#アンミナ #サイアン #女王と執事 #恋愛未満

特別ないつもの日


「おまたせいたしました」
 爽やかな声と共に注文した品が運ばれてきた瞬間、ここがどこなのかも誰といるかも忘れてしまって、世界は自分とガラスの器に美しく盛られたクリームあんみつ風のデザートだけのものになった。
 艶やかに輝く寒天に、あんこにきなこ、中央に鎮座するバニラアイス。添えられているのは間違いなく黒蜜で、まさか缶詰のさくらんぼまで?
「アンジュ様」
 数秒おいて、正面から声をかけられた。
「いたく感動なさっていることとお見受けしますが、そろそろ召し上がらないとアイスが溶けてしまいますよ」
「だって、このデザートすごくあんみつですよね? まさかオウルで食べられると思わなかったから感動しちゃって」
「オウルとバースの文化には多くの共通点がありますから、偶然同じようなデザートが誕生することもありえるかと」
 女王の執事兼補佐官は、ほうじ茶を飲みながら冷静に分析した。彼の前には、これまた柏餅を思わせるデザートが置かれている。
 二人がいるのは中央星オウルの大通りから細い路地に入り込んだ場所にある、甘味処と呼ぶに相応しいカフェである。令梟宇宙の女王であるアンジュはこの日、守護聖やいつもお世話になっている人たちに贈るプレゼントを買うため、お忍びで中央星にやってきたのだ。
「道を間違えたの、逆にラッキーでしたね。こんな素敵なお店に出会えるなんて。どこも人が多くて入れなかったですし」
「そうですね。聖地のカフェはにぎわってはいますが、混雑とは無縁ですから」
「久しぶりだなぁ、こういう感じ」
 アンジュは言って、あんこと寒天をバランスよく乗せたスプーンを口に運ぶ。
 と、顔中にぱっと笑顔が弾けた。
「おいしい!」
「それは何よりです」
「あれ、サイラスの柏餅は?」
「もういただきましたよ。大変結構なお味でした」
「相変わらず食べるの早いですね……」
「アンジュ様はどうぞゆっくり召し上がってください」
 サイラスはにっこりと笑って湯飲みに唇をあてた。
 アンジュはもうひとくち味わい、頬に手をあててうっとりと目を細めた。
「何て言ったらいいのか……こう、身体に染みていくおいしさですね……」
 もちろん、聖地の料理人たちは腕が良く、デザートも頬が蕩けそうに美味しい。でも、故郷の味は特別なのだと改めて思い知らされる。
 そのときふと、視線を感じてアンジュの心はあんみつが見せた夢から現実に戻ってきた。
「サイラス」
「はい」
「私の顔に何かついてますか?」
「いいえ、特には」
「口元に黒蜜がついてる人を見るみたいな視線を感じたんですけど」
 サイラスはすっと目を細めた。
「まあ、私はいわゆるお目付役ですので」
「お目付役ってそんなにじろじろ見るものなんですか?」
「状況によっては必要になるでしょうね」
 そんなことはないだろうと思いつつも、あんみつを口に含むと幸福感ですべてがどうでもよくなってしまう。
「あー……幸せ……」
 じんわりと身体中に広がる多幸感を存分に味わってから、アンジュは言った。
「このお店、テイクアウトもありましたよね。皆に買っていきたいな。レイナはきなこを使っていないので、平くんはお腹痛いって言ってたから日持ちがするお菓子があれば……」
 そこまで言って、アンジュの表情がにわかに曇った。
 中央星に女王が行くとなったとき、同行者の候補は二名いた。サイラスとタイラーである。補佐官であるレイナは聖地を離れることができないし、サプライズでプレゼントしたいとの女王たっての希望があり、守護聖は除外されていたのだ。
 いざサイラスとタイラーのどちらを選ぶか決めようとなったとき、タイラーはすっと手を上げた。
『俺は辞退します。平気そうに見えるかもしれませんが、実は先日から腹が痛くて。出張にはとても耐えられません』
 涼しい顔ながら頑としてそう主張した結果、サイラスが女王に同行することになった。
 蘇った記憶をなぞりつつ、アンジュは同期に思いを馳せた。
「平くん、お腹大丈夫かな」
「王立研究院の医療チームは優秀です。メキメキ回復し、今ごろ飛び跳ねているでしょう」
「元気になっても飛び跳ねはしないと思います」
 じっとりとした目を正面にいる男に向けると、視線と視線がぶつかった。変装用につけた眼鏡ごしでも、ぱちっと見えない火花が飛んだような感触があった。
 あ、また。
「サイラス、そんなにずっと見てなくても迷子になったりしませんから」
「なるほど。先ほどはぐれた時はいよいよ店舗に迷子のアナウンスをお願いしようと思ったところで無事に再会できましたが、迷子になったのはアンジュ様でなく実は私だった、と」
「うっ……」
 指摘されて、アンジュはしょんぼりと肩を落とした。三十分ほど前、まるで店中に宝石をちりばめたように華やかなディスプレイに目を奪われ、サイラスとはぐれてしまったのだった。
「すみません。あれは完全に私の不注意でした」
 サイラスは淡々と続ける。
「ま、誰しも迷子になる可能性はあります。宇宙の女王やその補佐官とて例外ではありません。もし私が本格的に迷子になったら、アナウンスをお願いします。身長百七十七センチくらい、黒いジャケットを着た二十代男性です」
「知ってます」
 笑い合いながらあんみつを食べる。幸せの味がする。
 正面から遠慮なくこちらを見てくる楽しげな視線を感じながら、そういえば、「陛下」でなく「アンジュ様」と呼ばれたのは、即位してからはじめてだったことにふと気がついたのだった。

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花火


「どうぞ」
 ソファに座り込んだ宇宙の女王の目の前に背の高いグラスが差し出される。宙を見つめていた碧い眼差しが、ゆっくりとグラスに移っていった。
「きれい」
 薄い硝子に注がれた液体は鮮やかな橙と赤の入り交じった色で、小さな泡がいくつも弾けている。
 ひとくち口に含むと、アンジュの口角が自然と上がった。
「すごく優しい甘さ……蜂蜜や砂糖とは違いますね」
「産地でつけられたキャッチコピーによると、黄昏の光の甘さだそうですよ。時間が経つにつれて色と味が変化していくとか」
「しかもお酒でもジュースでもなくて、水なんですよね。星の時間を集めてグラスに閉じ込めたみたい。こんな不思議な飲み物、よく見つけましたね。通販ですか?」
「はい、通販です」
 女王の執事は、嬉しそうににっこりと微笑みながら、さりげない動作で窓を閉じ、カーテンを引いた。
 とたんに、この部屋まで届いていた外の喧噪が遠いものとなった。
 その晩、令梟の聖地では夏祭りが行われていた。スタッフの発案により、女王の郷里の夏を再現した催しが行われ、聖地の気候も息苦しいほどの暑さに調整されている。
 決して過ごしやすいとはいえないのだが、一晩限りの熱帯夜と思えば、物珍しさもあり、守護聖や職員には意外と好評だった。
 レイナとタイラーは、真夏の熱気のなかで味わうビールを美味しそうに、そして何だかいつもよりリラックスした様子で飲んでいた。
 よく冷えたビールを飲んで、子どもみたいに水浴びをして、今は遠くなった蝉の声を聞いて――アンジュも心から楽しんでいた、あのときまでは。
 イベントのクライマックスである打ち上げ花火がはじまったころ、女王の身体に起こった異変を察知した執事は、目立たないように馬車を手配して彼女を私邸に移動させたのだった。
 サイラスは、空になったグラスにピッチャーから新しい水を注ぎ入れた。
「どうぞ。ジャンジャン水分を取って下さい。少し横になってはいかがですか」
「大丈夫。急に暑くなりすぎて、身体がついていかなかったのかも。ずっと聖地の穏やかな気候に慣れていたから、バースの自然ってこんなに力強かったんだなって驚きました」
「ええ、なかなかに過酷な暑さです。夏バテという単語があるのも頷けますね」
「そう言うわりに、サイラス全然汗かいてませんよね?」
「そう見えますか」
 サイラスは薄く笑い、どこから取り出したものか、手にしたうちわでアンジュをパタパタと仰いだ。
 今ごろ、壁を隔てた向こうでは、打ち上げ花火が夜空を彩っているはずだった。火薬は使用しておらず、中央星の企業から購入した映像プログラムらしいのだが、音も光も、花火の再現度が非常に高いとタイラーは感嘆していた。
「皆、楽しんでるかな」
 水を飲むと、涼やかな冷たさが喉に、それから全身にすっと染み入るように流れていくのを感じる。
 皆が楽しい時間を過ごしているときに、水を差してしまったのではないかと心配になる。
「少し休んだら戻ります。心配かけちゃうし」
「今さら言うまでもありませんが、レイナは優秀な補佐官ですよ。あなたの不在もそつなく取りなしてくれるでしょう」
 サイラスの左手は腰の後ろ側にあるし、右手は相変わらずうちわを仰いでいる。でも、彼は自分に見えない手を差し伸べてくれた。はっきりとそう思った。
「そうですね」
 アンジュは頷き、閉じられたカーテンの向こうに空に弾けるいくつもの光の花を思い浮かべた。
「……いつか」
 深い沈黙のあと、胸の内を探るように言葉を続けた。
 花火が打ち上げられた瞬間に思ってしまった。
 ああ、よく似ている。
 星が最期に放つ、あの光に。
 かつて愛したもの、美しいと思ったもの。大切にしていたはずのものが、掌からこぼれ落ちていくような感覚に陥った。皆が笑顔でいるのに、途方に暮れて笑うことができなかった。
「いつかもう一度、花火が美しいと思える日が来るんでしょうか」
 それはサイラスに向けた言葉ではなかった。ほとんど自分への問いかけに近いものだった。
 アンジュは宇宙の女王である。本当ならば誰にも伝えずにしまっておいたままにするべき感情であり、弱さだった。でも彼なら言葉にしなくてもわかってくれるんじゃないか、そんな甘えがあった。
「ふむ。難しい問題ですね」
 応える彼の声はいつも通り飄々として、けれどアンジュがそうであったように、やはり独白めいていた。
「来るかもしれないし、来ないかもしれない。現時点では何とも申し上げられません。しかし」
 会話の間にも、どこで手に入れたのか、干物のキャラクターが描かれたファンシーなうちわは、優しく柔らかな風を送り続けてくれている。
「あらゆる可能性は無限である。……あなたが、あなたの仕事によって我々に示してくれたことです」
 サイラスの顔を見たいのに、テーブルに置いたままのグラスから目を動かすことができない。水色は、穏やかに天穹を包む夜空を思わせる、深い青に変わっていた。
 そのとき、急にうちわの動きが止まった。サイラスはポケットから連絡用の小さなタブレットを取り出して、画面に視線を落とした。
「そろそろ花火が終わるようですね。私は一度会場に戻ろうかと。何かありましたら私邸に控えているスタッフにご連絡ください」
「わかりました」
「では。こちら、よろしければお使いください」
 女王の執事はうちわをテーブルに置いて、アンジュに背を向けた。
 皆によろしくね。
 できれば閉会式には顔を出したいな。
 そんなことを事務的に伝えるつもりが、気づいたときにはサイラスの袖を掴んでいた。
「ごめんなさい」
 軽く顎を上げると、彼は少しだけ驚いた顔をみせた。
 沈黙に満たされた室内で、頼りなく繋がった二つの影が静止している。
 ややあって、女王の唇から微かな声がした。
「もう少しだけ、ここにいてくれますか」
 グラスの中の透明な水が軽やかに弾け、夜明けの色に変わっていた。

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花惑い

 柔らかな湯気を纏って白磁のティーカップに注がれていくお茶の水色を見て、女王は弾けるような声を上げた。
「ピンク? 珍しいですね。初めて見ました」
「ある星のさらに一部の地域でしか採れない茶葉だそうですよ。ネット通販のセールで購入したものです」
 ティーポットを持ったまま、女王の傍らでサイラスが微笑んだ。
 女王の執務室で午後三時に行われる定例のお茶会は、多忙な女王にとって息抜きができる貴重な時間である。補佐官であるレイナや守護聖たちが同席することも多いが、この日部屋にいたのはアンジュとサイラスだけだった。
「それに、いい香り」
 微かに揺れる淡いピンクの茶を眺めてから、アンジュはうっとりと目を閉じた。
 まるで花が開くようにポットの注ぎ口からふんわりと立ち上る甘酸っぱい香りは、懐かしい思い出を呼び起こす。
 世界のすべてが微睡んだような春の空気。温かな風に舞い散る花びら。数え切れないほどの出会いと別れ。笑顔と涙。とうに失われて、しかし胸のどこかに今も大切にしまわれているもの。
「桜みたいですね」
「タイラーも同じ感想を口にしていました。バース出身の方にとって、特別な花なんでしょうね。カナタ様とレイナにも後ほどお裾分けしようかと」
「はい。きっと喜びますよ」
 素知らぬふりをしてセールで買ったなんて言うけれど、サイラスはきっと、彼らが喜ぶ顔が見たかったのだと思う。
 そんな気持ちを見透かされたのか、目が合うとふっといたずらっぽく唇が引き上がった。
「ささ、冷めないうちにどうぞ。お手製のおやつもありますよ」
 スコーンの入った小さなバスケットとソーサーが差し出される。
 アンジュはカップを手にとると、ゆっくりと香りを楽しんでから口に含んだ。
「おいしい! フルーツみたいな風味がありますね。サイラスは飲んでみました?」
 そう言って笑いかけると、サイラスの顔にいつもは見せない表情がよぎっていった。まるで驚いているような。
「サイラス、どうかしました?」
 不思議そうに問いかけるアンジュをじっと見つめてから、サイラスはどこからともなくハンカチを取り出して、アンジュに手渡した。
「よろしければこちらを」
 その、日向のにおいがする白いハンカチを受け取ってやっと、アンジュは自分が泣いていることに気がついた。
 途切れることなく頬を伝っていく透明な滴が、花びらのようにティーカップに落ちていった。薄い桜色をした小さな波紋が、いくつもいくつも、生まれてはすぐに消えていく。
 一ヶ月前、アンジュの即位後はじめて、守護聖の交代が決まった。予兆はあった。女王として覚悟もしていた。交代の準備も順調に進んでいる。けれど、心だけがついていかなかった。
 守護聖交代の決定以来、睡眠時間を削ってろくに休みも取らず働き続けてきた女王を見かねて、この日、執事が強制的に休息時間を与えたのだった。
 ありがとうと伝えたくても、言葉が喉につまって声にならなかった。女王になってから、泣いたことなどなかったのに。
 笑って、笑って、笑って。
 そう思って笑顔を作ろうとしたけれど、なぜかどうしてもうまくできないのだ。
「こちらのお茶」
 震える唇を優しく覆うように、サイラスが告げた。
「タイラーに味見をしていただきましたが、実はまだ飲んだことがないのです。いただいてもよろしいですか」
 子どものように鼻をすすりながらこくりと頷くアンジュに、サイラスはもう一客用意してあったティーカップにお茶を注ぎ、アンジュの向かいに座った。
「……いい香りですね」
 じっくりと時間をかけてひとくちを味わうと、サイラスは目を伏せて、どこかのんびりとした口調で言った。それきり黙って側にいた。
 そのときだけは星の光は見えなかった。涙で歪んだ景色の中で、無数の見えない薄紅の花びらに抱かれて、二人で、終わりのない嗚咽を聞いていた。

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女王と執事とホワイトデー

 おはようございます、と令梟宇宙の女王陛下が毎朝執事を迎えるはずの場所は空だった。
 朝食の支度とその日予定されているスケジュールの確認、そのあとはじまる他愛もない話。
 オムレツの出来がどうだとか、新しくブレンドしたハーブティーの香りが強烈であるとか。
 そんないつもと同じ朝のルーティンがはじまることを疑っていなかったサイラスは、誰もいない室内を見回し、微かに眉根を寄せた。
「陛下?」
 奥に続く寝室に声をかけるも返事がない。
 昨夜も今朝も女王からの連絡はなく、セキュリティの異常もなかったはずだ。
 そのとき、いつも女王が朝食を摂るときに使っている白いテーブルの上に、メモのような紙があることに気がついた。
 拾い上げてみると、小さなカードだった。
 裏面に何か書いてある。
『私の一番お気に入りのマグカップの下』
「……ほう」
 サイラスは興味深そうに頷いて、部屋に備えつけられているカウンターに向かった。アンジュのリクエストで、女王がプライベートで使用している部屋のレイアウトは、彼女が女王候補時代に使っていた寮のものに似せてある。
 長い指が、迷わずピンクのマグカップを手にした。大きめのそのマグは、誕生日にレイナから送られたものだった。
 マグカップの下には、また同じカード。
『毎朝サイラスが私の部屋に来る前に、小鳥と会話をしようとして逃げられている場所』
「なるほどなるほど」
 呟くように言って、女王の執事は楽しげに目を細めた。


