#アンミナ #サイアン #アンサイ #女王候補と執事 #恋愛未満

『かわいいひと』

「……というわけで、レイナってすごくかわいいんですよ!」
 アンジュはサイラスに向かって力説した。手早く朝食のテーブルを整えながら、サイラスが適当なタイミングで相槌を打つ。
「それはそれは」
「大陸の民に貰ったお花、押し花にして全部大事にとってあるんです。それを嬉しそうに見せてくれて。もうだめすべてがかわいい……」
 アンジュはたまらないというように、クッションに顔を押し付けた。
「なるほど。昨夜はずいぶんと盛り上がったようですね」
 ちなみに、サイラスがやってきてからずっとアンジュはソファに横になったままである。昨日飲んだアルコールが抜けきっていないのだ。
 溶けたアイスみたいなアンジュと朝食の載ったトレイを交互に見てから、サイラスが尋ねた。
「ところでいいんですか、朝食は通常のメニューで。スムージーかお粥でもお持ちしましょうか」
「ありがとう、でも大丈夫。頭がちょっと痛いだけで、胃の調子はいいんです。……あー、昨日は部屋で一緒に飲めて本当に楽しかったな。レイナから誘ってくれたのはじめてだったし。誘ってくれるときもかわいかったなー……緊張なんてしなくてもいいのに」
「仲が良いのは何より。ライバルとはいえ、志を同じくする仲間でもありますからね」
 シューソテーのオープンサンドの横に冷たい牛乳の入ったグラスを置いて、サイラスがアンジュの顔を覗き込んできた。
「このままだとグーグー寝て過ごされそうですが……せっかくの休日ですし、そのでろんでろんの状態から回復したら、守護聖様方とお出かけされたらいかがでしょう。いいリフレッシュになりますよ」
「あはは、がんばりまーす。そうそう、レイナもかわいいですけど、サイラスもかわいいですよね」
 クッションに気持ちよく顔を埋めたまま、アンジュは何気なく言った。トレイを持ち替えようとしたサイラスの手が、一瞬止まった。
「サイラスっていつも本気なんだかふざけてるんだかわからないですけど、この間森の湖でご家族や弟さんの話をしてたとき、すごくいい表情してたんですよ。気づきませんでした? そのとき、あっこの人かわいいなって思ったんです」
「……ほう。それは気づきませんでした」
「あと、通販でいいものが買えた日は鼻歌のトーンが普段とちょっと違うんです。それから、鳥の鳴き真似が会心の出来だったとき。フッって唇のあたりが動くの。みんなかわいいです」
「まあ、人のことまでよくご覧になってますね」
 クッションから顔を上げて、アンジュは彼女の執事に明るく笑いかけた。
「いつも一緒にいてくれますから」
「…………」
 不自然な沈黙が生まれたものの、それをすっと払いのけるようにして、サイラスは胸に手を当てる例のポーズでにっこりと微笑んだ。
「お褒めに預かり光栄ですよ、アンジュ様。では、私はこれで。良き日の曜日をお過ごし下さい。クルッポー」
 そしてよくわからないタイミングで鳩の鳴き声を残し、風のように去って行った。
「サイラスも、良い休日をー……くるっぽー……」
 充電不足、とばかりに再びクッションと一体化して、ヘロヘロと力なく手を振る。
 寝返りを打った拍子にふと朝食の並んだテーブルを見ると、確かに置いていたはずの牛乳のグラスをサイラスがなぜかまた持って帰ってしまったらしいことに気づいて、アンジュは首を傾げたのだった。

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#執事と主任 #恋愛要素なし

執事と主任とバレンタイン

「毎回思ってたんですが、どうして毎年バレンタインのイベントをやるんですか?」
 今現在暮らしている聖地と生まれ故郷であるバースとでは、時間の流れ方が違うし暦も若干違う。自分で口にしておきながら毎年という単語に違和感を覚えたが、他に適当な言い回しがなかったので仕方ない。
 バレンタインパーティーなるチョコレートで溢れた催しの片付けもあらかた終わったところで、タイラーは鼻歌を歌いながらチョコの箱を袋に詰めていたサイラスにかねてからの疑問をぶつけてみた。
「余ったチョコがもったいない、と? ご安心ください。後ほど希望者にお分けしますよ。チョコは日持ちしますからね」
「いえ、質問の趣旨が違います。俺の聞き方も悪かったと思いますけど」
 今年は日の曜日の午前中、聖殿の中庭で行われたせいか、女王試験時代のポットラックパーティーを思い出すねと言いながら、女王と補佐官は顔を見合わせて笑っていた。その様子を眺める守護聖たちの表情にも、主従という関係で結ばれる前、飛空都市で見せたような気の置けない和やかさがあった。
 サイラスはわざとらしく目を見開いた。
「オオ、もしかして企画がマンネリでしたか? 次回はもっと楽しめるよう工夫が必要ですね。でしたら……そうですね、カカオの栽培からはじめましょうか。まず土地の選定からとなると、かなり壮大な計画になりそうです」
「マンネリとかそういうのでもなくて。誕生日祝いならわかるんですけど、そんなに大事ですか、バレンタインみたいな行事って。あと、この間は豆まきもやりましたし、他にもひな祭りやら子どもの日やら……」
 サイラスの壮大な計画とやらを流し聞きながら、先ほど雑談の一環として何の気なしに質問してみたものの、少々面倒くさいことになってしまったとタイラーは軽い後悔に襲われた。
 眦がすっと引き、普段から細い目がより細くなる。
「なるほど、そういう系の疑問ですか。ならばお答えしましょう。楽しいからです」
 堂々と言い切られて、数秒の沈黙のあと、タイラーは無表情でその台詞を繰り返した。
「楽しいから」
「はい。主語も要ります?」
「大丈夫です、大体わかりました。ありがとうございます」
 タイラーは真顔で頷き、チョコレートが詰まった紙袋を手にした。
「これ、とりあえず聖殿の厨房に持って行けばいいですか?」
「紙袋の行く先はそれで結構ですが、まったくわかっていないし納得もしてない顔をしてますね」
 サイラスがさりげなくタイラーが持っていた紙袋を奪い去る。
「詳細を聞きたい? ならばリクエストに応えてご説明しましょう!」
 別にいいですとタイラーが言う前に、女王の執事はいつもの調子で蕩々と続けた。
「我らが女王陛下は強く逞しく自由に生きておられるように見え……ますよね?」
「まあ」
 元同僚、現女王の姿を脳裏に思い浮かべる。酔っ払って契約書にサインしたと聞いたときはどうなることかと思ったが、彼女は見た目からは想像できないような芯の強さがあるし、そのてらいのない朗らかさに救われてもいる。補佐官や守護聖も、スタッフも、おそらく自分自身も。
 サイラスは続けた。
「しかし実際のところ、食べるもの着るもの行くところ……案外自由じゃありません。自由とはなんぞや? と考え始めたらキリがありませんが、例えばネット通販。ポチッとボタンを押すだけで品物が送られてくる素晴らしいシステムであることは間違いないものの、聖地、とりわけ女王陛下宛ての荷物となる厳しい検閲が行われている。あなたもご存じかと思いますが」
「それは……安全対策の問題上、仕方のないことでは」
「仕方ない、それはそう。その点については私も異論ありません。しかし、自分の好きなものを自由に食べ、自分のやりたいことを楽しむ。はしゃいだり、声を上げて楽しんだりする。親しい人に贈り物をする。定期的にそんな時間があってもいいのでは? ま、聖地には無礼講というほど無礼な方はそれほどいませんが」
 慇懃無礼という言葉がよく似合う男は、黙ったままでいるタイラーにチョコレートの箱を差し出した。
「そういえば、あなたパーティーでひとつも食べてませんでしたね、チョコ」
「ずっと撮影係だったので。サイラスさんもですよね?」
「残念ながら口をモグモグしながら司会進行はできませんからね。せっかくですし、おひとついかがですか」
 わずかに躊躇ってから、タイラーは箱に整然と並んだアクセサリーのようなチョコレートから、一番シンプルなものを摘まみ上げた。
「じゃあ、ひとつだけ」
「タイラーくん、あまり菓子類を好んで食べているイメージありませんよね。疲労困憊しているときに、栄養補給として糖分を摂取していることがあるくらいで」
「いつ見てたんですか? 甘い物って甘いじゃないですか」
「少なくともビールよりは甘く感じるでしょうね。ご感想は?」
 艶めいた光を放つ黒い粒を口に含む、ゆっくりと歯を立てる。
 次の瞬間、大きく息を吐いてから、タイラーは素直な感想を口にした。
「すっっっげえ甘いです」
「そうですか。すっっっげえ甘いですか」
 同僚の様子を興味深そうに眺めてから、サイラスは自分もチョコレートの小箱に指を伸ばした。
「では私もためしにひとつ。えい」
 甘っ! と、女王の執事兼補佐官は表情を全く変えないままぼそりと言った。サイラスらしいストレートな言い方につい吹き出しそうになって、タイラーは慌ててずれてもいない眼鏡を直した。
「……甘いよな」
 誰へともなく呟く。まあ、たまには甘い物を食うのもいいかもしれないと思いながら。

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#アンミナ #サイアン #女王と執事 #恋愛未満

愛とはどんなものですか?

