駅前の喫茶店は、平日だというのに多くの人で賑わっていた。駅から歩いてすぐという立地の良さと、午後三時過ぎという時間のためだろう。手頃な値段と居心地の良さ、そこそこ美味しい菓子や料理も人が集まる理由のひとつかもしれない。飛び抜けて素晴らしい店というわけではないが、全てがほどほどに悪くないのだ。
入り口のガラス戸を引くとすぐに、窓際の席から和臣を呼ぶ明るい声がした。
「白瀬先生、こっちこっち!」
短い髪の女性が、朗らかな笑顔を振りまいて手招きしている。和臣は軽く会釈して、促されるまま席についた。手渡されたメニューを開くこともなく店員に返し、コーヒーを注文してから、改めて女性に向き合った。
「すみません、お呼びだししてしまって」
「そんな、こちらこそ!」
慇懃に頭を下げる和臣を見て、女性は慌てたように両の手を肩のあたりでひらひらさせた。年齢は四十代半ばあたりだろうか。小綺麗、という表現がぴったりの女性だった。自分によく似合う衣服や髪型というものを十分に心得ていて、最低限の化粧と小物で、最大限に自分の魅力を引き出す術を知っている。
彼女の名前は宮代礼子。哉の母親だ。
「この度は哉がご迷惑をおかけしまして」
礼子は苦々しげに顔をしかめた。よく動く表情には、年齢を感じさせない若々しさがあった。
「いきなりやめたいだなんて。先生には、小さい頃からずっとお世話になっているのに。まったくもう、何考えてるんだか!」
怒りを鎮めようとしたのか、テーブルに置かれた水を一息に飲み干した。和臣はその勢いに思わず苦笑を漏らした。
「難しい年頃ですからね」
喉の奥に苦いものを感じながら、和臣はその言葉を噛みしめた。
生徒の保護者と何か話があるときは、この店を使うことが多かった。保護者、特に母親と教室で二人きりになることは絶対にしない。習い事の教室は地域に根ざすものだ。虚構であれ真実であれ、一度妙な噂を立てられでもしたら、それまで身を削って積み上げてきた信頼と実績が一瞬にして水泡に帰することもある。個人で細々とやっている小さな教室にとっては、まさに命取りであった。
だから面談をするときは、いい案件である時も悪い案件である時も、いつも必要以上に緊張した。通りに面した大きな窓のある明るい店で、仕事であることを念押しするように、ちっとも着こなせていないスーツを着込んで。つきあいの長い哉の母親とて例外ではない。
和臣は慎重に言葉を選んで尋ねた。
「今まで、ご家庭でそういった話をしていたことはありましたか?」
「いえ、全然……先生、相変わらず甘いのお好きなのね」
礼子の視線は、運ばれてきたばかりの和臣のコーヒーカップに注がれていた。無意識のうちにたっぷりと砂糖とミルクを注ぎ入れていた和臣は、はっとしたように肩を強ばらせ、頬をわずかに赤く染めた。
「え? ええ。まあ、そうですね。嫌いでは……」
「ケーキもお食べになります? 今月の新作ケーキ、この間来たときに頂いたんですが、結構美味しかったですよ」
「いえ、それはまたの機会に」
礼子の声にからかうような響きはどこにも感じられなかったが、和臣はもごもごと口の中で言い訳じみた言葉を転がした。カップの中でスプーンがもの凄い勢いで円を描いて、小さな渦を作っていた。
ここでやっと和臣を顔をつきあわせている理由を思い出したかのように、礼子はぱっと額を上向かせた。
「そうそう、哉のこと。本当に思い当たる節がなくて。最近ピアノの音がしないな、とは思っていたんですが、ちょうど学年末試験の時期だったもので、あまり気にしていなかったんです」
「もしかしたら」
受け皿にスプーンを置き、和臣は低く呟くように言った。
「僕が何か、不用意な言動をして傷つけてしまったかも」
礼子は組み合わせた指の上に顎を預け、射抜くように和臣を見つめた。きれいに描かれた眉が軽くあがった。
「お心当たりが?」
「いえ」
固い声で発せられた否定の返事を受けて、ふっと礼子の声が和らいだ。