「ずいぶん早かったですね。さすがはサイラス」
 宮殿にある庭園で、女王アンジュはゆっくりと振り向いた。
 サイラスは、慇懃に手を胸にあてた。
「陛下が的確なヒントを下さったからでしょう」
「ヒント、簡単でしたか?」
 素朴な質問は笑顔でかわされた。
「飽きませんでしたよ、個性的な設問ばかりで」
「一週間前に私がドレス裾を踏んで落ちそうになった階段とか、よく覚えてましたね」
「執事ですから」
 それに、と続ける。
「私が覚えていると思ったから問題にされたのでは?」
「あっ……確かにそうかも。自覚なかったですけど」
 アンジュははっとしたように口に手をあて、それから笑った。
「宝探しにつきあってくれてありがとう、サイラス。あなたに見せたいものがあったんです」
「ワクワクしますね。どんな財宝でしょう」
 女王の指が示した先を見て、サイラスはわずかに目を瞠った。
「ちょっと珍しい色の花ですよね。サイラスの髪の色みたいじゃありませんか?」
 庭園の茂みを彩るその花はバラによく似ていて、淡いグリーンの花弁が朝露に濡れていた。
 サイラスは自分の髪の毛先をつまんで、目の前と見比べた。
「ええ、確かに似ているかと」
「でしょう? 散歩しているときに見つけたんです」
 執事の髪と花を見比べて、アンジュは言った。
「この間サイラスにおいしいチョコレートを貰ったから、そのお返しになるかなと思って」
 女王の言うとおり、一ヶ月ほど前、偶然ネット通販で買ったチョコレートが驚くほどおいしかったので女王にお裾分け……という体裁で、チョコレートを渡したことがあった。ひどく疲れていて、糖分を欲している様子だったので。
 それこそ花が咲くように、ほのかに頬を紅潮させた女王を見て、サイラスは、いつもよりゆっくりと時間をかけて笑顔を作った
「そうでしたか。趣向を凝らした朝のウォーキング、楽しませていただきましたよ」
「よかった! 時間があるなら、このまま庭園を散歩していきませんか」
「構いませんよ。ちょうどサンドイッチとポットのお茶もご用意してますし」
「それ、どこから出てきたの?」
「女王陛下のお腹を快く満たすことも、執事の大切な仕事のひとつですので」
「私の執事が有能すぎて、たまにびっくりします」
「いつでもびっくりしていただいて結構ですよ」
「えー……?」
 次の瞬間、爽やかな朝の庭園の空気を纏った風が、軽やかに二人の間に入ってきた。
 風が去ると同時に、アンジュはふと何かに気づいたかのように花に目線を移し、じっと注視した。
「どうされました?」
「そっか、この花の……。色も珍しいけど」
 女王の掌が、淡いグリーンの花びらを柔らかく包み込んだ。
「捉えどころのないような、不思議な……でも、いい香りですね」
 瞼を落として、そっと顔を寄せる。
「そうですね」
 そのとき、女王を見つめる執事がどんな表情をしていたのか、無邪気に咲く花々だけが知っている。

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女王陛下のバレンタイン

「チョコレート」
 呟くと、はい、とどこかで声がした。
「って、何でできてるか知ってますかー?」
 テンション高めで舌っ足らずな語尾を、平坦な返答が受け止める。
「また唐突にクイズがはじまりましたね。主な原材料といいますと、カカオ豆でしょうか。あとは砂糖やら、ミルクパウダーやら」
「ふふ、半分正解! でも半分不正解」
 令梟宇宙の女王はいたくご機嫌だ。ご機嫌なのだが、あとの言葉が続かない。
 不穏な沈黙をゆるやかに押しのけるように、呼びかけられる。
「僭越ながら、陛下。もしもし。もしもーし?」
「あ、ごめんなさい。寝てました」
「構いませんよ、寝ていただいても」
 ただし、ご気分が優れないようでしたらお早めにご連絡ください、と事務的に言い添えるサイラスに、アンジュは子どものように駄々をこねた。
「騒がないし、暴れないし? でもやだ。起きてます」
 背中越しに、浅い溜息を感じる。
 それから、唇を軽く引き上げるあの微笑の気配。
「なるほど、やだ。でしたら、もうちょっとだけ頑張りましょうか。あと少しで寝室につきますから」
「えー、着いちゃうんですか?」
「ええ。私の体力もそろそろ限界を迎えようとしてますし」
「じゃあ、仕方ないですね……では、発表します! チョコレートが何ができているか? 正解の半分はぁ!」
 一拍おいて、アンジュは片手を振り上げようとした。が、そうすると確実に落ちることに気がついて寸前で諦めた。
 女王は現在、リュックサックの如く彼女の執事の背負われている。サイラスの筋トレに付き合っているわけではない。酔っ払っているのだ。
 宮殿から私邸までは馬車を使い、「あとはひとりで大丈夫」と自己申告したものの、客観的にみて大丈夫ではないと執事が判断した結果、かくもこのような方法で運搬されることになった。
 女王候補時代はともかく、即位してからここまで酔うのは珍しい。ちなみに足は素足である。回廊の途中で靴は一足ずつ脱げ落ちてしまったし、イヤリングも片方耳から取れているが、サイラスは拾うのを諦めて後で回収することにしたらしい。
「ありがとうの気持ち、です!」
 腕を振り上げて表現する代わりに、アンジュは力強く答えた。と同時に、サイラスの首にしがみつく力も強さを増した。
 サイラスの背中に一瞬緊張が走ったが、すぐさま体勢を整えてピンチを切り抜けたようだった。
 かつてアンジュの故郷で一般的だったバレンタインデーという季節行事は、令梟宇宙の聖地ではアレンジが加えられ、「お世話になっている人たちに女王がチョコレートを振る舞う日」として定着しつつあった。
 補佐官や守護聖だけでなく、聖地で働くスタッフたちにも、宇宙各地から集められたチョコレートを中心に、甘い物が苦手でも楽しめるよう、様々な菓子や飲み物が提供されるのだ。
 今年はサイラスの発案によりガーデンパーティー形式で行われた。女王試験のときのポットラックパーティーを思い出して懐かしくなり、ついチョコレートリキュールを使ったカクテルを飲み過ぎてしまったのだ。口当たりはいいものの、かなり度数が高かったのだと知ったのは、すでにグラスを数杯空にしてしまった後だった。
「みんなに、ありがとう! サイラスにも、ありがとう!」
 勢いよく頬にキスするが、執事はまったく動じない。親愛の表現であることを疑いもしない様子で、たぶんにっこりと笑って、サイラスは振り向きもせずに言った。
「はい、こちらこそ」
 こんなに近くにいても干物のにおいはしないんだな、と思ったのが最後、記憶が途切れた。


 チョコレート。
 と呟こうとしたけれど、声にはならず、唇が言葉の形を作っただけだった。
 さっきまではリュックサックみたいに背負われていたのに、まるで宝石を扱うように、丁寧に、慎重に、ゆっくりと滑らかなシーツの上に寝かせられて、女王は夢を見る。
 顔の上を横切っていく手から、甘い香りがした。
 ほとんどのチョコレートを揃えてくれたのも、パーティーの設営をしてくれたのも彼だから、まだ香りが残っていたのかもしれない。
 大切な人たちと過ごした楽しいひとときが蘇ってきて、アンジュは微笑んだ。
 甘酸っぱいフルーツ、ナッツにスパイス、キャラメルやコーヒー、蕩けるようなリキュール、新鮮なミルク、マシュマロの浮かんだ熱いホットチョコレート。
 お返しはいらないと伝えてある。もう、たくさんのものを貰っているのだから。
 鮮やかな思い出を纏わせながら、軽く頬に触れたのは、何だかくすぐったくて柔らかいけれど、きっとあの人の指先。

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#アンミナ #サイアン #女王候補と執事 #恋愛未満 #再録

女王候補のバレンタイン

 素朴なつくりの小さな箱をあけると、いくつものチョコレートが艶やかな輝きを放っていた。
「美味しそうでしょう? エリューシオンの市場で売っていたんです。しかも、見てください。梟のモチーフなの」
 アンジュは弾んだ声で言った。
 なるほど、と呟きながら、正面にいた執事が興味深そうに上から箱を覗き込む。
 食文化に触れることによって民の生活がよくわかる気がして、視察のときはなるべく市場に寄り、ささやかな手土産を買うようにしていた。
「あ、安全性は問題ないですよ。王立研究院でチェックしてもらいましたし」
「ほう。バースのチョコレートとよく似ていますね。もう召し上がりましたか? どのような風味なんでしょう。フクロウ味とか」
「違います。実は、すごく不思議なチョコで」
 アンジュの表情が、急に真剣なものになる。
「どういう理屈かはわからないんですけど……食べた人にとって、懐かしい味がするみたいなんです」
「懐かしい味、ですか」
「記憶に残っている味って言ったら良いのかな。レイナとタイラーにも食べてもらったんですが、レイナはお父さんと一緒に食べたリキュール入りのチョコ、タイラーは誰かが手作りしたチョコみたいな味がしたって言うんです。私は、部活帰りに友達と飲んだ缶入りのホットココアを思い出しました」
「それは不思議ですね」
 王立研究院の職員という立場上、不可思議な出来事に慣れているだろうとはいえ、サイラスは驚くこともなくあっさりと状況を受け入れた。
「ココアを飲んだときの身体の温かさも再現されたみたいで、お腹のあたりがふんわりと温かくなって……ちょっと幸せな気分になりました」
「そうですか。それは何よりです」
 アンジュは、執事に箱を差し出した。
「サイラスもひとついかがですか。甘いものが苦手じゃなければ、ですけど」
 考え込むように少し間を置いたあと、長い指がすっと伸びてきた。やんわりと断られるかと思ったが、研究者として、チョコレートの効用に関心があったのかもしれない。
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
 高速で食事をたいらげることで有名なサイラスも、このときばかりは珍しくゆっくりとチョコレートを味わっているようだった。
 飲み込んだあとの反応が薄いので、アンジュはおずおずと尋ねた。
「懐かしい味、しませんでした?」
「ふむ……。先ほどから、ノスタルジックな気配を探しているのですが、そもそも該当する思い出がないようです。私の感覚では、素材の良さを活かしつつ、丁寧に、心をこめて作り上げたチョコレート、ですね」
「そうですか。確かに、個人的な体験の再現ですしね」
 サイラスはにっこりと笑った。
「その個人的な体験として申し上げれば、美味しかったですよ、とても。エリューシオンには腕の良い職人がいるんですね」
 あの感覚を共有できなくて少し残念だったが、美味しいと言ってもらえたのは嬉しかった。サイラスはいつもアンジュたちの世話を焼いてくれるけれど、お礼をしようとしても巧みにかわされてしまうので。
「もしかしたら」
 そのとき、何かに気づいたように、サイラスがアンジュの手元にあるチョコレートの箱に視線を移した。
「この先、もう一度このチョコレートを食べることがあれば、今日の味を思い出すのかもしれません」
 さらりと言われて、アンジュは顔を上げた。
「えっ?」
 しばらくぽかんとしてしまった。
 それは奇妙で、しかし鮮烈な感覚だった。目の前に、過去と現在、未来を繋ぐ一本のきれいな線を引かれたような、今まで知らなかった色が突然目に入ってきたような。
 自覚すると同時に、アンジュは自然と笑顔になった。
 斬新すぎる発想に振り回されることも多いけれど、女王候補の執事のふとした言葉は、私たちを驚くほど自由にしてくれる。
「……だったら、素敵ですね」
 サイラスは黙っていたが、心なしか、眼差しがいつもより柔らかい。
 チョコレートの甘い香りを挟んで、ココアの思い出を味わったときと同じ、心地よい温かさが部屋中に広がっていくのを感じた。

 サイラスが退室してから、アンジュはチョコレートをひとつ口に含んでみた。
「あれ、さっきと」
 明らかに味が違う。今度はココアじゃない。それまで体験したことのない未知のフレーバーや食感が、次から次へと口のなかで弾けた。まるで、未来の自分からの贈り物みたいに。
 一粒をゆっくりと頬張りながら、アンジュは目を閉じた。
 不思議なチョコの後味は優しくて、やっぱり、何だか懐かしい味がした。

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女王のゲーム

 目の前にふわりと落ちてきたのは、顔の大きさほどもあるサイコロだった。アンジュは、両手でそれを受け取った。見た目に反して雲のように軽い。ホログラムだからだ。
 足元に向けて転がすと、二、という目が出た。とたんに、サイコロは霧のように消えてしまった。
「また二かあ。なかなか進みませんね」
 令梟宇宙の女王は、残念そうな表情で隣にいる執事を見た。
「千里の道も一歩からですよ、陛下」
「私たち、これから千里も歩くんですか?」
「そうでないことを祈りましょう」
 真っ白い空間に、光の円が二つ現れる。アンジュとサイラスはそこに向かって進んだ。
「ふむ」
 サイラスが浮き上がった指示を読み上げる。
「このマスに止まった人は鳩の鳴きマネをする、だそうです」
「サイラス、お願いします」
「クルッ、クルッ、クルッポー」
 鳩の鳴きマネが認められたようで、再びサイコロが現れた。
「今のは鳩語で何て意味なんですか?」
 サイラスは目を伏せ、胸に手を当てた。
「意味はありません。心で感じていただければ、と」
「また適当な……」
 アンジュが感心したように呟いた。
「それはともかく、鳩のマネだってちゃんと判別するんですね」
「ええ。コケコッコーではダメですよ。そのあたりの判定は厳しめにしております。私の好みで」
 二人がいるこの空間、すなわち自動生成される立体すごろくなるものを作り出した張本人はにっこりと笑った。
 女王の故郷であるバースの年中行事をテーマにしたパーティーで、皆で楽しめるちょっとしたゲーム、という名目で登場したこのレクリエーションプログラムは、仮想世界で白熱したすごろくを楽しめるという画期的なものである。
「仕事の合間によく開発しましたよね、こんなにすごいもの」
「ありがとうございます。が、申し訳ございません。予期せぬエラーが発生し、まさかのまさか、ゴールが消失してしまうとは」
「仕方ありませんよ。守護聖たちが一生懸命になりすぎて、サクリアが混乱状態になるなんて私でも予想できませんでした」
 守護聖、特に年長者たちが勝負事になると大人げなくなるのを失念していた。
 中盤以降はすごろくというよりバトルという様相で、サクリアの高まりに危険を感じたアンジュは、自分以外の参加者を女王の力で強制的に脱出させた。と思っていたので、サイラスが残っていたのを知ったときは仰天したものだ。
 彼は飄々と告げた。
「この空間に危険性はありませんが、私には管理者としての責がありますし、陛下おひとりを残すわけには参りません」
 フィールドにいる限りゲームは続く。
 というわけで、二人は力を合わせて終わりなきすごろくをすることになったのだった。
 そのとき、サイラスの胸元から電子音がした。
「朗報ですよ、陛下」
 言って、取り出したタブレットの画面をアンジュに示した。
「今、タイラーくんが頑張ってプログラムの修正をしてくれています。そのうち復旧しますので、しばらくの間は引き続きすごろくをお楽しみください」
「そうですね。楽しまないともったいないですよね」
 えいっ、と投げたサイコロの目は、
「一」
「ま、のんびりいきましょう」
 一緒にジャンプするように、軽やかな足取りでマスを進む。
 聖地では女王と執事と呼ばれていても、サイラスとアンジュは、ここでは二人でひとつの駒に過ぎない。
 そう思って何となく手を繋いでみたのだが、掌から伝わる冷たい感触が離れていく気配はなかったので、ゴールに辿りつくまで、アンジュはそのままでいることにした。

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#アンミナ #サイアン #元女王と元執事 #恋愛未満

ひとつの新しい物語

 その人の姿が目にとまったのは、ほんの偶然だった。公園のベンチに座り込み、ぼんやりと行き交う人たちを眺めていたときに、コートを着た背中が視界にふっと浮き上がってきたのだ。
 すらりと整った姿勢は人形のようで、何だか現実離れしている。吐息すら凍りつきそうな寒い朝、さらさらと素通りしていく時間のなかでそこだけが静止していた。
 落ち着かなく周囲を見回したり、時間を気にしている様子はなかったけれど、誰かを待っているようだ。そんな風に考えてしまうのは、今座っているベンチがひどく硬くて冷たくて、手袋を忘れた指先が痛いほど凍えていて、私が今こうしてひとりでいるからなのだろうか。
 想像を巡らせながら、私はポットに入れた熱いお茶を少し飲んだ。
 目の前には池があって、水鳥が気持ちよさそうに泳いでいる。どこかで鳥が鳴く声が聞こえた、と思いかけて眉を上げた。いや、空耳かもしれない。自然の一部に交わるにしては人間くさくて、まるでメロディがある歌のようだったから。
 頭上に広がる空は青く透き通っていて、そのせいか、いつもよりずっと遠くにあるように思えた。
 風が吹く。
 薄い薄い灰色を重い筆で撫でたような、冷たい風だ。
 思わず首に巻いたマフラーをきつく巻き直して身体を丸めたが、目の前の背中はきれいな形を保ったまま崩れることもなく、ただコートの裾だけがばさりと踊った。
 動きがあるのに、彼がいるところだけ切り取られた絵みたいだ。触れることができない、一冊の美しい絵本。そのページをめくるのは私の指ではない。
 物語の続きを見せてくれるのは、きっと……。
 そのとき、それまで池に向けられていた顔が動いた。首が傾き、そこではじめて彼の横顔を見た。輪郭のほとんどは前髪で隠れてしまっているが、口元は見えた。乾いていた。唇の端が、音もなくすっと上がった。
 遊歩道沿いに歩いてきた女の人が、彼に気づいて手を振った。
 池のほとりに伸びた二つの影が、ゆっくりと、だんだんと互いの間にある距離を短くしていった。
 彼らは長い別れのあとに再会したようにも思えたし、ずっと一緒に暮らしている相手とたまたまこの場所で待ち合わせたようにも思えた。
 確かなのは、待ち人たちが巡り合い、二つの物語が一つになったということだけ。一瞬であれ永遠であれ、そこに時間の入り込む余地などなかった。
 少し道化じみた仕草で、彼は恭しく彼女の手をとった。彼女は鮮やかに微笑み、ごく自然に、まるで女王のようにそれを受けた。
 肌を刺すような寒さは変わらず、身体を芯から凍らせている。それなのに、突然、二人の周りに新しい季節がやってきたみたいだった。
 彼女と彼は短い言葉と視線を交わし、連れ立って歩きはじめた。
 そのとき、池にいた鳥が一斉に飛び立った。そちらに意識を取られた一瞬の間に、不思議な人たちの姿は視界からすっかり消えていた。
 熱くて甘いお茶を口に再び含み、白い息を大きく吐いて、私は冷え冷えと澄んだ空に視線を映した。
 似ていたな、と思った。
 私には、子どもだったときに優しくしてくれた年上の人、たくさんの大切なものを教えてくれた人、憧れそのものだった人がいた。その人は、ある日宇宙の女王になって、聖なる土地に行ってしまった。
 それから、時々、こうしてひとりで空を見上げるようになった。清々しく晴れた青空、雲で覆われた重苦しい曇り空、雨のにおいがする空、星が瞬く夜空、そのすべてに懐かしい呼吸を感じる。静かに、名前を呼んでくれるあの声を聞く。
 私は寂しい、でも悲しくはない。生きる世界が違っても、優しかったあの人と同じ空を眺めることができるから。
 もう一度、丁寧に記憶を重ねてみる。
 やっぱり、彼女たちはよく似ていた。
 私の想像のなかにいるあの人は、彼女のように笑い、彼女のように誰かの手を取って、美しいドレスを翻し、まっすぐに前を見て歩いている。
 陽の光を受けて明るく輝きはじめた空が、じんわりとぼやけていく。冷たく清潔な世界の中で、涙だけが熱い。
 たとえそれがどれほど無力であっても、届かない祈りであっても、大切な人が幸せであるように、私は明日も空を仰ぐのだ。