 深夜、至急の呼び出しを受けて女王の私邸にある寝室に向かった。
 宇宙は休みなく活動している。それゆえ執務時間外の招集は珍しくない。ただその夜呼ばれたのはどうやらサイラスひとりらしく、王立研究院ではなく直接女王の元へ、しかもプライベートスペースである寝室に来るよう指示されたことだけが珍しかった。様々な可能性を頭の中で展開させて、しかし常よりも早い足取りはまっすぐ迷いなく主を目指す。
 開いた扉の奥にある女王の美しい臥所は薄暗く、ベッドサイドに置かれた小さなランプだけがささやかな光を放っていた。上半身は淡い桃色の天蓋に遮られて様子を覗うことはできないが、滑らかなシーツの上で、小さな爪先がこちらに向きを変えたのがわかった。
「陛下」
 急用であることは理解していたが、一応のマナーとして声をかける。身じろぎをしてから起き上がる気配がして、女王は気だるそうな仕草で天蓋を開けた。
 身につけているのは黒いレースのランジェリーのみ。赤みの強い口紅を引いた唇が、雨に濡れた月のように弧を描く。
 だが、暗がりに白く浮き上がった腕が伸びてきて頬に触れても、サイラスは表情を変えなかった。その手首を優しくとって、彼女の顔をまじまじと見つめた。
 まるで、動物が互いの存在を確認するように。
「陛下……じゃありませんね」
 宇宙の深淵を思わせる眼差しが、ぞわりと音を立てるように微かに動いた。
(ナゼわカッタ?)
「何故と言われましても。外見が似ている以外は、どこからどう見ても違いますよね」
(ならバ話ハ早イ。コの身ヲ今すグ抱ケ)
 それこそ雄と雌との交尾を求めるような淡白さで、人ならぬものは二つの柔らかな膨らみを押しつけてきた。
 口腔に入り込んだ固い異物を咀嚼するような間を置いて、サイラスは礼を失しない程度の穏便さで女王から上体を離した。
「おっと、これはこれは。何故、と今度は私がお尋ねする番ですね」
(こノ宇宙のタメだ)
「嫌です、と申し上げたら?」
(遠カらズ令梟の宇宙ハ均衡ヲ失ウだろウ。過ギた孤独ハ心ヲ蝕ム。女王ハ孤独ニ喘いでイル)
「過ぎた孤独は女王にとって害……つまり、適度な孤独であれば宇宙を治めるのに有用であると?」
 乾いた唇が、笑うような形をして歪んだ。
「言葉は通じてますが、あなたと話していると、鳥……いえ、まるで昆虫と会話している気分になります」
(宇宙が滅ビテモいいノカ?)
「それ以外に方法はないんですか。私以外に相応しい方はいくらでもいると思うんですが」
(女王ノ望みデモあリ、最モ容易い方法デもアル)
 サイラスはベッドの縁に腰掛けて、自らの手のなかに深い息をつき、碧い瞳の奥に広がる深淵を眺めた。
「……たまに思うんですよね」
 それまでの硬質な声とは打って変わった鷹揚な語調で、サイラスは世間話をするように続けた。
「女王や守護聖や、個人の犠牲を必要とするシステムは、そもそも根本から崩壊してるんじゃないかと」
(否定ハシなイが、ソレガ現実デあり、真理ダ)
「女王の意識を失わせたところで事を進める、つまり彼女に選択肢を与えないというわけですね」
(タトえ己ノ望ンだコトダとしテモ、人ハ迷イ、人ハ悔ヤむ。ソシてまタ心ノ均衡を失ウ)
「なるほど、あなたは女王のなかに人の部分を認めてるんですか。残酷なものですね、宇宙意思というのは」
 息の届きそうな距離まで、そっと顔を寄せる。ベッドについた手に男一人分の体重を乗せると、スプリングが重い軋みを上げた。
(理解デキたヨうだな。時間ガ惜しイ。早ク終ワラせて……)
「それなら覚えておいていただきたいんですが、いくら聖地が常春で、王立研究院が女王の健康状態を細かく管理しているといっても、その格好でいては風邪を引きます」
 サイラスはそっけなく言って、自らの着ていた上着を露わになっていたアンジュの肩にかけた。
「人間ですから」
 偽りの女王はわけがわからないと言った様子でベッドに座り込み、無表情で彼女の執事を見上げた。見上げたまま、壊れたアンドロイドのように動作を停止した。
 やがて、サイラスを映した虚無の瞳に透明な水が盛り上がった。熱い滴があとからあとから溢れて、人形のような無機質な頬を滑り落ちていく。温かい流れはいつまでも止まなかった。
(私ノ涙ではナイ)
 宇宙の梟が不思議そうに言うのを聞いて、知ってますよ、と女王の執事は誰にともなく呟いた。



 翌日、朝食の給仕に女王の私室を訪れると、アンジュはしきりに首をかしげて言った。
「なんでサイラスの上着が私の部屋にあったんでしょう?」
「不思議ですね。ワービックリ」
「言うわりに、全然驚いてないですよね」
「聖地では時々、イタズラ好きな妖精が現れるそうですから。聖地の七不思議のひとつに数えられているとかいないとか」
「えー……それ本当ですか? 冗談じゃなくて?」
「私が冗談を言ったことがありましたか?」
「冗談のパーセンテージ、かなり高いと思ってましたけど……まあいいです。ところで」
 と正面から疑問をぶつける。
「同じ服、何枚持ってるんですか」
 執事の上着が自分の部屋にあったこと以上に、彼がいつもと全く同じ格好で現れたのが女王には謎だったらしい。
 サイラスは胸に手を添えて微笑んだ。
「制服のようなものですからね。たとえ不測の事態に襲われても、仕事に支障が出ない程度の数は揃えてあります」
「不測の事態?」
「バックドアから突如出現したトマトソースを頭から浴びるとか、ですね」
「さすがにそれはないんじゃ……あっ」
 手渡した制服の襟元を見て、アンジュは声を上げた。
「ごめんなさい、ここ、口紅の色が移ってるみたい」
「ああ、これですか? すぐ落ちるでしょう。そこはかとなく柄と一体化して目立ってませんし」
「でも」
「お気になさらず。エプロンをしていても料理の最中に汚れることもよくありますので。ちなみに今日のメニューは……ジャン!」
 サイラスは満面の笑みを浮かべ、銀色のクロッシュをパカッと開けた。
「うどんサンド! 久々に見ました……」
「はい、久々に作りました。冷たい牛乳との相性もバツグンです。グイッとどうぞ。ちなみに今日のスケジュールは……ま、予定通りなので、あとでコンパクト型タブレットをご覧いただければ」
「もう、適当だなあ」
 女王のじっとりとした視線を受け流して、サイラスは楽しげに目を細めた。
「あなたがちゃんと女王業をこなせているからこそ、手抜き……もといこういった省力化もできるんですよ。では後ほど、レイナと資料をお持ちして伺います」
「うん。また」
 サイラスはトレイを手にして、辞去の挨拶をする代わりに、どこか道化じみた動作で一礼した。
 ここに来る前に王立研究院でチェックしたデータによると、女王の力は高いレベルで安定し、慈雨のようにあまねく満ちるサクリアによって、令梟の宇宙の均衡は保たれている。
 いつもと同じやりとりがあり、いつもと同じ一日がはじまる。当たり前のように巡る平穏な朝ほど尊いものはない。
 そんなことを思いながら扉を開けようとしたとき、ふと何気なく後ろに目をやった。一瞬、ドアノブを握ろうとした手が宙に浮いた。
 朝の光のなかで、言葉にならない言葉を伝えようとした口が、赤いルージュを拭った唇が、ゆっくりと動きを止め、泣くように笑っていたのだった。

