「よく来てくれたね」
和臣はつとめて平静な素振りを装い、制服姿の哉を招き入れた。一見したところ、哉の態度におかしいところはどこにもなかった。いつもと同じように淡泊で礼儀正しい挨拶をして、礼子から預かったという菓子折りを手渡すと、慣れた様子でピアノのある部屋へと向かっていく。
その背中を眺めながら、和臣は考えを巡らせていた。先日、哉から電話がかかってきたときには、結局やめるのかやめないのか、はっきりした返事はもらえなかった。もしかして、気が変わったのだろうか。そう思いかけて、すぐに打ち消した。根拠のない期待が、却って哉への負担になるかもしれない。彼がどういう選択をしたとしても、こちらは受け入れることしかできないのだ。
哉はピアノからも和臣からも目を逸らすようにして、壁際の椅子に上着と荷物を置いた。
「先生」
「何だい?」
「カーテン、閉めていいですか」
「ああ、構わないよ」
外からレッスンの様子が見えているのは、恥ずかしかったのだろうか。気が回らなくて申し訳なかったと考えつつ、和臣は照明のスイッチを入れた。カーテンを引いただけで、室内の空気がにわかに息苦しくなったようだった。
「とりあえず、座ろうか」
所在なさげに立っていた哉は、微かに頭を前へ傾けた。
「俺」
椅子に座ってしばらくしてから、哉はようやく口を開いた。
「やめます。この教室も、ピアノも。今まで、ありがとうございました」
「……そうか。残念だよ。君のピアノは、これからもっと伸びると思っていたから」
水の上を滑るような、空虚な賛辞だった。理由を教えて欲しい、そう言いかけた唇は、なぜか凍り付いたように動かなくなってしまった。代わりに、自分でも驚くほど落ち着いた声音で尋ねた。
「最後に何か弾いていく?」
重い沈黙がのしかかる。時計の針が落ちる音すらも聞こえそうな、静かで、長い数十秒だった。哉はその間、鍵盤の蓋を開け、覆いを外す和臣の手の動きをじっと眺めていた。
ややあって、囁くような声がした。
連弾をしてほしい。
思いがけない提案をされて返答に窮する和臣に、哉はここではじめて責めるような眼差しをぶつけてきた。
「嫌ですか?」
「そんなことないよ! 久しぶりだね、連弾なんて」
わざとらしくうわずってしまった声を悔やみながらも、和臣はそそくさと書棚に近づいた。きちんと作曲者名順に並べられた楽譜の背表紙を眺める仕草の裏で、奇妙な感覚に陥っていた。これが最後だというのに、心なしか胸が弾んでいるのはどうしてだろう。
「ええと、弾いたことがあるものだと、シューベルトとか、ブラームスとか……」
いつの間にか隣にいた哉が、和臣の動きを遮るようにモーツァルトの棚に手を伸ばした。
「これがいいです」
差し出されたフランス語の曲名を、和臣はまじまじと見つめた。
「……きらきら星変奏曲?」
哉の好みから考えれば、意外な選曲だった。幾つもの変奏を重ねて繰り返されるメロディは、同じ筋書きを違う語り口で何度も物語るようなもので、ともすれば単調になりがちな、技術的な難易度以上に弾きこなすのが難しい曲だった。
和臣の反応を待たず、哉はごく自然な動作で鍵盤から向かって左に座った。和臣も慌てて右側に椅子を並べた。二人で連弾をするのは、哉が小学生のとき以来だ。今こうして並んでみると、横の間隔も、縦の間隔も、ずいぶんと狭くなったように思える。哉は痩身で、身長も高い方ではなかったが、それでも大人からしてみれば驚くほどの早さで成長しているのだろう。
懐かしく思い出を味わっている和臣をよそに、哉の指先が急かすように、とん、と軽く鍵盤を叩く。和臣もはっとして顔を上げ、同じように鍵盤に指を置いた。室内は暖房で適温に調整しているが、木製の鍵盤は日陰の湿った土のように冷たかった。
ピアノは管弦楽器と違って、誰が鍵盤を叩いても同じ音が出る。ペダルで調整するとしても、指の動きは単純といってもいい。