「どこか行きたいところはありますか?」
「特に個人的な希望はありませんが、あなたがお望みであれば、地の果てから海の向こうまで、どこへなりともお供しますよ。全力で」
「全力? ダッシュで?」
「はい、ダッシュで」
「ふふ、私はそんなに体力ないし欲張りでもないので、とりあえず歩きましょうか」
「……たまにはいいんじゃないですか、多少欲が張っていても」
「何か言いました?」
「そこに浮かんでいる鳥が鳴いてるようですね。ピーヒョロロ、と」
「そんな鳴き声してませんよね?」
「そうでしたか」
「いいお天気ですね。空気が気持ちいい! ちょっと寒いですけど」
「本当に」
「今の、笑うところですか」
「まあ、そうですね」

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#アンミナ #サイアン #女王と執事 #恋愛未満

彼女たちの幾星霜

 どこかで鳥の鳴く声がした。と、反射的に顔を上げたとたん、真正面から目線がぶつかった。
 思いのほか強烈な感触だったのでアンジュは一瞬怯んだが、相手はそうではなかった。
「私ではありませんよ」
 アンジュの思考をまるで完全に読み取っているかのようにサイラスは言って、窓のある方向に視線を移した。夜だというのに、無防備に開け放された窓にはカーテンも降りていない。
「もういなくなってしまったようですが」
 声の主は、羽音もさせず飛び去ってしまったようだ。後には、穏やかな静寂だけが残っている。
 バースの夜景のような煌びやかさはないけれど、星々に照らされた聖地の夜には軽く柔らかな雰囲気があった。窓から入り込んでくる花の香りがそう思わせるのだろうか。
「おや、陛下。イマイチ納得されてないご様子ですね」
「だって」
 まさにサイラスが言ったとおりの表情をして、アンジュはすっかり身体に馴染んだ私室のソファに腰を下ろした。
「サイラスの声にそっくりだったから。……あれ、この表現ちょっと変ですか?」
「つまり私のモノマネの精度が上がったという意味であれば、日々鍛錬を重ねてきた甲斐がありますね」
 わざとらしく微笑んでからサイラスは女王の執事の顔に戻り、中断していた明日のスケジュール確認が再開された。
 一日の業務を終えてから、その日あったことや翌日の予定をサイラスと私邸で話し合ったり再確認したりするのが、即位してからの日課になっている。
 スケジュールはタブレットを見ればわかるようになっているし、打ち合わせるにしても対面で行う必要はないのだが、気の置けない相手と軽い雑談ができる時間は貴重だ。ストレス解消にもなるし、リラックスもできる。サイラスもそれをわかってくれているんじゃないかと思う。何しろ、長い付き合いだから。
「ああ、言い忘れてましたが、明日の会議の議題はこちらです。ジャン」
 サイラスが展開した画面に、アンジュは目を見張った。
「ずいぶん多くないですか?」
「先週は出張された守護聖様方が多いですから。実際に様々な星の現状をご覧になって、問題点が明らかになることもあるでしょう。忌憚なく活発な意見交換ができるというのは、宇宙を運営していく上で重要だと思いますよ」
「そうですね」
 会議の様子を想像して、思わず唇が綻んでしまった。散々好き勝手言って、ほとんど喧嘩といっていいような言い合いをして、話があらぬ方向に飛んでいって……でも不思議と最後には皆の意見がまとまるのだ。
 アンジュはこの宇宙を、九人の守護聖たちを心から愛していた。
 宇宙にとって、女王の笑顔は幸先が良いことの証だ。サイラスは唇の端を引き上げた。
「清く正しく美しく、明日も頑張りましょう。ファイ、ト!」
 言うなり、アンジュとサイラスの間にあったディスプレイがふっと消えてお互いの顔がはっきり見えるようになった。アンジュはドレスのスカートを摘まみながら、ゆっくりと立ち上がった。
 何度伝えても、どれほどの年月を共に過ごしても、その場に二人だけしかいなくても、決してアンジュの横に座ろうとしないのだ、この執事は。彼の職業意識の徹底ぶりには、溜息交じりの賞賛を贈るしかできない。
 アンジュはサイラスに背を向けて立ち、窓の外を眺めた。お休みなさい、という短い言葉がもたらす別れを惜しみたかったのかもしれない。たとえいずれは朝が来るとしても。
 テラスから続く庭園は、眠りについたように静謐としている。ノアの性質に影響されているのか、聖地の夜闇は穏やかで優しいけれど、どこまでも濃く深い。
 すると、遠くから微かに歌うような鳥の声がした。先ほどの鳥が帰ってきたのかと、アンジュは窓を大きく開けて身を乗り出した。
「今のは私です」
「サイラス……」
「近頃は距離感の表現に凝ってるんですよ」
 満足そうな様子で胸に手を当てた執事に、アンジュはじっとりとした視線を向けた。
「音量を変えただけですよね?」
「僭越ながら、そのご意見はあまりに短絡的すぎますね。音量をトレースするだけではもちろん足りません。鳥の声質、周囲の環境、そして彼らの心情……すべてを総合的に解釈することによって、より質の高いモノマネができるんですよ」
「……心情?」
「はい。仲間と連絡を取りたいとか、迫り来る危険から逃げているとか」
「そのわりには、聖地の動物によく威嚇されてますよね」
「ええ、残念ながら好かれてはいないようです」
 いつものように軽口を楽しみながら、声には出さず昨夜の記憶を反芻してみる。
 同じような夜、同じような雰囲気のなか、サイラスとキスをしてみたのだ。
 突然恋愛感情が芽生えたわけでもなく、身体的な欲求が湧いたわけでもなく。
 そんなことをしたところで、自分たちは何ひとつ変わらないのだということを確かめたかった。はじめから答えはわかっているはずなのに、試してみたかった。
 結果は予想通り。キスをしようがしまいが、繰り返される夜と朝はびくともせず、サイラスは相変わらずアンジュの隣には座らない。

 
 サイラスにおやすみなさいと告げてしばらく、アンジュは照明を消してソファに横たわった。眠るつもりはなく、ただ心地よいものに身を預けたかった。
 生ぬるい夜闇を眺めていると、昨日の夜の記憶が陽炎のように立ち上ってくる。
 あのときも窓際にいた。鳥の声はしなかったと思う。していてもきっと、気がつかなかった。
 時が停滞したような空間で、なぜか無意識のうちに相手の腕を掴んでいた。彼は黙ってこちらを見た。
 アンジュは自分が女王であり、宇宙の時間の中央にいるのだということをそのときだけ忘れた。宇宙の女王は時を自由に操るが、己を取り巻く時の流れは彼女たちの自由にはならなかった。
 たとえ機械じみたところのある男でも、唇が人体でも特に柔らかい場所であることは変わらない。軽く触れるだけの接触は、ふんわり、ふわり、ドレスの裾が膨らむときの柔らかさに似ていた。
 目は開けたままだった。淡いグレーの瞳には何が映っていたのだろう。宇宙の女王か、アンジュか、それとも別の誰かか。

 遡ること数日前、依頼していた件の進行状況についてタイラーと通信したとき、ついでに聞いてみたのだ。私たちがいなくなってから、バースの時間はどれくらい流れたの、と。興味がなかったわけではないが、あえて調べることもしていなかった。
 ややあって、返事があった。躊躇うようなその短い一拍が、彼の中に、今このときも故郷への思慕が存在することの確かな印だった。
「一万年くらいだな」
 そっか、と思うだけだった。
 少しも驚かなかったことが、タイラーと同じ感情をもう共有できないとわかってしまったことが、ひどく悲しかった。

 もっと近づけばもっと別のものに手が届くような気がしたから、額に落ちてきた髪を指で払って首に腕を回して、けれどまた目を閉じるのを忘れてしまった。身体は思うよりも冷たく、何をも間に置かず寄り添った唇だけが、温かった。
 温かったと思いながら、アンジュは自らの唇を指でそっと撫でた。
 星空を仰ぎ、一万年、と歌うように囁いて。

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すぐ近くにある未知

 花びら、と気づいた瞬間から目が離れなくなった。
「サイラス、ここ」
 目の前でお茶を注いでいる人物の顔に視線を留めながら、令梟宇宙の女王は自分の頬を指さした。
「花びらがついてます」
「ほう、花びら」
 サイラスは驚きもせず、のんびりと事実を繰り返した。その間も、手はティーポッドから離れないでまめやかに働き続けている。持ち主の発言は適当なのに、身体はいつも真面目に働いているんだよねと思う。
「先ほど、宮殿の裏庭で草を摘み取るときについたのでしょう」
「草って……」
 アンジュは、ティーカップの中で揺れる薄く色のついたお茶を見つめた。紅茶でもなく、煎茶でもなく、その香りはまさに草っぽい草。
 女王が巡らせた想像を、執事は正しく読み取った。
「お察しの通り、こちらのお茶に使用しました」
「前にも入れてくれましたよね。その辺に生えている草のお茶ですか?」
「その辺に生えている草といえばそうなのですが、サクリアを浴びてすくすく育った聖地の草花ですからね。薬草のような効能を持つものも少なくありません」
「つまりハーブってこと?」
「つまりそんなところです。味はまあ……それなりですが」
 サイラスは、いつものとぼけたような笑顔を作った。
 多方面に影響を及ぼす複雑な案件が片付いて、ようやく一息つくことができた時間だった。野性味すら感じる自然の香りに包まれていると、頭がすっきりと整えられて、心身がリラックスしていくようだ。
 気遣いのタイミングの巧みさに感心しつつ、アンジュは言った。
「それで花びらなんですけど」
「オオ、すっかり存在を忘れていました」
 サイラスは指で花びらを摘まもうとしたが、意外としっかり張りついているようでうまくとれない。
 とれないと確信した瞬間、彼は即座に諦めた。
「こちらには鏡もありませんし、窓は曇りガラス……となるとにっちもさっちもいきません。後ほど部屋で再チャレンジしましょう」
「もし肌に触ってもいいなら私がとりますよ」
 言って、女王はするりと手袋を外した。
「あ、手はさっき洗ったばかりです」
「はあ。その点は問題ありませんが」
「ついでと言ってはなんですが、サイラスの頬を摘まんでみてもいいですか」
 アンジュは真剣な眼差しでサイラスににじり寄った。
 その行動に深い理由はなかった。女王は、ここ二日ほどまともに睡眠を取れていなかったのだ。
 執事の了承を得て、アンジュは指先でそっと白い花びらをすくい上げ、淡いピンクのハンカチにくるみこんだ。
 それから、人差し指の腹と親指に軽く力をいれて相手の頬を摘まんでみる。最初はおずおずと、拒まれていないのがわかったあとは少し自信をもって。
 感触が自分とは違う……すべすべしてるけど、ちょっと固い? なんて思いながら数回揉んでみると、こちらをまっすぐ見てくる視線と目が合った。
 いつも一緒にいる人と、いつもと同じ表情をして、いつもの部屋にいて、していることだけが日常と違う。不思議な感じだった。
 あと、柔らかくて温かいものを揉むと人はどうして心が落ち着くのだろう?
 そんな取り留めのないことを考えながら、アンジュはしみじみと言った。
「サイラスって、やっぱり人間なんですね。ちゃんと生きてる感じがします」
「やっぱり、という単語に滲む微妙なニュアンスが気になるのですが」
「アンドロイド説は定期的にスタッフの間で流れてるみたいですよ。私も否定できなくて」
「私もはっきりとはできませんね」
「えっ、そこは否定してくださいよ」
 サイラスが揉まれているのと逆側の唇を上げて、意味ありげにフッと笑った。彼がアンドロイドであるという可能性はまだ完全には消せないようだ。
 そんなやりとりをしているうちに、ほどよく冷めた草のお茶は、ちょうど飲み頃になっていた。


 その日の業務を終了して片付けをしているとき、ふらりとやってきたサイラスに妙なことを言われた。
「タイラーくん。ゴミも花びらもついてませんが、あなたの頬に触ってもいいですか」
「どうぞ」
 何だかよくわからないまま反射的にイエスと答えてしまったので、タイラーは何だかよくわからないままサイラスに頬を揉まれることになってしまった。
 オフィスエリアに残っているのが自分たちだけでよかったと心から思う。
 強い力ではないから痛みはないのだが、こそばゆい。そして非常に気まずい。
 正面にいるサイラスが、モミモミと指を動かしながら真顔で尋ねてきた。
「どんな気分ですか」
「頬を揉まれてるな、と思っています」
「なるほど。揉まれてる感じ、と。そのほかに気になる点は?」
「俺が痛くないように気を遣ってくれてるのは伝わってきます」
「ほう」
 興味深そうに呟くも、解放される気配は全くない。
 タイラーは虚無の眼差しで考えた。
 サイラスの目線は、完全に観察対象に向けるそれである。何を観察されているのか、そしていつになったら終わるのか。安請け合いした俺が悪いのだが。
 サイラスの不可解な観察、検証あるいは実験は、結局、空腹に耐えかねたタイラーの腹が鳴るまで続いたのだった。

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言葉は、要りませんか。

 トン、トトトン。
 まるでダンスのステップを踏むように、軽快な動きで仮想キーボードの上を跳ねるのは、宇宙の女王の尊き指だった。
『今日の晩ご飯、軽いものをお願いします。サンドイッチとか。ずっと私邸にいたから、お腹が空いてないんです』
 浮かび上がった文字列を横から覗き込んで、女王の執事は神妙に頷いた。
「なるほど。久々にうどんレタスサンドが召し上がりたい、と」
『違います』
 即座に否定の言葉を打ち込んでから後悔した。いつも使っている言い方なのに、形にすると何だか言葉が強すぎてしまう気がする。思わずサイラスの方を振り返った。
 ふむ、と呟く執事に、特に気分を害した様子はないようだった。
「でしたら、たらこにしましょうか。スターゲイジーパイ風味のレシピを先日考案しまして」
『それ、本当にたらこのサンドイッチなんですか?』
 呆れた顔をすると、サイラスはどこか嬉しそうに微笑んだ。
「召し上がってからのお楽しみ、ということで」
 提供されるのが軽い食事かどうかは置いておいて、私邸にこもりきりの退屈な生活にちょっとしたサプライズを与えてくれるのは間違いなさそうだ。
 アンジュは笑って言った。
「全然楽しみじゃありません」
 顔色を失い、咄嗟に口を手で押さえる。ひと呼吸おいて、再びキーボードを起動した。
『楽しみです』
 背後に立つサイラスは、きっとわかってますよとでもいうような表情をしているのだろう。空気が、どこか柔らかいから。
「ご期待に添えるよう努力しますよ。まずは魚卵の確保からですね」
『まさか採ってくるの?』
 サイラスは答えず、いかにも楽しげな目をして、唇をふっと引き上げた。
「ご想像にお任せします。さて、ご入り用の品は他にありますか」
『特には。色々と用意してもらってありがとう。助かってます。このクッションとか、柔らかいのに長時間座っていても腰が痛くならなくてすごくいいです』
「それは何より。ネット通販で買い求めたものなんですよ」
『そんな気がしてました』
 ネット通販の成果に満足そうな執事の前で、アンジュはクッションを胸に抱いた。
 令梟宇宙の女王は、ここ数日、言語機能の不調に悩まされていた。原因は不明だ。宇宙意思に尋ねても、「時ガ満チレバ戻ル」と繰り返すだけ。
 生命に関わるような不調ではない。だが、かなりストレスが溜まるのだ。「自分が思っているのと正反対のことを言ってしまう」という症状は。
 この状態になってから、仕事はすべて私邸で行っている。不思議なことに、思考と入力された文字は齟齬をきたさなかった。
 守護聖や王立研究院の協力もあって、女王の業務は問題なく行えているのだが、誰とも会話できないのが想像以上に堪えている。
 事情を知っていればアンジュの真意を汲み取るのは難しくないのだろうと思うものの、人を傷つけるような言葉を発することに強い抵抗がある。話したくない。でも、話したいのだ、本当は。すごく。
「陛下」
 突然サイラスに声をかけられて、アンジュは無防備に振り向いた。
 その瞬間見たものを、令梟の女王は生涯忘れなかった。
「あっ……ははははは!」
 しんと静まりかえっていた室内に、明るい笑い声が弾けた。
 自らの長い指を駆使して言葉に尽くせないほどものすごい顔をしていたサイラスは、一瞬にして元の彼に戻っていた。
「そんなにウケていただけて本望ですよ。昔から睨めっこには少々自信がありまして」
「だって……そんな……いきなり……」
 普段澄ました顔をしている男だから、そのギャップが余計に凄まじい。笑いすぎて段々息が苦しくなってきて、アンジュはたまらず持っていたクッションに顔を埋めた。
「もー、お腹」
 痛くないと、思ってもない言葉を続けようとしたところで、すかさず合いの手が入る。
「痛いですかそうですか。女王陛下に大変な無礼を働いてしまったところで私はそろそろ失礼いたします。ご用がありましたらタブレットか何かでご連絡ください。では」
 サイラスは軽く腰を折り、慇懃ではあるがどこか雑な挨拶をした。
「サイラス!」
 立ち去りかけた執事の背中に向けて、女王が声を張り上げた。同時に、手元のタブレットを掲げて、表示された文字を顔のサイズほどの大きさに拡大する。
『ありがとう』
 数秒の沈黙の間に、眼差しが交差する。笑みが広がる。心地のよい空気が満ちていく。
 それで十分なはずだった。
 喉につかえた何かを飲み下し、アンジュは小さく息を吐いた。
 今まさに扉が閉まろうとしたそのとき、微笑を湛えたまま、女王の唇がゆっくりと動いた。
「あなたなんて、大嫌い」
 重い扉によって二人がいる空間が隔てられた後、男は一瞬だけ振り返るようなそぶりをみせたが、笑みの消えた顔を上げ、長い回廊を黙って歩きはじめた。

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……しないと出られない部屋?