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#アンミナ #サイアン #補佐官と補佐官 #恋愛未満

アンジュ補佐官ED(恋愛なし)で補佐官がダブル配置になったら

「……状況はわかったわ」
 女王レイナは深い息を吐いて、ディスプレイに展開された資料に目を留めたまま、美しく弧を描く眉を曇らせた。
「女王の力を行使して隕石の軌道を変えると、別の星に被害が出る……」
 聖殿にある女王の執務室で顔をつきあわせる三つの影。青を基調とした室内には、ただならぬ緊張が満ちていた。
 隕石と惑星の衝突。それ自体は珍しいものではなかったが、今回は隕石が非常に巨大であることが問題だった。
 ミーティング用のテーブルを挟んで向かいにいたサイラスが頷いて、星図のデータを拡大した。
「この周辺は星が密集していますからね。時の流れを止めたとしても、今度は違う惑星に衝突する可能性が非常に高い。その場合、かなり広範囲にわたり星々の生態系に影響が出るでしょう。被害に関する試算はこちらに。いくつかのパターンごとに算出しております」
 失われる生命の数を、レイナはゆっくりと読み上げていった。
「どの道を選んでも、ベストな選択肢はないということね。むしろ、女王が介入することによって被害が大きくなるかもしれない。でも、だからといって」
 彼女は唇を嚙みしめた。
「何もできないというの……」
 低い囁きの底にあるのは、無力感、そして深い孤独だった。
 そのとき、それまで俯きがちに黙っていたもうひとりの補佐官が、おもむろに顔を上げた。
 アンジュは手にしたロッドを握りしめ、思いつめたような眼差しで女王を見つめた。
「陛下、私の意見を」
「レイナ様」
 アンジュの言葉を遮ったのはサイラスだった。いつもの彼らしくない態度に、アンジュの視線が驚いたように横にいる男に移った。
「ご判断を」
 静かではあったが冷淡ともいえる事務的な声音で、サイラスは女王に告げた。
 手袋の拳が強く握られ、開きかけた唇がまた閉じ、迷いに揺れる琥珀色の瞳が瞼の奥に消えていく。
 友であり主であるの仕草のひとつひとつを、その苦しみと悲しみを、アンジュは目に焼き付けるように胸に刻んだ。
 やがてレイナはゆっくりと目を開き、背筋をすっと伸ばして二人の補佐官に向き直った。もう、その瞳に迷いはなかった。
「……この件について、女王は力を行使しません。引き続き、王立研究院で動静を監視するように指示して下さい」
「御意のままに」
 頭を垂れる補佐官たちに、レイナは静かに微笑みかけた。
「ありがとう、アンジュ。サイラス」

 女王の執務室を退出したあと、二人の補佐官は無言で並んで歩いていたが、しばらくして突然、アンジュが立ち止まった。
「さっきの件」
「はい」
 アンジュはつま先立ちをして、まるでサイラスに挑みかかるように顔を近づけた。
「私たちでもっと内容を詰めてから陛下にお話した方がよかったと思います」
「なぜでしょう」
「それは」
 一瞬ためらうように、ひと呼吸置いてから続ける。
「陛下に負担をかけないために」
「なるほどなるほど。女王の力を行使したところで被害が減るわけではないと私たちが先に提案することによって、間接的に陛下のご心労が多少減る効果が期待できる、とそういうことですね」
 正面からはっきりと言われて、アンジュは固い表情で頷くしかできなかった。女王の仕事は厳しい判断を迫られる事が多い。レイナが必要以上に傷つくことはないと思うし、彼女を守るのが補佐官の務めだと思ってもいる。
「サイラスは、陛下の心のサポートも私たちの仕事だとは思わないんですか」
「それはもちろん。これまでも、これからも、力の限りサポート致しますよ。補佐官であり執事ですから。ですが」
「ですが?」
 アンジュがいつになく厳しく詰め寄っているのに、サイラスときたら、野鳥でも眺めるようなのんびりとした様子で目を細めている。
「判断を下すのが女王の務めです。そして私は、レイナ様はそれができる強さを持った方だと知っています」
 知っている、そして信じているのだと、サイラスの眼差しは言外に告げていた。
 そんなの、私だって知っている。信じている。
 レイナは誰よりも強い人だ。強くて優しくて、だからこそ傷つくこともある。
 アンジュはさらにもう一歩、サイラスの顔にほとんど触れる寸前まで近くに踏み出した。
「サイラス!」
「はい」
「今回は……あなたのやり方でよかったかもしれないけど、私、レイナのことについては譲りませんから」
「はい」
 言い合いと呼んでも差し支えない雰囲気にも関わらず、先ほどから全く崩れる様子がないサイラスの表情を見て、アンジュは軽く眉尻を上げた。
「……どうしてそんなに嬉しそうなんですか?」
「嬉しそう? そうですか?」
 サイラスはちょっと考え込む風な仕草をしてから、いつもの胡散臭い笑みを浮かべた。
「そうかもしれません」
 こっちは意図せず宣戦布告のような形になってしまったのに、何だか毒気を抜かれてしまう。
 アンジュは、もう、と溜息をついた。
「サイラスはロレンツォに用があるんですよね? 先に王立研究院に行ってます」
 早足でその場を去ろうとしたアンジュの背中に、サイラスが声をかけた。
「アンジュ」
 振り返ると、日が差し込む明るい回廊の中央で、サイラスが呑気に手を振っていた。
「これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ」
 自分自身の心に余裕を与えたくて、アンジュもにっこりと笑って手を振り返した。
 それから、再び早足に戻る。無意識のうちに掌で胸を押さえていることに気づき、ぱっと手を離した。
 サイラスに名前を呼ばれるのに慣れていないことは、まだ誰にも秘密にしている。