右に、左に。上に、下に。強く、弱く。早く、遅く。
それなのに、熟練した者とそうでない者の音色は全く別物だ。
始まりの合図もなく、哉の指は次から次へと鍵盤に沈んでいった。礼子の話から察するに、ゆうに一週間はピアノから離れていたのだろう。そのためか、当初はやや固かった関節の動きも、主題を終える頃には滑らかさを取り戻していた。
音符を数字にして読み解くように、整然として、正確で、譜面に忠実な音。明るい軽やかさも、胸踊るような楽しさも、真正面から受け止めるその響きは、息苦しく思えるほどに実直で誠実だった。
しかしながら哉の奏でる音楽は、聞く者の耳に小さな傷を残していくような、どこか抗い難い魅力を備えてもいた。
小さな幼い音楽家たちの多くは、喜びも、悲しみも、胸に沸き上がるありのままの感情を、たった十本の指に全力でぶつけてくる。けれど哉の演奏は、その年齢を思えばあまりにも理性的だった。
それは、必ずしもいい傾向であるとは言えなかった。小節のひとつひとつは完全といっていいほどよく弾けているのに、全体としてみればまとまりに欠けていることが多いのは、内に秘めたものを自分でも持て余して、うまく制御できていないのではないかと懸念していたのだ。
あるいは彼の魅力は、その危うい不均衡を源としている可能性も否定できなかったが、どちらにしろ自己の内面に目を背けたままでは、やがて大きな壁にぶつかり、苦しむことになるだろう。
だが結局、彼の才能をうまく導くことができなかった。今思えば、表面的には打ち解けた態度をみせたとしても、完全に心を開いてくれていたわけではなかったのかもしれない。
半ば引きずられるように、哉の後を即興で追いかけながら、和臣は微かに眉を寄せた。指の動きも表情も、いつもと変わるところなどないはずなのに、哉らしくない、荒れて粗雑な調子を帯びていた。
どこか子供が拗ねるようなその音色は、眠っていた遠い記憶を呼び覚ました。練習曲以外で哉が最初に弾けるようになったのは、子供向けに編曲されたきらきら星だった。ふっくらとした短い指が、弾けるように、踊るように、鍵盤の上を駆けていた。
そう思う間にも、少女のお喋りのように快活に流れていた調子が、次第に駆け足になっていく。
早く、早く、もっと早く。
強く、強く、もっと強く。
和臣の額に汗が浮かんだ。哉のものとは思えないような乱暴な演奏だ。かと思えば、露骨なまでに腕が触れ合うのを避けている。ほとんど恐れていると言っていいくらいの神経質さで。どうして連弾をしたいと言い出したのか、哉の態度から意図を汲みとることはできそうになかった。
礼子は言っていた。哉は和臣に甘えているのだと。けれどその言葉を嘲け笑うような勢いで、ひとつの曲を共に作り上げようとする和臣の音はことごとく拒絶されていた。調和なんてごめんだ、お前の思い通りになどならないと、差し出した手を厳しくはねのけるように。
娘の言動を嘆いた、礼子の溜息が思いだされた。子供にとって大人は自分とは別の生物で、同じように苦しんだり、傷ついたりするものだとは思い至らないのだと。
けれど、大人とて似たようなものだ。隣に座る少年に輝かしい未来を夢見るのも、それが絶たれてしまいそうな事態に失望するのも、大人の身勝手な感傷ゆえなのだろう。彼らの前にあるのは、自分たちと同じ、どこまでも続く現在でしかないのに。
それでも、せめて今このときだけは願うことを許してくれないだろうか。たとえ拒まれても、君を追いかけることを諦めたくない。君の音を聴いていたい。遠くない未来、君がどんな答えを出すのか、見届けたい。
しかし、現実と夢の間をさまようような追いかけっこは長く続かなかった。和臣は右手に鋭い痛みを感じ、思わず鍵盤から指を落とした。
しまったと思う前に、和臣は痺れた手首を隠すようにして握りしめた。だが、急に動かなくなった和臣の手を見つめる哉の目は冷静で、少しの驚きもなかった。彼がわざと煽るような演奏をした理由を悟って、和臣は曖昧な微笑を浮かべた。