 ただいまーと元気よく扉から現れた女王を、九人の守護聖と補佐官レイナ、王立研究院の職員達は緊張した面持ちで出迎えた。
 令梟の聖地の中央部にある庭園は、降り注ぐうららかな日差しとは対照的に、異様に張り詰めた雰囲気に満たされている。
 重苦しい空気をばっさりと切り捨てるように、女王アンジュは自分を取り巻く全員に向けてにっこりと微笑みかけた。
「ごめんね、皆に心配かけちゃって。少し手こずったけど、何とか自力で脱出できました。ですよね、サイラス?」
 女王の背後からするりと音もなく現れたサイラスが、いささか大仰な動作で胸に手をあてた。
「えいっ。やぁっ。とぉっ。……という風に、結構な力業ではありましたが、ご覧の通り、陛下のお力によって奇跡的に生還することができました」
「ちょっと待って。私そんなちぎっては投げ、投げてはちぎってみたいなことしてませんし、できませんよ」
「陛下のご勇姿、皆様にもぜひご覧いただきたかったものです。私も内心でスタンディングオーベンションをしておりました。ワーパチパチパチ」
「もう、勝手に話を盛らないでください」
 女王のじっとりとした視線を、執事はにこやかな笑顔で軽く受け流した。
 いつものペースで会話する二人を中心にして、強ばっていた場の空気が一気に柔らかくほどけていく。
 安堵の涙に濡れた眦を指で拭い、レイナが前に出た。
「陛下、本当にご無事でよかった。サイラス、陛下のサポートをありがとう。二人とも、その、身体に異常を感じたりはしていない?」
「異常?」
 アンジュとサイラスは、それぞれ横にいる相手と顔を見合わせた。
「あります?」
「いえ、特には」
「それなら、いいんだけれど……」
 そう告げるレイナの笑顔は、どこか気がかりな様子を含んでいる。
 つい数秒前までドアがあった場所を振り返って、アンジュが言った。
「私たちがいた部屋は封じたけど、これから先も同じような空間が聖地に発生する可能性は高いと思う。ユエ、タイラー。守護聖と王立研究院で連携をとって対策を立てましょう。今回はたまたま被害がなかっただけで、危険な場所であることに変わりはありませんから」
「はっ」
 女王の命を受けて、ユエとタイラーが頭を下げた。
 それと、とアンジュは続けた。
「ロレンツォ。あの部屋について聞きたいことが山ほどあるって顔してますが、さすがにちょっと休みたいので今度でいいですか」
「御意のままに」
 地の守護聖はなぜか嬉しそうに微笑み、優雅に腰を折った。
 令梟の女王は、自身に呟きかけるようにゆっくりと口にした。
「――やっぱりよくないよね。どんな理由があっても、本人たちの意思を無視して、やりたくないことをやらせようとするなんて」
 サイラスは女王のすぐ隣にいる。女王の言葉は確実に耳に入っているはずだが、彼は特別な反応を見せなかった。
 アンジュとサイラスが閉じ込められた部屋は、簡単に言えば、変種のバックドアのようなものだった。二人の説明によると、庭園に立ち寄った際、噴水が突然光を放ったので何事かと覗き込んだ瞬間に引きずり込まれてしまったそうだ。各地でその存在が確認されていたが、令梟宇宙の聖地に出現したのは今回がはじめてだった。
 この部屋が特異なのは、足を踏み入れると同時に閉じ込められて外部との接触も完全に遮断され、出るためには提示された「条件」を満たさなければならないという点だ。それは、いわば呪詛に近い。世界を構成するルールから外れた存在であり、王立研究院の技術力を総動員したとしても、「条件」の成立なしに開けるのは不可能だった。
 問題は、その「条件」だ。
 令梟の宇宙内で起きた類似の事案で条件となったのは――肌を合わせる、繋がる、交接。それから生殖。言葉は違えど、つまりはすべてそういった行為だった。
 その「条件」の内容について、この場にいる人間は皆知っていたが、誰ひとり口にはしなかったし、する必要もなかった。
 女王は、宇宙を統べる者の力を行使して自力で出てきたのだから。異空間から帰還したのは、間違いなく扉をくぐる前と同じ女王であり執事であり、聖地を脅かした危機は去ったのだから。
 そのとき、サイラスがパンパンと手を鳴らして声を張り上げた。
「ハイッ、皆様! 陛下も無事戻られてめでたしめでたしと相成りましたので、そろそろ解散といたしましょう。この度は温かいご声援ありがとうございました」
 声援は送ってねえよという首座の守護聖の突っ込みにどっと笑いが起こり、それをきっかけに集まった人々はそれぞれ散っていった。
「タイラー」
 人影がまばらになりはじめたとき、王立研究院の主任研究員にそっと耳打ちする者がいた。女王だった。
「ひとつお願いがあって」
「お願い? 改まって何でしょう?」
 アンジュはタイラーをじっと見つめ、それからどこか遠くに視線を移した。女王の執事はすでにいずこかに姿を消していた。
「どうにか言いくるめて、王立研究院でサイラスのメディカルチェックをしてほしいの。自分でやるかもしれないけど……やらないかもしれないし」
「それは構いませんが。サイラスさんだけですか。どちらかといえば、力を行使された陛下の方が」
「私は元気だよ。……ただ、あのね。ちょっと、その、無理させちゃったかもしれなくて」
 アンジュは、心から申し訳なさそうな表情をして目を伏せた。
 タイラーの思考が一瞬停止した。
 不思議な部屋。脱出の条件。開いた扉。条件の達成。女王の力……無理させた?
 ――その解は。
「えっ」
「ごめん、よろしくね。私が言っても絶対に聞かないと思うから!」
 そう言い残すと、女王は軽やかにドレスを翻して去って行った。
「…………えっ?」



 令梟宇宙の主任研究員は職務に忠実で、誠実な人間でもあったので、自らの頭に浮かんだ可能性に一瞬で蓋をした。女王と執事が揃っているのを見てふと思い出すことがあっても、やっぱりすぐに蓋を閉め直した。そういう男だった。

 のちに王立研究院によって件の空間の構造があらかた解明されたが、しかしすべてが明らかになったわけではない。
 謎の部屋に残された謎の答えを知るのはこの宇宙で二人だけであり――そのとき何があったのか、彼らの口も、眼差しですらも、ついに語ることはなかった。

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#アンミナ #サイアン #女王と執事 #恋愛未満

女王の寝落ち

 持ち帰った仕事をしている途中で意識を失ってしまったり、お酒を飲んでいたらソファでうとうとしてしまったり。
 バースにいた頃にそういうことがなかったわけじゃないけれど、女王になってから寝落ちする頻度が高い気がする。どうしてだろう? 会社員時代も仕事で毎日ヘトヘトで、疲れているという点では似たようなものなのに。
 その夜も、アンジュはソファに横になりながら甘く蕩けるような微睡みにふわふわと漂っていた。
 お風呂上がりに資料を読もうとしたのは失敗だった。ほどよく温まった心身は完全に休息モードに切り替わっていて、仕事が入り込む隙などなかったのだ。
 そのとき、上から影が落ちてきた。しばらく黙って覗き込んできたその人は、耳元にそっと囁きかけてきた。
「お客さーん、終点ですよー」
 ――よくそんなローカルな表現を知ってますね?
「ふむ。反応なし、と。バースの民はこの言葉を聞くと飛び起きるらしいんですが」
 それ、一部の地域の一部の人だけだと思うんですけど……あっ、平くんなら起きるかも。
 夢心地にそんなことを考えていたら、唇が笑みの形に崩れてしまった。
「なるほど。実は起きてる、そんなオチですね」
 半分正解で半分はずれ。意識はあるけれど、身体は眠っている。完全に起きたときにはたぶん覚えていない、そんな状態だ。
 サイラスはそれから何度か呼びかけたり、耳元で歌ってみたり、カスタネットを鳴らしてみたりして(どこから出てきたの?)、アンジュが完璧に寝ていることを確認してからようやく腰を上げた。
 柔らかいソファとそれ以上に柔らかい身体の間に腕を差し入れて、力をこめる。
「それ。どっこい、しょ」
 気合いのない掛け声と共に、身体がふわりと浮いて、アンジュはごめんねともありがとうともつかない呟きを口にした。
 言葉にもなっていないようなもごもごとした声だったと思うのに、律儀に返事が返ってきた。
「構いませんよ、お好きなところで寝ていただいて。運ぶ必要があれば勝手に運びますから」
 ゆらゆら、ふらふら……たまに足元でゴンッと音がする。ちょっと不安定で、危なっかしくて、でも布越しにほのかに伝わる温もりがとてもやさしい。
 開け放した窓から爽やかな夜の風が流れ込んできた。
「おや」
 ふと、声がした。
「いい風ですね」
 そのとき、アンジュは思わずサイラスの腕を握った。
 いつの間にか眠ってしまうのは、心を預けた人たちが側にいるから。ひとりで眠る夜もひとりではないから。
 近くで、笑う声がした。
「そう簡単に落としませんので、ご安心を」
 宇宙の女王は星の運命を紡ぐ指を柔らかくほどき、冠もなくドレスもなく、白い素足を投げだして、気まぐれに流れる揺籃歌に包まれながら、ゆっくりと微笑み、同じ早さで瞼を閉じた。

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#アンミナ #サイアン #元女王と元執事 #恋愛未満

退任後、お揃いのパジャマで眠る夜もあるかもしれない。

 同じ日の同じ時間、ネット通販で買った荷物が同時に届いたのだ。
 まったく同じサイズの箱を抱えて、サイラスとアンジュは玄関先で互いの顔を見合わせた。
「もしかして、同じお店……ですか?」
「そうみたいですね」
 こんなこともあるんですねと、アンジュはくすくすと笑った。
「まさか、中身も同じだったりして――」
 そのまさか。
 いっせーのせで梱包を開けてみたら、中から現れたのは……同じパジャマだった。デザインは完全に同じ。アンジュの生まれ故郷でスタンダードだった、前開きでボタンと襟がついたシンプルな型。ただし、ちょっとだけ違うところがある。
「たまたまサイトを見たとき、タイムセールをやってたんです」
「ええ、ポイントアップの時期とも重なってまして、これ以上ないほどの買い時でしたね」
「そうなんですよ!」
 力強く頷いて、アンジュは袋に包まれたパジャマを箱から取り上げた。セールだったから品質に不安があったが、着心地が良さそうなさらりとした布地で、縫製もしっかりしているようだ。
 色は目の前にいる人の髪とよく似た、涼しげなミントグリーン。
「サイラスっぽい色だなと思って」
「奇遇ですね。私も同じようなことを考えてました」
 と言う彼の手にあるパジャマには「ピーチ」のタグがついている。瑞々しく明るいピンクは、アンジュがよく身につけている色だった。
「はい」
「どうぞ」
 息をぴったり合わせたように同時に言って、同時に手を差し出した。
 二人は黙って、ミントグリーンとピンクと元女王と元執事兼補佐官に視線を行ったり来たりさせた。
「……私に?」
「……なるほど」
 不思議なこともあるものだとアンジュは思った。
 サイラスとの付き合いは長い。アンジュが令梟宇宙の女王としての長い勤めを果たし、退位したあとも、執事……なのかそうでないのか言い切れないが、ともかく以前のように側にいてくれている。
 一緒に住んでいるが恋人というわけではない。
 確かなのは、同じ屋根の下で、同じものを食べ、同じ空を、同じ星を眺めて、数え切れないほど多くの同じ思い出を持ち、今このとき、同じ時間を過ごしているということ。それだけだ。サイラスという人間を知り尽くしているかというと――やっぱり、知らない部分の方が多いと思う。
「今夜一緒に寝ませんか?」
 アンジュが放った何気ない一言は、パジャマのポケットに手を突っ込んで具合を確かめていたサイラスの動きを一瞬だけ止めた。
「あなたと私が、ですか」
「はい。せっかくお揃いのパジャマだし。昔のこととか、これからのこととか、サイラスのおすすめの通販サイトとか、おいしそうな干物やお茶の話とか、ベッドでごろごろしながらおしゃべりしたいと思って」
「ソファでは不都合が?」
「不都合はないですけど、ベッドの方がリラックスはできますよね。レイナともよくやっていました。眠くなったらそのまま寝れますし」
「ま、合理的といえば合理的ですね」
 我ながら突飛な提案だったと思うが、サイラスは仕方のない人ですねとでもいうような表情で頷いた。
「構いませんよ」


 ベッドに入って部屋の照明を落としてランプをつけると、隣にアンジュよりも大きくて重い身体が隣に潜り込んできた。
「サイズぴったりでしたね、パジャマ」
「アンジュ様も」
「お互い自分のパジャマを買ってないの、面白いですよね。サイトで見つけて、あっこれサイラスに似合いそうって思った瞬間に、完全に自分のことは頭から抜けちゃってたんです」
 そう説明するアンジュを、サイラスは何だか楽しげに眺めている。彼は上体を捻って、タブレットの電源をオフにし、サイドテーブルに置いた。
「ところで先日、街で開催されていた鳥の鳴き真似コンテストで準優勝をいただきまして」
「えっ、初耳ですけど?」
「はい、今はじめて言いました」
「サイラスが準優勝って、よっぽどすごい鳥の鳴き真似の達人がいたの?」
「はい。どのような分野であれ、上には上がいるものです。優勝された方の情感溢れる夜明けのコケコッコー、あなたにもお聞かせしたかったですね。渾身の三十連クルッポーも太刀打ちできませんでした」
「三十連……」
「ここでご披露しましょうか?」
「結構です」
 ベッドサイドを穏やかに包む明かりのなかで、他愛ない言葉を投げ合う。たまに笑い、呆れて、また笑う。話題がとんでもない方向に投げられても、ちゃんと拾うし、拾ってもくれる。途方もないほど長い年月を共に過ごしているのに、話が尽きないのが不思議だ。
 いつもと距離が違うせいか、相手の呼吸をずっと近くに感じる。トン、トトトン、と弾けるように続くサイラスの言葉が胸に心地よく響く。
 うつぶせになって肘をつき、ぼんやりと顔を見ていたら、サイラスが尋ねてきた。
「面白いですか、顔?」
「ずっと見てても飽きないです」
「それはそれは。奇特なご趣味ですね」
「そう? サイラスって、結構表情豊かだと思いますよ」
 アンジュはふかふかした枕に顔をうずめた。サイラスが適当に調合したという、ハーブのいいにおいがする。
 洗いたての新しいパジャマは柔らかくて素晴らしく気持ちがよく、夢の世界への扉を優しく開けてくれた。
 いよいよ瞼が重くて我慢できなくなったとき、タイミングよくランプの灯が消えた。ありがとう、というお礼の一言は夜と夢のあわいに消えてしまった。
 彼は背を向けて横になったようだったが、しばらくしてこちらに向き直った。
 瞼を開けたら目が合ったかもしれない。でも、アンジュはそうしなかった。
 しばらくして、落ちかけたブランケットがアンジュの肩に丁寧にかけられた。それから、夜闇のなかであくびをかみ殺す気配がした。
 ……サイラスもあくびするんだ。
 出会いから実に数千億年以上経っても新たな発見があることが嬉しくて、淡い桃色の唇に、星が瞬くような笑みが浮かんだ。


 私たちは、一緒に住んでいるが恋人というわけではない。
 確かなのは、同じ屋根の下で、同じものを食べ、同じ空を、同じ星を眺めて、数え切れないほど多くの同じ思い出を持ち、同じパジャマを着て、子どものような寝息を立てて眠る同じ夜があること。かつて同じ夢を見ていたこと。今このとき、同じ時間を過ごしているということ。手と手が時々触れて、それがとても温かいこと。幸福であること。

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#アンミナ #サイアン #アンサイ #女王候補と執事 #恋愛未満