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#アンミナ #サイアン #女王候補と執事 #恋愛未満

『秘密の一夜』

 窓を開けると濃い水のにおいがした。眼下には夜の色に染まった運河が流れ、さざ波に落ちた街灯が星影に似た華やかな煌めきを放っている。
 少し湿り気を帯びた空気は春めいた温かさを孕んでいて、シャワーで火照った肌になんとも言えない心地よさを与えてくれた。
 ミスティックカナルには視察で何度も訪れているけれど、宿を利用するのは今回がはじめてだ。
 もっと素朴な施設を想像していたが、お湯も出るし、ベッドも清潔だし、バースのビジネスホテルと比べてもほとんど遜色がない。
「アンジュ様」
 背後から声をかけられて、アンジュは振り向いた。
「ずいぶん早かったですね。もっとゆっくりすればよかったのに」
「ゆっくりさせていただきましたよ」
 サイラスは普段と変わらない飄々とした態度で告げた。見慣れた執事服を身につけているせいか、シャワーを浴びたばかりだというのに『私はただいま仕事中です』という空気を全身から醸し出しているようだ。少しばかりほかほかしている気もするが。
 出窓を閉め、アンジュはサイラスに向き直った。
「サイラス、今日は本当にありがとうございました。一緒にいてくれたお陰で心強かったです。もう、よりによってひとりで視察に来た日に星の小径に不具合が起こるなんて……。しかも、サポートに来てくれたサイラスまで帰れなくなっちゃうし」
「その点はお気になさらず。設備の故障は、女王試験管理者である私の責任ですから。……お怪我がなかったのは幸いでした」
 最後の一言はいつものトーンとやや雰囲気が違う気がしたものの、顔を上げて見ると、そこにいたのはやはりいつもの執事だった。
 その日の顛末を、アンジュは頭のなかで反芻した。前回の土の曜日、レイナがエスポワールでアンジュにネックレスを買ってきてくれたのが事の始まりだ。
『この石の色、素敵なピンクだと思わない? あなたの髪によく似ていると思って』
 微かに頬を染めたレイナの手を思わず握りしめずにはいられなかった。そんなに高価なものではないから気にしないでと言われたが、そんなことできるはずがない。
 というわけで、レイナへの贈り物を選ぼうと今日はひとりで育成地にやってきたのだが、琥珀色の瞳によく似合うイヤリングを無事見つけて帰ろうとしたときに異変に気がついた。どうやっても星の小径が開かないのだ。ウンともスンとも言わない。それでもしつこく小径があるはずの場所に手をかざしたり、無理やりこじ開けようとしたり叩いたりしていたら、突然星の小径が開いてサイラスが現れた。
「アンジュ様、力ずくで解決されようとするのはよろしくありませんね」
 執事を吐き出すのに最後の力を振り絞ったのか、星の小径はそれきりまた閉じてしまった。
 通信の問題はないようで、タブレットを利用して飛空都市と連絡は取れている。しかし、夜になっても帰還できる目途が立たず、結局育成地に宿をとることになった。ちょうど街で大規模なイベントがあったらしく、どの宿屋も満室だったのだが、たまたま運良くキャンセルがあり、この一部屋だけが空いていた。
 ただし部屋はひとつ、ベッドもひとつだけ。
「おや」
 人ごとのように呟きながら、サイラスは自分のタブレットを立ち上げた。
「タイラーからです。明朝には復旧する見通しが立ったとのことですよ」
「よかった!」
「私も安心しました。飛空都市や育成地は神鳥の宇宙の女王陛下の加護を受けているとはいえ、ワープ中に宇宙空間にポンッと放り出されたらさすがにひとたまりもありませんから」
「えっ……?」
「ときにアンジュ様。お腹は空いてますか?」
「お腹ですか? さっき食べたばかりだから空いてませんよ」
「あの生物を魚……と呼んでいいのかわかりませんが、まあとにかく魚的な干物、なかなか刺激的な味でした」
「食べたとたんに口の中でパチパチ弾けましたからね……」
 どうしてここで魚の話が出てくるのか。
 言動が読めないサイラスのことだ、次に何が飛び出してくるのかと無意識に身構えたアンジュを尻目に、女王候補の執事はいきなり指さし確認をはじめた。
「つまり腹ごしらえ、よーし! シャワー、よーし! 明日の準備、多分よーし! ……となれば、次々と迫り来るハプニングでアンジュ様もお疲れかと思いますし、もう寝ましょうか」
 そのまますたすたと部屋に備えられた椅子に向かおうとしたサイラスを、アンジュは呼び止めた。
「サイラス!」
「はい」
「どこで寝るつもりですか?」
「椅子ですが」
 この部屋にはソファなどの家具は置かれておらず、ベッド以外に眠れそうな場所といえば確かに椅子だけだ。
 だが、クッションもない一人がけの木製の椅子は見るからに固く冷たそうで、とてもではないがぐっすり寝られそうもない。
 アンジュは右手をすっと挙げた。
「異議あり。私が椅子で寝ます」
「それはいけません」
「どうして?」
 サイラスは自信ありげに胸を手に当てた。
「執事ですから」
「理由になってません。それならじゃんけんで決めましょう。公平に。私だけベッドで寝るのは嫌です」
 アンジュは力説したが、サイラスは目を細めるだけで頑として首を縦に振ろうとはしなかった。
「アンジュ様が椅子、私がベッド? アリかナシかで言えばナシですね。では」
「待って!」
 声を張り上げると同時に、アンジュは梟のぬいぐるみをベッドの中央にどんと置いた。レイナへのプレゼントを選んだ店で自分用に買ったものだ。
「このぬいぐるみをベッドの境界にしましょう。そこから先は進入禁止。どうですか?」
 アンジュはサイラスをまっすぐに見据えた。
「もし私ひとりでベッドを使わせてもらっても、サイラスが椅子に寝てるのが気になって、絶対に熟睡できません。あと、そんなに寝相は悪くないからサイラスを蹴り飛ばす危険性はないと思います」
「問題はそこですか?」
「寝相、結構重要だと思いますけど」
 長すぎるくらいの沈黙の後、サイラスは溜息交じりにようやくアンジュの提案を受け入れた。
「……仕方ありませんね」
 右と左どちら側に寝るかはじゃんけんで決めて、梟を挟んで二人はベッドに入った。中央に見えないラインが引かれていても、端と端に二人の人間が寝るのに十分な広さがある。
 サイラスは王立研究院に連絡しているのか、帽子をベッドサイドに置き、枕を背もたれにしてタブレットを操作しはじめた。
 さすがに上着は脱いで、首元のボタンもひとつ外し、袖をまくり上げている。整髪料を使っていないので、乾かしたばかりの髪はまっすぐではあるけれど、どこかふんわりと自由に遊んでいるみたいだ。
 珍妙な鼻歌を口ずさみつつ何かデータを入力しているらしいサイラスの横顔を見ていると、なぜか落ち着かなくなってきて、アンジュも特に目的もなくタブレットをいじっていた。
 ……落ち着かない、という単語をもう一度頭で繰り返してみる。そこでやっと、アンジュは自分が妙な緊張感に襲われていることに気がついた。
 守護聖たちやレイナとエリューシオンを視察するときのような、胸が弾んでドキドキする感じとはとは全く違う。慌てて宿泊先を探したときも、おいしいと評判のレストランでの食事をしたときも、潮のにおいがする夜の街を一緒に見て回ったときも、サイラスといるのは完全に仕事の一部、同僚と出張している感覚だった。気兼ねなく過ごせるし楽しくもあるのだが、甘い空気は微塵もなかった。それどころかシャワーを浴びてすっぴんを晒しても気にならない。いつも晒しているからだ。
 さすがはサイラス、と思ってどこか安心していたのだが、ここに来て急に心拍数が上がりはじめた。同じベッドに寝ると言ったのはアンジュなのだが。
 ふと、頭に疑問がよぎった。
 サイラスは睡眠を取るのだろうか?
 そもそも、アンジュからみれば異星人の宇宙人ではあるのだが、本当に人類なのか? アンドロイドとかじゃなく?
 生身の、人間の男性――
「そんなに端に行くと落ちますよ」
「あっ」
 距離を開けすぎてベッドから落ちそうになったところで冷静に突っ込まれて、アンジュは慌てて体勢を直した。サイラスがタブレットを枕元に置く。
「照明、消しますか」
「そっ、そうですね!」
「おっとその前に」
「何ですか?」
「私、寝るときにある習慣がありまして」
「習慣?」
 じっと見つめてくる視線が意外と強くて、アンジュは負けじと見つめ返した。瞼は一重にも二重にも見えるなとか、照明によって目の色が変わるんだなとか、横になると足の位置が自分よりずいぶんベッドの下の方にくるなとか、どうでもいいことを考えてしまう。考えると、また心と体が緊張する。
 飛空都市にいたら、こんなコミュニケーションの取り方は絶対にしない。
 飛空都市という非日常から育成地というさらなる非日常に来てしまったせいで、ちょっと変わったこの執事が、ちょっと変わっているけれど普通の人に思えてしまう。
 試験がはじまってから女王候補と執事の間に置かれていた壁、柔らかくも絶対に崩れそうになかった壁が、水の匂いがする夜に触れて形を変えていく。
「サ――」
 早く続きを言ってほしくて口を開こうとした瞬間、サイラスに先を越された。
「……こちらです!」
 ジャン、といつもの効果音をつけて、サイラスはどこからともなくそれを取り出した。
 アンジュは一瞬言葉を失い、それからじっとりと湿度の高い視線を執事に向けた。
「それって」
「オオ、ご存じですか」
 サイラスがにっこり笑って広げたのは、童話に出てくる老人やサンタがかぶっているあの帽子。いわゆるナイトキャップだ。青地に白の水玉模様で、てっぺんにちゃんとポンポンの飾りもついている。
 どんなにロマンチックな展開も一瞬で崩壊する、最強のアイテムである。
「……かぶるんですか?」
「ええ。髪がサラサラのツヤツヤになりますよ。最近ネット通販で購入しました。使います?」
「使いません」
「寝ますか」
「寝ます」
「それがよろしいかと」
 完全に脱力したアンジュに、サイラスはにっこりと笑いかけた。
「では、お休みなさい。いい夜を」
 柔らかな声が耳のなかで溶けたとたん、部屋は魔法をかけられたようにまろやかな闇に包まれた。

 その夜、それまで全身を石のように固くさせていた緊張も混乱もうそのようにきれいに消え去り、アンジュは心からリラックスして、夢も見ずにぐっすりと眠ることができたのだった。




 それからずっと後。女王に即位してからしばらくして、王立研究院に残っていたデータを偶然見る機会があった。そこではじめて、実はあの夜サイラスが一睡もしておらず、女王候補が無事であることを十分ごとに飛空都市に報告していたことを知った。