「じゃあ違うと思いますよ。先週のレッスンから帰ってきたときには、いたって元気でしたから。あんまり自分の話をしない子なんですが、夕食の時に最近ピアノどう?って聞いたら、新しい曲をはじめたんだって、ぼそぼそ言ってました。まあ、家でもあの調子で無愛想なんですけど、その時はちょっと嬉しそうにしていて、ああ、先生とうまくいってるんだな、って思ったんです。それが昨日の今日でやめたいですって。しかも親に何の相談もなしに。ごめんなさいね、先生。突然そんなこと言われて、ご不快に思われたでしょう?」
「男の子には、よくあることですから。大抵みんな親御さんに話さないで、いきなりやめると言い出すんです」
姉妹の影響や親の希望で、幼児の頃からピアノを習っている少年は少なくない。だが中学にあがるあたりで、塾が忙しい、部活に専念したいからとやめる子がほとんどだ。思春期特有の気恥ずかしさもあるのかもしれなかった。和臣自身にも、思い当たる節がある。
礼子はふっと長い息を吐いた。
「そういえば、先生のところに通ってらっしゃる生徒さん、中学生以上は女の子ばっかりですものね。先生にもそういう時期がおありだったんですか?」
「僕ですか」
和臣は、ややためらってから苦笑した。
「うちは、父も母も音楽をやっていましたので、ほとんど強制的に。やめるという選択肢は思いつきませんでしたね」
「先生はきっと優等生でいらしたんでしょうね。ご両親が羨ましいですよ。あの年頃の男の子の考えてることって、正直よくわからなくて。自分の息子でもね。学校で何かあったの、って聞いても、あーだの、いーだの、うーだの、えーだの、おーだのしか言わないし。……そうだわ!」
ひとしきり喋ったあと、何かを思いついたかのように、礼子は急に大声をあげた。隣にいた客が顔をしかめてこちらを見てきたので、和臣は慌てて謝罪の仕草と視線を送った。すぐ横で交わされているやりとりに気づく様子もなく、礼子は顎に手を当て、記憶を探るように続けた。
「五日くらい前かしら。学校から帰って来たときに、ちょっと様子がおかしいかな、と思ったことがあったんです。別にそう思った具体的な理由はないんですが、何となく。でも体調も悪そうじゃなかったし、学校に行くのが嫌そうな素振りもなかったし、ご飯もしっかり食べていたから、気のせいかしらと思って。妙なことといえば、繰り返し繰り返し同じ曲を聞いていたことくらいかしら」
「同じ曲? どんな曲ですか?」
身を乗り出して尋ねると、礼子は軽く肩をすくめた。
「私、音楽は詳しくなくて。クラシックのピアノ曲だと思いますけど、それ以上は」
「そうですか」
気落ちした様子の和臣を、礼子は気遣わしげな眼差しで眺めた。
「ごめんなさい。妙なこと、なんて思わせぶりなことを言ってしまって。勉強をするときにはいつも何かしら音楽を流しているから、気に入って何度も聞いていただけですよ、きっと」
「そうかもしれませんね」
引っかかりを覚えつつも、和臣は頷いた。
「その他の可能性としては……同級生にからかわれたとか?」
礼子は賛成しかねると言った様子で顔をしかめた。
「ピアノなんかやってる男は軟弱だって? でも、クラスの雰囲気はとてもいいですよ。まあ、人を攻撃して楽しむような輩はどこにもいるでしょうが。万が一そういうことがあっても、あまりそういうことには動じない性格だと思っていたんですけど。人は人、自分は自分という感じで。ともかく、一時の気の迷いかもしれませんし、本人にもう一度聞いてみます。それで……」
「以前にもお話したのですが」
際限なく転がり続ける声を、どこか思い詰めたような一言が遮った。喉の奥から絞り出すような声音は、店の喧噪に紛れてしまうほど静かで抑制の利いたものだったが、礼子の唇は半ば開いたところでぴたりと動きを止めた。
「もし、哉くんが僕のところをやめてもピアノを続けたいようでしたら、別の先生をご紹介しますので、ご連絡いただければ」