『かわいいひと』

「……というわけで、レイナってすごくかわいいんですよ!」
 アンジュはサイラスに向かって力説した。手早く朝食のテーブルを整えながら、サイラスが適当なタイミングで相槌を打つ。
「それはそれは」
「大陸の民に貰ったお花、押し花にして全部大事にとってあるんです。それを嬉しそうに見せてくれて。もうだめすべてがかわいい……」
 アンジュはたまらないというように、クッションに顔を押し付けた。
「なるほど。昨夜はずいぶんと盛り上がったようですね」
 ちなみに、サイラスがやってきてからずっとアンジュはソファに横になったままである。昨日飲んだアルコールが抜けきっていないのだ。
 溶けたアイスみたいなアンジュと朝食の載ったトレイを交互に見てから、サイラスが尋ねた。
「ところでいいんですか、朝食は通常のメニューで。スムージーかお粥でもお持ちしましょうか」
「ありがとう、でも大丈夫。頭がちょっと痛いだけで、胃の調子はいいんです。……あー、昨日は部屋で一緒に飲めて本当に楽しかったな。レイナから誘ってくれたのはじめてだったし。誘ってくれるときもかわいかったなー……緊張なんてしなくてもいいのに」
「仲が良いのは何より。ライバルとはいえ、志を同じくする仲間でもありますからね」
 シューソテーのオープンサンドの横に冷たい牛乳の入ったグラスを置いて、サイラスがアンジュの顔を覗き込んできた。
「このままだとグーグー寝て過ごされそうですが……せっかくの休日ですし、そのでろんでろんの状態から回復したら、守護聖様方とお出かけされたらいかがでしょう。いいリフレッシュになりますよ」
「あはは、がんばりまーす。そうそう、レイナもかわいいですけど、サイラスもかわいいですよね」
 クッションに気持ちよく顔を埋めたまま、アンジュは何気なく言った。トレイを持ち替えようとしたサイラスの手が、一瞬止まった。
「サイラスっていつも本気なんだかふざけてるんだかわからないですけど、この間森の湖でご家族や弟さんの話をしてたとき、すごくいい表情してたんですよ。気づきませんでした? そのとき、あっこの人かわいいなって思ったんです」
「……ほう。それは気づきませんでした」
「あと、通販でいいものが買えた日は鼻歌のトーンが普段とちょっと違うんです。それから、鳥の鳴き真似が会心の出来だったとき。フッって唇のあたりが動くの。みんなかわいいです」
「まあ、人のことまでよくご覧になってますね」
 クッションから顔を上げて、アンジュは彼女の執事に明るく笑いかけた。
「いつも一緒にいてくれますから」
「…………」
 不自然な沈黙が生まれたものの、それをすっと払いのけるようにして、サイラスは胸に手を当てる例のポーズでにっこりと微笑んだ。
「お褒めに預かり光栄ですよ、アンジュ様。では、私はこれで。良き日の曜日をお過ごし下さい。クルッポー」
 そしてよくわからないタイミングで鳩の鳴き声を残し、風のように去って行った。
「サイラスも、良い休日をー……くるっぽー……」
 充電不足、とばかりに再びクッションと一体化して、ヘロヘロと力なく手を振る。
 寝返りを打った拍子にふと朝食の並んだテーブルを見ると、確かに置いていたはずの牛乳のグラスをサイラスがなぜかまた持って帰ってしまったらしいことに気づいて、アンジュは首を傾げたのだった。

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#執事と主任 #恋愛要素なし

執事と主任とバレンタイン

「毎回思ってたんですが、どうして毎年バレンタインのイベントをやるんですか?」
 今現在暮らしている聖地と生まれ故郷であるバースとでは、時間の流れ方が違うし暦も若干違う。自分で口にしておきながら毎年という単語に違和感を覚えたが、他に適当な言い回しがなかったので仕方ない。
 バレンタインパーティーなるチョコレートで溢れた催しの片付けもあらかた終わったところで、タイラーは鼻歌を歌いながらチョコの箱を袋に詰めていたサイラスにかねてからの疑問をぶつけてみた。
「余ったチョコがもったいない、と? ご安心ください。後ほど希望者にお分けしますよ。チョコは日持ちしますからね」
「いえ、質問の趣旨が違います。俺の聞き方も悪かったと思いますけど」
 今年は日の曜日の午前中、聖殿の中庭で行われたせいか、女王試験時代のポットラックパーティーを思い出すねと言いながら、女王と補佐官は顔を見合わせて笑っていた。その様子を眺める守護聖たちの表情にも、主従という関係で結ばれる前、飛空都市で見せたような気の置けない和やかさがあった。
 サイラスはわざとらしく目を見開いた。
「オオ、もしかして企画がマンネリでしたか? 次回はもっと楽しめるよう工夫が必要ですね。でしたら……そうですね、カカオの栽培からはじめましょうか。まず土地の選定からとなると、かなり壮大な計画になりそうです」
「マンネリとかそういうのでもなくて。誕生日祝いならわかるんですけど、そんなに大事ですか、バレンタインみたいな行事って。あと、この間は豆まきもやりましたし、他にもひな祭りやら子どもの日やら……」
 サイラスの壮大な計画とやらを流し聞きながら、先ほど雑談の一環として何の気なしに質問してみたものの、少々面倒くさいことになってしまったとタイラーは軽い後悔に襲われた。
 眦がすっと引き、普段から細い目がより細くなる。
「なるほど、そういう系の疑問ですか。ならばお答えしましょう。楽しいからです」
 堂々と言い切られて、数秒の沈黙のあと、タイラーは無表情でその台詞を繰り返した。
「楽しいから」
「はい。主語も要ります?」
「大丈夫です、大体わかりました。ありがとうございます」
 タイラーは真顔で頷き、チョコレートが詰まった紙袋を手にした。
「これ、とりあえず聖殿の厨房に持って行けばいいですか?」
「紙袋の行く先はそれで結構ですが、まったくわかっていないし納得もしてない顔をしてますね」
 サイラスがさりげなくタイラーが持っていた紙袋を奪い去る。
「詳細を聞きたい? ならばリクエストに応えてご説明しましょう!」
 別にいいですとタイラーが言う前に、女王の執事はいつもの調子で蕩々と続けた。
「我らが女王陛下は強く逞しく自由に生きておられるように見え……ますよね?」
「まあ」
 元同僚、現女王の姿を脳裏に思い浮かべる。酔っ払って契約書にサインしたと聞いたときはどうなることかと思ったが、彼女は見た目からは想像できないような芯の強さがあるし、そのてらいのない朗らかさに救われてもいる。補佐官や守護聖も、スタッフも、おそらく自分自身も。
 サイラスは続けた。
「しかし実際のところ、食べるもの着るもの行くところ……案外自由じゃありません。自由とはなんぞや? と考え始めたらキリがありませんが、例えばネット通販。ポチッとボタンを押すだけで品物が送られてくる素晴らしいシステムであることは間違いないものの、聖地、とりわけ女王陛下宛ての荷物となる厳しい検閲が行われている。あなたもご存じかと思いますが」
「それは……安全対策の問題上、仕方のないことでは」
「仕方ない、それはそう。その点については私も異論ありません。しかし、自分の好きなものを自由に食べ、自分のやりたいことを楽しむ。はしゃいだり、声を上げて楽しんだりする。親しい人に贈り物をする。定期的にそんな時間があってもいいのでは? ま、聖地には無礼講というほど無礼な方はそれほどいませんが」
 慇懃無礼という言葉がよく似合う男は、黙ったままでいるタイラーにチョコレートの箱を差し出した。
「そういえば、あなたパーティーでひとつも食べてませんでしたね、チョコ」
「ずっと撮影係だったので。サイラスさんもですよね?」
「残念ながら口をモグモグしながら司会進行はできませんからね。せっかくですし、おひとついかがですか」
 わずかに躊躇ってから、タイラーは箱に整然と並んだアクセサリーのようなチョコレートから、一番シンプルなものを摘まみ上げた。
「じゃあ、ひとつだけ」
「タイラーくん、あまり菓子類を好んで食べているイメージありませんよね。疲労困憊しているときに、栄養補給として糖分を摂取していることがあるくらいで」
「いつ見てたんですか? 甘い物って甘いじゃないですか」
「少なくともビールよりは甘く感じるでしょうね。ご感想は?」
 艶めいた光を放つ黒い粒を口に含む、ゆっくりと歯を立てる。
 次の瞬間、大きく息を吐いてから、タイラーは素直な感想を口にした。
「すっっっげえ甘いです」
「そうですか。すっっっげえ甘いですか」
 同僚の様子を興味深そうに眺めてから、サイラスは自分もチョコレートの小箱に指を伸ばした。
「では私もためしにひとつ。えい」
 甘っ! と、女王の執事兼補佐官は表情を全く変えないままぼそりと言った。サイラスらしいストレートな言い方につい吹き出しそうになって、タイラーは慌ててずれてもいない眼鏡を直した。
「……甘いよな」
 誰へともなく呟く。まあ、たまには甘い物を食うのもいいかもしれないと思いながら。

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#アンミナ #サイアン #女王と執事 #恋愛未満

愛とはどんなものですか?

 深夜、至急の呼び出しを受けて女王の私邸にある寝室に向かった。
 宇宙は休みなく活動している。それゆえ執務時間外の招集は珍しくない。ただその夜呼ばれたのはどうやらサイラスひとりらしく、王立研究院ではなく直接女王の元へ、しかもプライベートスペースである寝室に来るよう指示されたことだけが珍しかった。様々な可能性を頭の中で展開させて、しかし常よりも早い足取りはまっすぐ迷いなく主を目指す。
 開いた扉の奥にある女王の美しい臥所は薄暗く、ベッドサイドに置かれた小さなランプだけがささやかな光を放っていた。上半身は淡い桃色の天蓋に遮られて様子を覗うことはできないが、滑らかなシーツの上で、小さな爪先がこちらに向きを変えたのがわかった。
「陛下」
 急用であることは理解していたが、一応のマナーとして声をかける。身じろぎをしてから起き上がる気配がして、女王は気だるそうな仕草で天蓋を開けた。
 身につけているのは黒いレースのランジェリーのみ。赤みの強い口紅を引いた唇が、雨に濡れた月のように弧を描く。
 だが、暗がりに白く浮き上がった腕が伸びてきて頬に触れても、サイラスは表情を変えなかった。その手首を優しくとって、彼女の顔をまじまじと見つめた。
 まるで、動物が互いの存在を確認するように。
「陛下……じゃありませんね」
 宇宙の深淵を思わせる眼差しが、ぞわりと音を立てるように微かに動いた。
(ナゼわカッタ?)
「何故と言われましても。外見が似ている以外は、どこからどう見ても違いますよね」
(ならバ話ハ早イ。コの身ヲ今すグ抱ケ)
 それこそ雄と雌との交尾を求めるような淡白さで、人ならぬものは二つの柔らかな膨らみを押しつけてきた。
 口腔に入り込んだ固い異物を咀嚼するような間を置いて、サイラスは礼を失しない程度の穏便さで女王から上体を離した。
「おっと、これはこれは。何故、と今度は私がお尋ねする番ですね」
(こノ宇宙のタメだ)
「嫌です、と申し上げたら?」
(遠カらズ令梟の宇宙ハ均衡ヲ失ウだろウ。過ギた孤独ハ心ヲ蝕ム。女王ハ孤独ニ喘いでイル)
「過ぎた孤独は女王にとって害……つまり、適度な孤独であれば宇宙を治めるのに有用であると?」
 乾いた唇が、笑うような形をして歪んだ。
「言葉は通じてますが、あなたと話していると、鳥……いえ、まるで昆虫と会話している気分になります」
(宇宙が滅ビテモいいノカ?)
「それ以外に方法はないんですか。私以外に相応しい方はいくらでもいると思うんですが」
(女王ノ望みデモあリ、最モ容易い方法デもアル)
 サイラスはベッドの縁に腰掛けて、自らの手のなかに深い息をつき、碧い瞳の奥に広がる深淵を眺めた。
「……たまに思うんですよね」
 それまでの硬質な声とは打って変わった鷹揚な語調で、サイラスは世間話をするように続けた。
「女王や守護聖や、個人の犠牲を必要とするシステムは、そもそも根本から崩壊してるんじゃないかと」
(否定ハシなイが、ソレガ現実デあり、真理ダ)
「女王の意識を失わせたところで事を進める、つまり彼女に選択肢を与えないというわけですね」
(タトえ己ノ望ンだコトダとしテモ、人ハ迷イ、人ハ悔ヤむ。ソシてまタ心ノ均衡を失ウ)
「なるほど、あなたは女王のなかに人の部分を認めてるんですか。残酷なものですね、宇宙意思というのは」
 息の届きそうな距離まで、そっと顔を寄せる。ベッドについた手に男一人分の体重を乗せると、スプリングが重い軋みを上げた。
(理解デキたヨうだな。時間ガ惜しイ。早ク終ワラせて……)
「それなら覚えておいていただきたいんですが、いくら聖地が常春で、王立研究院が女王の健康状態を細かく管理しているといっても、その格好でいては風邪を引きます」
 サイラスはそっけなく言って、自らの着ていた上着を露わになっていたアンジュの肩にかけた。
「人間ですから」
 偽りの女王はわけがわからないと言った様子でベッドに座り込み、無表情で彼女の執事を見上げた。見上げたまま、壊れたアンドロイドのように動作を停止した。
 やがて、サイラスを映した虚無の瞳に透明な水が盛り上がった。熱い滴があとからあとから溢れて、人形のような無機質な頬を滑り落ちていく。温かい流れはいつまでも止まなかった。
(私ノ涙ではナイ)
 宇宙の梟が不思議そうに言うのを聞いて、知ってますよ、と女王の執事は誰にともなく呟いた。



 翌日、朝食の給仕に女王の私室を訪れると、アンジュはしきりに首をかしげて言った。
「なんでサイラスの上着が私の部屋にあったんでしょう?」
「不思議ですね。ワービックリ」
「言うわりに、全然驚いてないですよね」
「聖地では時々、イタズラ好きな妖精が現れるそうですから。聖地の七不思議のひとつに数えられているとかいないとか」
「えー……それ本当ですか? 冗談じゃなくて?」
「私が冗談を言ったことがありましたか?」
「冗談のパーセンテージ、かなり高いと思ってましたけど……まあいいです。ところで」
 と正面から疑問をぶつける。
「同じ服、何枚持ってるんですか」
 執事の上着が自分の部屋にあったこと以上に、彼がいつもと全く同じ格好で現れたのが女王には謎だったらしい。
 サイラスは胸に手を添えて微笑んだ。
「制服のようなものですからね。たとえ不測の事態に襲われても、仕事に支障が出ない程度の数は揃えてあります」
「不測の事態?」
「バックドアから突如出現したトマトソースを頭から浴びるとか、ですね」
「さすがにそれはないんじゃ……あっ」
 手渡した制服の襟元を見て、アンジュは声を上げた。
「ごめんなさい、ここ、口紅の色が移ってるみたい」
「ああ、これですか? すぐ落ちるでしょう。そこはかとなく柄と一体化して目立ってませんし」
「でも」
「お気になさらず。エプロンをしていても料理の最中に汚れることもよくありますので。ちなみに今日のメニューは……ジャン!」
 サイラスは満面の笑みを浮かべ、銀色のクロッシュをパカッと開けた。
「うどんサンド! 久々に見ました……」
「はい、久々に作りました。冷たい牛乳との相性もバツグンです。グイッとどうぞ。ちなみに今日のスケジュールは……ま、予定通りなので、あとでコンパクト型タブレットをご覧いただければ」
「もう、適当だなあ」
 女王のじっとりとした視線を受け流して、サイラスは楽しげに目を細めた。
「あなたがちゃんと女王業をこなせているからこそ、手抜き……もといこういった省力化もできるんですよ。では後ほど、レイナと資料をお持ちして伺います」
「うん。また」
 サイラスはトレイを手にして、辞去の挨拶をする代わりに、どこか道化じみた動作で一礼した。
 ここに来る前に王立研究院でチェックしたデータによると、女王の力は高いレベルで安定し、慈雨のようにあまねく満ちるサクリアによって、令梟の宇宙の均衡は保たれている。
 いつもと同じやりとりがあり、いつもと同じ一日がはじまる。当たり前のように巡る平穏な朝ほど尊いものはない。
 そんなことを思いながら扉を開けようとしたとき、ふと何気なく後ろに目をやった。一瞬、ドアノブを握ろうとした手が宙に浮いた。
 朝の光のなかで、言葉にならない言葉を伝えようとした口が、赤いルージュを拭った唇が、ゆっくりと動きを止め、泣くように笑っていたのだった。