 そして、自分でも意味がわからないけれど、何も起こらなかったあの夜。何も起こらなかったがゆえに、アンジュは、忘れえぬ恋に落ちたのだ。

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#アンミナ #サイアン #元女王と元執事

たまにはいちゃつかせてみたい

「ただいまー。外すごく寒かったですよ。もしかして雪が降るかも。あとね、珍しい野菜が売ってたから買ってきちゃいました。どんな料理が……」
 パタパタと足音をさせてリビングに入ってくると同時に、アンジュは部屋の中央に鎮座するそれと、その隣にいる元執事を交互に見比べて大きく目を見開いた。
 それから、ぱっと頬を上気させた。
「コタツ!」
「に見えますよね。ちょっと違います。正確にはコタツ的なもの、です」
 コタツ的なものと称する家具の上にみかんを用意していたサイラスが、振り返りがてら丁寧なのか雑なのか判断しかねる説明をした。
 だが、ローテーブルと布団が一体化したそれは、どこからどうみてもアンジュの故郷でおなじみだったあのコタツにしか見えなかった。
「ネット通販で買ったの?」
「そうですよ。なんでも買える……かもしれない。どこでも買える……かもしれない。通販の素晴らしさを今一度ご説明しましょうか?」
「今はいいです」
 驚きと懐かしさと嬉しさで心がいっぱいになる反面、一体どこでのサイトで見つけてきたんだろうと不思議に思う。アンジュが退任するずっと前にバースという星はなくなっているはずなのに。
 そんな疑問をするりとくぐり抜けるように、サイラスはアンジュの全身をついと眺めて目を細めた。
「おや、ちょうど手足が冷え切っておられるご様子ですね。相当に。聖地や飛空都市と違って、この星の冬はなかなかに厳しい」
「まあそうですけど」
「ハイッ、そこでこちらの出番です! ほらほらほら、ぼやっとしてないで温かいうちに足を入れる!」
「温かいうちにって、電源入れてる間はずっと温かいですよね?」
 しゃべりながらもてきぱきと服を脱がされ、手を伸ばして上げてと指示されてるうちにどこから取り出したのか温かくゆったりしたルームウェアを着せられ、流されるままコタツに脚を滑り込ませる。
 これまたどこで手に入れたのか、褞袍のような羽織り物を肩にかけられる。さらには熱いほうじ茶まで。
「ご感想は?」
 そんなの答えはひとつだ。
 アンジュの唇から、至福、という一語が滲み出るような深い息が漏れた。
「あーーーー最高」
 冷たい外気で氷のように固まってしまった身体が、じんわりと温かく、柔らかくほどけていく。
 今の住まいにも暖房設備も整ってはいるが、身体が内から喜んでいくような優しいこのぬくもりは、アンジュが知る限りコタツでしか味わうことができないものだ。
「それはよかった」
 サイラスは笑うように唇を軽く引き上げると、するりと自分もコタツに入りこんだ。
「冬場にリラックスするには最適のアイテムですね。干物を食べるのもよさそうです」
「お鍋もしましょうよ。絶対おいしいです」
「いいですね」
「お鍋をつつきながら、きりっと辛めのお酒を飲んで……想像しただけで溶けちゃいそう。あ、でも、コタツで寝ると風邪引くから注意してくださいね」
「経験談ですか? 私よりあなたの方が危なそうですが」
「だって気持ちいいんだもん……」
 サイラスの言葉を否定もせずに、うっとりとした表情で、卓上に頬をぺたりと押しつけた。
 そのままの姿勢でしばらく過ごしたあと、アンジュは正面に座るサイラスに尋ねた。
「ねえ、サイラス」
「はい」
「そっち、行ってもいいですか」
「構いませんよ」
 サイラスが両脚を寄せて作ってくれたスペースに、アンジュの半身が少々窮屈に収まった。
「ちょっと狭い? 動けます?」
「狭いといえば狭いですね。ですが、防寒のためにはいいんじゃないでしょうか」
「サイラスと話してると、ものは言いようだなって思います。……うん、あったかいです」
「ええ。このコタツ、特に下半身の保温については、驚くべき効果がありそうですね」
「もうちょっとだけくっついてもいい?」
「お好きな体勢でいていただいて結構ですよ」
 じゃあ遠慮なく、と今でも近くて遠いその人にアンジュは少しだけ身を寄せた。
 聖地に比べたら時間の流れは恐ろしいくらい早いはずなのに、二人でこうして過ごしていると、時が止まってしまったようにも感じる。
 付き合いこそ長いものの、サイラスとのコミュニケーションは相変わらず彼の気質と同じように独特だ。だから許可を得るというのとはまた違って、他の人には聞かないようなことも、サイラス相手だと未だにいちいち確認してしまう。
 いいですか。
 いいですよ。
 おまじないのように繰り返される言葉は軽快で居心地がよく、その響きに安心しているのは、他でもなくきっと自分自身だ。
 ではあるのだが、変わらず凪いだ水面のようなサイラスの横顔を見ていると、アンジュの希望、つまりキスしてもいいか……とは何となく言い出しづらくて、飲み込んだ言葉と一緒にほうじ茶をまたひとくち。感謝を伝えるだけなら、コタツありがとうございましたと言えばいいのだ。
 そのとき、斜め上からふっと現れた影が顔に落ちてきた。
 落ちてきたなあと思ってからそれがキスだったことに気づくのに、唇が離れてから数秒かかった。しばらく頭がふわふわしていた。
「いいですよ」
 心の底まで見透かしてくるような微笑を浮かべ、あっさりと言いのける。事後確認もいいところだ。
 まったく、この元執事ときたら。
「……サイラス!」
 強く名前を呼んでみたものの、コタツは温かくて、視線が思いのほか近くで絡んでいてほどけそうもなくて、先に続く台詞も気持ちも行き場を失った。仕方なくまだ芯に冷たさの残る指先で、やはり冷たい相手の頬に触れ、笑みを作った唇でその形をなぞるように口づけた。

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#アンミナ #サイアン #元女王と元執事

『名前のない毎日』
(いい夫婦の日に書こうと思って遅刻したもの)

 その朝の目覚めは、爽やかとはとても言いがたいものだった。
 窓から寝室に差し込んでくる陽の光は眩しく輝いていて、今朝に限っていえば、その純粋さは凶暴ですらある。アンジュは頭を抱えて、小さくうなり声を上げた。
「あーー……」
 気持ち悪い。頭痛い。水飲みたい。
 どう考えても二日酔いだ。調子に乗って飲み過ぎた。
 昨日飲んだのはこの土地に移り住んでからはじめて買ってみた地酒で、口当たりは甘くて濃厚だけれど後味はすっきり。花の蜜のような香りもいい。食前に一杯だけ、のつもりが次々と杯を空にしてしまった。だが、もう一回人生をやりなおしたとしてもやはりひとりで一本開けて二日酔いになるだろう。それくらいおいしかった。
 後悔はない。とは思うものの、アンジュは半分起こしかけた身体をぱたりとベッドに沈めた。
「うぅーん……」
 こんなにも完璧に酔い潰れたのは――いつぶりだろう? 記憶にないくらい昔の話だ。
 うつぶせで一分ほど夢とうつつを行き来したあと、ガンガンとリズミカルに痛みを響かせる頭と重い手足をなんとか動かして、転がって、ベッドから這い出ようと頑張ってみる。が、手を突こうと思ったところになぜかベッドがなくて上半身のバランスが崩れる。落ちる。
 まずい、と思った瞬間、二日酔いの諸症状がきれいに拭い去られて思考がクリアになった。
 そうだ、もうクィーンサイズのベッドじゃないんだった。あれは宇宙でたったひとつの特別製だった。ベッドの上で三回くらい前転しても落ちないくらいの広さがあった。しなかったけど。
 とっさに身体を固めて目を瞑るが、予想していたような床にぶつかる衝撃はやってこなかった。
 背後から現れた二本の腕が、アンジュの腰を見事なタイミングで抱えたのだった。
「……ナイスキャッチ」
「ワーパチパチパチ! 危機一髪でしたね」
 後ろを振り返ると、その人はいかにも楽しげに唇に薄い笑みを浮かべていた。
「いたんですね」
「いましたよ」
 あっさりした返事が呼び水となって、さらに記憶がゆるゆると蘇ってくる。
 ――寝室を使っているのは自分ひとりではないということ、ベッドは二つあること。
 とたんに、二日酔いのヘビーな重みがずしりと全身に戻って来る。シンプルな部屋着姿のサイラスは、中途半端に浮いたアンジュの身体をずりずりと再びベッドに引きずり上げてくれた。
「あーそれ、どっこいしょ、と」
「重くてすみません……」
「今のは単なる気合いをいれる掛け声であなたの体重と関連性は特にありません。お気になさらず。しかしまあ」
 恐らくひどいことになっている顔を間近で遠慮なくじろじろと見られる。見られるのは慣れているけど、相手にアルコール臭がいかないように毛布を頭からかぶってガードする。
「わかってます、お酒くさいしひどい顔してますよね」
「それは今さらなので問題ありませんが、起きるのにずいぶん苦労されてるご様子だと思いまして」
 毛布をぺろりと捲られる。
「ま、それはそれとして、こちら水です」
 アンジュは礼を言って差し出されたグラスを受け取り、コクコクとおいしそうに喉を鳴らして水を飲み干した。
「ありがとう。ちょっとすっきりしました」
 空になったグラスを上からさらうと同時に、サイラスが尋ねてきた。
「諦めてみたらいかがですか」
「諦めるって、起きるのをですか?」
 サイラスの提案を、アンジュはぼんやりと繰り返した。そういう選択肢は頭になかった。
「でも朝だし、今日のうちにやっておきたいことも……いったたたたぁ……」
 喋ると顎の動きに合わせて頭痛がひどくなる。
「たまにはいいんじゃないでしょうか」
 枕に顔を埋め、しばらくじっと考え込んでから、横目で彼女の元執事を見る。
「……諦めてもいい?」
「どうぞ」
 じゃあ、とアンジュは言った。
「サイラスもここにいてください。あなたが働いてたら、諦めたくなくなるから」
「ほう? なるほど」
「あ、やっぱり今のなし。サイラスはしたいようにしてください。お腹すいてるだろうし」
「今はすいてませんよ」
 サイラスはそれ以上何も言わなかったが、ベッドボードにもたれかかってタブレットを開き、アンジュの隣で宙に浮いたディスプレイを操作し始めた。
 その様子を眺めていると何だかほっとしたような気持ちになって、アンジュは毛布に潜り込んだ。素肌に触れる熱がいつもより温かい気がするのは、今朝が寒かったせいか、それとも二人分の体温を含んでいるからだろうか?
 サイラスは通販のサイトを見ているようだ。指の動きがすごく早いなあ、目と頭はついていけてるのかな、なんて思っているうちに、浅い眠りに意識が溶けていった。
 寝返りをうったとき、肩から落ちてしまった毛布をかけなおしてくれたのは、たぶん、長くて少し骨張ったあの指。