「……知っていたんだね、腕のこと」
哉は制服の胸ポケットから、一枚の紙片を取り出した。
古い新聞記事の切り抜きだった。
「どこでこれを?」
「母の部屋にあったのを、勝手に持ち出しました。あとで謝っておきます」
和臣は半ば儀礼的に視線を落とし、黄ばみかけた紙に並ぶ文字を虚ろに追った。
読まずとも内容はわかっている。
飲酒運転……高校生が重傷……母親と幼児をかばって……命に別状は……。
交通事故と杉浦先生の昔話。
ひとつひとつをみれば、どこにでもあるような話だった。それが引き寄せられるように哉の元に集まったのだとすると、奇妙な縁というものもあるのだと思う。
「命に別状はない。でも」
哉はあえぐように言葉を切り、和臣を見据えた。
「先生、夏でもいつも長袖でしたよね。よかったら、腕を見せてくれませんか」
痛いほどに真摯な視線を向けられて、逃げることもはぐらかすこともできなかった。和臣はおもむろにシャツの袖をまくり上げた。
右腕を貫くように走る古傷を見て、哉の顔が歪んだ。
「父さんも母さんも無神経だ!」
叩きつけた拳が、膝の上で乾いた音を立てた。
「杉浦先生に聞きました。国内のコンクールで何度も優勝して、将来を嘱望されて。留学も決まっていたんでしょう? 俺を見て、先生が事故のことを思い出さないはずがないじゃないか。それなのに……」
「ご両親を責めないで欲しい。君と同じことを思ったんだろう、僕が勤めていると知って、別の教室を探すと言ってくれたんだ。それを引き留めたのは僕だ。僕が、君にピアノを教えたいと言ったんだ。あんなに小さかった君が、自分からピアノをやりたいと言ってくれた。言葉にできないくらい、嬉しかったよ。……だが、僕の配慮が足りなかった。すまない。真実を知ったとき、君が苦しむことは容易に想像がついたのに」
配慮、という穏便な言い回しに大人の狡さを感じ取ったのか、哉の表情に反発の色が浮かんだ。
「どうして先生が謝るんですか。だって、助けてもらったのは俺で……そのせいで」
「君のせいじゃない。たまたま運が悪かっただけだ。それに、弾くだけなら支障はないんだ」
「でも、演奏者としては、もう」
膝の上で拳を固く握り続ける哉に、和臣は静かに語りかけた。舌の上で転がる柔らかな言葉は、古びた日記帳を読み上げるように、遠く単調に響いた。
「たとえあのまま続けていたとしても、父親のようなピアニストにはなれなかったと思う。確かに、技術的には評価してくれる人がいたかもしれないけれど、演奏会を開いたところで人は集まらないし、CDを出しても手にとる人はいない。そんな演奏だった」
話しながら、自分自身の墓を暴いているような気持ちに襲われた。暗い墓穴から突き出る白い指先を、冷然と眺めるもうひとりの自分がいる。
「ピアノを始めたのは物心つく前、両親の希望でね。毎日長い時間練習するのも、舞台の照明を浴びるのも、日常の一部だった。食事や睡眠と同じで、好きだとか好きじゃないとか、やりたいとかやりたくないとか、考えたこともなかったよ。誰かが整備してくれた綺麗な道路を全力で走っている、そんな感じだった。でも、途中でどうしようもなく苦しくなってきた。走っても走っても、その道がどこに続いているのか、先が見えない。周りにはたくさんの人がいるはずなのに、真夜中の野原にたったひとりでいるみたいだった。他の道を行こうとして周りを眺めても、今走っている道を外れたら、深い谷底しかなかった」
どこまでも穏やかな和臣の表情から目をそらすように、哉は鍵盤の上にやり場のない視線を漂わせていた。
「コンクールでどれだけ拍手を受けても、難しい曲を弾きこなせても、嬉しいと思ったことなんてなかった。以前のように弾けなくなったと知らされたとき、もちろん悲しかったけれど、それ以上にほっとしたんだ。弾かなくてもいい理由ができたんだって」
