとするのがわかった。貴之はそれを拒んで、離れようとする腰を両の脚でぐっと締め付けた。
「離さないで」
将生の頭を力任せに引き寄せ、甘く囁きかけるように懇願する。
「全部、出して」
その一言が、将生の自制心を完全に失わせたようだった。
呼吸すら許さぬ勢いで深部を揺さぶられ、擦り上げられた。次から次と押し寄せる快楽の波に揉みくちゃにされて、いよいよ頭が変になる。心まで丸ごと犯されてしまいそうな感覚が恐くて、正気を失ってしまいそうで、律動を繰り返す男の腕に必死にしがみつく。
将生が上体を起こした。わずかに潤んだ眼が見つめてくる。心臓を鷲掴みにされたように、苦しくてたまらない。
次の瞬間、もっとも奥まったところを貫かれて、熱い奔流が放たれた。全身を電流のような、しかし甘やかな痺れに浸食されて、貴之もまた二度目の精を吐き出した。
貴之は自らの上にぐったりとのしかかる男の、火照りの残る背中にそっと腕を回した。
注ぎ入れられた熱いもので、心と身体が溢れそうになる。
それは、官能のもたらす歓びよりも強く人を支配するもの。
人によって意味の違う、形のない曖昧なもの。
手に入れた途端、見えなくなってしまうもの。
いつの日かそれを失うとき、計り知れない苦しみをもたらすだろうもの。
……それでも、人が求めずにはいられないもの。
問いかけるように互いの視線を絡め、解いた。それから、唇を重ねた。繋ぎ合ったところよりも、深く深く口づけた。
空っぽだった器に、幸福が満たされていくのを感じながら。
よほど疲れたのか、二人ともしばらく茫然自失という体で、睦言も交わさず黙って床に横になっていた。本気でするセックスが、ここまで疲弊するものだとは思わなかった。
貴之は気だるい身体をどうにかひきずって、フローリングに置いたままになっていた緑茶のペットボトルを引き寄せた。口いっぱいに広がる清涼感に、やっと人らしい言葉を取り戻す。
「あとで、風呂借りていいですか？ 全身べとべとで気持ち悪くて」
言いながら、将生がずっとこちらを眺めているのに気がついたが、気まずくて見なかったことにした。
いたたまれない空気のまま数秒が過ぎた頃、沈黙に耐えられなくなって、ついに観念した。
「……俺の顔に何かついてますか」
「いや。俺も、一応雄なんだって実感してな」
色気など微塵もない台詞に、貴之は呆れた。
「なんですか、それ。生まれたときからついてましたよね？」
「まあ、そうなんだが」
「老眼かと思いましたよ。あんまりじろじろ見るから」
「……さすがに、まだそんな年じゃない」
老眼という一言に衝撃を受けた様子の将生を無視して、緑茶をすする。
「そうだ、言い忘れてた」
ペットボトルの底が空いたとき、貴之はふと思い出したかのように顔を上げた。
「先の話なんですが、今住んでる寮、老朽化が進んでいるので、来年改築するんです。だから、そのうち出なきゃいけなくて。……もし迷惑でなければ、ここに住んでもいいですか。部屋余ってるみたいだし、交通の便も悪くないし」
「もちろん構わないが」
「すぐにでも？」
「ああ」
「じゃあ、早い方がいいですね。もたもたしてると試験期間に入りますから。それに、あんた、ひとりだと適当な食事しかしないでしょう？ 一週間キャベツだけだとか」
突如降って湧いた同居話に将生は少々面食らっているようだったが、貴之は構わず、壁に掛けてあるカレンダーを見ながら、引っ越しの具体的な日取りなどをてきぱきと決めていった。
あますところなく全身に刻まれている、火が噴くような恥ずかしさと熱っぽい疼きを忘れるためには、ちょうどお誂え向きの作業だった。平気な顔をして日常に戻るには、まだ情事の残り香が強すぎる。
家主である将生の意見もふまえ、これからの予定があらかた固まったあと、貴之はカレンダーから将生に目線を移した。
「そういえば、ずっと前にこんな話をしたの、記憶にありますか。おしどりとかペンギンって夫婦仲がいいイメージがありますけど、実際には毎年パートナーを変えるんです」
「昔、お前に聞いたことがあったな。それがどうした？」
「俺たちも、来年にはもっといい別の相手を見つけてるかもしれませんが」
悪戯っぽく笑って、貴之は額を軽くつきあわせた。
「しばらくは、つがいの真似事でもしてみましょうか」
（終）