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#アンミナ #サイアン #補佐官と補佐官 #恋愛未満

アンジュ補佐官ED(恋愛なし)で補佐官がダブル配置になったら

「……状況はわかったわ」
 女王レイナは深い息を吐いて、ディスプレイに展開された資料に目を留めたまま、美しく弧を描く眉を曇らせた。
「女王の力を行使して隕石の軌道を変えると、別の星に被害が出る……」
 聖殿にある女王の執務室で顔をつきあわせる三つの影。青を基調とした室内には、ただならぬ緊張が満ちていた。
 隕石と惑星の衝突。それ自体は珍しいものではなかったが、今回は隕石が非常に巨大であることが問題だった。
 ミーティング用のテーブルを挟んで向かいにいたサイラスが頷いて、星図のデータを拡大した。
「この周辺は星が密集していますからね。時の流れを止めたとしても、今度は違う惑星に衝突する可能性が非常に高い。その場合、かなり広範囲にわたり星々の生態系に影響が出るでしょう。被害に関する試算はこちらに。いくつかのパターンごとに算出しております」
 失われる生命の数を、レイナはゆっくりと読み上げていった。
「どの道を選んでも、ベストな選択肢はないということね。むしろ、女王が介入することによって被害が大きくなるかもしれない。でも、だからといって」
 彼女は唇を嚙みしめた。
「何もできないというの……」
 低い囁きの底にあるのは、無力感、そして深い孤独だった。
 そのとき、それまで俯きがちに黙っていたもうひとりの補佐官が、おもむろに顔を上げた。
 アンジュは手にしたロッドを握りしめ、思いつめたような眼差しで女王を見つめた。
「陛下、私の意見を」
「レイナ様」
 アンジュの言葉を遮ったのはサイラスだった。いつもの彼らしくない態度に、アンジュの視線が驚いたように横にいる男に移った。
「ご判断を」
 静かではあったが冷淡ともいえる事務的な声音で、サイラスは女王に告げた。
 手袋の拳が強く握られ、開きかけた唇がまた閉じ、迷いに揺れる琥珀色の瞳が瞼の奥に消えていく。
 友であり主であるの仕草のひとつひとつを、その苦しみと悲しみを、アンジュは目に焼き付けるように胸に刻んだ。
 やがてレイナはゆっくりと目を開き、背筋をすっと伸ばして二人の補佐官に向き直った。もう、その瞳に迷いはなかった。
「……この件について、女王は力を行使しません。引き続き、王立研究院で動静を監視するように指示して下さい」
「御意のままに」
 頭を垂れる補佐官たちに、レイナは静かに微笑みかけた。
「ありがとう、アンジュ。サイラス」

 女王の執務室を退出したあと、二人の補佐官は無言で並んで歩いていたが、しばらくして突然、アンジュが立ち止まった。
「さっきの件」
「はい」
 アンジュはつま先立ちをして、まるでサイラスに挑みかかるように顔を近づけた。
「私たちでもっと内容を詰めてから陛下にお話した方がよかったと思います」
「なぜでしょう」
「それは」
 一瞬ためらうように、ひと呼吸置いてから続ける。
「陛下に負担をかけないために」
「なるほどなるほど。女王の力を行使したところで被害が減るわけではないと私たちが先に提案することによって、間接的に陛下のご心労が多少減る効果が期待できる、とそういうことですね」
 正面からはっきりと言われて、アンジュは固い表情で頷くしかできなかった。女王の仕事は厳しい判断を迫られる事が多い。レイナが必要以上に傷つくことはないと思うし、彼女を守るのが補佐官の務めだと思ってもいる。
「サイラスは、陛下の心のサポートも私たちの仕事だとは思わないんですか」
「それはもちろん。これまでも、これからも、力の限りサポート致しますよ。補佐官であり執事ですから。ですが」
「ですが?」
 アンジュがいつになく厳しく詰め寄っているのに、サイラスときたら、野鳥でも眺めるようなのんびりとした様子で目を細めている。
「判断を下すのが女王の務めです。そして私は、レイナ様はそれができる強さを持った方だと知っています」
 知っている、そして信じているのだと、サイラスの眼差しは言外に告げていた。
 そんなの、私だって知っている。信じている。
 レイナは誰よりも強い人だ。強くて優しくて、だからこそ傷つくこともある。
 アンジュはさらにもう一歩、サイラスの顔にほとんど触れる寸前まで近くに踏み出した。
「サイラス!」
「はい」
「今回は……あなたのやり方でよかったかもしれないけど、私、レイナのことについては譲りませんから」
「はい」
 言い合いと呼んでも差し支えない雰囲気にも関わらず、先ほどから全く崩れる様子がないサイラスの表情を見て、アンジュは軽く眉尻を上げた。
「……どうしてそんなに嬉しそうなんですか?」
「嬉しそう? そうですか?」
 サイラスはちょっと考え込む風な仕草をしてから、いつもの胡散臭い笑みを浮かべた。
「そうかもしれません」
 こっちは意図せず宣戦布告のような形になってしまったのに、何だか毒気を抜かれてしまう。
 アンジュは、もう、と溜息をついた。
「サイラスはロレンツォに用があるんですよね? 先に王立研究院に行ってます」
 早足でその場を去ろうとしたアンジュの背中に、サイラスが声をかけた。
「アンジュ」
 振り返ると、日が差し込む明るい回廊の中央で、サイラスが呑気に手を振っていた。
「これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ」
 自分自身の心に余裕を与えたくて、アンジュもにっこりと笑って手を振り返した。
 それから、再び早足に戻る。無意識のうちに掌で胸を押さえていることに気づき、ぱっと手を離した。
 サイラスに名前を呼ばれるのに慣れていないことは、まだ誰にも秘密にしている。

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#アンミナ #サイアン #女王候補と執事 #恋愛未満

『秘密の一夜』

 窓を開けると濃い水のにおいがした。眼下には夜の色に染まった運河が流れ、さざ波に落ちた街灯が星影に似た華やかな煌めきを放っている。
 少し湿り気を帯びた空気は春めいた温かさを孕んでいて、シャワーで火照った肌になんとも言えない心地よさを与えてくれた。
 ミスティックカナルには視察で何度も訪れているけれど、宿を利用するのは今回がはじめてだ。
 もっと素朴な施設を想像していたが、お湯も出るし、ベッドも清潔だし、バースのビジネスホテルと比べてもほとんど遜色がない。
「アンジュ様」
 背後から声をかけられて、アンジュは振り向いた。
「ずいぶん早かったですね。もっとゆっくりすればよかったのに」
「ゆっくりさせていただきましたよ」
 サイラスは普段と変わらない飄々とした態度で告げた。見慣れた執事服を身につけているせいか、シャワーを浴びたばかりだというのに『私はただいま仕事中です』という空気を全身から醸し出しているようだ。少しばかりほかほかしている気もするが。
 出窓を閉め、アンジュはサイラスに向き直った。
「サイラス、今日は本当にありがとうございました。一緒にいてくれたお陰で心強かったです。もう、よりによってひとりで視察に来た日に星の小径に不具合が起こるなんて……。しかも、サポートに来てくれたサイラスまで帰れなくなっちゃうし」
「その点はお気になさらず。設備の故障は、女王試験管理者である私の責任ですから。……お怪我がなかったのは幸いでした」
 最後の一言はいつものトーンとやや雰囲気が違う気がしたものの、顔を上げて見ると、そこにいたのはやはりいつもの執事だった。
 その日の顛末を、アンジュは頭のなかで反芻した。前回の土の曜日、レイナがエスポワールでアンジュにネックレスを買ってきてくれたのが事の始まりだ。
『この石の色、素敵なピンクだと思わない? あなたの髪によく似ていると思って』
 微かに頬を染めたレイナの手を思わず握りしめずにはいられなかった。そんなに高価なものではないから気にしないでと言われたが、そんなことできるはずがない。
 というわけで、レイナへの贈り物を選ぼうと今日はひとりで育成地にやってきたのだが、琥珀色の瞳によく似合うイヤリングを無事見つけて帰ろうとしたときに異変に気がついた。どうやっても星の小径が開かないのだ。ウンともスンとも言わない。それでもしつこく小径があるはずの場所に手をかざしたり、無理やりこじ開けようとしたり叩いたりしていたら、突然星の小径が開いてサイラスが現れた。
「アンジュ様、力ずくで解決されようとするのはよろしくありませんね」
 執事を吐き出すのに最後の力を振り絞ったのか、星の小径はそれきりまた閉じてしまった。
 通信の問題はないようで、タブレットを利用して飛空都市と連絡は取れている。しかし、夜になっても帰還できる目途が立たず、結局育成地に宿をとることになった。ちょうど街で大規模なイベントがあったらしく、どの宿屋も満室だったのだが、たまたま運良くキャンセルがあり、この一部屋だけが空いていた。
 ただし部屋はひとつ、ベッドもひとつだけ。
「おや」
 人ごとのように呟きながら、サイラスは自分のタブレットを立ち上げた。
「タイラーからです。明朝には復旧する見通しが立ったとのことですよ」
「よかった!」
「私も安心しました。飛空都市や育成地は神鳥の宇宙の女王陛下の加護を受けているとはいえ、ワープ中に宇宙空間にポンッと放り出されたらさすがにひとたまりもありませんから」
「えっ……?」
「ときにアンジュ様。お腹は空いてますか?」
「お腹ですか? さっき食べたばかりだから空いてませんよ」
「あの生物を魚……と呼んでいいのかわかりませんが、まあとにかく魚的な干物、なかなか刺激的な味でした」
「食べたとたんに口の中でパチパチ弾けましたからね……」
 どうしてここで魚の話が出てくるのか。
 言動が読めないサイラスのことだ、次に何が飛び出してくるのかと無意識に身構えたアンジュを尻目に、女王候補の執事はいきなり指さし確認をはじめた。
「つまり腹ごしらえ、よーし! シャワー、よーし! 明日の準備、多分よーし! ……となれば、次々と迫り来るハプニングでアンジュ様もお疲れかと思いますし、もう寝ましょうか」
 そのまますたすたと部屋に備えられた椅子に向かおうとしたサイラスを、アンジュは呼び止めた。
「サイラス!」
「はい」
「どこで寝るつもりですか?」
「椅子ですが」
 この部屋にはソファなどの家具は置かれておらず、ベッド以外に眠れそうな場所といえば確かに椅子だけだ。
 だが、クッションもない一人がけの木製の椅子は見るからに固く冷たそうで、とてもではないがぐっすり寝られそうもない。
 アンジュは右手をすっと挙げた。
「異議あり。私が椅子で寝ます」
「それはいけません」
「どうして?」
 サイラスは自信ありげに胸を手に当てた。
「執事ですから」
「理由になってません。それならじゃんけんで決めましょう。公平に。私だけベッドで寝るのは嫌です」
 アンジュは力説したが、サイラスは目を細めるだけで頑として首を縦に振ろうとはしなかった。
「アンジュ様が椅子、私がベッド? アリかナシかで言えばナシですね。では」
「待って!」
 声を張り上げると同時に、アンジュは梟のぬいぐるみをベッドの中央にどんと置いた。レイナへのプレゼントを選んだ店で自分用に買ったものだ。
「このぬいぐるみをベッドの境界にしましょう。そこから先は進入禁止。どうですか?」
 アンジュはサイラスをまっすぐに見据えた。
「もし私ひとりでベッドを使わせてもらっても、サイラスが椅子に寝てるのが気になって、絶対に熟睡できません。あと、そんなに寝相は悪くないからサイラスを蹴り飛ばす危険性はないと思います」
「問題はそこですか?」
「寝相、結構重要だと思いますけど」
 長すぎるくらいの沈黙の後、サイラスは溜息交じりにようやくアンジュの提案を受け入れた。
「……仕方ありませんね」
 右と左どちら側に寝るかはじゃんけんで決めて、梟を挟んで二人はベッドに入った。中央に見えないラインが引かれていても、端と端に二人の人間が寝るのに十分な広さがある。
 サイラスは王立研究院に連絡しているのか、帽子をベッドサイドに置き、枕を背もたれにしてタブレットを操作しはじめた。
 さすがに上着は脱いで、首元のボタンもひとつ外し、袖をまくり上げている。整髪料を使っていないので、乾かしたばかりの髪はまっすぐではあるけれど、どこかふんわりと自由に遊んでいるみたいだ。
 珍妙な鼻歌を口ずさみつつ何かデータを入力しているらしいサイラスの横顔を見ていると、なぜか落ち着かなくなってきて、アンジュも特に目的もなくタブレットをいじっていた。
 ……落ち着かない、という単語をもう一度頭で繰り返してみる。そこでやっと、アンジュは自分が妙な緊張感に襲われていることに気がついた。
 守護聖たちやレイナとエリューシオンを視察するときのような、胸が弾んでドキドキする感じとはとは全く違う。慌てて宿泊先を探したときも、おいしいと評判のレストランでの食事をしたときも、潮のにおいがする夜の街を一緒に見て回ったときも、サイラスといるのは完全に仕事の一部、同僚と出張している感覚だった。気兼ねなく過ごせるし楽しくもあるのだが、甘い空気は微塵もなかった。それどころかシャワーを浴びてすっぴんを晒しても気にならない。いつも晒しているからだ。
 さすがはサイラス、と思ってどこか安心していたのだが、ここに来て急に心拍数が上がりはじめた。同じベッドに寝ると言ったのはアンジュなのだが。
 ふと、頭に疑問がよぎった。
 サイラスは睡眠を取るのだろうか?
 そもそも、アンジュからみれば異星人の宇宙人ではあるのだが、本当に人類なのか? アンドロイドとかじゃなく?
 生身の、人間の男性――
「そんなに端に行くと落ちますよ」
「あっ」
 距離を開けすぎてベッドから落ちそうになったところで冷静に突っ込まれて、アンジュは慌てて体勢を直した。サイラスがタブレットを枕元に置く。
「照明、消しますか」
「そっ、そうですね!」
「おっとその前に」
「何ですか?」
「私、寝るときにある習慣がありまして」
「習慣?」
 じっと見つめてくる視線が意外と強くて、アンジュは負けじと見つめ返した。瞼は一重にも二重にも見えるなとか、照明によって目の色が変わるんだなとか、横になると足の位置が自分よりずいぶんベッドの下の方にくるなとか、どうでもいいことを考えてしまう。考えると、また心と体が緊張する。
 飛空都市にいたら、こんなコミュニケーションの取り方は絶対にしない。
 飛空都市という非日常から育成地というさらなる非日常に来てしまったせいで、ちょっと変わったこの執事が、ちょっと変わっているけれど普通の人に思えてしまう。
 試験がはじまってから女王候補と執事の間に置かれていた壁、柔らかくも絶対に崩れそうになかった壁が、水の匂いがする夜に触れて形を変えていく。
「サ――」
 早く続きを言ってほしくて口を開こうとした瞬間、サイラスに先を越された。
「……こちらです!」
 ジャン、といつもの効果音をつけて、サイラスはどこからともなくそれを取り出した。
 アンジュは一瞬言葉を失い、それからじっとりと湿度の高い視線を執事に向けた。
「それって」
「オオ、ご存じですか」
 サイラスがにっこり笑って広げたのは、童話に出てくる老人やサンタがかぶっているあの帽子。いわゆるナイトキャップだ。青地に白の水玉模様で、てっぺんにちゃんとポンポンの飾りもついている。
 どんなにロマンチックな展開も一瞬で崩壊する、最強のアイテムである。
「……かぶるんですか?」
「ええ。髪がサラサラのツヤツヤになりますよ。最近ネット通販で購入しました。使います?」
「使いません」
「寝ますか」
「寝ます」
「それがよろしいかと」
 完全に脱力したアンジュに、サイラスはにっこりと笑いかけた。
「では、お休みなさい。いい夜を」
 柔らかな声が耳のなかで溶けたとたん、部屋は魔法をかけられたようにまろやかな闇に包まれた。

 その夜、それまで全身を石のように固くさせていた緊張も混乱もうそのようにきれいに消え去り、アンジュは心からリラックスして、夢も見ずにぐっすりと眠ることができたのだった。




 それからずっと後。女王に即位してからしばらくして、王立研究院に残っていたデータを偶然見る機会があった。そこではじめて、実はあの夜サイラスが一睡もしておらず、女王候補が無事であることを十分ごとに飛空都市に報告していたことを知った。