和臣はそっと目を伏せた。ほんの数秒前、すれ違いざまに手を振ってくれた子供のために、身体が勝手に動いていた。そう、あのとき初めて、自分の足で道を選んだのだ。
「嘘だ」
それまで黙って俯いていた哉が立ち上がり、和臣に詰め寄った。
「だって先生のピアノは、あんなに」
開きかけた唇を閉ざし、哉は声を詰まらせた。
「好きじゃなかったなんて、嘘だ……」
制服の肩越しに開いたままの楽譜を眺めながら、和臣はその言葉を反芻していた。
彼の言うように、自分はピアノが好きだったのだろうか。
あの日からずっと目に焼き付いている情景が、映画の一場面のように浮かび上がった。古い記憶というものはすっかり消えてしまったわけではなくて、絶え間なく落ちてくる新しい出来事の下に埋もれているだけなのかもしれない。望むと望まざると、それはふとしたきっかけで掘り起こされる。
飽きもせずに病室の白い天井を眺めるだけの日々。自分自身に対して拍子抜けするほど、悲しみも苦しみも後悔も沸き上がってはこなかった。ただ眼前に押し迫る白色とさざ波のように繰り返される鈍い痛み、肩にのしかかる現実の重さに圧倒されていた。
家族や看護師がいるときには愛想笑いも雑談もできるのに、ひとりになると何も考えられなくなった。時の流れが滞留して、言葉も音も腕の筋と同じように壊死してしまったかのようだった。和臣は他人事のように、上からそれを眺めている。
扉の向こうから、途切れがちなすすり泣きが聞こえていた。それが母親のものだと気づくのにだいぶかかった。親の泣く声など、それまで聞いたことがなかったから。廊下を引きずるような足音が遠くなっていくにつれ、それもじき聞こえなくなった。
病室は限りなく清潔で、全ての音から隔てられていた。幼子を救った英雄を称賛する世間の喚声も、変わらず美しく流れるピアノの調べも。
後には、ただ静けさだけが残った。
長い沈黙を破ったのは、哉のかすれた声だった。
「先生、俺、やっぱりピアノ続けます。すみません、ご心配をおかけしました」
その瞬間、色あせた少年の幻は掻き消えて、和臣はひとりの男に戻っていた。
和臣は彼の生徒を見つめた。哉の態度からは、先ほどまで確かにあったはずの燃えるような激情はすっかり消え去っていた。いつもの彼らしく、淡々と言葉を継いでいった。
「迷惑でなかったら、これからも」
だが、その眼差しの奥に強い決意のようなものを読みとって、和臣はさりげなく問いかけた。
「続けるのは、僕の指の代わりになるために?」
哉は弾かれたように顔を上げた。
「先生……」
和臣は首を振り、抑えた、しかしいつになく強い口調で言った。
「それは絶対にだめだ。君の指は、ピアノは、君だけのものだ。僕は償いを受ける資格はないし、許すことのできる立場にもない。君は僕に対して、罪を犯したわけではないんだ。だから、自分のことだけを考えなさい」
少年の表情に深い失望が広がっていった。力なく椅子に腰を下ろした哉の横で、和臣は困ったように顔を曇らせた。
「もしかして、君の目には僕がよっぽど不幸な男に見えるのかな? だったら、もうちょっと幸せそうにしないといけないね」
哉は目を見張り、大きく息を飲み込んだ。喉が落ち着きなく上下した。
「現実は、本や映画とは違う。ひとりの力だけで、そう簡単に人は不幸にならないよ」
そう告げる和臣の声は柔らかく響いたが、哉はほとんど今にも泣きそうな、ひどく傷ついた顔をしていた。
「そうだね、僕は確かに自分で思うよりピアノが好きだったのかもしれない。でも、どんなに好きな人も、好きなものも、ずっと同じ気持ちのまま好きでいることはできないんじゃないかな。いつかは別れの日がくる。僕の場合、それが少し早かっただけだ」
それに、と和臣は続けた。
「今の人生もなかなか捨てたもんじゃないと思うよ。万が一演奏家になっていたら、君とこうして出会うこともなかっただろうしね」