和臣は目を伏せて、空になったコーヒーカップを見つめた。数年前から、礼子にも哉本人にも繰り返し伝えていた。演奏者として上を目指すのであれば、もっと名のある師につくべきであると。経験も技量もあり、顔も広く、コンクールでその人に師事していると聞けば、皆が注目するような指導者に。哉はもう中学生、今からでは遅すぎるほどであった。
それに優れた指導者を持てば、哉もコンクールなどの外の世界に興味を抱くようになるかもしれない。本人の意思を無視した身勝手な願いではあるが、彼の演奏を多くの人の耳に聴かせたいという思いもあった。
和臣とて若年であることを言い訳に、ただ自分の力不足に甘んじていたわけではない。寝る時間を削って指導方法について学びもしたし、恩師や別の指導者たちに相談し、助言を仰いだたことも一度や二度ではなかった。けれど、それでも足りなかった。才ある者の貴重な時間が無為に消費されていくことへの、一方的な焦りと失望だけが募った。己の無力さが、歯がゆかった。
だが和臣の焦燥をよそに、哉の中には和臣以外の教師につくという選択肢が全くないようだった。だから余計に今回のことには、驚かされたのかもしれない。
礼子は含んだような笑みを浮かべて、小さく首を傾げた。
「そうですね、本人がそう言うなら。でもあの子、先生以外の方にピアノを習うなんて、きっとしないと思いますけど」
幾度となく繰り返されたやりとりだった。和臣は落胆し、心の底で深く嘆息した。
礼子は続けた。
「ともかく、続けるにしろやめるにしろ、一度改めて本人にご挨拶に行かせますので」
「そんな、哉くんが嫌がるようでしたら無理には……」
「いいえ、けじめはきちんとつけないと。やりたいって言い始めたのは哉自身なんですから。先生はお優しいから、甘えてるんですよ。ほら、子供って親しい大人には何を言っても許されると思ってるところ、ありませんか? 上の娘なんか、私のこと家政婦か何かと勘違いしてるんじゃないかと思いますよ」
ここで不意に、礼子は息をついて和臣を見つめた。
「でもね、いくら許してくれるからといって、いつまでも優しい人の優しさに甘えちゃいけませんよ。あの子も、もう甘やかされるだけの子供じゃないんですから」
いたずらっ子のように目を細めて、礼子は肩をすくめた。
「もう、十年近くになるんですね。びっくりしたわ、ピアノ教室であなたをお見かけしたときには。もっと遠くの町に住んでいらっしゃると思っていたから」
礼子の表情に陰が落ちた。性格も容姿も、自分と息子は全く似たところがないと礼子本人は言うのだが、目を伏せて俯いた仕草に、鍵盤を見つめる哉の面影が重なった。
「先生、ごめんなさいね」
喫茶店の喧噪が、二人の周囲からさっと引いたようになった。和臣は沈黙をもてあまして、空のカップに唇を寄せた。
「ああ、だめ。やっぱり我慢できない!」
突然、テーブルに置いた手をぐっと握りしめて、礼子が叫ぶように言った。
「ケーキ頼んじゃうわ。おなか空いちゃって。先生も召し上がりません?」
人好きのする笑顔を向けられて、和臣は思わず頷いてしまった。
礼子と別れてから、帰りを急ぐ群衆に埋もれるように、特に目的もなく夕暮れに染まりつつある街を歩いた。このままスーパーに立ち寄って夕飯の食材を買って帰ろうか。いや、悩む以前の問題で、冷蔵庫はほとんど空なのだから、何か買わなければ食べる物がない。礼子につられて注文してしまったケーキも、夜にはきれいに腹から消えていることだろう。
それなのに、足元に伸びる影が地面に縫いつけられたようで、どうにも足が重く、日常の細事に意識を向けるのが億劫だった。何かに心を奪われているときはいつもそうだ。生き物として一番重要であろう飲食の欲ですらがきれいに消え失せてしまう。学生の頃はピアノの練習に没頭するあまり、食事を取るのを忘れて祖母によく叱られたものだ。
そのときと違うのは、今、心を占めているのは音楽ではなく、ひとりの少年のことだということだった。