 そして、自分でも意味がわからないけれど、何も起こらなかったあの夜。何も起こらなかったがゆえに、アンジュは、忘れえぬ恋に落ちたのだ。

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#アンミナ #サイアン #元女王と元執事

たまにはいちゃつかせてみたい

「ただいまー。外すごく寒かったですよ。もしかして雪が降るかも。あとね、珍しい野菜が売ってたから買ってきちゃいました。どんな料理が……」
 パタパタと足音をさせてリビングに入ってくると同時に、アンジュは部屋の中央に鎮座するそれと、その隣にいる元執事を交互に見比べて大きく目を見開いた。
 それから、ぱっと頬を上気させた。
「コタツ!」
「に見えますよね。ちょっと違います。正確にはコタツ的なもの、です」
 コタツ的なものと称する家具の上にみかんを用意していたサイラスが、振り返りがてら丁寧なのか雑なのか判断しかねる説明をした。
 だが、ローテーブルと布団が一体化したそれは、どこからどうみてもアンジュの故郷でおなじみだったあのコタツにしか見えなかった。
「ネット通販で買ったの?」
「そうですよ。なんでも買える……かもしれない。どこでも買える……かもしれない。通販の素晴らしさを今一度ご説明しましょうか?」
「今はいいです」
 驚きと懐かしさと嬉しさで心がいっぱいになる反面、一体どこでのサイトで見つけてきたんだろうと不思議に思う。アンジュが退任するずっと前にバースという星はなくなっているはずなのに。
 そんな疑問をするりとくぐり抜けるように、サイラスはアンジュの全身をついと眺めて目を細めた。
「おや、ちょうど手足が冷え切っておられるご様子ですね。相当に。聖地や飛空都市と違って、この星の冬はなかなかに厳しい」
「まあそうですけど」
「ハイッ、そこでこちらの出番です! ほらほらほら、ぼやっとしてないで温かいうちに足を入れる!」
「温かいうちにって、電源入れてる間はずっと温かいですよね?」
 しゃべりながらもてきぱきと服を脱がされ、手を伸ばして上げてと指示されてるうちにどこから取り出したのか温かくゆったりしたルームウェアを着せられ、流されるままコタツに脚を滑り込ませる。
 これまたどこで手に入れたのか、褞袍のような羽織り物を肩にかけられる。さらには熱いほうじ茶まで。
「ご感想は?」
 そんなの答えはひとつだ。
 アンジュの唇から、至福、という一語が滲み出るような深い息が漏れた。
「あーーーー最高」
 冷たい外気で氷のように固まってしまった身体が、じんわりと温かく、柔らかくほどけていく。
 今の住まいにも暖房設備も整ってはいるが、身体が内から喜んでいくような優しいこのぬくもりは、アンジュが知る限りコタツでしか味わうことができないものだ。
「それはよかった」
 サイラスは笑うように唇を軽く引き上げると、するりと自分もコタツに入りこんだ。
「冬場にリラックスするには最適のアイテムですね。干物を食べるのもよさそうです」
「お鍋もしましょうよ。絶対おいしいです」
「いいですね」
「お鍋をつつきながら、きりっと辛めのお酒を飲んで……想像しただけで溶けちゃいそう。あ、でも、コタツで寝ると風邪引くから注意してくださいね」
「経験談ですか? 私よりあなたの方が危なそうですが」
「だって気持ちいいんだもん……」
 サイラスの言葉を否定もせずに、うっとりとした表情で、卓上に頬をぺたりと押しつけた。
 そのままの姿勢でしばらく過ごしたあと、アンジュは正面に座るサイラスに尋ねた。
「ねえ、サイラス」
「はい」
「そっち、行ってもいいですか」
「構いませんよ」
 サイラスが両脚を寄せて作ってくれたスペースに、アンジュの半身が少々窮屈に収まった。
「ちょっと狭い? 動けます?」
「狭いといえば狭いですね。ですが、防寒のためにはいいんじゃないでしょうか」
「サイラスと話してると、ものは言いようだなって思います。……うん、あったかいです」
「ええ。このコタツ、特に下半身の保温については、驚くべき効果がありそうですね」
「もうちょっとだけくっついてもいい?」
「お好きな体勢でいていただいて結構ですよ」
 じゃあ遠慮なく、と今でも近くて遠いその人にアンジュは少しだけ身を寄せた。
 聖地に比べたら時間の流れは恐ろしいくらい早いはずなのに、二人でこうして過ごしていると、時が止まってしまったようにも感じる。
 付き合いこそ長いものの、サイラスとのコミュニケーションは相変わらず彼の気質と同じように独特だ。だから許可を得るというのとはまた違って、他の人には聞かないようなことも、サイラス相手だと未だにいちいち確認してしまう。
 いいですか。
 いいですよ。
 おまじないのように繰り返される言葉は軽快で居心地がよく、その響きに安心しているのは、他でもなくきっと自分自身だ。
 ではあるのだが、変わらず凪いだ水面のようなサイラスの横顔を見ていると、アンジュの希望、つまりキスしてもいいか……とは何となく言い出しづらくて、飲み込んだ言葉と一緒にほうじ茶をまたひとくち。感謝を伝えるだけなら、コタツありがとうございましたと言えばいいのだ。
 そのとき、斜め上からふっと現れた影が顔に落ちてきた。
 落ちてきたなあと思ってからそれがキスだったことに気づくのに、唇が離れてから数秒かかった。しばらく頭がふわふわしていた。
「いいですよ」
 心の底まで見透かしてくるような微笑を浮かべ、あっさりと言いのける。事後確認もいいところだ。
 まったく、この元執事ときたら。
「……サイラス!」
 強く名前を呼んでみたものの、コタツは温かくて、視線が思いのほか近くで絡んでいてほどけそうもなくて、先に続く台詞も気持ちも行き場を失った。仕方なくまだ芯に冷たさの残る指先で、やはり冷たい相手の頬に触れ、笑みを作った唇でその形をなぞるように口づけた。

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#アンミナ #サイアン #元女王と元執事

『名前のない毎日』
(いい夫婦の日に書こうと思って遅刻したもの)

 その朝の目覚めは、爽やかとはとても言いがたいものだった。
 窓から寝室に差し込んでくる陽の光は眩しく輝いていて、今朝に限っていえば、その純粋さは凶暴ですらある。アンジュは頭を抱えて、小さくうなり声を上げた。
「あーー……」
 気持ち悪い。頭痛い。水飲みたい。
 どう考えても二日酔いだ。調子に乗って飲み過ぎた。
 昨日飲んだのはこの土地に移り住んでからはじめて買ってみた地酒で、口当たりは甘くて濃厚だけれど後味はすっきり。花の蜜のような香りもいい。食前に一杯だけ、のつもりが次々と杯を空にしてしまった。だが、もう一回人生をやりなおしたとしてもやはりひとりで一本開けて二日酔いになるだろう。それくらいおいしかった。
 後悔はない。とは思うものの、アンジュは半分起こしかけた身体をぱたりとベッドに沈めた。
「うぅーん……」
 こんなにも完璧に酔い潰れたのは――いつぶりだろう? 記憶にないくらい昔の話だ。
 うつぶせで一分ほど夢とうつつを行き来したあと、ガンガンとリズミカルに痛みを響かせる頭と重い手足をなんとか動かして、転がって、ベッドから這い出ようと頑張ってみる。が、手を突こうと思ったところになぜかベッドがなくて上半身のバランスが崩れる。落ちる。
 まずい、と思った瞬間、二日酔いの諸症状がきれいに拭い去られて思考がクリアになった。
 そうだ、もうクィーンサイズのベッドじゃないんだった。あれは宇宙でたったひとつの特別製だった。ベッドの上で三回くらい前転しても落ちないくらいの広さがあった。しなかったけど。
 とっさに身体を固めて目を瞑るが、予想していたような床にぶつかる衝撃はやってこなかった。
 背後から現れた二本の腕が、アンジュの腰を見事なタイミングで抱えたのだった。
「……ナイスキャッチ」
「ワーパチパチパチ! 危機一髪でしたね」
 後ろを振り返ると、その人はいかにも楽しげに唇に薄い笑みを浮かべていた。
「いたんですね」
「いましたよ」
 あっさりした返事が呼び水となって、さらに記憶がゆるゆると蘇ってくる。
 ――寝室を使っているのは自分ひとりではないということ、ベッドは二つあること。
 とたんに、二日酔いのヘビーな重みがずしりと全身に戻って来る。シンプルな部屋着姿のサイラスは、中途半端に浮いたアンジュの身体をずりずりと再びベッドに引きずり上げてくれた。
「あーそれ、どっこいしょ、と」
「重くてすみません……」
「今のは単なる気合いをいれる掛け声であなたの体重と関連性は特にありません。お気になさらず。しかしまあ」
 恐らくひどいことになっている顔を間近で遠慮なくじろじろと見られる。見られるのは慣れているけど、相手にアルコール臭がいかないように毛布を頭からかぶってガードする。
「わかってます、お酒くさいしひどい顔してますよね」
「それは今さらなので問題ありませんが、起きるのにずいぶん苦労されてるご様子だと思いまして」
 毛布をぺろりと捲られる。
「ま、それはそれとして、こちら水です」
 アンジュは礼を言って差し出されたグラスを受け取り、コクコクとおいしそうに喉を鳴らして水を飲み干した。
「ありがとう。ちょっとすっきりしました」
 空になったグラスを上からさらうと同時に、サイラスが尋ねてきた。
「諦めてみたらいかがですか」
「諦めるって、起きるのをですか?」
 サイラスの提案を、アンジュはぼんやりと繰り返した。そういう選択肢は頭になかった。
「でも朝だし、今日のうちにやっておきたいことも……いったたたたぁ……」
 喋ると顎の動きに合わせて頭痛がひどくなる。
「たまにはいいんじゃないでしょうか」
 枕に顔を埋め、しばらくじっと考え込んでから、横目で彼女の元執事を見る。
「……諦めてもいい?」
「どうぞ」
 じゃあ、とアンジュは言った。
「サイラスもここにいてください。あなたが働いてたら、諦めたくなくなるから」
「ほう? なるほど」
「あ、やっぱり今のなし。サイラスはしたいようにしてください。お腹すいてるだろうし」
「今はすいてませんよ」
 サイラスはそれ以上何も言わなかったが、ベッドボードにもたれかかってタブレットを開き、アンジュの隣で宙に浮いたディスプレイを操作し始めた。
 その様子を眺めていると何だかほっとしたような気持ちになって、アンジュは毛布に潜り込んだ。素肌に触れる熱がいつもより温かい気がするのは、今朝が寒かったせいか、それとも二人分の体温を含んでいるからだろうか?
 サイラスは通販のサイトを見ているようだ。指の動きがすごく早いなあ、目と頭はついていけてるのかな、なんて思っているうちに、浅い眠りに意識が溶けていった。
 寝返りをうったとき、肩から落ちてしまった毛布をかけなおしてくれたのは、たぶん、長くて少し骨張ったあの指。



 午後になって体調もよくなったので、軽く食事をしてから外に買い物に行くことにした。
 街の中心部で開かれている市は多くの人で賑わっていた。食料から日常品、骨董のような嗜好品まで様々な店が身を寄せ合うように並んでいて、歩くだけでも楽しめる。活気のある雰囲気がエリューシオンの市とよく似ていた。
 アンジュが新生活の場に選んだのは、故郷や風土が故郷とよく似た星の小都市だった。
 家具や細々とした生活必需品などは、どんな方法でどこから買ったのか謎ではあるが、ともかくサイラスが通販で揃えてくれた。
 ただ、生活していくうちにどうしても足りないものは出てくる。朝食兼昼食を食べながら、深いの、浅いの、小さいの。食器がもう少しあるといいなと思った。
「このエコバッグ、飛空都市で使ってたものなんですよ。覚えてますか?」
「はい、もちろん。よく色々なものを拾われてましたね」
「人聞きの悪い言い方してますけど、あのアイテムってサイラスが用意してたんですよね?」
「そうですよ。ご褒美があった方がお散歩のしがいがあると思いまして」
「確かに、宝探しみたいでちょっと面白かったです」
「それは何より」
 ぽっかりと空いた時間を、とりとめのない言葉で埋めてしまいたいこともある。何てことはない思い出話ができる相手がすぐ側にいてくれるのが嬉しかった。
 市に来たのは、まだ片手で数えられる程度の回数だ。おしゃべりをしながら物珍しげにあたりを見回していたアンジュは、ある屋台で視線を止めた。
「あ、あのパンおいしそう」
「あちらの店よりも路地裏のパン屋の方が安いですよ。味や品質もそんなに変わりません」
「もうそんな情報仕入れてるんですか」
「情報というものは鮮度と精度が肝心ですよ、アンジュ様。しかし、食欲が戻られたようで何よりです」
「サイラスが入れてくれた……お茶? すごくよく効きました」
「お茶というより草の汁、といった方が正しいんじゃないでしょうか」
「それはそうなんですけど、言い方……」
 歩いているうちに、二人は飲食店が軒を連ねている区域にやってきた。道幅が狭くなっているあたりは特に混雑していて、間に入ってきた人波に負けてサイラスと離れそうになってしまう。
「あっ」
 はぐれてしまう、と思わずサイラスの腕を掴む。掴んだものの、反射的にぱっと指を解く。
 サイラスが不思議そうにこちらを見てきた。
「アンジュ様?」
 わけもなく言葉をつまらせていると、ぽつりと頬を滴が打った。
「雨だ」
 周囲から声が上がると同時に雨は急に勢いを増した。
 ――雨。
 降りしきる雨だれのリズムを肌に感じた瞬間、ここは聖地じゃないし、自分はもう女王じゃないのだと思い出した。夜寝るのはクィーンサイズのベッドではなく、緊急事態に対応することなんてないから寝坊してもいい。前後不覚になるまで酔っ払ってもいい。人目を気にすることなく誰とでも腕を組むことも、好きな場所に住むことも旅行することもできて、クローゼットにドレスも冠も必要ない。この手は時を動かすことはできないし、梟の囁きはもう聞こえない。
 午後の雨の冷たさが心地よくて、混乱していた心がすっと落ち着いていった。
 この街では通り雨は珍しくもないのか、誰も雨宿りしそうとはせずのんびりと人の流れは続いている。
「迷子になりそうですね」
 掌を上に向けて、恭しくサイラスに手を差し出す。黙って手元から視線を上げてきた元執事に、アンジュはにっこりと笑いかけた。
「お手をどうぞ」
 一拍おいてから、では遠慮なく、と面白がっているような響きをもった答えが返ってきて、軽く掌を置かれる。掌と掌が触れた瞬間、自然と視線が重なる。アンジュの目線のやや上のところにある睫は、雨滴が落ちて濡れていた。ふいに睫が上下に動いた。口も。
「何か?」
「サイラスは結構遠慮なく人の顔じろじろ見てきますけど、私は逆にサイラスの顔、よく見たことがなかったかもと思って」
「なるほど、興味ありますか。ご自由に観察してください。記録をつけていただいても構いませんよ」
「記録をつけてどうするんですか?」
「たぶん楽しめるかと」
「えー……」
 自分の顔の記録をつけるのは楽しいとしゃあしゃあと言ってのけた男は、さて、と顔の向きを変えた。
「帰りましょうか」
 二人で手を繋いで、濃い雨のにおいを浴びながら街の目抜き通りを歩いていく。
 空を仰ぐと、ものすごい速さで雨雲が流れていくのが見えた。雲の向こうには晴れ間が広がっていて、落ちかけた夕日が山際を赤く染め上げていた。
 雨が降り、風が吹く。花が咲く。季節が変わり、時間が流れていく。当たり前のようで当たり前ではなかったもの。目を閉じれば、その微かな気配、鼓動に似た音が聞こえてくるようだった。
 聖地を去ってから、髪も爪も伸びるようになった。肌荒れはするし、暑いのにも寒いのにも慣れていなくてすぐ疲れるし、王立研究院による体調のサポートもなくなって、油断するとすぐ風邪を引く。身体って何て重いんだろうと思う。宇宙意思の声も星々の声も聞こえることはなく――あんなにも静かだった世界は、猥雑ともいえるにぎやかさと、美しさと醜さでひしめく鮮やかな色合いを取り戻していった。夜と朝を繰り返すたび、その懐かしい場所にゆっくりと還っていくのを感じていた。
 ふと横を向くとサイラスの顔は髪に隠れてよく見えなくて、ずるいなあと思って笑って、少しだけ手を握る力を強くした。

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#アンミナ #サイアン #女王と執事 #拗らせ #恋愛未満

“宇宙の女王というものについて”

 ほとんど飛び込むといっていいくらいの勢いで医務室に入ってきたとき、並んだ二つの顔は同じように色を失っていた。
「サイラス、生きてる?」
 動揺しているにしても、いささか不躾すぎる質問を投げかけた女王アンジュを、補佐官レイナが友人の顔で諫めた。
「アンジュ! その言い方はよくないと思うわ」
 ベッドにいた女王の執事が、タブレットの画面を閉じて薄く微笑んだ。クッションを背中にあてて上体を起こしている。
「生きてますよ、陛下」
 サイラスは、執事、もといホテルマン風の制服の上着を脱いで、シャツの襟元を緩めていた。頬に擦り傷があるのと、仕事中は常に隙なくセットされている髪がわずかに乱れている以外に、ふだんと違う様子はない。
 女王は勢いよく裾をさばいてベッドに駆け寄り、彼女の執事兼補佐官にずいと顔を寄せた。
「私の顔に何かご用が?」
「擦り傷はあるけど、出血はしてないですね。息もしてるし、顔色もいいし、会話もできてる……」
 チェックが終わると同時に、アンジュの表情がぱっと明るくなり、淡い桃色の唇が安堵に綻んだ。
「よかった、思ったより元気そうで」
「ご心配をおかけして申し訳ございません。猿も木から落ちるといいますが、サイラスくんも穴に落ちることがあるんですね」
 完全に人ごとのような口ぶりに、アンジュは呆れた顔をした
「もー、またそういう……」
 数時間前、サイラスが不慮の事故に見舞われたのは、散歩がてら聖地の障壁にバグが発生していないか森を見回っていたときだった。
 サイラスはそのときの様子を蕩々と語り始めた。
「森のなかの情景を想像してみてください。ほら、耳をすませば聞こえてくるでしょう……ハッ……あちらからは小鳥の囀り。エッ……こちらからは小川のせせらぎ? 土の匂いを含んだ風が優しく頬を撫で、頭上からは穏やかに木漏れ日が降り注ぎ……とそんな感じで気持ちよく午後のひとときを過ごしていたというのに、まさか突如道が消失し、さらには穴まで出現するとは。ま、バックドアの入り口ではなかったのは不幸中の幸いでした」
「恐いこと言わないで!」
「なかなかに新鮮な体験でしたよ。落とし穴のような場所に落ちる機会は今までなかったもので。こう、ふわりと胃が宙に浮く感じで。あとはストーンと真っ逆さま」
「えっ、真っ逆さま?」
「……に落ちなかったのはラッキーでした」
「遊園地のアトラクションじゃないんだから……。そんなに深かったの?」
「それなりには。悪意を持って掘られたわけではなく、自然発生的にできたもののようですね」
「森の奥とはいっても危険ね。すぐに対処するよう指示しましょう。本当に、軽傷ですんでよかったわ」
 レイナは言って、ほっとしたように眦を柔らかくした。
 そのとき、どこかでタブレットが鳴る音がした。アンジュとレイナは同時に画面を見た。
「私?」
「いえ、私のみたい。あら、タイラーからだわ……ちょっと行ってくるわね。陛下、また後ほど。サイラス、お大事にね」
 慌ただしく去って行くヒールの足音が聞こえなくなると、アンジュはベッドの横にあった椅子に腰掛けた。
「もう少しここにいてもいい?」
「もちろんです」
「今日は大事をとってここに泊まっていくって聞きましたけど」
「はい、その予定です。検査では特に異常はみられなかったんですけどね。少々足を捻ったくらいで」
「足、捻ったんですか?」
「ええ」
「ええって……痛みは? 腫れたりしてるの?」
「腫れているといえば腫れてますね。しかし軽傷ですし、日常生活に支障は」
「あるに決まってるでしょう!」
 立ち上がろうとするサイラスを、アンジュは押しとどめた。
「何しようとしてるんですか」
「立てることを証明するために立とうとしてます」
「寝ててください」
「ですが」
「ベッドにいるの、もう飽きたんですね……」
「はい、少々」
「気持ちはわかりますが、せめて腫れが引くまで大人しくして」
「ためしにジャンプなんてしませんよ」
「やめて!」
 ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う。意外と頑固なところのある執事と長いこと飽きもせず押し問答をしたあと、女王はにっこりと笑いかけた。
「ふざけているように見えても、あなたが誰よりも職務に忠実な人だってことはわかってます。でもいいから今は休みなさい、サイラス」
 笑みを描く碧の瞳に、威厳を持つ強い輝きが満ちる。
「こういうときのためにも補佐官をダブル配置してるんです。元気になったら、また一緒にがんばりましょう? そのときはジャンジャン仕事をお願いしますから」
 サイラスはやれやれと諦めたようにそっと目を伏せ、胸に手を当てた。
「……御意」
「ふふ、いつもと立場が逆ですね。私の看病をあなたがしてくれたことはあったけど」
「まあ、執事ですからね」
「あ、髪に葉っぱついてますよ。取ってもいいですか」
「ありがとうございます」
「顔にも少し泥がついているみたい」
「たまには童心に帰って泥遊びするのも悪くないですね」
「たまには? いつも童心に帰って遊んでるように見えますけど……」
「そうでしたか?」
 アンジュはサイラスの髪から拾い上げた緑の葉を、指でくるくると回した。
「サイラスが怪我をしたって聞いて、すごくびっくりしました。怪我とかしなさそうなイメージだし」
「それはそれは。一応生身の人間ですので、怪我もしますし病気にもなります。幸い、今まであまり経験がないですが」
「ですよねー」
 アンジュは明るく笑った。
 笑いながら、ぼすんと乾いた音をさせてベッドの隅にもたれかかり、自分の腕のなかに顔を埋めた。
「陛下?」
 くぐもった声が、静かな室内に響いた。
「サイラスは知らないと思いますけど、最初は状況が全然入ってこなくて、重傷で命が危ないかもって話で、でもあのサイラスが? って信じられなくて」
 無防備に晒された首の細さを、呼吸をするたびにゆっくりと動くドレスの背中を、サイラスは黙って見つめていた。白々とした人工的なライトの光を受けて、イヤリングの石が夜空からこぼれ落ちた星のように煌めいた。
「ねえ」
 静かに尋ねる声がする。
「死んじゃうの」
 ――そうですね。いずれは。
 若木が芽吹くように膨張と発展を続ける令梟の宇宙、その中心である主星には女王と守護聖がおわす聖地が存在する。輝くばかりに美しい常春の都のさらに片隅にある、小さな部屋。小さな背中。
「……置いていかないで」
 そこで女王がどんな夢を見たのか、誰も知らない。