哉は納得しかねるという表情で口を開きかけたが、反論の言葉は出てこなかった。口惜しそうに唇をかみしめる様子を見て、和臣は優しく尋ねた。
「もう一度、はじめから通しで弾いてみようか?」
咄嗟にたじろぐような仕草を見せたものの、ため息のような呼吸のあと、哉は鍵盤に向かって姿勢を正した。
小指と親指にぐっと力が込められる。しなやかな関節の動きに従って、小さな鈴の転がるような、澄んだ音色が部屋中に広がった。
哉の表情は緊張に固くなっていて、指も心なしか強ばっているようだった。しかし先ほどの演奏とは違って、挑発するような気配はない。あるのは、隠そうとして隠しきれない戸惑いや混乱といった、素のままの雑然とした感情の群れだった。まるで五指がそれぞれ、別の意志を持っているかのようだ。
それでも、朗らかで華やいだ変奏を繰り返すうちに、哉は平静さを取り戻していった。弾んで、力強く、甘く、優雅に、あるいは激しく。無邪気で強かな少女の横顔のように、くるくると気まぐれに移り変わっていく音に翻弄されながらも、確実に自分のものにしていく。
触れて、離れて。
重なって、解けて。
腕が触れ合い、袖ごしに自分のものでない肌の熱を知る度に、少しずつ距離が近くなっていく。追いつめられていくといったほうが相応しいかもしれない。ひとつの器官を人と共有するような生温かい異物感に、ふと懐かしさを覚えた。
哉と同じ年頃のとき、連弾は苦手だった。協奏曲も重奏曲も、二台ピアノのための曲も問題なくこなせる。でも、連弾だけはどうしてもだめだった。一台の楽器を二人で弾くことで、自分だけの静謐で不可侵の領域に他の誰かの気配が押し入ってきて、精神と肉体の深いところを探られるような気がした。
共有するとか、分かち合うとか、そんな整然とした言葉ではとても言い表すことはできない、歪で醜悪なもの。
忘れかけていた感覚を味わう暇も許さず、弦と槌から放たれた振動が追いかけてくる。空気が震える。背筋が粟立つ。無秩序に散らばっていた音が共鳴し、調和し、溶け合い、別れ、またぐっと近づいてくる。そして音楽になる。そう、音楽に。
切なさに似た胸の騒ぎを抑えきれなくなる。鋭敏になった五感が震えた。身を貫いていく激しい高揚感。目眩を覚えるほどの多幸感。視線も言葉も介していないというのに、相手の手の動きと呼吸だけで、互いのことが手に取るようにわかる気がした。
そのとき、鈍い衝撃が走り、右手の動きが重くなった。夢のような全能感は一瞬にして消えた。ひとつになりつつあったものが、ばらばらに崩れ去った。
だが、変奏は終わらなかった。鍵盤から零れ落ちていく音の残骸を丁寧に拾い上げ、哉は和臣の前に差し出した。逃げられないように腕を強く掴んで、正面から問いただすように。
逃げるのか。恐いのか、と。
深い息を吐き、和臣は内にも外にも響く一途な音に耳を傾けた。
……恐いさ。
狂おしいほどの情熱、行き場のない生命力、そして研ぎ澄まされた潔癖さ。自分も他人も傷つけずにはいられないその純粋さが恐ろしくないはずがない。
和臣はそっと目を閉じた。それから唇を結び直すと、止まりかけた指に再び力をこめた。
事故のあのときから熱を忘れていた指先に、再び時が、血潮が熱く流れはじめるのを感じた。和臣は眉根を寄せた。失うまでは気づこうともしなかった。血が通うということは、こんなにも熱く、痛みを伴うものだったのだろうか。
そのとき、大学の卒業直前に行われた口頭試問の光景が、脳裏に忽然と浮かび上がった。
教職を希望していることを伝えると、学科の主任教授にこう尋ねられた。
厳しい指導で有名な人だったが、自分の仕事に対する誇りと情熱は確かなもので、多くの学生から慕われていた。
ほとんどの子供にとって受験科目ではないし、実生活でも役に立つことは少ない。
それでも、音楽は必要なのか?