哉にピアノを止めてほしくない。あの荒削りな、しかし限りなく美しく、痛いほどに澄んだあの音がどこまで伸びていくのか、見続けていたい。けれど本人が望まないのであれば、強制することはできなかった。肉親であれ、教師であれ、人の心を思い通りに動かすなど許されることではない。
それでも、と願ってしまうのは、相手のためと言い訳した自分自身の傲慢であり欲望なのだろうか。
「白瀬、白瀬だろ!」
背後から名を呼ばれて、和臣は足を止めた。帰りを急ぐ人々の間から現れた声の主を見とめると、古いアルバムのページをゆっくりとめくるように、その名を口にした。
「杉浦先生?」
「覚えていてくれて嬉しいよ。卒業以来だから、もう十年以上か?」
信じられないというように互いを見つめ返す眼差しには、思いがけない再会への喜びと驚きが溢れていた。
「忘れるはずありませんよ。あんなにお世話になったのに」
「何だ、世辞のひとつも言えるようになったのか。ずいぶん大人になったもんだな」
和臣は目の前の男に、少年のような屈託のない笑顔を向けた。
杉浦は音楽教師で、中学時代の恩師だった。担任としても、音楽部の顧問としても世話になった。トレードマークであった黒縁眼鏡は当時のままだが、黒々としていた髪には、白いものが多く混じっていた。そこかしこに老いの気配が色濃く感じられたが、分厚いレンズの奥にある目だけは、昔と少しも変わらず生き生きと輝いていた。
それぞれの簡単な近況、クラスメイトの噂話。はじめこそややぎこちなかったものの、長い年月のもたらす空白はあっという間に埋まってしまった。それでなくても音楽という共通の話題を持つ二人である。話は尽きなかった。
ただ、教師を目指していることとピアノ教室を開いていることは、なんだか気恥ずかしくて言いだせなかった。
「今はすぐそこの中学校にお勤めに?」
「ああ。お前がこんなに近くに住んでいるなんて思わなかったよ。今でも時々、生徒にお前の話をするんだ。教え子にすごい奴がいたんだぞ、ってな」
そう告げる杉浦の表情は、どこか誇らしげであった。和臣は恥ずかしさから正視できなくなって、咄嗟に杉浦から視線を外した。
「いえ、そんな大したものでは……」
「大したものだったよ! あの年であれだけの技量を持つ人間は」
力強く言いかけて、杉浦ははっとしたように口を閉ざした。
「……お前は、俺が知る限りで最高の演奏者のひとりだよ。昔も、今も」
口元に朗らかな笑みを浮かべているにも関わらず、和臣を見つめる瞳はどこか寂しげだった。
しかし次の瞬間、杉浦の声には以前と変わらぬ張りが戻っていた。
「そうだ、演奏を録音したの、覚えてるか? 毎年、お前のピアノを聞きたいって学生が何人かいてな。本人の許可も得ずに悪いと思いつつも、希望があれば聞かせてるんだ。事後承諾になって申し訳ないが……構わないか?」
「もちろんですよ。でも、僕の話はどこまで」
和臣の表情に控えめな不安を読みとったのか、杉浦は慌てて弁明した。
「あることないこと、そんなに調子よくぺらぺら喋っているわけじゃないさ。とんでもなくピアノが上手い奴がいた、そこで終わりだ。……ただ」
「ただ?」
杉浦の声音が微かに低くなったのを、和臣の耳は敏感に聞き取った。
「どうしてもお前のことを詳しく知りたいって奴が、ひとりだけいてな。今いる中学の教え子なんだが、そいつもなかなかいいピアノの弾くんだ。それで……」
杉浦はきまりが悪い様子で頭を掻いた。
「すまなかった。軽率だったな」
「それは、最近のことですか」
「ああ。数日前だ。お前の演奏をひどく気に入っていたよ。家で聞きたいからと、音源のコピーまでせがまれた程だ」
血の気が引くというのは、こういう気分をいうのだろうか。氷で出来た冷たい指で、心臓を鷲掴みにされたような心地がした。
「まさか、お前がこの街に住んでいるとも知らずに……中学生と接点があるとも考えにくいし、たぶん面識はないと思うんだが」
恐縮する杉浦を責める気持ちはなかった。事実は事実だ。隠したところで、現実が消えるわけではない。
祈るような気持ちで、和臣は杉浦に問いかけた。
「その子の名前は、もしかして」