 午後になって体調もよくなったので、軽く食事をしてから外に買い物に行くことにした。
 街の中心部で開かれている市は多くの人で賑わっていた。食料から日常品、骨董のような嗜好品まで様々な店が身を寄せ合うように並んでいて、歩くだけでも楽しめる。活気のある雰囲気がエリューシオンの市とよく似ていた。
 アンジュが新生活の場に選んだのは、故郷や風土が故郷とよく似た星の小都市だった。
 家具や細々とした生活必需品などは、どんな方法でどこから買ったのか謎ではあるが、ともかくサイラスが通販で揃えてくれた。
 ただ、生活していくうちにどうしても足りないものは出てくる。朝食兼昼食を食べながら、深いの、浅いの、小さいの。食器がもう少しあるといいなと思った。
「このエコバッグ、飛空都市で使ってたものなんですよ。覚えてますか?」
「はい、もちろん。よく色々なものを拾われてましたね」
「人聞きの悪い言い方してますけど、あのアイテムってサイラスが用意してたんですよね?」
「そうですよ。ご褒美があった方がお散歩のしがいがあると思いまして」
「確かに、宝探しみたいでちょっと面白かったです」
「それは何より」
 ぽっかりと空いた時間を、とりとめのない言葉で埋めてしまいたいこともある。何てことはない思い出話ができる相手がすぐ側にいてくれるのが嬉しかった。
 市に来たのは、まだ片手で数えられる程度の回数だ。おしゃべりをしながら物珍しげにあたりを見回していたアンジュは、ある屋台で視線を止めた。
「あ、あのパンおいしそう」
「あちらの店よりも路地裏のパン屋の方が安いですよ。味や品質もそんなに変わりません」
「もうそんな情報仕入れてるんですか」
「情報というものは鮮度と精度が肝心ですよ、アンジュ様。しかし、食欲が戻られたようで何よりです」
「サイラスが入れてくれた……お茶? すごくよく効きました」
「お茶というより草の汁、といった方が正しいんじゃないでしょうか」
「それはそうなんですけど、言い方……」
 歩いているうちに、二人は飲食店が軒を連ねている区域にやってきた。道幅が狭くなっているあたりは特に混雑していて、間に入ってきた人波に負けてサイラスと離れそうになってしまう。
「あっ」
 はぐれてしまう、と思わずサイラスの腕を掴む。掴んだものの、反射的にぱっと指を解く。
 サイラスが不思議そうにこちらを見てきた。
「アンジュ様?」
 わけもなく言葉をつまらせていると、ぽつりと頬を滴が打った。
「雨だ」
 周囲から声が上がると同時に雨は急に勢いを増した。
 ――雨。
 降りしきる雨だれのリズムを肌に感じた瞬間、ここは聖地じゃないし、自分はもう女王じゃないのだと思い出した。夜寝るのはクィーンサイズのベッドではなく、緊急事態に対応することなんてないから寝坊してもいい。前後不覚になるまで酔っ払ってもいい。人目を気にすることなく誰とでも腕を組むことも、好きな場所に住むことも旅行することもできて、クローゼットにドレスも冠も必要ない。この手は時を動かすことはできないし、梟の囁きはもう聞こえない。
 午後の雨の冷たさが心地よくて、混乱していた心がすっと落ち着いていった。
 この街では通り雨は珍しくもないのか、誰も雨宿りしそうとはせずのんびりと人の流れは続いている。
「迷子になりそうですね」
 掌を上に向けて、恭しくサイラスに手を差し出す。黙って手元から視線を上げてきた元執事に、アンジュはにっこりと笑いかけた。
「お手をどうぞ」
 一拍おいてから、では遠慮なく、と面白がっているような響きをもった答えが返ってきて、軽く掌を置かれる。掌と掌が触れた瞬間、自然と視線が重なる。アンジュの目線のやや上のところにある睫は、雨滴が落ちて濡れていた。ふいに睫が上下に動いた。口も。
「何か?」
「サイラスは結構遠慮なく人の顔じろじろ見てきますけど、私は逆にサイラスの顔、よく見たことがなかったかもと思って」
「なるほど、興味ありますか。ご自由に観察してください。記録をつけていただいても構いませんよ」
「記録をつけてどうするんですか?」
「たぶん楽しめるかと」
「えー……」
 自分の顔の記録をつけるのは楽しいとしゃあしゃあと言ってのけた男は、さて、と顔の向きを変えた。
「帰りましょうか」
 二人で手を繋いで、濃い雨のにおいを浴びながら街の目抜き通りを歩いていく。
 空を仰ぐと、ものすごい速さで雨雲が流れていくのが見えた。雲の向こうには晴れ間が広がっていて、落ちかけた夕日が山際を赤く染め上げていた。
 雨が降り、風が吹く。花が咲く。季節が変わり、時間が流れていく。当たり前のようで当たり前ではなかったもの。目を閉じれば、その微かな気配、鼓動に似た音が聞こえてくるようだった。
 聖地を去ってから、髪も爪も伸びるようになった。肌荒れはするし、暑いのにも寒いのにも慣れていなくてすぐ疲れるし、王立研究院による体調のサポートもなくなって、油断するとすぐ風邪を引く。身体って何て重いんだろうと思う。宇宙意思の声も星々の声も聞こえることはなく――あんなにも静かだった世界は、猥雑ともいえるにぎやかさと、美しさと醜さでひしめく鮮やかな色合いを取り戻していった。夜と朝を繰り返すたび、その懐かしい場所にゆっくりと還っていくのを感じていた。
 ふと横を向くとサイラスの顔は髪に隠れてよく見えなくて、ずるいなあと思って笑って、少しだけ手を握る力を強くした。

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#アンミナ #サイアン #女王と執事 #拗らせ #恋愛未満

“宇宙の女王というものについて”

 ほとんど飛び込むといっていいくらいの勢いで医務室に入ってきたとき、並んだ二つの顔は同じように色を失っていた。
「サイラス、生きてる?」
 動揺しているにしても、いささか不躾すぎる質問を投げかけた女王アンジュを、補佐官レイナが友人の顔で諫めた。
「アンジュ! その言い方はよくないと思うわ」
 ベッドにいた女王の執事が、タブレットの画面を閉じて薄く微笑んだ。クッションを背中にあてて上体を起こしている。
「生きてますよ、陛下」
 サイラスは、執事、もといホテルマン風の制服の上着を脱いで、シャツの襟元を緩めていた。頬に擦り傷があるのと、仕事中は常に隙なくセットされている髪がわずかに乱れている以外に、ふだんと違う様子はない。
 女王は勢いよく裾をさばいてベッドに駆け寄り、彼女の執事兼補佐官にずいと顔を寄せた。
「私の顔に何かご用が?」
「擦り傷はあるけど、出血はしてないですね。息もしてるし、顔色もいいし、会話もできてる……」
 チェックが終わると同時に、アンジュの表情がぱっと明るくなり、淡い桃色の唇が安堵に綻んだ。
「よかった、思ったより元気そうで」
「ご心配をおかけして申し訳ございません。猿も木から落ちるといいますが、サイラスくんも穴に落ちることがあるんですね」
 完全に人ごとのような口ぶりに、アンジュは呆れた顔をした
「もー、またそういう……」
 数時間前、サイラスが不慮の事故に見舞われたのは、散歩がてら聖地の障壁にバグが発生していないか森を見回っていたときだった。
 サイラスはそのときの様子を蕩々と語り始めた。
「森のなかの情景を想像してみてください。ほら、耳をすませば聞こえてくるでしょう……ハッ……あちらからは小鳥の囀り。エッ……こちらからは小川のせせらぎ? 土の匂いを含んだ風が優しく頬を撫で、頭上からは穏やかに木漏れ日が降り注ぎ……とそんな感じで気持ちよく午後のひとときを過ごしていたというのに、まさか突如道が消失し、さらには穴まで出現するとは。ま、バックドアの入り口ではなかったのは不幸中の幸いでした」
「恐いこと言わないで!」
「なかなかに新鮮な体験でしたよ。落とし穴のような場所に落ちる機会は今までなかったもので。こう、ふわりと胃が宙に浮く感じで。あとはストーンと真っ逆さま」
「えっ、真っ逆さま?」
「……に落ちなかったのはラッキーでした」
「遊園地のアトラクションじゃないんだから……。そんなに深かったの?」
「それなりには。悪意を持って掘られたわけではなく、自然発生的にできたもののようですね」
「森の奥とはいっても危険ね。すぐに対処するよう指示しましょう。本当に、軽傷ですんでよかったわ」
 レイナは言って、ほっとしたように眦を柔らかくした。
 そのとき、どこかでタブレットが鳴る音がした。アンジュとレイナは同時に画面を見た。
「私?」
「いえ、私のみたい。あら、タイラーからだわ……ちょっと行ってくるわね。陛下、また後ほど。サイラス、お大事にね」
 慌ただしく去って行くヒールの足音が聞こえなくなると、アンジュはベッドの横にあった椅子に腰掛けた。
「もう少しここにいてもいい?」
「もちろんです」
「今日は大事をとってここに泊まっていくって聞きましたけど」
「はい、その予定です。検査では特に異常はみられなかったんですけどね。少々足を捻ったくらいで」
「足、捻ったんですか?」
「ええ」
「ええって……痛みは? 腫れたりしてるの?」
「腫れているといえば腫れてますね。しかし軽傷ですし、日常生活に支障は」
「あるに決まってるでしょう!」
 立ち上がろうとするサイラスを、アンジュは押しとどめた。
「何しようとしてるんですか」
「立てることを証明するために立とうとしてます」
「寝ててください」
「ですが」
「ベッドにいるの、もう飽きたんですね……」
「はい、少々」
「気持ちはわかりますが、せめて腫れが引くまで大人しくして」
「ためしにジャンプなんてしませんよ」
「やめて!」
 ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う。意外と頑固なところのある執事と長いこと飽きもせず押し問答をしたあと、女王はにっこりと笑いかけた。
「ふざけているように見えても、あなたが誰よりも職務に忠実な人だってことはわかってます。でもいいから今は休みなさい、サイラス」
 笑みを描く碧の瞳に、威厳を持つ強い輝きが満ちる。
「こういうときのためにも補佐官をダブル配置してるんです。元気になったら、また一緒にがんばりましょう? そのときはジャンジャン仕事をお願いしますから」
 サイラスはやれやれと諦めたようにそっと目を伏せ、胸に手を当てた。
「……御意」
「ふふ、いつもと立場が逆ですね。私の看病をあなたがしてくれたことはあったけど」
「まあ、執事ですからね」
「あ、髪に葉っぱついてますよ。取ってもいいですか」
「ありがとうございます」
「顔にも少し泥がついているみたい」
「たまには童心に帰って泥遊びするのも悪くないですね」
「たまには? いつも童心に帰って遊んでるように見えますけど……」
「そうでしたか?」
 アンジュはサイラスの髪から拾い上げた緑の葉を、指でくるくると回した。
「サイラスが怪我をしたって聞いて、すごくびっくりしました。怪我とかしなさそうなイメージだし」
「それはそれは。一応生身の人間ですので、怪我もしますし病気にもなります。幸い、今まであまり経験がないですが」
「ですよねー」
 アンジュは明るく笑った。
 笑いながら、ぼすんと乾いた音をさせてベッドの隅にもたれかかり、自分の腕のなかに顔を埋めた。
「陛下?」
 くぐもった声が、静かな室内に響いた。
「サイラスは知らないと思いますけど、最初は状況が全然入ってこなくて、重傷で命が危ないかもって話で、でもあのサイラスが? って信じられなくて」
 無防備に晒された首の細さを、呼吸をするたびにゆっくりと動くドレスの背中を、サイラスは黙って見つめていた。白々とした人工的なライトの光を受けて、イヤリングの石が夜空からこぼれ落ちた星のように煌めいた。
「ねえ」
 静かに尋ねる声がする。
「死んじゃうの」
 ――そうですね。いずれは。
 若木が芽吹くように膨張と発展を続ける令梟の宇宙、その中心である主星には女王と守護聖がおわす聖地が存在する。輝くばかりに美しい常春の都のさらに片隅にある、小さな部屋。小さな背中。
「……置いていかないで」
 そこで女王がどんな夢を見たのか、誰も知らない。