当時は想定していなかった質問に驚いて、急拵えの答えをしどろもどろに口にした記憶がある。
だが、今なら自信をもって言える。
多くの人間が、音楽を必要としているのだと。
哉が、そして和臣がそうであるように。
コンクールで入賞を目指すような演奏でなくていい。
自分たちのような種類の人間にとって音楽は言葉であり、感情や思いを表し、伝え、吐き出すための、身振りや声に代わる不器用な手段のひとつでもあるのだ。
ピアノの前では、誰もが教師でも生徒でも、子供でも大人でもなかった。たったひとりのちっぽけな人間に過ぎなかった。
秩序だった白と黒の冷たさは、いつでも、何者に対しても公正だった。
それゆえに残酷で、だからこそ美しい。
いつの間にか、変奏曲は終わりに差し掛かろうとしていた。哉の指が鍵盤を迷いなく駆け上がっていく。
そうして、ふつりと音が途絶えた。
二人とも呼吸の方法すら忘れてしまったように、しばし微動だにしなかった。耳に入ってくるのは、うなりをあげている暖房の機械音だけだ。全ては平穏を取り戻していた。何も変わらず、何をも乱されず、静寂が脅かされることなど、はじめからなかったという顔をして。
甘く痺れた余韻を振り払い、先に鍵盤から指を離したのは哉の方だった。
「すみません」
「何が?」
「指。痛みませんか」
「ああ、大丈夫だよ」
「そうですか」
しばらくして、哉はようやく重い口を開いた。
「……先生は」
「うん」
「先生は、俺にどうして欲しいですか」
「それを決めるのは君自身……」
細くなっていく言葉尻に、苛立たしげな声が被さった。
「俺の意志とか自主性とかはどうでもいいんです。先生がどう思うか聞いてるんです。いつもそうやって、適当に笑ってはぐらかして」
激しい勢いに気圧されながら、和臣は言った。
「……続けて欲しいと思うよ」
「もっとはっきり言ってください」
「やめないで欲しい。これからも、君のピアノが聞きたいんだ」
唇からその言葉が離れた途端、すっと心が軽くなったような気がした。教師としてではなくひとりの人間として、心からの本心を口にしたのはこれが初めてかもしれなかった。
「じゃあ、はじめからそう言ってください!」
厳しく睨みつけられて、和臣はたじろいだ。ひどく怒っているのか、哉の顔は耳まで真っ赤だった。
「ごめん」
「謝らないでください」
思わずまた謝りかけて、和臣は気まずそうに口を閉じた。
それから、二人とも次に何をすべきか、何を言うべきかわからずに、途方に暮れたように再び黙り込んでしまった。
「お菓子」
どれほどの時間ぼんやりと意識を漂わせていたのか、和臣はおもむろに手を叩いた。横で哉が怪訝そうな顔をした。
「そうだ、お母様がくれたお菓子を頂こう。今お茶を入れてくるから。あ、ここじゃ狭いかな? 隣の部屋に移動して……」
立ち上がりかけた途端に手首を強く握られて、和臣は目を見張った。哉自身も驚いた様子で、すぐに手を解いた。
「どうしたの」
「先生にお願いがあります」
「お願い?」
哉は俯いて、聞き取るのがやっとの、微風のようなか細い声で言った。
「右腕、触ってもいいですか」
「え? もちろん構わないけど」
傷はとうの昔に塞がっているが、鋭い爪で抉られたような跡はっきり残っている。決していい気持ちがするものではないだろうにと、和臣は内心首を傾げながら、再び袖をまくり上げた。
くすぐったいような感触が、ひきつった肉の盛り上がりをぎこちなくなぞった。
「痛くありませんか」
「大丈夫だよ」
人に古傷を見せるのはどれくらいぶりだろうか。久しく忘れていた汗ばんだ人の手のぬくもりに、急に気恥ずかしさを覚えた。
腕から伝わる照れを感じ取ったか、哉の顔がゆっくりと上がった。
そうしてはじめて目にするように、和臣を見た。
開きかけた唇が言葉を発することはなく、互いの視線は縺れたように止まったままだ。
ためらいがちに伸びた指先が、傷口に触れた。
音のない音楽を奏でるように、微かな痛みと共に。
強く、弱く、もっと強く。
(終)