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#アンミナ #サイアン #元女王候補と元執事 #恋愛未満

『エンドロールのその後で』(画像)

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#アンミナ #サイアン #女王候補と執事 #恋愛未満

『夏の名残りの』

「ううーーん!」
 アンジュは大きく伸びをして、朝の日差しを含んだ新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。溜め込んだ疲労がリセットされて、身体が細胞ごと生き返っていくようだ。
 全身に満ちていく心地よさを噛みしめながら、特別寮を囲むように伸びる小径をゆっくりと歩く。花のにおいがする風を受けて、アンジュは微笑んだ。生まれたばかりの光が青々と茂る木々の葉に降り注いでいる。飛空都市の朝は素晴らしく気持ちがいい。夏の高原を思わせる爽やかさだ。
 その日の曜日は、いつもより早くすっきりと目が覚めた。シャワーを浴びてもサイラスが朝食を持ってくるまでまだ時間があったから、外に出ることにした。
 休日の早朝に散歩しようなんて、会社員時代には思いもしなかった。予定がなければ泥のように眠り、気づけば昼を過ぎていた、なんて日も珍しくなかったのに。
 ゆるやかなカーブをすぎようとしたとき、どこからともなく小鳥の囀り……ではなく人の声が聞こえてきた。
 声というより、歌のような?
 アンジュは思わず足をとめ、耳を疑った。
「これって」
 子ども時代、準備体操のときに流れていた曲のように聞こえるのだが。聞き間違いかと思い、アンジュはもう一度耳を澄ませた。
「……あれだよね?」
 でも、間違いじゃない。絶対にそうだ。リズムもメロディも、大人になった今なお耳と身体に刻み込まれている。
「これはこれはアンジュ様。おはようございます」
 背中を見せて屈伸していた声の主が、こちらを振り返ってにこりと笑いかけてきた。
「やっぱり」
「やっぱり、とは?」
 アンジュは女王候補の執事につかつかと歩み寄った。
「絶対にサイラスだと思ったんです」
「オオ、そのような絶大な信頼を寄せていただくとは。光栄の極みですね」
「体操してるんですか」
 サイラスはいつもの執事服ではなくラフなTシャツ姿だった。髪も整えていなかったから、彼もまだ起きたばかりなのかもしれなかった。
「はい。朝の軽い運動は心身のバランスを保つのにいいんですよ」
 サイラスが心身のバランスを崩すなんて想像できなかったが、彼も人間だ。そういうこともあるのだろう。
 アンジュは尋ねた。
「それ、バースの体操ですよね」
「そうです。バースの動画サイトで見つけ……これだ! といたく感銘を受けまして。健康管理に取り入れようと思った次第です」
「毎朝やってるんですか」
「基本的には。アンジュ様たちの朝食をおいしく作り上げるための、大切なルーティンです」
 昨日の目玉焼きは失敗作って自分で言ってた気がするけど、という言葉をアンジュは飲み込んだ。
「私も子どもの頃よくやってたんですよ、その体操。たぶんタイラーとレイナも」
「なるほど。心の故郷、というわけですね。テーマ曲も覚えてしまいました。バースのロングヒット曲だと聞いています」
「ロングヒット……?」
 ふんふふふふふんと、サイラスはごきげんな様子で鼻歌を披露した。
「朝の爽やかさを感じる、良い曲だと思います」
「歌上手ですね、サイラス」
「あなたもしていきますか、体操」
「今ですか」
「はい」
「ここで?」
「ええ」
「……サイラスの伴奏つき?」
「僭越ながら。二番も歌えますよ」
 少し考えてから、じゃあ、とアンジュはぺこりと頭を下げた。
「よろしくお願いします。最近ちょっと運動不足かなって思ってたんです」
「こちらこそ。では張り切っていきますよ!」
「あっ、ちょっと待って!」
 楽しそうに腕を振り上げるサイラスの横で、アンジュも同じように大きく腕を動かした。
 飛空都市では不思議なことばかり起きて、毎日驚かされる。
 まさか、執事と体操をすることになるとは!
 二番まで終えた時点で、アンジュは軽く息を切らせていた。
「私、二番の動きは知りませんでした。ちゃんとやると結構疲れるんですね……」
「毎日継続することが体調管理への近道です。こちらをどうぞ」
 サイラスが手渡してきたのは、葉書サイズのカードだった。ポイントカードのように小さなマスが書かれていて、最初の欄にスタンプが押してある。干物の。
「いつも差し上げているポイントとは別になります。バースでは、体操をした子ども達にスタンプをあげているとか」
「夏休みにですよね? 私が住んでいるところではなかったですけど……でも、ありがとうございます」
 素直に受け取ったあと、疑問が頭によぎった。
 ……子ども?
 サイラスの唇に、ふっと笑みが浮かんだ。
「アンジュ様、また体操がしたくなったときにはお付き合いしますよ。女王候補様方の健康管理も執事の役目のひとつです」
 ふだんからちょっと変わっているしちょっと失礼なところがある人だが、ラフな格好をしているせいか、いつもよりも笑顔に仕事用の胡散臭さがない、気がした。彼の方こそ、目に子どもみたいな光が浮かんでいる。
「日の曜日でしたら、大抵この時間ここにいますから。ま、時々サボることもあるかもしれませんが」

 自己申告の通りたまにサボる日もあったが、ほとんどの休日の朝、女王候補の執事は同じ場所で体操に勤しんでいた。もちろん鼻歌のテーマソングつきで。
 体操の参加者はサイラスとアンジュだけではなく、アンジュに誘われたレイナがいたこともあった。サイラスに引きずられるようにタイラーが参加した日もあり、興味を持った守護聖たちがいた日もあり。女王試験が進むごとにアンジュのスタンプカードは埋まっていった。通販で買っているのか、毎回違うスタンプが押されているのがサイラスらしい。
 日常のポイントと同じように、スタンプを集めたら何かと引き換えられるのだろうか?
 それからしばらくして、アンジュは真夜中にふと目が覚めた。なぜか突然、体操のスタンプカードのことが頭に浮かんだ。
「……そっか」
 そこでふと、あのカードのスタンプが最後まで埋まることは永遠にないのだと気づいた。
 ――大陸の発展度が八十になった夜のこと。



「タイラー、これを神鳥の王立研究院に送ってほしいの」
 王立研究院にあるミーティングルーム。先日提出した報告書の問題点の検証を終えたあと、女王から差し出された白い封筒を、タイラーは恭しく受け取った。
「はい、了解しました」
「忙しいのにごめんなさい。私的なものだから、手が空いたらお願いします。そうそう、私からっていうのは伏せておいて」
 私的なもの、しかも匿名扱い? どうにも引っかかりを覚えたが、他ならぬ女王の頼みだ。タイラーは戻り次第、すぐに手続きを行った。
 数日して、女王宛に神鳥の宇宙から差出人不明のファイルが届いた。女王宛、かつ差出人不明である。危険性がないかどうか、当然、中身を確認した。
「……ったく」
 解析を完了し、数列が並んだ画面から視線を外すと、タイラーはデスクに肘をつき、小さくため息をついた。
「平くん、どうしたの? 仕事の相談?」
「とにかくタブレット開いて」
「今すぐ?」
「そう。直接送りたいものがある」
 午後の仕事を切り上げて女王の元に向かったタイラーは、執務室で二人だけになったとたん口調を崩した。
 不思議そうにタブレットを立ち上げる女王の目の前で、タイラーは自分のタブレットを素早く操作した。
「お前宛のファイル。神鳥から」
「私宛? 何だろ……」
「この間送った私的なもの、ってやつの返事じゃないのか」
 アンジュの目が大きく見開いた。
 タイラーは彼女の表情を見て、自分の判断が正しかったことを確信した。だから、他の人間の目に触れることがないように、端末間の通信で送りたかったのだ。
 操作の手を止めず、タイラーは画面を注視した。
「このホログラム、画面から離れても存在できるらしい。……まったく、どんな技術を使ってるんだか。この部屋の照明って落とせるか?」
「できるけど……全部?」
「ああ。通信文にそう書いてある」
 不思議そうな顔をしたアンジュがタブレットをタップすると、一斉にカーテンがおり、部屋の照明がすっと消えた。光を発しているのは、タイラーとアンジュのタブレットの画面だけだ。
 そのとき、タイラーの手元から宙にふわりと浮かんだ黒い球体が、アンジュの掌に移動してきた。
「えっ、何これ?」
「俺が聞きたいよ、不明の差出人に。危険性がないのは確かだ」
「それはそうだろうけど……わっ!」
 アンジュが恐る恐る覗き込むと、球を包んでいた殻のようなものが弾けとんで、手元がぱっと明るくなった。
「……花火!」
 パンパンと乾いた音と共に、打ち上げ花火のような閃光が次々と現れた。
 数え切れないほどの多くの色、鮮やかな光の数々が、暗がりを美しく彩っては消えていく。まるで小さな花火大会だ。
「すごいな、これ」
「ホロだから全然熱くないんだけど、不思議だね。温かい感じがする。ほら見て、ナイアガラまであるよ。梟も!」
「バースの花火を研究したみたいだな。相変わらず、変なところで芸が細かい……」
 褒めているのかいないのか、率直な意見を零したタイラーの横で、アンジュは目を細めた。
「平くん。体操のスタンプカードのこと、覚えてる? 私ね、サイラスがいなくなったあともあの体操を続けて、自分でスタンプを押してたの。それが全部埋まったから送ったんだ。あなたがいなくても、あなたの生徒はちゃんと健康管理をしてますって」
 常春の聖地にいるうちに、だんだんと四季に対する感覚は薄れていった。
 だがこのとき、女王の手の中で、瞳の奥で、過ぎ去った夏の思い出が再び呼吸をはじめたようだった。
「……よくできました、ってことなのかな」
 弾けるように笑う彼女の掌の上で、ひときわ見事な大輪の花火が暗闇を照らすように花を咲かせた。

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#アンミナ #サイアン #女王と執事 #恋愛未満

『静かな夜のこと』

「遅くまでありがとう、タイラー」
「いえ、問題ありません。明日は午前中に休暇を頂いていますから。陛下もご無理をなさいませんように」
 一礼して消えていくタイラーのホログラムに微笑みかけてから、アンジュはディスプレイを指でタップした。新しく展開した資料が次々と空間を埋めていく。目で文字を追いながら、零れ落ちた後れ毛を指ですくいあげ、耳にかける。視界が霞んでいるような気がするが、きっと気のせいだろう。
 その仕草を正面から見ていた女王の執事兼補佐官が、グラフの間から顔をわずかに覗かせて尋ねた。
「今晩はお休みなられては?」
「あと少しだけ。これを読み終わったら寝ます」
 本当に? という無言の問いかけを視線に乗せて、執事はアンジュをじっと見つめ続けていた。感情をきれいに消した眼差しから、圧力のようなものを感じる。
 確かに、昨日もおとといもその前も、サイラスからかなり厳しく注意されていたのに睡眠時間を削りすぎてしまった自覚はあった。適当にごまかしたつもりだったけれど、ばれている。完全に。
「……疑ってるでしょう?」
「ええ。単刀直入に申しますと」
 アンジュは挑むように見つめ返した。
「本当に本当ですってば。休みます、一時間もしたらベッドに潜ってます。だからサイラスも休んでください」
「オオ……驚きました。何と陛下の目には私が起きているように映っている、と。ですが、こう見えてもすでに夢の中におります。ぐーぐーぐーむにゃむにゃむにゃ」
 真顔で寝言を言うサイラスに、アンジュの表情を覆っていた緊張がわずかに柔らかくなる。
「ずいぶん大きな寝言ですね」
「はい。タイラーは仮眠中にうなされていることも多いですが」
「そうなの? 割り当て業務が多すぎるのかな。もうちょっと休めるような体制にしないと……」
「なんて話している間にそちらの資料の要点はこちらにまとめました」
「うそっ、早い!」
「陛下のご健康、ひいてはこの宇宙の安寧のために、さっさと残りを終わらせましょう。おっと、すぴーすぴー……」
「寝たふりはもういいですから」
 二人がいるのは、女王の私邸にある書斎兼ワークスペースだった。古今東西の古い書物がびっしりと並べられた書棚に囲まれた室内には、真夜中という時間もあって、ひっそりと冷たい空気が流れているようだった。
 先ほどまで補佐官であるレイナも一緒にいたのだが、数日にわたる長時間勤務で疲れが溜まっているようだったので、二人がかりで説得して下がらせたのだった。
 ふだんであれば私邸に仕事を持ち込むことはない。しかし、今回はある彗星の軌道が複数の星系に影響を及ぼす恐れがあり、緊急の対応を要する事案だった。
 女王の力を行使するとしても、それまでに必要な調査を行い、今後の方針を決めなければならなかった。
 補佐官や守護聖に相談はできる。でも、最終的な決定を下すのは女王だ。……私なのだ。
 そのとき、それまで黙っていたサイラスが突然口を開いた。
「この件が落ち着いたら、どこか行きたい場所はありますか」
「いっぱいあります! 温泉、南の島、あ、またレイナとグランピングもしたいなあ……。でも、女王が聖地を離れるわけには」
 勢いで並べあげてしまってから、アンジュは現実を思い出した。
「アンジュ様」
 懐かしい呼びかけとともに、風船がしぼむように消えてしまった言葉のあとを引き取ったのはサイラスだった。
「女王であるからといって、ささやかな楽しみを……人生を諦める必要はないんですよ」
 資料に視線を置いたまま、サイラスは表情を変えずに告げた。さも当然とでもいうように。
 まるで女王試験のときに戻ったかのような錯覚に襲われた。彼は執事兼女王試験管理者で、アンジュはあまり真面目とはいえない女王候補だった。あれから、ずいぶんと長い時間が流れた。数多の出会いがあり、同じだけの別れがあり、たくさんのものが変わって、それでも変わらないものがあった。
「ま、そのあたりの調整はサイラスくんにお任せ下さい。執事ですから」
 わずかな沈黙のあと、アンジュは宙に浮いていたホログラムの資料を次々に両手で押しのけて、身を乗り出し、相手の唇に自分のそれを重ねた。
 離れていた影が、一瞬だけデスクの上でひとつになった。
 夢のような恋、長い時が作り上げた親愛、憐憫に似た情に互いへの深い敬意……この微かな温もりが与えてくれるものの意味は何だろう?
 柔らかな熱に溶けかけた思考を投げ捨てて、もう一度口づける。
 とても疲れていたし――とても、静かな夜だったので。

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