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#アンミナ #サイアン #元女王候補と元執事 #恋愛未満

『エンドロールのその後で』(画像)

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#アンミナ #サイアン #女王候補と執事 #恋愛未満

『夏の名残りの』

「ううーーん!」
 アンジュは大きく伸びをして、朝の日差しを含んだ新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。溜め込んだ疲労がリセットされて、身体が細胞ごと生き返っていくようだ。
 全身に満ちていく心地よさを噛みしめながら、特別寮を囲むように伸びる小径をゆっくりと歩く。花のにおいがする風を受けて、アンジュは微笑んだ。生まれたばかりの光が青々と茂る木々の葉に降り注いでいる。飛空都市の朝は素晴らしく気持ちがいい。夏の高原を思わせる爽やかさだ。
 その日の曜日は、いつもより早くすっきりと目が覚めた。シャワーを浴びてもサイラスが朝食を持ってくるまでまだ時間があったから、外に出ることにした。
 休日の早朝に散歩しようなんて、会社員時代には思いもしなかった。予定がなければ泥のように眠り、気づけば昼を過ぎていた、なんて日も珍しくなかったのに。
 ゆるやかなカーブをすぎようとしたとき、どこからともなく小鳥の囀り……ではなく人の声が聞こえてきた。
 声というより、歌のような?
 アンジュは思わず足をとめ、耳を疑った。
「これって」
 子ども時代、準備体操のときに流れていた曲のように聞こえるのだが。聞き間違いかと思い、アンジュはもう一度耳を澄ませた。
「……あれだよね?」
 でも、間違いじゃない。絶対にそうだ。リズムもメロディも、大人になった今なお耳と身体に刻み込まれている。
「これはこれはアンジュ様。おはようございます」
 背中を見せて屈伸していた声の主が、こちらを振り返ってにこりと笑いかけてきた。
「やっぱり」
「やっぱり、とは?」
 アンジュは女王候補の執事につかつかと歩み寄った。
「絶対にサイラスだと思ったんです」
「オオ、そのような絶大な信頼を寄せていただくとは。光栄の極みですね」
「体操してるんですか」
 サイラスはいつもの執事服ではなくラフなTシャツ姿だった。髪も整えていなかったから、彼もまだ起きたばかりなのかもしれなかった。
「はい。朝の軽い運動は心身のバランスを保つのにいいんですよ」
 サイラスが心身のバランスを崩すなんて想像できなかったが、彼も人間だ。そういうこともあるのだろう。
 アンジュは尋ねた。
「それ、バースの体操ですよね」
「そうです。バースの動画サイトで見つけ……これだ! といたく感銘を受けまして。健康管理に取り入れようと思った次第です」
「毎朝やってるんですか」
「基本的には。アンジュ様たちの朝食をおいしく作り上げるための、大切なルーティンです」
 昨日の目玉焼きは失敗作って自分で言ってた気がするけど、という言葉をアンジュは飲み込んだ。
「私も子どもの頃よくやってたんですよ、その体操。たぶんタイラーとレイナも」
「なるほど。心の故郷、というわけですね。テーマ曲も覚えてしまいました。バースのロングヒット曲だと聞いています」
「ロングヒット……?」
 ふんふふふふふんと、サイラスはごきげんな様子で鼻歌を披露した。
「朝の爽やかさを感じる、良い曲だと思います」
「歌上手ですね、サイラス」
「あなたもしていきますか、体操」
「今ですか」
「はい」
「ここで?」
「ええ」
「……サイラスの伴奏つき?」
「僭越ながら。二番も歌えますよ」
 少し考えてから、じゃあ、とアンジュはぺこりと頭を下げた。
「よろしくお願いします。最近ちょっと運動不足かなって思ってたんです」
「こちらこそ。では張り切っていきますよ!」
「あっ、ちょっと待って!」
 楽しそうに腕を振り上げるサイラスの横で、アンジュも同じように大きく腕を動かした。
 飛空都市では不思議なことばかり起きて、毎日驚かされる。
 まさか、執事と体操をすることになるとは!
 二番まで終えた時点で、アンジュは軽く息を切らせていた。
「私、二番の動きは知りませんでした。ちゃんとやると結構疲れるんですね……」
「毎日継続することが体調管理への近道です。こちらをどうぞ」
 サイラスが手渡してきたのは、葉書サイズのカードだった。ポイントカードのように小さなマスが書かれていて、最初の欄にスタンプが押してある。干物の。
「いつも差し上げているポイントとは別になります。バースでは、体操をした子ども達にスタンプをあげているとか」
「夏休みにですよね? 私が住んでいるところではなかったですけど……でも、ありがとうございます」
 素直に受け取ったあと、疑問が頭によぎった。
 ……子ども?
 サイラスの唇に、ふっと笑みが浮かんだ。
「アンジュ様、また体操がしたくなったときにはお付き合いしますよ。女王候補様方の健康管理も執事の役目のひとつです」
 ふだんからちょっと変わっているしちょっと失礼なところがある人だが、ラフな格好をしているせいか、いつもよりも笑顔に仕事用の胡散臭さがない、気がした。彼の方こそ、目に子どもみたいな光が浮かんでいる。
「日の曜日でしたら、大抵この時間ここにいますから。ま、時々サボることもあるかもしれませんが」

 自己申告の通りたまにサボる日もあったが、ほとんどの休日の朝、女王候補の執事は同じ場所で体操に勤しんでいた。もちろん鼻歌のテーマソングつきで。
 体操の参加者はサイラスとアンジュだけではなく、アンジュに誘われたレイナがいたこともあった。サイラスに引きずられるようにタイラーが参加した日もあり、興味を持った守護聖たちがいた日もあり。女王試験が進むごとにアンジュのスタンプカードは埋まっていった。通販で買っているのか、毎回違うスタンプが押されているのがサイラスらしい。
 日常のポイントと同じように、スタンプを集めたら何かと引き換えられるのだろうか?
 それからしばらくして、アンジュは真夜中にふと目が覚めた。なぜか突然、体操のスタンプカードのことが頭に浮かんだ。
「……そっか」
 そこでふと、あのカードのスタンプが最後まで埋まることは永遠にないのだと気づいた。
 ――大陸の発展度が八十になった夜のこと。



「タイラー、これを神鳥の王立研究院に送ってほしいの」
 王立研究院にあるミーティングルーム。先日提出した報告書の問題点の検証を終えたあと、女王から差し出された白い封筒を、タイラーは恭しく受け取った。
「はい、了解しました」
「忙しいのにごめんなさい。私的なものだから、手が空いたらお願いします。そうそう、私からっていうのは伏せておいて」
 私的なもの、しかも匿名扱い? どうにも引っかかりを覚えたが、他ならぬ女王の頼みだ。タイラーは戻り次第、すぐに手続きを行った。
 数日して、女王宛に神鳥の宇宙から差出人不明のファイルが届いた。女王宛、かつ差出人不明である。危険性がないかどうか、当然、中身を確認した。
「……ったく」
 解析を完了し、数列が並んだ画面から視線を外すと、タイラーはデスクに肘をつき、小さくため息をついた。
「平くん、どうしたの? 仕事の相談?」
「とにかくタブレット開いて」
「今すぐ?」
「そう。直接送りたいものがある」
 午後の仕事を切り上げて女王の元に向かったタイラーは、執務室で二人だけになったとたん口調を崩した。
 不思議そうにタブレットを立ち上げる女王の目の前で、タイラーは自分のタブレットを素早く操作した。
「お前宛のファイル。神鳥から」
「私宛? 何だろ……」
「この間送った私的なもの、ってやつの返事じゃないのか」
 アンジュの目が大きく見開いた。
 タイラーは彼女の表情を見て、自分の判断が正しかったことを確信した。だから、他の人間の目に触れることがないように、端末間の通信で送りたかったのだ。
 操作の手を止めず、タイラーは画面を注視した。
「このホログラム、画面から離れても存在できるらしい。……まったく、どんな技術を使ってるんだか。この部屋の照明って落とせるか?」
「できるけど……全部?」
「ああ。通信文にそう書いてある」
 不思議そうな顔をしたアンジュがタブレットをタップすると、一斉にカーテンがおり、部屋の照明がすっと消えた。光を発しているのは、タイラーとアンジュのタブレットの画面だけだ。
 そのとき、タイラーの手元から宙にふわりと浮かんだ黒い球体が、アンジュの掌に移動してきた。
「えっ、何これ?」
「俺が聞きたいよ、不明の差出人に。危険性がないのは確かだ」
「それはそうだろうけど……わっ!」
 アンジュが恐る恐る覗き込むと、球を包んでいた殻のようなものが弾けとんで、手元がぱっと明るくなった。
「……花火!」
 パンパンと乾いた音と共に、打ち上げ花火のような閃光が次々と現れた。
 数え切れないほどの多くの色、鮮やかな光の数々が、暗がりを美しく彩っては消えていく。まるで小さな花火大会だ。
「すごいな、これ」
「ホロだから全然熱くないんだけど、不思議だね。温かい感じがする。ほら見て、ナイアガラまであるよ。梟も!」
「バースの花火を研究したみたいだな。相変わらず、変なところで芸が細かい……」
 褒めているのかいないのか、率直な意見を零したタイラーの横で、アンジュは目を細めた。
「平くん。体操のスタンプカードのこと、覚えてる? 私ね、サイラスがいなくなったあともあの体操を続けて、自分でスタンプを押してたの。それが全部埋まったから送ったんだ。あなたがいなくても、あなたの生徒はちゃんと健康管理をしてますって」
 常春の聖地にいるうちに、だんだんと四季に対する感覚は薄れていった。
 だがこのとき、女王の手の中で、瞳の奥で、過ぎ去った夏の思い出が再び呼吸をはじめたようだった。
「……よくできました、ってことなのかな」
 弾けるように笑う彼女の掌の上で、ひときわ見事な大輪の花火が暗闇を照らすように花を咲かせた。

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#アンミナ #サイアン #女王と執事 #恋愛未満

『静かな夜のこと』

「遅くまでありがとう、タイラー」
「いえ、問題ありません。明日は午前中に休暇を頂いていますから。陛下もご無理をなさいませんように」
 一礼して消えていくタイラーのホログラムに微笑みかけてから、アンジュはディスプレイを指でタップした。新しく展開した資料が次々と空間を埋めていく。目で文字を追いながら、零れ落ちた後れ毛を指ですくいあげ、耳にかける。視界が霞んでいるような気がするが、きっと気のせいだろう。
 その仕草を正面から見ていた女王の執事兼補佐官が、グラフの間から顔をわずかに覗かせて尋ねた。
「今晩はお休みなられては?」
「あと少しだけ。これを読み終わったら寝ます」
 本当に? という無言の問いかけを視線に乗せて、執事はアンジュをじっと見つめ続けていた。感情をきれいに消した眼差しから、圧力のようなものを感じる。
 確かに、昨日もおとといもその前も、サイラスからかなり厳しく注意されていたのに睡眠時間を削りすぎてしまった自覚はあった。適当にごまかしたつもりだったけれど、ばれている。完全に。
「……疑ってるでしょう?」
「ええ。単刀直入に申しますと」
 アンジュは挑むように見つめ返した。
「本当に本当ですってば。休みます、一時間もしたらベッドに潜ってます。だからサイラスも休んでください」
「オオ……驚きました。何と陛下の目には私が起きているように映っている、と。ですが、こう見えてもすでに夢の中におります。ぐーぐーぐーむにゃむにゃむにゃ」
 真顔で寝言を言うサイラスに、アンジュの表情を覆っていた緊張がわずかに柔らかくなる。
「ずいぶん大きな寝言ですね」
「はい。タイラーは仮眠中にうなされていることも多いですが」
「そうなの? 割り当て業務が多すぎるのかな。もうちょっと休めるような体制にしないと……」
「なんて話している間にそちらの資料の要点はこちらにまとめました」
「うそっ、早い!」
「陛下のご健康、ひいてはこの宇宙の安寧のために、さっさと残りを終わらせましょう。おっと、すぴーすぴー……」
「寝たふりはもういいですから」
 二人がいるのは、女王の私邸にある書斎兼ワークスペースだった。古今東西の古い書物がびっしりと並べられた書棚に囲まれた室内には、真夜中という時間もあって、ひっそりと冷たい空気が流れているようだった。
 先ほどまで補佐官であるレイナも一緒にいたのだが、数日にわたる長時間勤務で疲れが溜まっているようだったので、二人がかりで説得して下がらせたのだった。
 ふだんであれば私邸に仕事を持ち込むことはない。しかし、今回はある彗星の軌道が複数の星系に影響を及ぼす恐れがあり、緊急の対応を要する事案だった。
 女王の力を行使するとしても、それまでに必要な調査を行い、今後の方針を決めなければならなかった。
 補佐官や守護聖に相談はできる。でも、最終的な決定を下すのは女王だ。……私なのだ。
 そのとき、それまで黙っていたサイラスが突然口を開いた。
「この件が落ち着いたら、どこか行きたい場所はありますか」
「いっぱいあります! 温泉、南の島、あ、またレイナとグランピングもしたいなあ……。でも、女王が聖地を離れるわけには」
 勢いで並べあげてしまってから、アンジュは現実を思い出した。
「アンジュ様」
 懐かしい呼びかけとともに、風船がしぼむように消えてしまった言葉のあとを引き取ったのはサイラスだった。
「女王であるからといって、ささやかな楽しみを……人生を諦める必要はないんですよ」
 資料に視線を置いたまま、サイラスは表情を変えずに告げた。さも当然とでもいうように。
 まるで女王試験のときに戻ったかのような錯覚に襲われた。彼は執事兼女王試験管理者で、アンジュはあまり真面目とはいえない女王候補だった。あれから、ずいぶんと長い時間が流れた。数多の出会いがあり、同じだけの別れがあり、たくさんのものが変わって、それでも変わらないものがあった。
「ま、そのあたりの調整はサイラスくんにお任せ下さい。執事ですから」
 わずかな沈黙のあと、アンジュは宙に浮いていたホログラムの資料を次々に両手で押しのけて、身を乗り出し、相手の唇に自分のそれを重ねた。
 離れていた影が、一瞬だけデスクの上でひとつになった。
 夢のような恋、長い時が作り上げた親愛、憐憫に似た情に互いへの深い敬意……この微かな温もりが与えてくれるものの意味は何だろう?
 柔らかな熱に溶けかけた思考を投げ捨てて、もう一度口づける。
 とても疲れていたし――とても、静かな夜だったので。

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